23 クワインは「認識論の自然化」によって何をしようとしたのか?(3)(20210109)

[カテゴリー:日々是哲学]

 「クワインは「認識論の自然化」で何をしようとしたのか?」と問う時、その答えはどうなるのでしょうか。クワインはつぎのように述べていました。

「われわれが躍起になっているのはただ観察と科学との結びつきを理解したいがためであるとすれば、利用できる情報はどんなものでも利用するのが分別というものだろう」(第19段落)

「翻訳とまではいかないにしろ顕示的な手段を用いて科学を経験に結びつけるような再構成であるならば、心理学で満足するほうがはるかに理にかなってみえよう。」(第24段落)

以上からすると、認識論が心理学の一章として行おうとすることは「観察と科学の結びつきを理解する」と言うことですが、しかしそれは「顕示的な手段を用いて科学を経験に結びつけるような再構成」ではないということ、それは、科学的言明を観察用語と論理学数学の用語で説明するのではない、ということでしょう。

 カルナップが考えている「弱い合理的再構成」はそのようなものであり、それは「合理的意味論的再構成」だと言えるでしょう。これに対して、心理学は意味論ではありません。つまり心理学は、科学的言明の意味を説明するのではなく、科学的言明の成立という心的現象を因果的に説明しようとすることになるでしょう。つまり心理学としての認識論は、科学的言明の「因果的再構成」を目指すと言えそうです。

 ところで、自然化された認識論が、科学的言明の「因果的再構成」を目指すのだとするとき、ここに循環の怖れはないのだろうか、と心配になります。クワインもここに「相互包摂」(「自然科学のうちへの認識論の包摂であり、認識論への自然科学の包摂である」(第36段落))が生じると述べていますが、心配ないといいます。

「科学を感覚与件から演繹する夢を棄てた今ではその心配はまったくない。われわれは科学を世界における制度ないしは過程として理解したいのであるが、この理解が、その対象である科学以上のものであると主張するつもりはない。」(第37段落)

私たちは、これだけではまだ納得できないでしょう。この循環の問題は、現代のプラグマティストであるプライスの言う「位置づけ問題」と関係しているように思います。この問題については、機会を改めて論じることにしたいとおもいます(多くのカテゴリーが書きかけになっているので)。

(位置づけ問題に興味のある方は、ブランダム著『プラグマティズムはどこから来てどこへ行くのか』(加藤隆文、田中凌、朱喜哲、三木那由他訳、下巻、勁草書房)特に第7章、をご覧ください。)

22 クワインは「認識論の自然化」によって何をしようとしたのか?(2)(20210108)

[カテゴリー:日々是哲学]

前回の引用部分で訂正が必要なのは、次の箇所です。

「認識論が科学の基礎づけをあきらめて、科学の「合理的再構成」を意図しているのであるから、心理学によって科学の「合理的再構成」を目指すことにしても、循環論証にはならないというわけです。クワインの「認識論の自然化」は、認識論では科学の基礎づけができないので、「心理学」でそれに取組もう、ということではありません。」

この中に「科学の「合理的再構成」」という表現があるのですが、その意味(使用法)が曖昧でした。さらに「心理学によって科学の「合理的再構成」を目指す」という箇所が間違いでした。

 カルナップの「合理的再構成」は、当初は、科学的言明を「観察用語と論理-数学的な補助手段を用いて翻訳すること」を意味していたと思われます。しかし、観察用語と論理学数学の用語だけで、科学的言明の一意的な翻訳を与えることはできないことが明らかになりました。

 例えば「水溶性」という科学用語を、観察用語と論理学数学の用語だけで定義することができないのです。ただし、「水溶性」について次のように説明することはできます。

Aを水に入れる⊃(Aは水に溶ける⊃Aは水溶性である)

これは、ベンサムに始まるとされる文脈的定義とは異なります。文脈的定義は、或る用語を含む文に対して、それと同値な文を与えることです。例えば、

  AはBより硬い≡AとBをこすり合わせれば、Bに傷がつくが、Aには傷がつかない。

このような同値文があれば、私たちは「より硬い」という語を消去することができます。しかし、「水溶性については、そのような同値文を示すことができないので、文脈的定義で消去できないのです。そこでクワインは次のように述べています。

「カルナップの緩やかな還元形式は一般には等価な文を与えない。それが与えるのは含意文である。それは新しい用語を部分的にではあるにしろ説明する。すなわち、当の用語を含んだ文によって含意されるいくつかの文を特定し、その用語を含んだ文を含意する別の文を特定することによって、その用語を説明するのだ。」(第20段落)

