哲学が人生について語れること

哲学が人生について何が言えるか?

という問いを聞くと、「哲学とは人生について語るものだ」と考えている人は、いぶかしく思うでしょう。しかしまた、「哲学は学問研究であって、人生論というような怪しげなもの、あるいは私的な価値観の主張とは、はっきりと区別されるべきだ」と考えている人は、胡散臭く思うことでしょう。

私は、このどちらとも少し違った考えを持っています。それを少しずつ書いてゆきたいと思います。
とはいっても、今日は急用ができたので、とりあえず、書庫の立ち上げだけです。

哲学の問いの魅力

哲学が通常よりも、より広くより深く考えることであるとすれば、哲学的な問題はたくさんあります。
「利益とはなにか」「公共性とは何か」「1+1=2になるのはなぜか」などです。しかし、さらにより広くより深く問いを進めてゆくと、それは少数の伝統的な問題に行き着くようにおもいます。

哲学の問題は、つまるところ、それほど多くない。
もっとも基本的な問いは、次のようなものではないでしょうか。
  存在論「何が存在するのか」
  価値論「我々が生きる意味は何か」
これを問うときに生まれてくる、メタレベルの問いとして、次のような問いがあるように思います。
  論理学「考えるとは、どういうことか」
  認識論「我々はどのようにして認識したり、信じたり、想定したり、希望したりするのか」
  意味論「言語が意味を持つとはどいううことか」
  真理論「言明が真であるとは、どいうことか」
さらにこれに答えようとして、さまざまな哲学的な問いが分岐してくるように思います。

これらの問いは、魅力的で、人をひきつける力を持っています。
それはなぜでしょうか。
それは、このような問いを問うこと自体が、日々の生活において自明なこととして承認してる多くの事柄を疑いにかけ、薙ぎ払うからです。それは爽快なことでもあり、鈍感で乱暴なことでもあります。
その魅力は、よかれ悪しかれ、このような非日常性にあるのではないでしょうか。

哲学の楽しさ、定義その1

urbeさん、ミュンヘンよりさん、お元気そうでなによりです。
お邪魔虫さん、コメントありがとうございました。
皆さんのコメントに気づくのがおそくなってしまい、書き込みが遅くなってしまいすみませんでした。

 最もゆるく定義すると、哲学とは「通常よりもより広くより深く考えること」だとすると、哲学の楽しさとは、通常よりもより広くより深く考えることの楽しさです。「通常」とは、「日常生活や、哲学以外の個別の学問において」ということである。
 たとえば、会社の経営者は、通常は、利益を伸ばすためにどうすべきか、商品開発を推進するためにどうすべきか、経費を節約するにはどうすべきか、利益をどの程度投資と貯蓄にまわし、残りをどのように株主と社員に分配するか、などを考えているのだと思います。では、「利益を伸ばす」とはどういうことでしょうか。「利益はどこまでも無限に伸ばし続けることが可能なのでしょうか」「利益を上げることが、不正でないとすると、正当な利益と不当な利益の境界はどこにあるのか」「利益とは何か」「お金に還元できない利益はないのか」「貨幣とはなにか」「会社とは何なのか」「部下は、上司の命令にどこまで拘束されるのか」

 では、このように通常よりもより広くより深く考えることは、面白いでしょうか。面白いとしたら、どこが面白いのでしょうか。
 哲学の問いの面白さと、哲学の答えの面白さと、哲学の論証の面白さを区別できます。
 哲学の問いは、常識を疑うところに、一つの面白さがあります。
 哲学の答えは、折衷的な常識を否定して、極端な主張をすることに面白さがあります。
 哲学の論証の面白さは、それが非常に極端な厳密さを要求するということにあるように思います。

これらをまとめると、哲学の面白さとは、<普段は気にも留めていない事柄について、思ってもいない問いを立て、その問いについて思ってもいない意外な答えを導き出し、しかもそれについて予想以上に極度に厳密な証明を展開する>ということになります。

 とりあえずの答えは、こんなところですが、これは私が求める哲学像に過ぎないのかもしれません。これとは別の哲学像があって、そこにはこれとは別の別の面白さもあると思います。