人格論の再検討

とうとう1月は何も書かずに、2月に入ってしまいました。
1月は忙しかったのです。英語論文を書き、オランダに出張し、帰国して研究発表しました。
書きたいテーマはいろいろあるのですが、なかなか余裕がありません。
ストローソンの人格論の再検討をしたいとおもいます。

しかし、それは、これまでの議論のやり直しを意味するのではありません。
では、どういうことか?おたのしみに!

労働力は商品ではない

ここではとりあえず、ストローソンの一面的な不可分論、つまり<人格は肉体と結合したものとしてのみ同定可能であるが、肉体は人格に言及しなくても同定可能だ>が正しいと仮定しよう。このように考えるときには、肉体だけを賃貸契約の対象にすることが可能であるかもしれない。しかし、雇用契約は、肉体だけを賃貸契約の対象とすることではない。労働には、肉体だけでなく、精神の働きが必要だからである。
 では、労働力の賃貸契約だといえるだろうか。ストローソンは、M述語とP述語を区別した。M述語とは、「意識状態を帰そうとは夢にも思わない物体がもつ述語」であり、P述語とは、「その他の述語」である。つまり、肉体はM述語で同定されるが、意識状態や人格はP述語+M述語で同定される。労働を記述するには、M述語とP述語の両方が必要である。労働力が労働する能力だとすると、それを記述するにもM述語とP述語の両方が必要だろう。したがって、労働力を賃貸契約の対象にすることもできない。なぜなら、労働力と人格を分けることができないからである。労働力の同定と人格の同定は不可分である。それゆえに、労働力は商品ではない。
 
「労働力は商品ではない」
ここから帰結することは、「雇用契約は、商品の賃貸契約や売買契約のようなものではない」である。
労働力を商品とみなすことは、便利な説明方法であるかもしれないが、しかしそれは間違った説明方法である。労働力は、労働力市場で売買される商品ではない。

 では、雇用契約とはなにだろうか?

一面的な不可分論

さて、ストローソンが主張している意味で、2「人格と肉体は不可分である」を理解するとき、そこから3「人間の肉体がレンタル商品であるならば、人間の人格もレンタル商品である」が帰結するでしょうか。

ストローソンのいう人格と肉体の不可分性の主張は、実は一面的です。つまり、<人格の同定は、肉体と結合したものの同定としてのみ可能になる>ということを主張するだけです。これに対して肉体の同定は、人格の同定抜きにできるように思われます。少なくとも、<肉体の同定もまた、人格と結合したものの同定としてのみ可能になる>ということの証明は行われていません。

このような一面的な不可分論で、2から3を導出できるかどうか、とりあえずこれを検討してみましょう。
とりあえず1「人格はレンタル商品にならない」を認めましょう。
この証明は、簡単だと思います。
①人格は契約の主体である。
②契約の主体は、契約の対象とならない。
③ゆえに、人格は契約の対象とならない。
④ゆえに、人格はレンタル契約の対象とならない。
⑤ゆえに、人格はレンタル商品にならない。

②が曖昧ですが、もし必要になれば、そのとき検討しましょう。

さて、ストローソンが言うように<人格の同定は、肉体と結合したものとしての同定としてのみ可能になる>ので、<人格がレンタル商品になるときには、それと不可分である肉体もまたレンタル商品になります>。

しかし彼の一面的な不可分論では、<肉体の同定もまた、人格と結合したものの同定としてのみ可能になる>が主張できないのならば、<肉体がレンタル商品になっても、つねに人格がレンタル商品になるとは限らない>ということになりそうです。
これは3「人間の肉体がレンタル商品であるならば、人間の人格もレンタル商品である」とは不整合です。どう考えたらよいのでしょうか。

ストローソンの一面的な不可分論を補強して、全面的な不可分論が証明できれば、十分であるように思えます。もしそれが困難だとすると、一面的な不可分論の中で、何とか3を証明する方法を考え出す必要があります。

人格と肉体は不可分である

前回の証明は、こうでした。
「人間の肉体はレンタル商品になりえない。」
証明
1、人間の人格はレンタル商品ではない。
2、人格と肉体は不可分である。
3、人間の肉体がレンタル商品であるならば、人間の人格もレンタル商品である。
4、したがって、人間の肉体はレンタル商品ではない。