この説明方法は、ブランダムの推論的意味論に非常に近い考えになるように思います。例えば、新しい科学用語をXとし、Xを含む文をpとするとき、pを結論とする上流推論とpを前提とする下流推論を特定することによって、その用語Xを説明するということです。

 このような緩やかな形式による科学的言明の説明も、おそらく緩やかな意味で、「合理的再構成」であると、カルナップとクワインによって考えられているようです(参照、「定義するは消去するなりである。しかしカルナップの還元形式に基づく合理的再構成にはこのようなことはまったく思いもよらない。」(第23段落) )。

「唯一我々の求めているものが、翻訳とまではいかないにしろ顕示的な手段を用いて科学を経験に結びつけるような再構成であるならば、心理学で満足するほうがはるかに理にかなってみえよう。」(第24段落)

「あらゆる文を観察用語と論理-数学用語からなる文に等しいと見なせるような認識論的還元が不可能である」「この種の認識論的還元の不可能性は、心理学に対して合理的再構成が持っているとおもわれていた優位性を最終的に打ち砕いた。」(第32段落)

以上を踏まえて、認識論的還元を「強い合理的再構成」とよび、緩やかな還元形式による科学的言明の説明を「弱い合理的再構成」と呼ぶことにしたいとおもいます。そうすると、カルナップは、「強い合理的再構成」を放棄し、「弱い合理的再構成」を追求していたと言えるでしょう。

 それに対して、クワインは、「弱い合理的再構成」は可能であるが、それよりも心理学による科学論の探究のほうが有効である、と考えていたと思われます。つまり、クワインは心理学によって科学の心理学によって科学の「合理的再構成」を目指したのではありません。「心理学によって科学の「合理的再構成」を目指す」という箇所が間違いでした。

 では、「クワインは「認識論の自然化」によって何をしようとしたのか?」これを次に考えたいと思います。

21 クワインは「認識論の自然化」によって何をしようとしたのか?(20210106)

[カテゴリー:日々是哲学]

(以下は2020年11月19日「世界哲学の日」記念討論会での発表原稿の一部抜粋です。当日の発表原稿の全体はこちらにあります

(https://irieyukio.net/ronbunlist/presentations/20201123%E3%82%B7%E3%82%A7%E3%82%A2%E3%80%8C%E4%B8%96%E7%95%8C%E5%93%B2%E5%AD%A6%E3%81%AE%E6%97%A5%E8%A8%98%E5%BF%B5%E8%A8%8E%E8%AB%96%E4%BC%9A%E3%80%8D.pdf)。

 以下では、クワインの論文 ‘Epistemology Naturalized’, in Ontological Relativity and Other Essays, 1969「自然化された認識論」(伊藤春樹訳、『現代思想』1988年7月号)を参照しています。)

――――以下抜粋

・論理実証主義(カルナップ)の認識論は、科学を基礎づけようとするものでした。しかし、それを、論理学と集合論と観察文から基礎づけられないことが明らかになりました。(全称文や反事実的条件文を証明できません)。

・そこで、認識論は、科学的言明の真理性ではなく、その意味を、論理学と集合論と観察文によって説明すること(「合理的再構成」(カルナップ))を目指すようになりました。しかし、理論的用語の意味をそれらでは定義できないことが明らかになったので、この試みも挫折しました。(「水溶性」を定義できません)。

・そこで、クワインは認識論を心理学やその他の科学に置き換えることを提案します。

「感覚受容器における刺激が、世界の描像を獲得する際にだれもが最終的に受け入れざるを得ない証拠のすべてである。ならば、この世界像が実際どのように構成されるのか、それをみてみようとなぜしないのか。どうして心理学で満足できないのか。」(第19段落)

しかし、「心理学やその他の経験科学」で、科学の基礎づけを目指すとすれば、循環論法になります。

「認識論の課題を心理学にゆずり渡してしまうのは、最初のころは循環論法だとして許されなかった。経験科学の基礎の確実性を示すところに認識論者の目標があるとするならば、その証明にあたって心理学やその他の経験科学を援用すれば、彼は目的に背くことになる。」(第19段落)

しかし、これに続けて彼は次のように言います。

「しかしながら、循環に対するそのような後ろめたさは、科学を観察から演繹しようという夢をひとたび放棄するならば大して意味がない。」(第19段落)

