二種類の「生きたい」

 またしても北京のビールです。

前回次のように書きました。

 「生きたい」に対応する状態がないとしても、それが真理値を持つ可能性があるのではないでしょうか。例えば、もし「私は食べたい」が、私が生きることを前提するのならば、「私は食べたい」が真であるとき、「私は生きたい」も真であるのではないでしょうか? 

この続きを考えましょう。

 ここで我々は「生きたい」を二つの意味で理解することが出来るように思われます。一つは、「私は食べたい」が真であるならば、それが前提しているような「生きることを求める」という意味です。ここでの「食べたい」は、心的ないし身体的な状態であるとしましょう。この場合には、「食べたい」も「生きたい」も動物としての欲求だと言ってよいでしょう。このような「食べたい」には真理値があるでしょう。「その犬は何か食べたいのだ」が記述であって、真理値をもつのと同様に、「私は何か食べたい」も記述であって、真理値をもつと考えられます。そして、「生きたい」に対応する状態を、このような「食べたい」や「水を飲みたい」や「眠りたい」や「休みたい」に対応するような諸状態の体系として想定するとき、「その犬は生きたいのだ」もまた記述であり、真理値をもつことになります。

 ところで、このような「生きたい」が、動物としての欲求だとすると、これと区別して、社会的な欲求としての「生きたい」という欲望を考えることが出来るのではないでしょうか。
 実は、「食べたい」にも、この二つを区別することが出来ます。「名古屋の外郎(ういろう)でなく、山口の下郎を食べたい」という欲望は、それに対応する心的ないし身体的状態が言語とは独立にあり、それを記述している、というのではないでしょう。つまり、「山口の外郎を食べたい」は記述ではなく、真理値をもちません。このような欲望は、社会的欲望だと思われます(これの意味の説明と、これの論証は、後の課題とします)。しかし、山口の外郎を食べることが、生きていることを前提するならば、「山口の外郎を食べたい」という欲望は、「生きたい」という欲望を含意します。このときの「生きたい」は社会的な欲望であり、それに対応する心的ないし身体的な状態が、この発話と独立に存在するのではありません。この「生きたい」は、記述ではないので真理値を持ちません。

 動物としての「生きたい」という欲求と、社会的な「生きたい」という欲望は、常に揃っているとは限りません。一方だけがある場合、どちらもない場合もありえるでしょう。

ビールと復習

 北京で飲んだ燕京ビールです。味はもう一つでした。

 urbeさん、鋭いご質問ありがとうございます。夏休みボケで、私がご質問を十分に理解しているかどうかは、自信がないのですが、答えて見ましょう。

 <欲望は命題的態度の一種である>というのは、<欲望は「私は・・・したい」という発話である>ということだと思います。「私は…という欲望を持つ」と考えているとき、私は「私は…したい」と発話しています。しかし、欲望を持つことが、そのような発話をすることに尽きない場合があるとおもいます。
 たとえば、「水を飲みたい」と思うとき、「水を飲みたい」という欲望として語られる心的状態ないし身体的状態(この違いは大きいかもしれません)が、言葉になる前に、あるいは言葉とは独立に、存在しているだろうとおもいます。このとき、欲望は、単に命題的態度と同一ではありません。
ところで、それが「みずを飲みたい」という欲望であることは、セラーズの言う「理由の空間」の中で、つまり様々な命題との関係のなかで、初めて成立するのだと思われます。もし、発話と独立にそれに対応する心的状態ないし身体的状態があるとすると、「水が飲みたい」という発話は、それの記述です。このときには、「水を飲みたい」は、私の状態についての認識であり、真理値をもつでしょう。

 さて、「生きたい」という欲望も、これと同じかもしれませんが、しかしこの欲望は、もっと抽象的なものなので、「生きたい」という欲望として語られるものが、言葉になる前に、言葉とは独立に存在するということはないのかもしれません。そのようなもの無しに、さまざまな命題との関係の中で、「私は生きたい」という発話によって成立するのかもしれません。
 もしそのようなものがあるとすると、おそらく、「食べたい」とか「水を飲みたい」とか「眠りたい」とか「排泄したい」とか「休みたい」とかに対応するものどもの体系のようなものでしょう。もしそのようなものがあるとすると、「生きたい」もまた、心的状態ないし身体的状態の記述であり、真理値を持つことになります。
 