これでは、まだ非常に曖昧です。
曖昧なのは、2そのものと、2から3の導出です。
まず2を検討しましょう。

2「人格と肉体は不可分である」
これは多義的です。ここでは3を導出するために2が持ち出されています。つまり、「人間の肉体を人格から分離して、肉体だけを貸すことができない」を主張するために、その理由として2が持ち出されています。
人間の肉体と人格が分離できないことは、例えばストローソンが主張していることです。

P. F. ストローソンは、『個体と主語』(中村秀吉訳、みすず書房)(P. F. Strawson,“Individuals An Essay in Descriptive Metaphysics ” Routledge, 1959)の第三章「人物」において、次のような人格論を主張しています。

「そもそも意識諸状態が帰属せしめられるための一つの必要条件は、それらがある一定の身体的諸特徴、ある一定の物的状況等が帰属せしめられるものとまさに同じものに帰属せしめられる、ということである。言い換えると、意識諸状態は、身体的特徴が人物に帰属せしめられないかぎり、そもそも帰属させることはできないのである。」(邦訳、123-124頁、原書, p. 102)

したがって、ストローソンによると、人物というものは、意識諸状態の帰属する自我(ないし純粋意識)と身体的諸属性の帰属する肉体という二つの主体の合成物ではなく、最初からこの二つは「人物(person 人格)」において不可分であり、「人物」という観念こそが「論理的に始原的なもの」(同頁、ibid.)であり、「純粋自我」はそれから派生した二次的なものです。彼が、このように考える理由は、人格(邦訳では「人物」となっています)を同定するには、その意識状態をある肉体に帰属させなければ同定できないからです。それは他者の人格の場合もそうだし、自分の場合も同様です。

私はこの議論は、人格(ないし人物)を同定できると考える(そう考えない可能性もありますが)限りは、非常に説得力のある議論だとおもいます。

さて、ストローソンが主張している意味で、2「人格と肉体は不可分である」を理解するとき、そこから3が帰結するでしょうか。

肉体はレンタル商品になりえない

人間の肉体は、レンタルのDVDと同じ意味では、レンタル商品になりえないように思われる。違いはなにだろうか?

レンタルDVDでも、借りている期間は、自由に使ってよいということではない。それにキズをつけてはならない。それをコピーしたりネットに公開したりしてはならない。それをまた貸ししてはならない。それを上映して不特定多数の人を集めてはならない。などなど、たくさんのこまかな規定があるだろう。人間の肉体と労働力をレンタルしているときも同様に、さまざま配慮すべき事柄があるだろう。レンタルDVDを借りているときに守るべき規定は、貸し手の権利、あるいは著作権者など関係者の権利を保護するためのものであろう。これは、雇用契約でも同じであろう。

では、違いはなにだろうか。最も重要な違いは、DVDはレンタル契約の主体ではないが、労働者は、レンタル契約の主体であるということである。

「人間の肉体はレンタル商品になりえない。」
証明
1、人間の人格はレンタル商品ではない。
2、人格と肉体は不可分である。
3、人間の肉体がレンタル商品であるならば、人間の人格もレンタル商品である。
4、したがって、人間の肉体はレンタル商品ではない。

前回と同じような推論です。
1を~pとし、3をq→pとし、4を~qとすると、

~p
q→p
∴~q

という推論になります。

証明の検討

前回の証明を検討しよう。
証明は、次のように整理できるだろう。

テーゼ「労働力は商品ではない」
証明
1、人間の肉体は商品ではない。
2、肉体と労働力は不可分である。
3、したがって、人間の労働力は商品ではない。

仮に1を認めることにしよう。このとき、1と2から、なぜ3が帰結するのだろうか。その説明を書き込めば次のようになる。

証明
1、人間の肉体は商品ではない。
2、肉体と労働力は不可分である。
3、人間の労働力が商品であるならば、人間の肉体も商品である。
4、したがって、人間の労働力は商品ではない。

この推論は、妥当である。1と3からは論理的に4が帰結する。

この証明でなお吟味すべき点があるとすれば、2から3を導出する点である。
我々が労働力を商品として売っているとすると、我々は肉体も商品として売っているのだろうか。
例えば、8時間肉体を売ることはできない。できそうなのは、8時間肉体を貸すことである。
<肉体を貸すことはできるが、肉体を売ることはできない>とすると、肉体と労働力が不可分なのだから、<労働力を貸すことはできるが、労働力を売ることはできない>ということになる。

しかし、DVDを売るのではなくて貸しているレンタルビデオ店にとって、DVDははやり商品なのではないか。肉体や労働力を貸すのだとしても、それらはやはり商品なのではないか。

ここで生じているのは、1に対する疑念である。
「人間の肉体は、商品ではない」は正しいのだろうか?
人間の肉体は、レンタル商品になりえないのか?