認識論が科学の基礎づけをあきらめて、科学の「合理的再構成」を意図しているのであるから、心理学によって科学の「合理的再構成」を目指すことにしても、循環論証にはならないというわけです。クワインの「認識論の自然化」は、認識論では科学の基礎づけができないので、「心理学」でそれに取組もう、ということではありません。

「われわれが躍起になっているのはただ観察と科学との結びつきを理解したいがためであるとすれば、利用できる情報はどんなものでも利用するのが分別というものだろう」(第19段落)

この状況をクワインはしばしば「ノイラートの船」に例えます(「経験論の2つのドグマ」「自然化された認識論」「経験論の5つの里程標」)。これは、ドックに入らないで航海しながら修理するという船ですが、この比喩に次の3つを付け加えたいとおもいます。

・ノイラートの船は、一人乗りではない。

・ノイラートの船は、底割れしない。

・ノイラートの船は、一艘とは限らなない。

――――――――― 以上

お正月にこの個所を読み直していて、一部訂正したくなりましたので、次回それを説明します。

20 問答の観点から哲学を改造すること(20210103)

[カテゴリー:日々是哲学]

明けましておめでとうございます。

今年も問答の考察を進めたいと思います。よろしくお付き合いください。

<問答の観点から哲学を改造すること>、これが私の目標です。

(問答の重要性が分かれば、おのずから哲学のあり方は変わるだろうと予測しています。)

現在次のようなことを考えています、あるいは、考えたいと考えています。

・哲学は、普通よりもより深くより広く問うことである。哲学では、通常は問いの対象の方に関心が向かっているが、哲学研究は、問答で出来ている。

・哲学研究の対象(世界)もまた問答で出来ている。

 言語、認識、行為、主体、社会などが問答で構成されていることを示すこと。

・言語について言えば

 語、文法、言語行為。

 構文論的諸概念、意味論的諸概念、語用論的諸概念が、問答関係によって成立すること

・論理学について、

 論理学的諸概念、論理法則が、問答関係によって成立すること

・認識論について

 信念、知識、主張は、問いに対する答えであること

 認識を問いへの答えとみなすこと、真理を問いに対する答えの関係とみなすこと。

・行為は問いに対する答えであること

 行為主体は、問いで構成されていること

・社会制度は、社会問題への答えであること

 法は、関数である

 法は、社会問題への答えである

 権利は、問答の権利である

 お金は、負債証明書である。

 負債があるとは、返済義務があるということである

・歴史は物語である

 物語は、物語的問いへの答えである

・人生の意味について

人生の意味は、人生の上流推論と下流推論である

22 アフォーダンスの選択(抽出)  (20210101)

[カテゴリー:人はなぜ問うのか?]

(明けましておめでとうございます。今年も、問答の考察に取組んでゆきたいと思いますので、よろしくお付き合いください。)

 レヴィンやコフカは、事物の価値や効用は、直接に知覚されると考えていたが、しかしそれらが物理的な実在性を持つのではなく、「現象的な「場」において、事物と自我との間に何らかの力が働くためであると考えていた。つまり、要求や動機が働いていると考えていた。(参照、エドワード・リーチ、レベッカ・ジョーンズ編『直接知覚論の根拠』境淳史、河野哲也訳、勁草書房、350f)

 しかし、ギブソンはそれら事物の価値や効用は、直接に知覚されるだけでなく、客観的に実在すると考えていた。つまり、「事物のアフォーダンスは、観察者の要求の変化に関わりなく、変化しないと考えられている。例えば、ある物質がある動物にとって食べられるか否かは、その動物が、空腹か否かとは無関係である。ある動物がある面の上を歩けるという事実は、(どの動物の移動能力やその動物の行為システムと関連してはいるが、)実際にその動物がその上を歩くか否かに関わりなく存在する。」(前掲訳、350)。

 このことは「負のアフォーダンス」にも成り立つ。「対象・場所・動物が観察者を傷つける力、すなわち、それらの負のアフォーダンス《negative affordance》も、観察者がそれらを恐れるか否か、嫌悪するかいないか、回避するか否かと言ったこととは無関係である。」(前掲訳、350)

 問題は、アフォーダンスが一つの事物について無数にあるということである。なぜそれが問題になるかというと、アフォーダンスは無数にあるが、そこにいる動物に知覚されるアフォーダンスはそれらの一つにすぎない(場合によっては複数のアフォーダンスが同時に知覚されるかもしれないが、全てのアフォーダンスが知覚されるのではない)ということである。そうすると、そこでのアフォーダンスの知覚(選択、抽出)はどのように行われるのか、を説明する必要が生じる。