 しかし、私は、そのようなものはない、つまり「生きたい」に対応するような心的な状態ないし身体的状態はないと考えてみたい気がします(これは、いまのところ証明できません。)もし、そのようなものがないとしたら、どうなるでしょうか。「ご就職おめでとうございます」という発話が表現型発話であり、真理値を持たないのと同様に、「私は生きたい」という発話もまた(表現型か?、宣言型か?)真理値を持たないことになります。
 このような意味で、「生きたい」は真理値をもたない、と述べました。
 
さて、これで、以前の発言がより明晰になったでしょうか。

 しかし、ここでちょっと、もう一度考えてみたいとおもいます。「生きたい」に対応する状態がないとしても、それが真理値を持つ可能性があるのではないでしょうか。例えば、もし「私は食べたい」が、私が生きることを前提するのならば、「私は食べたい」が真であるとき、「私は生きたい」も真であるのではないでしょうか?

「生きたい」は真ではない?

これまで感覚や欲求を言葉で表現することについて、述べてきました。
感覚や欲求と言葉の間には、断絶があって、我々が日常行っている言語化のメカニズムを説明することは、簡単なことではない、ということを述べてきました。
さらにその断絶にも様々なケースがあって、例えば次の7つの場合では、それぞれ説明の仕方が変わります。

①色を見て「これは黄色だ」と言うこと
②歯の痛みを感じて「歯が痛い」と言うこと
③空腹を感じて「おなかがすいた」と言うこと
④空腹を感じて「何か食べたい」と言うこと
⑤クッキーを見て「このクッキーを食べたい」と言うこと
⑥ゴッホの絵を見て「絵を描きたい」と言うこと
⑦余命を宣告されて「もっと生きたい」と言うこと

①と②の間には、次のような違いがありました。
ある対象の色は、複数の人間が見ることが出来るのに対して、歯の痛みは、一人の人にしか感じられません。もっとも、同一の対象の色であっても、色の知覚そのものは、一人の人間に属しており、他の人間の知覚は、また別の知覚です。ちょうど他の人間の歯の痛みが別の痛みであるように。しかし、歯の場合には、別の歯の痛みなのですが、色の場合には、同一の対象の色であるという違いがあります。

②と③の間には、一見つぎのような違いがあるように思われます。②は欲望とを結びついていませんが、③の空腹の場合には、④の「何かを食べたい」という欲望と結びついていように思われます。しかし、歯の痛みもまた、その痛みから解放されたいという欲望と結びついていることでしょう。その結合は、空腹の感覚と、何か食べたいという欲望の結びつきと同じかもしれません。そうすると、②と③の間に違いはないことになります。

③と④の違いについてはどうでしょうか。③は空腹を言語で表現しています。④は食欲を言語で表現しています。④の場合には、空腹の感覚つまり胃のある種の鈍い苦痛に似た感覚だけでなく、「食べたい」という欲望を感じて、言語化しているのでしょうか。その欲望は、言語化されていなくても存在するのでしょうか。
言語を持たない動物も、ある生理的な状態(空腹と呼べるような)になると食べものを求める行為を開始するでしょう。そのとき、その動物はその欲求を感じているのでしょうか。人間は、食べたいという欲求を感じているのでしょうか。言語化とは独立に歯の痛みを感じることが出来るように、言語化とは独立に食べたいという欲求を感じることができるのでしょうか。内省してみても、私には、これについて確信を持って何かを言うことは、できそうにありません。

④と⑤の違いは何でしょうか。空腹の犬にクッキーを見せれば、犬はそれを食べようとするでしょう。しかし、犬は「このクッキーを食べたい」とは思っていないはずです。しかし、人間の場合には、「このクッキーを食べたい」と考えるのはないでしょうか。そして、その欲望は、「このクッキーを食べたい」という内的な発話と独立に存在することは不可能であると思われます。