人間の肉体は、レンタルのDVDと同じ意味では、レンタル商品になりえないように思われる。
違いはなにだろうか?

証明

「労働力は、商品ではない」の証明

牛を購入した者は、牛を使って農作業をするとき、牛の労働力を買ったのではなくて、牛を買ったのであり、賃金を牛には、支払わない。しかし、牛に餌をやり、牛小屋を作り、牛の世話をするだろう。そうしなければ、牛が死んでしまい、農作業に使えなくなるからである。奴隷は、この牛のようなものであるが、しかし賃金労働者は、奴隷とは異なる。

牛を3日借りて牛を使って農作業をするとき、借りたものは、牛の持ち主に、借り賃を支払う。このとき、借りた者は、牛の労働力3日分を購入したと考えることができる。もし牛の持ち主が、毎朝牛を農場まで連れてきて、お昼にはその牛に餌をやり、夕方には牛を家に連れて帰り、牛に餌をやり牛小屋で眠らせ、翌朝にはまた農場まで牛を連れてゆくのだとしよう。このとき、牛の持ち主は、牛の労働力を売っているといえるだろう。労働者が労働力を売ることは、これと同じだろうか。

二つの間には、大きな違いがある。牛の持ち主は、牛の労働力ではなくて、牛そのものを売ることができるし、牛が死んでも牛の持ち主は死なない。しかし、労働者は、彼の労働力ではなくて、彼そのもの(あるいは彼の肉体そのものを)を売ることができない。彼の肉体が死ねば、労働者も死ぬ。
人間の労働力が、牛の労働力のような商品であると言うためには、少なくとも労働者の肉体が商品でなければならない。しかし、労働者の肉体は商品ではない。なぜなら、人間は、その肉体を商品のような仕方で所有しているのではないからである。したがって、人間の労働力は、牛の労働力のような商品ではない。QED.

 これで、証明は完璧でしょうか?

資本主義に内在する不当性

人はパンのみにて生きるにあらず、されどパンなしで生きるにあらず。
アントワープの市場にうっていたパンです。
ネロもこれを食べたのでしょうか?

資本主義社会の経済格差を制限するには、その格差が不当なものであることを示す必要があります。
その論証の仕方には次ぎの二つが考えられます。

パターン1<資本主義経済システム自体は正当であり、その限りでそこから生まれる格差も正当である。しかし、大きな格差は、別の規準からすると不当である。そこで、二つの規範の衝突が生じる。そこでこの衝突をどのように回避するかが問題となる。そして結果として、格差の制限が持ち込まれる。>

パターン2<資本主義経済システム自体が、完全に正当なものではない。これに内在する不当性を取り除くないし補償するないし緩和するために、格差が大きくなりすぎないように経済システムを規制する、あるいは税による所得の再分配をおこなう。>

資本主義は、労働力を商品と見なします。しかし、果たしてそうでしょうか。もしこれが間違いであれば、それは資本主義に内在する不当性の一つです。そこで、この書庫では、「労働力は商品ではない」というテーゼの証明をしたいとおもいます。

土地と労働力が商品になったことで、産業資本主義社会が成立しました。現実には、これらは商品として扱われています。しかし、土地も労働力も、他の商品とは異質です。もちろん、これらにかぎらず、食品も、通常の商品とは異質であり、文化的な価値のある絵画も通常の商品とは異質です。このようなさまざまな異質なものを、商品として一括して扱うことで、資本主義が成立し、それが経済活動の駆動力となってきました。多くの資本主義に対する批判は、このことに対する批判です。資源が商品として乱獲され、非経済財とされてきた環境が汚染されてきました。

「会社は、株主のものである」という考えは、「労働力は商品である」という考えを前提しています。もし労働力は商品ではない、と言えれば、会社は株主のものではない、といえるかもしれません。

さて、「労働力は、商品ではない」をどうやって証明しましょうか?