 これを説明するのは、一つには、動物の環境の中での位置、動物の内的要因、などであろう。これらによって、知覚されるアフォーダンスは限定されるだろう。ギブソンは「要求は、アフォーダンスの知覚を制御し(選択的注意)、行動を開始させる」(前掲訳、350)と述べているが、この「要求」は、動物の内的要因の一種であろう。

 ギブソンは、ゲシュタルト心理学が、心理と物理の二元論(前掲書、349)を前提していることを批判するのだが、アフォーダンスの中のどれを知覚するのか(選択するのか、抽出するのか)ということを説明しようとすると、動物の内的要因を考慮する必要が生じ、探索行動を考慮する必要が生じるだろう。そうすると、アフォーダンスの知覚の説明は、ゲシュタルトの知覚の説明とあまり違わないものになるのではないだろうか。

 ゲシュタルトの知覚も、アフォーダンスの知覚も、動物の探索行動によって規定されている、と言えそうである。しかし、今の私にはこれ以上の解明ができないので、一旦動物の探索行動の考察を中断し、人間の問いに考察に向かいたい。

 (ただし、次にこの問題に戻ってくるときのために、もう一つの難題をここに書き留めておきたい。それは次のようなことである。無脊椎動物が、方向性を持つ刺激に対して走性反応をするとき、その行動の全体は、動物が探索しているように見える(たとえば、餌を探索しているようにみえる)ものであっても、その行動は遺伝的に決定した行動であって、その動物が個体として探索しているということは、そう見えるというだけの<見かけ上の探索>である。このとき、走性を引き起こする「方向性を持った刺激」はゲシュタルト構造を持つ知覚だと言えるだろう。そして、対象がどのようなゲシュタルトで知覚されるかは、動物がどのような探索行動をしているかによって規定されている、と想定してきた。しかし、探索が<見かけ上の探索>ならば、ゲシュタルトの方も観察者にそう見えるだけの<見かけ上のゲシュタルト>であることになりそうである。しかし、もしそうだとすると、観察者からみての<見かけ上のゲシュタルト>をもつ刺激に、動物が走性反応をするということになってしまう。これをどう説明したらよいのだろうか? もし知覚と探索(問い)行動の対応関係を主張しようとするならば、この問題に答える必要がのこる。)

 次回からは、人間の問いの起源に取り組みたいと思います。

22 アフォーダンスの生態学 (20201230)

[カテゴリー:人はなぜ問うのか?]

(動物の知覚と探索行動の関係を考察していたのに、前回は、郵便ポストのアフォーダンスの話しをしてしまって、議論が拡散しすぎたとおもいます。郵便ポストのアフォーダンスは、言語を持つ人間にとってのアフォーダンスと問答の関係として、考察すべき話題でした。いずれはそこに向かいたいと思いますが、そのまえに、無脊椎動物にとってのアフォーダンスと探索行動の関係の考察を続けたいと思います。)

 知覚を考察するとき、主体と対象の関係だけでなく、環境を考える必要があるというアフォーダンス論の主張は正しいだろう。そのとき、アフォーダンスを、主体と環境(対象は環境の一部である)の関係として考えるのではなく、環境の中での動物と対象の関係と考えるのが正しいだろう。その関係は環境の中に含まれていると言ってもよいだろう。では、その環境とは何だろうか。

 ギブソンによれば、動物や人間の環境は、「媒質(medium)」と「物質(substances)」と「両者を分かつ面(surfaces)」の3つにわけられる(ギブソン『生態学的視覚論』訳17)。

 地上環境の「媒質」は、空気という気体であり、水中環境の「媒質」は、水や海水という液体である。

 ギブソンが「物質」というのは固体ないし半固体(植物や動物は、この半固体の一部であろう)であり、媒質の中にある。

 この「媒質」と「物質」の間には「面」がある。面の中でも地面は、「陸生動物の知覚や行動の基盤である。すなわち、地面は動物の支持面である。水と空気の境界は、水面である。水と個体の境界は、海底、湖底、川底などである。この場合、陸上生物にとっては、海や川は媒質ではなく、物質であるあろう。つまり、水面もまた、媒質(空気)と物質(海水、水)の境界である。(逆に水中生物にとって、水は媒質であり、空気は物質になるのかもしれない。)