(ここで、アフォーダンスの心理学について考察すべきだとおもうのですが、いつになっても、「生きたい」の分析にたどりつけないのと、準備不足なので、ここではパスします。しかし、「このクッキーを食べたい」がクッキーのアフォーダンスとして説明されるのならば、「生きたい」もまた何かのアフォーダンスとして説明できるような気がします。いつか、これを取り上げたいとおもいます。)

⑤と⑥の違いは何でしょうか。⑥の「絵を描きたい」という欲望を、犬が持つことはありえません(それはなぜでしょうか?)。人間は「絵を描きたい」という欲望を持つことはがありますが、この欲望はこのような発話としてのみ可能です。

④⑤⑥という欲望の例は、自然的な欲望(?)からより社会的な欲望へと変化しているといえるでしょう。このような社会的な欲望は、内省してみても言語化されない形で心の中に見つかるようなものではありません。

(実は、言語化されない形で存在するような「自然的欲望」は、③について疑念を述べたように、存在しないかもしれません。)

 社会的欲望は、言語化されないで心の中に見つかる欲望を記述したものではない、ということです。それが記述ではないとすると、それには真偽がないことになります。「私は絵が描きたい」には真偽はないのです。それは「私は・・・を約束します」という約束の発話が記述でなく、真偽をもたないのと同様です。

 さて、⑦の欲望はどうでしょうか。
(少し気になっていたのですが、これまで「欲求」はより自然的、「欲望」はより言語に依存するもの、という仕方であいまいに区別してきたつもりなのですが、この区別が可能かどうかがあいまいので、厳密にこの区別を維持し続けることは出来ないかもしれません。)
 「もっと生きたい」というのは、切実な欲望です。しかし、それは言語によって可能になっている欲望だとおもいます。言語化されない形で存在するような欲求ではないでしょう。なぜなら、例えば犬は、<自分の死>というものを意識しません。<自分>の意識もないし、<死>の意識もありません。したがって、<自分が生きている>という意識もなく、したがって、<もっと生きたい>という欲求もないはずです。これは自己意識や言語なしには不可能な欲望なのです。したがって、「もっと生きたい」は、何かを記述しているのではありません。それは、真偽をもたないのです。

(「私は、自分のしたいことをして生きて行きたいのですが、自分が本当に何をしたいのか、わからないのです」という悩みを持つ人は、自分は本当に・・したい、というような欲望を心の中に見つけて、それの記述として「私は・・がしたいのだ」というのような発話を求めている。しかし、「私は、・・・がしたいのだ」が記述ではないとすれば、そのようなものを心の中に探しても、もともと見つかるはずがないのです。)

 ご批判ご質問を御願いします。

次へいこう

 ウィトゲンシュタインは難しいので、専門家のS氏に尋ねて見ました。彼によると、「歯が痛い」というこことは、頬に手を当てるなどの一定の振る舞いをともなうものとして教えられるということです。もし何の振る舞いもなければ、内的な感覚について教えることはできません。そしていったん教えられたならば、振る舞いのないときにも内的感覚が存在することは想像できます。
 例えば、空腹ならば、ガツガツと食べる振る舞いをともなうものとしておしえられることになるでしょう。
 さて、内的感覚が、一定の振る舞いに結びついているのだとすると、内的感覚は一定の欲求と結びついているのだといえるかもしれません。私には、今のところ、どのような欲求とも結びつかないような内的な感覚を見つけることが難しいです。
 
 外的感覚と内的感覚の区別は、認知状態と欲求状態の区別とは別のものなのですが、もし内的感覚がつねに欲求状態と不可分に結合しているのだとすると、この二つの区別も不可分に結合していることになります。

