09 第3章の見取り図 (3) 問答の不可避性 (20201110)

[カテゴリー:『問答の言語哲学』をめぐって]

「3.3 言語行為の不可避性」では、これらの言語行為がそもそもどうして可能なのか、どうして成立するのかを考察しました。その答えは、ある種の「不可避性」によって、成立するということです。

 まず、全ての発話は、暗黙的に質問であることを説明しました。すべての発語が、暗黙的に依頼(質問)であるとすると、すべての発話は聞き手に何らかの選択を求めていることになります。発語は、聞き手の選択を可能にするだけでなく、選択を迫り、選択を不可避なものにします。

 次に、この選択の不可避性が、指示を可能にすること、指示を不可避なものにすることを説明しました。ある発話が問いの答えとして発話されるとき、それに含まれる指示詞や確定記述のような表現は、対象を指示できるというだけでなく、むしろ対象を指示しないことはできないことはできません。このような対象の指示の不可避性が、指示を成立させるのです。

 次に、この種の伝達の「不可避性」がグライスの言う「協調の原理」で説明できることを示しました。「協調の原理」とは次のようなものです。

「会話の中で発言をするときには、それがどの段階で行われるものであるかを踏まえ、また自分の携わっている言葉のやり取りにおいて受け入れられている目的あるいは方向性[または問い]を踏まえたうえで、当を得た発言を行うようにすべきである」(Grice 1989: 26, 訳37、[ ]内は引用者の付記)

この「協調の原理」は、第3章で「会話の含み」の説明で述べたように、破ることができるのですが、しかし破ったとしても、破ることによってある意味を伝えようとしているのだと(「協調の原理」に則って)理解されてしまいます。つまり「協調の原理」は不可避的に私たちに迫ってくるのです。このことが、伝達の不可避性を成立させ、さまざまな言語行為を不可避的に成立させます。

 最後に、この「協調の原理」の不可避性の成立の前提になっているのが、問答の不可避性であることを説明しました。未開の民族の人間に出会ったとき、私たちは「協調の原理」が成り立つことを前提できないのですが、しかしそのような状況でも、それぞれの振る舞いが問いかけとそれに対する答えとなってしまうことは、想定できます。つまり、問答の不可避性は、想定できます。

 こうして、言語行為は最終的には問答の不可避性によって説明出来るでしょう。

08 第3章の見取り図 (2) 言語行為の新分類 (20201109)

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「3.2 言語行為の新分類」では、従来の言語行為に「前提承認要求」という言語行為を追加することを提案します。

 まず従来の言語行為の分類(発話行為、命題行為、発語内行為、発語媒介行為という分類)では、ヘイトスピーチをうまく扱えないことを説明しました。発話行為や命題行為は、命題内容へのコミットメントを含んでいないので、ヘイトスピーチを説明できない。他方で、本文で例を挙げて説明したのですが、発語内行為や発語媒介行為ではヘイトスピーチの働きをカバーしきれません。

 次に、それをうまく説明するために「前提承認要求」という行為を付け加えて、<発話行為、命題行為、前提承認要求、発語内行為、発語媒介行為>と分類することを提案しました。その際に、これらの言語行為間の差異を明確にするために、ヴェンドラーによる動詞の分類を利用しました。これは行為の分類に使えるものです。彼は、動詞を次の4つに分類しました。

  ①状態動詞:「嫌う」「愛する」「所有する」など状態を表す動詞。

  ②実現動詞:「勝つ」「始める」「発見する」などある状態を実現する瞬間的な出来事を表す動詞。

  ③活動動詞:「走る」「「押す」など終着点を持たない行為を表す動詞。

  ④向実現動詞:「(絵)を描く」「「(椅子)を作る」「(小説)を読む」などの内在的なっ終着点を持つ動詞。

ちなみに、①と②は進行形を取りますが、③と④は進行形をとりません。

この分類によると、発語内行為を表す「主張する」「命令する」などの遂行動詞は、実現動詞に属します(ただし、すべての実現動詞が、遂行動詞になるのではありません)。これに対して、発語媒介行為を表現する「説得する」「実行させる」「受諾させる」などは、向実現動詞になります。

では、「前提承認要求」はどうなるのでしょうか。

発話が何を前提しているかは、発話が不適切になる場合を調べることによって、明らかにすることができます。発話が不適切なものになるケースについては、オースティンの分析があります。この分析を踏まえて、発話の前提として