 さて、動物は、媒質のなかを移動する生物である。そして、その移動は、でたらめなものではなく、多くの場合誘導ないし制御されている。媒質は、光、音、匂いなどの化学物質を伝えるものである。そして、動物は、光や音や匂いなどに誘導されて媒質のなかを移動する生物である。「走性」もまた、このような移動である。媒質のもう一つの特性は、それが酸素を含み、呼吸を可能にするということである(前掲書19)。また媒質は、おおよそ均質であり、重力による上下という絶対的関係軸を有する。このような媒質が提供する様々なもの(情報)をギブソンは「アフォーダンス」と名付けた(前掲書20)。

 動物はこのような媒質の中で対象を知覚する。(物質(動物とその対象)と媒質と面からなる)このような環境の中で「アフォーダンス」が成立している。

 ここでもう一度問いを繰り返そう。動物の探索行動はこのようなアフォーダンスとどう関係しているのだろうか?

21 ゲシュタルト心理学とアフォーダンス理論    (20201229)

[カテゴリー:人はなぜ問うのか?](見出しタイトルだけ変えました)

『生態学的視覚論』において、ギブソンは、アフォーダンスを単に<主体(動物/人間)と対象の関係において成立するもの>と考えるだけでなく、それをエコロジカルな視点から理解する。つまり、<主体(動物/人間)と環境の関係において成立するもの>とみなす。それはどういうことだろうか。そのとき、動物の探索はどのように理解されるのだろうか。

 まず「アフォーダンス論」とゲシュタルト心理学の違いを確認しておきたい。ゲシュタルト心理学もまた、アフォーダンスに似た知覚を認めていた。

「コフカの『ゲシュタルト心理学の原理』1935(福村出版)から引用すると、「果物は『食べて下さい』といい、水は『飲んで下さい』と語り、雷は『恐がって下さい』と、また女性は『愛して』と語りかけている」(p.7)」150

これらを、コフカは「要求特性demand character」とよび、クルト・レヴィンは「誘発特性(invitation character)」とか「誘発性(valence)」と呼んでいた。

 ゲシュタルト心理学は、形や色などの性質と同様に、これらの誘発性が直接に知覚されることを認めていたが、しかしこれらを物理的なものと区別して現象的なものとみなした。つまり「対象の誘発特性は、経験を通じて対象に付与されるものであり、観察者の要求により付与されるものである。」(『生態学的視覚論』151) と考えた。

 これに対して、ギブソンは、アフォーダンスを誘発性から明確に区別する。

「アフォーダンスの概念は、誘発性、誘因性、要求の概念から導き出されてはいるが、それらとは決定的な違いがある。ある対象のアフォーダンスは、観察者の要求が変化しても変化しない。観察者は、自分の要求によってある対象のアフォーダンスを知覚したり、それに注意を向けたりするかもしれないし、しないかもしれないが、アフォーダンスそのものは、不変であり、知覚されるべきものとして常にそこに存在する。アフォーダンスは、観察者の要求や知覚するという行為によって、対象に付与されるのではない。」(同書、151)

「コフカにとっては、手紙を郵送することを誘いかけるのは現象的な郵便ポストであり、物理的な郵便ポストではなかった。しかし、この二元性は、有害である。そこで私は以下のように言う方がよいと思う。つまり、実際の郵便ポストが(これだけが)。郵便制度のある地域では手紙を書いた人間に、手紙を郵送することをアフォードする。このことは郵便ポストが郵便ポストとして同定されるときに知覚され、そして郵便ポストが視野内にあってもなくても理解される。投函すべき手紙を持っているときに、郵便ポストへの特殊な誘引力を感じるということは、驚くべきことではないが、しかし、重要なことは、その誘引力が環境の一部として――我々が生活している環境の一つの項目として――知覚されることである。…郵便ポストのアフォーダンスの知覚は、それゆえ、郵便ポストがもちうるそのときどきの特殊な誘引力と混同されるべきではない。」(同書、151f)

ギブソンは、アフォーダンスは、主体が対象に投影したものではなく、対象の形や色と同じように客観的に実在している、と考える。郵便ポストは、手紙を入れることを促している。郵便制度がない社会に、ポストをおいてもポストは手紙を入れることを促さないだろう。しかし、郵便制度がある社会では、ポストは手紙を入れることを促す。それは、私たちの生活環境の一部として知覚される。それは、郵便制度がある社会では、誰がいつみても知覚できるアフォーダンスである。その意味で、アフォーダンスは客観的に存在する。アフォーダンスは、主体と対象(郵便ポスト)の関係として成立するのではなく、郵便制度という環境の一部として成立している。