 さて、ここからは色の感覚のような認知状態の言語化と、「何か食べたい」のような欲求の言語化の違いを考えてみましょう。色の認知の場合、知は、世界のあり方にフィットしなければなりません。それに対して、「何か食べたい」のような欲求の言語化の場合には、非言語的な自然な(?)欲求にフィットすしなければなりませんが、またそれに引き続いて、(サールの言い方ですが)世界の方を知(発言)にフィットさせなければなりません(つまり、実際に何かを食べるということです)。

 「生きたい」という欲望の場合も、「なにか食べたい」と同じようなことがいえるでしょうか。

 

「このキャンディーを食べたいですか」

「このキャンディーを食べたいですか」と問われて、
       私が「食べたい」と答えるとしましょう。
       このとき、私はどのようにして、そう答えたのでしょうか。

 
 urbeさん、コメントご質問ありがとうございました。urbeさんが、機能主義というときに考えていたのは、心を実現するのは、人間の脳だけでなく、もし同じ機能をもつものであれば、コンピュータでもよいということだったのだと思います。「多重実現可能性」を踏まえての発言だったのですね。私もそれに賛成です。さて、そのときも、私の考えていた問題は、urbeさんが予想されるとおり影響を受けません。
 私の問題は、クッキーの知覚表象から、「これはクッキーだ」という命題知がどのようにして生じるのか、ということです。クッキーの知覚表象から、「これはクッキーだ」という言語表象(?)がどのようにして生じるのか、ということです。そして、ここまでで言いたかったのは、セラーズが「所与の神話」として批判しているように、<そのような知覚表象には、言語は含まれていないので、その知覚表象から直接に「これはクッキーだ」という命題知が導出されるのではない>ということです。
 そして、この議論を、「欲望」の認識にも拡張したいのです。
 「このキャンディを食べたいですか」と問われて、私が「食べたい」と答えるとしましょう。(例によって、このキャンディは既に私の胃の中にあります。)このとき、私はどのようにして、この返答を得たのでしょうか。私は、心の中で、自分自身に「私は、このキャンディを食べたいのだろうか」と問いかけたのでしょうか。仮にそうだとしましょう。そして、私が私の欲望を内観で観察して、「そうだ、私はこれを食べたい」と答えるのだとしましょう。仮にそうだとしても、その欲望は、言語的に分節化されておらず、したがってそれから「私は、これを食べたい」という命題知(このとき、これは、私の欲望を記述した命題知となる)が直接に得られることはありえないはずです。

 「これは黄色だ」や「これはクッキーだ」の場合には、これまでに教わった黄色とされる色の集合、これまで教わったクッキーだとされる物の集合、それらと目の前の対象との類似性の認知によって(あるいはまた、これまで教わった黄色以外の色の集合、これまで教わったクッキー以外の物の集合との差異性の認知によって)、目の前の対象について「これは黄色だ」とか「これはクッキーだ」という命題知が得られる(正当化される)のだとしよう。(このような説明には、まだ重要な見落としがありそうだとおもうのですが、今は、こう考えておきます。)

 これと同様にして、「このクッキーを食べたい」とか「このキャンディーを食べたい」の場合には、これまでに教わった「食べたい」という欲望(こころの状態)の集合との類似性の認知によって(あるいは、「食べたくない」という心の状態の集合との差異性の認知によって)「現在の私の心の状態は、食べたいという状態である」という命題知が得られる(正当化される)のだろうか。
 黄色やクッキーならば、誰かが私に指示して教えることが可能であろう。しかし、食べたいという心の状態の場合には、人は私の心の状態を知ることもできないし、指示することもできない。「生きたい」という欲望の場合にも同様であり、人が私の心の状態を指示して、それが「生きたい」という欲望なのだ、と教えることはできない。
 
 これは、ウィトゲンシュタインがよく例に挙げる、「歯が痛い」とおなじ例かもしれません。では、ウィトゲンシュタインは、「歯が痛い」という言葉を、我々がどのように習得すると説明していたのでしょうか。今すぐに、この答えを思い出せないので、これを次回に考えてみます。

 前回予告した、感覚という認知状態の言語化と欲望という欲求状態の言語化の違いは、上記の区別とは別のことです。上記の区別は、外的感覚についての言語化と、内的感覚についての言語化の違いです。
 つまり、前回の予告は、次々回に実現することになるでしょう。

 

「このクッキーを食べたい」と思うことは、どのようにして可能になるのか?