  論理的前提

  意味論的前提

  語用論的前提

を挙げることができます。

 「前提承認要求」は、発話が成立するためのこれらの前提(論理的前提や意味論的前提や語用論的前提)を承認するように聞き手に要求する向実現行為、である。

 話し手自身は、発話においてこれらの前提を承認している。この「前提承認」は、発語内行為の前提であり、発語内行為に含まれている実現行為である。しかし、話し手が承認しているこれらの前提を聞き手が承認するように要求するのが「前提承認要求」である。

 この意味で「前提承認要求」は聞き手に、発語内行為が成立していることの承認を求めることでもある。これに対して、発語媒介行為は、同じく向実現行であるが、発語内行為の成立を聞き手が承認していることを前提した上でなりたつ行為である。

 結論として言えることは、発語媒介行為、前提承認要求、発語内行為は、つぎのような実践的推論を構成するということです。

  私は学生に水を持ってきても欲しい。(発語媒介行為の意図)

  学生は短時間で水を持ってくることができる。(前提(真理性)承認要求)

  私が学生に水を持ってくるように依頼することは正当である。(前提(正当性)承認要求)

  ∴私は学生に「水を持ってきてください」と依頼する。(発語内行為)

07 第3章の見取り図 (1) 質問発話の特殊性 (20201107)

[カテゴリー:『問答の言語哲学』をめぐって]

本書第1章では、命題内容の意味を問答推論関係として説明しました。第2章では、命題の特定文脈での発話の意味について説明しました。言い換えると発話が焦点を持つとはどういうことかについて説明しました。焦点位置の違いは、命題内容の与えられ方の違いであり、発話の意味は二重問答関係のなかで成立するということでした。第3章では、行為としての発話、言語行為を考察します。この章も3つに分かれています。3.1と3.2では、オースティンとサールの言語行為論の改良を提案します。3.3では、言語行為がどのようにして成立するのかを説明しました。

 まず「3.1 質問と言語行為」では、オースティンとサールの言語行為論を紹介したのち、彼らが注目していなかった、質問発話の特殊性を説明しました。

 サールは、言語行為を次のように分けていました。

(a) 発話行為(utterance act)=語(形態素、文)を発話すること(これは音声行為(phonetic act)、音韻行為(phonemic act)、形態素行為(morphemic act)からなる。)

(b) 命題行為(propositional act)=指示と述定を遂行すること

(c) 発語内行為=陳述、質疑、命令、約束などを遂行すること

(d) 発語媒介行為=発語内行為という概念に関係を持つものとして、発語内行為が聞き手の行動、思考、信念などに対して及ぼす帰結(consequence)または結果(effect)という概念が存在する。

さらに発語内行為を次のように区別していました。

(1)主張型(assertives)    ┣ (p)

(2)行為指示型(directives)  ! (p)

(3)行為拘束型(commissives) C (p)

(4)表現型(expressives)    E (p)

(5)宣言型(declarations)   D (p)

発語内行為を一般的にFとし、命題行為をpとすると、F(p)という一般的な表現になります。サールは、「質問」という発語内行為を、行為指示型の「依頼」の一種(情報提供の依頼)として説明し、それを?(p)と表記しました。

ところで、サールが強調するように、同じ命題内容でも異なる発語内行為を採ることがあります。例えば、「あなたを首にします」が、記述の場合(主張型)もあれば、約束の場合(行為拘束型)もあれば、宣言型の場合もあります。しかし、サールの表記法では、すべてとなります。

  ? (p)、 ┣ (p)

  ? (p)、 C (p)

  ? (p)、 D (p)

同じ命題内容の返答が異なる発語内行為を採るとすれば、それは質問がことなるからではないでしょうか。つまり質問がすでに返答の発語内行為を指定しているのです。「問いは、答えの半製品である」ということは、命題内容に関してだけでなく、発語内行為に関してもそうなのです。質問が、すでに返答の発語内行為を指定しているとすると、上記の問答は、次のように表現すべきです。

  ?┣ (p)、 ┣ (p)

  ?C (p)、 C (p)

  ?D (p)、 D (p)

一般的に表記すると質問と返答は、次のようになります。

  ?F (p)、 F (p)