 この場合、郵便制度もまた客観的に成立していることになる。そうすると、ギブソンは「社会構築主義」、しかも自然も社会的に構築されていると考える「強い意味の社会構築主義」を採用するように見える。彼は、<自然は社会的に構築されていないが、社会制度(社会制度、社会規範)は社会的に構築されている>と考える「弱い意味の社会構築主義」ではなく、<自然も社会も同じように社会的に構築されている>と考える「強い意味の社会構築主義」であるように見える。しかしはたして、このギブソン理解は正しいのだろうか。言い換えると、生態学的アプローチは、強い社会構築主義と結びつくのだろうか。(この問題を追及すると、話がそれてしまうので、この問題はペンディングにしておきます。)

 動物と対象との関係においてアフォーダンスが成立するのだとすると、アフォーダンスは動物の探索活動に対応していると言えそうなのだが、もし生態学的な環境の中でアフォーダンスが成立するのだとすると、その場合にも、アフォーダンスは探索によって規定されているといえるのだろうか。その場合、アフォーダンスと問いは、どう関係するのだろうか。

20 アフォーダンスと問答    (20201227)

[カテゴリー:人はなぜ問うのか?」

 動物の走性が「方向性をもつ外部刺激に対して生物(または細胞)が反応する生得的な行動」であるとすると、外部刺激は方向性をもっており、つまりゲシュタルトを持っている。そうすると、単細胞動物を含めてすべての動物はゲシュタルトを知覚していると言えそうである。

 この外部刺激のゲシュタルトは、動物の探索行動に応じて成立していると言えないだろうか。これに対しては次の反論が考えられる。<外部刺激に対する反応として走性行動が生じるのだから、ゲシュタルトが、走性行動によって成立するとは言えない。時間的に外部刺激は走性行動に先行するからである。>

 この反論に対して次のように応答できるだろう。外部刺激よる走性行動の解発は、複雑な条件をともなっている。

「動物が環境の変化をどのように知覚でき、またはできないかは、感覚能力の研究によって推論することができるが、観察される反応を解発するものがいったいなんであるのか、については確固たる回答が得られない。このことは、動物は、その感覚器官が受け取る環境の変化すべてに対して反応するのではなく、そのほんの一部に反応するに過ぎないという、特殊な事実に関係している。」(ティンバーゲン『本能の研究』前掲訳27)

「さらにいえることは、感覚器官が反応の解発に含まれている時でさえ、それが感受できる刺激のごく一部だけが実際に効果的なのである。」(同訳、28)

さらに、反応を複雑にする要因の一つは、内的な状態である。私たちも、空腹のときには、食べ物の匂いにより敏感になり、よりおいしそうに感じるだろう。食べ物のにおいのゲシュタルトは、主体の内的状態に依存する。そして内的状態は探索行動へ向かわせるものでもあり、食べ物を探索する反応が、匂いのゲシュタルトに影響を与えることになる。

 以上が反論への応答であるが、この説明では、<走性における外的刺激のゲシュタルトが探索行動の影響を受けている>という可能性を示せただけで、その証明としては不十分である。ただし、ノエが言うように、知覚は、行動に組み込まれており、行動の仕方であるとするならば、そしてまた、全ての行動は探索であると言えるならば、知覚のゲシュタルトは、探索によって規定されていると言えるだろう。

 ノエのエナクティヴィズムによれば、<物を知覚するとき、その対象に関わる可能な行為の集合を認知している>と言えるだろうが、アフォーダンス論によれば、<私たちは、物を知覚するとき、その物が促している(アフォードしている)行動を認知している>。物が何をアフォードするかは、主体のありようによって異なる。体重の重い人にとっては、ゆっくり歩くことを促す折れてしまいそうな板であっても、体重の軽い人にとっては、強く踏んづけても大丈夫な板であるかもしれない。喫煙者には、吸い込みたくなる良い香りでも、タバコ嫌いには、息を止めたくなる匂いかもしれない。このアフォーダンスの違いは、主体が何を求めているかの違いでもある。