 「このクッキーを食べたい」と思うことは、どのようにして可能になっているのでしょうか。

 urbeさん、コメントありがとうございました。
 黄色の四角をみて、「これは黄色だ」とどうして言えるのか、と問うてみました。私もurbeさんのいう認知科学/機能主義にたってまず考える必要があると思います。問題は、その立場で何処まで言えるかです。
今仮に心身問題に関する唯物論を採用して、パソコン画面の黄色の四角から、光が私の目に届いて、それが視神経を刺激し、その刺激が脳のある部分に届いて、そこに一定のシナプスの状態ないし過程が成立したとします。そこの状態ないし過程と私が見ている黄色の感覚(クオリア)が同一であったとします。つまり、黄色いの画面から黄色の感覚が発生することは、神経生物学的な因果過程によって説明できたとします。
 私が問題にしたいこと、またセラーズが問題にしたことは、その後のプロセスです。つまり、黄色の四角の知覚から、「これは黄色だ」という命題知がどのようにして成立するのか、ということです。もちろん、唯物論者は、この過程もまた神経生物学的な因果過程によって成立する、と考えるでしょう。
 私も、そのような因果過程が成立している可能性は高いと思います。しかし、それを仮に認めるとしても、それは、私が問題にしている問いの答えではありません。なぜなら、そのような因果過程によって、我々の志向的な心の働きが支配されているとしても、我々の志向的な心の働きは、それ特有の合理的な思考のプロセスをもつはずです。もし心の変化が、合理的な思考のプロセスによって支配されていないならば、我々はおそらく自分の心の変化を理解することができなくなるとおもいます。
 したがって、黄色の知覚から、「これは黄色だ」という命題知を形成するときには、脳の過程は神経生物学的な法則に支配されているとしても、心の中では有意味な操作がおこなわれていると考えます。問題は、心の中で我々がおこなっているそのプロセスです。
 これで、よいでしょうか。これで問題設定としては、クリアになったと思うのですが、まだあいまいな点があるでしょうか。

 さて、上のクッキーを見て、「これはクッキーだ」という認識の成立を説明するのは、「これは黄色だ」の場合と同様の問題を抱えています。ここでは、仮にそれが説明できたとします。(なぜなら、そうしないと、私の話は欲望の認識にまでなかなか、たどり着けそうにないからです。)
 上のクッキーをみて「クッキーだ」とわかった後で(同時でもよいのですが)、「このクッキーを食べたい」と思うとしましょう。(実際、すでにクッキーは私のお腹の中です。)この欲望の認識は、どのようにして成立するのでしょうか。
 空腹感を説明するのは、満腹感を説明するよりも難しいようです。(詳しくは、http://www.tmin.ac.jp/medical/12/feeding1.htmlをご覧ください。)唯物論者が考えるように、クッキーを見たときに生じる脳内のシナプスの状態ないし過程として<クッキーの知覚像>が生じ、さらに脳の別の部位におけるシナプスの状態ないし過程として<食べたいという欲望>が生じたとします。
 しかし、<クッキーの知覚像>は、まだ言語化されていないクオリアであり、<食べたいという欲望>もまだ言語化されていないクオリアであるとします。黄色についての以前の質問は、<クッキーのクオリア>から「これはクッキーだ」という命題知がどのように生まれるのか、という質問に似ています。
 ここで問いたいのは、<食べたいという欲望>のクオリアから、「このクッキーを食べたい」という欲望についての命題知がどのようにして生じるのか、ということです。

 「これは黄色だ」に比べると、問題がかなり複雑になりました。私がここで注意したいのは、単に複雑になったということでなく、感覚という認知状態の言語化の問題と、欲望という欲求状態の言語化との違いです。
 ここに、どのような本質的な違いがあるか、それは次回に説明しましょう。

 それはともあれ、ご批判、ご質問を御願いします。

   

「私は空腹だ」とどうして知るのでしょうか?