以上のように、質問は、特殊な発語内行為であり、上記の5つの分類とは独立したものとして分類すべきです。

 サールは、後に上記の発語内行為の5つの分類を修正していますので、本書ではもう少し詳しく説明していますが、基本的なアイデアはこのようなものです。

06 第2章の見取り図 (3) 「今日は暑いね」の言外の意味 (20201106)

[カテゴリー:『問答の言語哲学』をめぐって]

 第二章の「2.3 会話の含み」を紹介します。

 例えば、夏の暑い日に教師が教室に入ってきて「今日は暑いね」と言ったとき、それは「窓を開けましょう」とか、「暑いけれど頑張って勉強しましょう」とか、「教室にクーラーが欲しいね」とかの言外の意味を持つでしょう。このような言外の意味は「会話の含み」(グライス)と呼ばれている。会話の含みやそれと類似のものを含めて、次のように整理されています。

  ①論理的含意  「pかつq」→「p」

  ②意味論的含意 「これはリンゴだ」→「これは果物だ」

  ③一般的な会話の含み 「女性がやって来た」→「母親以外の女性がやって来た」

  ④特殊的な会話の含み 「今日は暑いね」→「窓を開けましょう」

グライスが「会話の含み」と呼んでいるのは、③と④で、③は発話の特定の文脈に依存せず、一般的に成り立つ含みであり、③は特定の文脈で成り立つ会話の含みです。①と②と、③と④の違いは、後者の含みは、その後の発話によって否定されることもありうるということです。例えば「今日は暑いね」に続いて、「しかし夏休みまで後一週間ですね」と言えば、会話の含みは「窓を開けましょう」から「暑いけれど頑張って勉強しましょう」に修正することになります。

 さて、聞き手が会話の含みを理解するメカニズムについて、グライスは通常の会話では「協調の原則」と「会話の格率」に私たちが従っていることを指摘し、それが破られているときには、聞き手は、その理由を考え、それがある「含み」を伝えるためなのだと理解する、と説明します。

 これに対して、スペルベルとウィルソンの「関連性理論」は、通常の発話の意味(「表意」)と会話の含意(「推意」)の関係を連続的なものと考えます。どちらも「関連性の原則」(「すべての意図明示的伝達行為は、その行為自体の最適な関連性の見込みを伝達する」)に基づいて、推論されることになります。

 これらに対して、私は、二重問答関係によって「会話の含み」を説明することを提案しました。

店長X と店員Y の次の会話があったとしよう。

  X「そろそろ閉店の準備をした方がいいだろうか?」

  Y「もうすぐ5 時です」

   〔そろそろ閉店の準備をした方がよいでしょう〕(会話の含み)

この場合、Y の返答の含みは、次のような二重問答関係で説明できるでしょう。(「」は実際に行われた発話であり、〔〕は暗黙的な思考や会話の含みを示す)。

  Q2「そろそろ閉店の準備をした方がいいだろうか?」

    Q1〔今何時だろうか?〕

    A1「もうすぐ5 時です」

  A2〔そろそろ閉店の準備をした方がよいでしょう〕

発話A1は、相手の質問Q2に答えるために立てた問いQ1の答えであり、この答えA1を前提にして、Q2の答えA2を推論できる。

一般に、発話は、その相関質問のより上位の問いの答えを「会話の含み」とする。発話がどのような「含み」を持つかは、このような二重問答関係のなかで説明できるでしょう。

 最後に、このアプローチの、グライスの説明と「関連性理論」に対する長所を整理しました。

05 第2章の見取り図 (2) (20201105)

[カテゴリー:『問答の言語哲学』をめぐって]

第二章の「2.2 発話が焦点を持つとはどういうことか」では、この問いに答えました。

発話が焦点をもつとは、発話の中のある部分に注目しているということです。同じ文の発話でも異なる部分に注目している発話は、異なる焦点を持つことになります。例えば

  「バイデンは、ペンシルベニア州で勝つだろう」

という文の発話は、次の三か所に焦点を持つことができるでしょう。

  「[バイデン]Fが、ペンシルベニア州で、勝つだろう」

  「バイデンは、[ペンシルベニア州]Fで、勝つだろう」

  「バイデンは、ペンシルベニア州で、[勝つ]Fだろう」

(ここで 「[バイデン]Fが」の場合、「は」を「が」に変えた方が自然な日本語になると思います。それは、日本語の「は」と「が」の違いが、焦点位置を示しているためだです。これについては、脚注で説明し、関連する拙論を示しました。)