 有名な例を挙げよう。ダーウィンのミミズの研究は有名である。翻訳が出たときに読んだダーウィンの『ミミズと土』(平凡社ライブラリー)が家にあるはずなのに、見つからないので、エドワード・S・リード『アフォーダンスの心理学』(細田直哉訳、佐々木正人監修、新曜社)をもとに説明したい。<ミミズは、体が乾燥してはいけないので、穴の出口をものでふさごうとする。その素材としてその松の葉を穴の出口近くにおいておけば、その松の葉で出口をふさごうとするのだが、松の葉の針の方が穴の中を向いているようにしたら、ミミズが外に出る時に刺さってしまうので、ミミズは、松の葉の元の方から穴の中に引っ張り込む。> このようなことをダーウィンは調べた。このミミズの行動を、アフォーダンス論で説明すれば、松の葉の先の針のところは、そこを穴の内側にするな、とアフォードし、松の葉の元の方は、ここをつかんで引き入れよ、とアフォードする、ということになるだろう(リード前掲訳、42-54)。

 このようなアフォーダンスの知覚もまた、ミミズの行動の課題に依存しており、ミミズの<穴をふさぐにはどうすればよいか>の探索(見かけ上の探索)に依存しているといえるだろう。

 ところで、ギブソンのアフォーダンス論は、アフォーダンスを単に<主体と対象の関係において成立するもの>と考えるだけではない。それをエコロジカルな視点から理解するのである。それはどういうことだろうか。そのとき、動物の探索はどのように理解されるのだろうか。

19 エナクティヴィズムとアフォーダンスと問答    (20201225)

[カテゴリー:人はなぜ問うのか?」

 このカテゴリーでは、「人は何故問うのか」に答えることが課題であるが、その前に人が問うことは、動物の探索とどう違うのかを明らかにしようとしてきた。これにまだまだ時間がかかりそうである。

 さて、動物が、走性や無条件反射で行動しているとき、それが探索行動であると見えても、それ遺伝子で決定している行動であるので、個体が探索しているのではない。動物が、条件反射とオペラント行動によって探索していると見る時、その行動は経験によって成立するものなので遺伝子と経験によって決定されている個体の行動である。それは、意図的行為ではないが、個体による探索行動だといえるかもしれない。ただし、この探索は、過去の経験と遺伝子と現在の経験によって決定されている。前者を「遺伝的行動」、後者を「経験的遺伝的行動」と呼ぶことにしよう。

 知覚は、どちらの行動であれ、探索のためのものであり、知覚のゲシュタルトは、何を探索しているかによって規定されているだろう。

 前回述べたノエの「知覚のエナクティヴズム」は、どちらの行動にも妥当するだろう。魚は、流れの上流に向かって泳ぐという走性(走流性)をもっている。その行動は、水の流れの知覚は、魚が上流に向かって泳ぐという行為と結合している。もしさなかが下流に向かって泳ぐとすると、スピードが速くなりすぎて危険なのかもしれない。つまり、走流性は危険回避という機能を持つのかもしれない。水の流れを感じるということは、その水の上流に向かっておよぐにはどうするかを感じることであるだろう。

 (メダカの走流性については次のビデオをご覧ください。 

  https://www.youtube.com/watch?v=1IOGXL7i9VM  )

走性については、第12回の記事で、「走性は、方向性をもつ外部刺激に対して生物(または細胞)が反応する生得的な行動である」と説明した。魚の場合には、走性というよりも無条件反射というべきかもしれないが、魚の走流性については「走性」として語れることが多い。無条件反射も走性も、その反応が遺伝によって決定しているという点では同じだと言えるだろう。

 魚は水の流れを知覚し、その刺激(無条件刺激)に対して、無条件反応(走流性)を示すのである。魚の水流の知覚は、ゲシュタルトをもっているだろう。ところで、上のビデオにあるように、模様の刺激(視覚刺激)に対しても、魚は同じような反応をするが、これも無条件反射である。そして、この模様がつくる水流に対する錯覚もまた、同じような知覚のゲシュタルトを形成するのだろうと推測する。触覚刺激であると視覚刺激であるとに関わらず、おなじような反射を引き起こす点は、非常に興味深い。

 ノエのこのような「知覚のエナクティヴズム」は、「知覚のアフォーダンス理論」と親和的である。まずこの親和性を確認して、次にアフォーダンスもまた、探索行動に規定されていることを説明したい。

 アフォーダンス理論とは、ギブソンが提唱した知覚論であり、対象を知覚することは、対象を何かを私たちにアフォードするものとして理解することだと見なす。例えば、平らな床は、そこを歩く人間を支えるものであり、椅子はそこに腰掛けることをアフォードし、ドアノブはそれをつかむようにアフォードし、ケーキは、それを食べるようにアフォードする。知覚のエナクティヴズムによれば、知覚は私たちが対象に対してどのようにふるまうことができるかを示すが、アフォーダンス理論は、知覚は、対象をある行為を誘うものとして知覚することを主張する。言い換えると、知覚は、対象の表情、価値、誘導価の知覚である。