山の中の道のように、私の話も、見え隠れしながら続いてゆきます。

「私は、現在空腹です」私は、どうしてそれを知るのでしょうか?

これは、「これが黄色だ」とどうして解るのか?という問題と似ています。
ある色の感覚が与えられて、それを「黄色」と呼べぶときには、これまでに学習した
「これは黄色だ、あれは黄色だ、それは黄色でない、・・・」などの記憶をもとに、それが「黄色」と呼ばれてきたものに類似していることを知り、その類似性に基づいて、「それは黄色だ」と言うようにおもえます(これの説明は、おそらく、まだまだ不十分でしょう。とりあえずは、このような説明で済ませておきます。)

では「空腹」について、「黄色」と同じように我々は学習したのでしょうか。黄色の場合には、ある色を指差して、「これは黄色だよ」と教えられたかもしれません。しかし「空腹」の場合には、私のお腹のある感じを指差して、「それは空腹だよ」と教えられたのではないでしょう。

(いま気づいたのですが、「空腹」というのは、「空腹感」と呼びうる感覚のこととはかぎらず、胃の状態についての客観的な記述として用いられることもあるように思います。しかし、以下では、「空腹感」と同じ意味で使います。)

たとえば、友達と同じ時間に昼ごはんを食べて、そのあと二人で遊び続け、夕方になって友人が「お腹がすいたなあ」(讃岐弁)という。「私が「お腹がすく」とはどういうことか?」とたずねると、「何かを食べたくなるということだ」と友人が答えたとしよう。
私が、これを理解するとすれば、それは私が「何かを食べたい」ということを理解しているからである。つまり欲望の認識を前提している。

では、「何かを食べたい」という欲望を、私はどのようにして知るのか。

「私は空腹だ」というような感覚の認識を議論してから、次に「私はそのケーキを食べたい」というような欲望の認識を議論するつもりだったのですが、「空腹」という感覚を説明することは、「食べたい」という欲望を説明することと独立にはできそうにないので、欲望の分析に話を進めることにします。

目標は、「私は生きたい」という欲望をどのようにして知るのかの分析ですが、その前に「食べたい」という欲望をどのようにして知るのか考えてみたいと思います。

「これは黄色だ」とどうして言えるのか

              「上の四角は、何色ですか?」と問われたならば、
              「それは黄色です」と我々は即座に答えるでしょう。

このとき、私はどのようにして答えているのでしょうか。
おそらく、これまで「これが黄色だよ」「それも黄色だ」「あれは黄色だ」「こいつは黄色じゃない」
などと沢山の色について学習してきて、黄色にぞくする沢山の色のサンプルの記憶があります。
その記憶を用いて、それと上の四角の色が類似している、ことを確認して、
そこで、「それは黄色です」と答えるのでしょう。。

ただ上の四角だけを見ても、そこから「黄色」という言葉は出てきません。
上の四角を見ることだけでなく、「黄色」の言葉の使用例についての記憶が、必要です。
それから、さらに、それらの記憶された黄色のサンプル群と、上の四角の色が、類似していることの認識が必要です。

たとえば、目の前に二つの四角があり、「その二つの色は似ている」というためには、何が必要でしょうか。
そのためには、「色」の語の使用例の記憶が必要ですが、それに加えて、「似ている」という語の使用例の記憶が必要です。
これは、この場合の二つの色の関係は、これまでに「似ている」で使用例で記憶されている関係のサンプル群と、<似ている>必要があるのでしょうか。そうすると、この場合に<似ている>は、どのようにして知られるのでしょうか。

これをさらに<<似ている>>というように、繰り返えしても、役に立ちそうにありません。

では、このあと、どのように説明したらよいのでしょうか。
もう一度、問いましょう。「これは黄色だ」とどうして言えるのでしょうか。

(もし、なにかよいアイデアがありましたら、教えてください。)

「私は生きたい」と、私はどうして知るのか?