 対象が何をアフォードするかは、主体の状態にも依存する。柵は、大きな人にはまたいで超えることをアフォードし、小さな子供には、下を潜り抜けることをアフォードするだろう。「どうしたら柵の向こうに行けるだろうか?」という問いに対するこたえとして、柵は、これらをアフォードする。ゲシュタルトは、探索にたいして生じると述べたが、アフォードの内容は、問いに応じて変化するが、しばしば問いに対する答えそのものとして生じる。

 「エナクティヴズム」は、対象の知覚を、<対象に関する可能な行為の仕方>の集合として説明するが、「アフォーダンス理論」は、対象の知覚を、その集合をさらに限定して、<対象に関する好ましい行為の仕方>として説明する。 両者の親和性は、Noeも強調する点である。

 次に、「アフォーダンス」もまた動物の探究活動に相関していることを確認したい。

18 知覚は行為の仕方である  (20201223)

[カテゴリー:人はなぜ問うのか?]

前回は、知覚のゲシュタルト構造が、知覚がどのような探索を行っているかに依存することを説明した。知覚が、動物にとっては探索の結果であり、人間にとっては問いに対する答えであることを説明するうえで有用なのは、アルヴァ・ノエの「知覚のエナクティヴィズム」である。

 アルヴァ・ノエ(1964-)は、『知覚の中の行為』(門脇俊介、石原孝二監訳、飯島裕治、池田喬、吉田恵吾、文景楠訳、春秋社、2010、原著2004)で、「知覚とは行為の仕方である」と主張する。

 彼の知覚論の基礎的なモデルになっているのは、触覚である。物を触る時、触覚は対象の全体を一度に知ることはできない。対象を触りながら対象の形や大きさを知り、それがどのようなものであるかを知ることになる。触覚の内容は、触れ方と相即している。彼によれば視覚の場合もこれと同様のことが言える。視覚にも、対象の細部にわたる全体が一度に与えられるということはない。細部を知るにはその部分に近づいてみる必要がある。私たちは、ある細部はそこに近づくと見えるだろうものとして予想している。例えば、トマトは赤くて丸いものとして知覚されるが、しかしその裏側が見えているわけではない。その横に回ればトマトの側面が見え、さらに後ろに回れば、背面が見える。トマトの丸い形を知覚しているとは、視点を移動したらそのように側面や裏面がどのように見えるかが分かっているということである。トマトの丸さの知覚は、トマトに対する目の位置を変えるその「行為の仕方」に他ならない。

 もうひとつ丸い皿の例を挙げよう。丸い皿が丸く見えるのは、真上ないし真下から見たときであり、大抵の視点では楕円に見える。しかし、楕円に見えていても、その皿が丸いことを知覚していることは、その皿のまわりで視点移動の「行為の仕方」を理解しているということに他ならない。

 このように皿を知覚するとき、その皿をどのように使えるかを判断できるだろう。例えば、その皿に丸いクリスマスケーキを載せられると分かるだろう。

 「皿の現実の形を見定めることは、その皿のプロファイルを知覚すること、そしてこのプロファイルすなわち見た目の形が運動に依存しているあり方を私たちが理解していることから成り立っている。このような事例から言えそうなことは、私たちが皿の形を経験することができ、見ることができるのは、非明示的な仕方でさらの感覚運動的プロファイルを把握しているからである、ということだ。皿の感覚-運動的プロファイルを把握することによってこそ、経験のなかで皿の形が利用可能になるのである」(前掲訳、125)

 ノエは(少なくともこの本では)、知覚のゲシュタルトについて取り立てて語っていないのだが、皿の形の知覚は、もちろんゲシュタルトの知覚である。皿の形や大きさのゲシュタルト知覚が成立するのは、「あのケーキはこの皿に乗るだろうか?」という問いに答えようとするときに、(ゲシュタルト知覚)のである。「あのケーキをこの皿に載せようとするとどうなるか?」という行為の仕方に関する問いに答える必要が生じるからである。

 知覚内容と行為が密接に結合しており、知覚が「行為の仕方」であるならば、行為は目的を持ち、それを実現しようとすることであるのだから、「どうやってそれを実現するか」という行為の仕方関する問いに答えようとする中で、知覚が成立することになるだろう。つまり、知覚は探索(問い)への答えとして成立する。