アメリカの国会議事堂、アメリカ民主主義の象徴でしょうか。権力の象徴でしょうか。
残念ながら私のとった写真ではありません。若い友人からの贈り物です。

「私は生きたい」と、私はどうして知るのか?

これに答えることは簡単ではありません。なぜなら、自分の気持ちを反省して、<生きたい>という欲望を感じるのだとしても、そのときには、その欲望について「これは、生きたいという欲望だ」という記述をおこなっているのです。問題は、「これは生きたいという欲望だ」という記述がどうして可能なのか、ということだったので、これでは、問題に答えたことにならないのです。

もし、欲望が言語を含まず、言語とは異質なものだとすると、「生きたい」という言葉が、どうしてその欲望と一致しているのかを説明することはできません。
もし、欲望が(欲望一般はいざ知らず、少なくともこの欲望が)本質的に言語を含んでいるのだとすると、そのようなことがどのようにして可能になるのかを説明しなくてはなりません。

セラーズは、「所与の神話」という言葉で指摘して、批判していました。セラーズが詳しく論じているのは、感覚与件説の批判ですが、しかし彼が念頭においている「所与」は感覚与件に限りませんでした。感覚や知覚は、認知状態の一種(非信念的認知状態)であるのに対して、欲望や欲求は認知状態でない、という大きな違いがあります。しかし、これらの言語で表現するときの、これらと言語との関係に関しては、同じようなことが指摘できます。

アメリカの国会議事堂を見て、「これは権力の象徴だ」というときには、多くの知識が前提になっています。
しかし、「これは白い」というときにも、感覚以外の多くの知識ないし信念が前提になっています。
それと同様で、「私は生きたい」というときにも、私が心の中に感じる欲望だけでなく、多くの信念が前提になっています。

もう一度、問いましょう。「私は生きたい」と、私はどうして知るのでしょうか?  

人生論のある基本前提

これは、少し前の、時間があったときの写真です。
最近、忙しくて人生について考えている暇がない、というのが実情です。
これは、いったい何という人生でしょうか。
そんな人こそ、人生について、考え直す必要があるのではないでしょうか。

3、人生論のある基本前提

人生論における最も基本的な問題だと思われるのは、次の二つの問題です。
「自分の死についてどのように考えたらよいのか」
  「私は何のために生きるのか」
端的にいえば、死の問題と生きる意味の問題です。人生には、それ以外にも沢山の問題があるでしょうが、それらは、これらから派生する問題であるか、そうでないとしても、これらよりも重要性の低い問題になるのではないかと思われます。
 ランダムに挙げみます。これらは上の問いよりも、より具体的で、より切実かもしれません。しかし、上の問いよりも基本的であるとは思えません。(それはなぜでしょうか?)
   「老いについて、どのように考えたらよいのか」
   「失業について、どのように考えたらよいのか」
   「何のために働くのか」
   「何のために勉強するのか」
   「結婚するとはどういうことか」
   「子供を育てるとは、どういうことか」

さて、最初の二つの基本問題について、これまで瞥見してきたのは、実は、それらがともに共通の前提を持つことを示すためでした。その前提とは、
   「私は生きたい」「私は死にたくない」
という欲求の存在です。
 もしこの欲求がなければ、我々は「自分の死についてどのように考えたらよいのか」悩まないでしょうし、「何のために生きるのか」悩まないでしょう。

ところで、我々は「生きたい」という欲求を持っているということは、本当なのでしょうか。
問題をより簡単にしましょう。

「私は『私は生きたい』という欲求をもっている」という主張を、私(あるいは、あなた)は、どのようにして証明ないし正当化できるでしょうか。

 「そんなことは自明だ。なぜなら、私はそう感じるからだ。」
と大方の人は答えるでしょう。あるいは、これ以外に答えようがないと思うかもしれません。
しかし、このような答え方については、セラーズによる「所与の神話」という有名な批判があるのです。

これについて、次回に考えましょう。