次のように「(他でもなく)」を付け加えると、ニュアンスの違いが明確になると思います。ただしそれをそれぞれの焦点の前につけると、別の文になってしまうので、説明のための便宜上のこととになります。

  「(他でもなく)[バイデン]Fが、ペンシルベニア州で、勝つだろう」

  「バイデンは、(他でもなく)[ペンシルベニア州]Fで、勝つだろう」

  「バイデンは、ペンシルベニア州で、(他でもなく)[勝つ]Fだろう」

ところで、発話の焦点位置は、その発話を答えとする補足疑問の相関質問によって、明示できることが知られています。たとえば、次のように対応します。

  「誰が、ペンシルベニア州で勝ちますか?」

    「[バイデン]Fが、ペンシルベニア州で、勝つだろう」

  「バイデンは、どこで勝ちますか?」

    「バイデンは、[ペンシルベニア州]Fで、勝つだろう」

  「バイデンは、ペンシルベニア州で、どうなりますか?」

    「バイデンは、ペンシルベニア州で、[勝つ]Fだろう」

つまり、発話の焦点位置は、発話の現実の上流問答推論(相関質問と上流推論)を示しています。

ところで、このように焦点位置の異なっていても、同一の命題内容の発話であるならば、その真理条件は変わりません。それでは、焦点位置の違いは、意味の違いではないのでしょうか。たしかに問答推論関係で明示化される命題内容は同一です。しかし、現実的な問答推論は、焦点が異なれば、異なっています。そこで、同一の命題内容の焦点位置の違いは、命題内容の与えられ方の違いであると考えることを提案しました。

発話の焦点位置の違いは、このように問答上流推論の違いを示すだけでなく、問答下流推論の違いも示していることも示しました。私たちが、問いを立てるのは、より上位の目的のためです。その目的は、より上位の問い(理論的問いや実践的問い)に答えることとして理解できます。ここでの二つの問いの関係を「二重問答関係」と名付け、それを次のように表現しました。

  「Q2→Q1→A1→A2」

これは、問いQ2の答えを得るために、Q1 を立て、Q1 の答えA1 を得て、A1 を前提にQ2 の答えA2 を得る、という二つの問答関係の入れ子型の関係「二重問答関係」を表現しているものとします。

 ここで発話A1の焦点位置は、相関質問Q1によって決まります。Q1を前提とする上流問答推論によってA1がえられます。ところでのこのQ1を問うたのは、Q2の答えを求めるためでした。したがって、Q2とA1(と必要ならば他の平叙文)を前提とする問答推論によってA2を得ることになります。この推論は、A1の下流問答推論になっています。

 A1の焦点位置は、相関質問Q1によるものでしたが、Q1を設定するのは、Q2に答えるためでした。したがって、Q2は、A1の焦点位置を間接的に規定しています。つまり、A1の焦点位置は、A1の問答下流推論とも密接な関係にあります。

 なお、この2.2では、補足疑問(wh疑問)と決定疑問(yes/no疑問)の返答文の関係についても、詳細に分析しましたが、ここでは説明を省略します。

04 第2章の見取り図(1)  (20201104)

[カテゴリー:『問答の言語哲学』をめぐって]

第2章「問答関係と発話の意味――問答推論的語用論へ向けて(1)」は、文の意味ではなく、ある文脈において現実に行われる発話がもつ意味について、問答の観点から説明します。

 第2章の2.1「文と命題内容と発話の違い」は3つに分かれています。

 まず2.1.1で、第1章では触れなかった、文の意味、命題内容、発話の意味などの区別について説明します。 文は、文脈を入力として、それに応じて異なる意味を出力する関数だと見なすことができます。そこで厳密には「文の意味」とはこの「関数」のことであり、文脈に応じて出力される意味を「命題」ないし「命題内容」と呼ぶことにします。(この命題内容には2.2で扱う「焦点」は考慮されていません。その点で「命題内容」は「発話の意味」とは区別されます。これについては次回説明します。)

 次に2.1.2で、関数についての考察を挿入しました。関数は推論規則であり、それゆえに問答と関係しています。そこで、関数について「機械的に使用すること」と「選択して使用すること」に区別し、それに応じて推論も二種類に区別しました。ところで、言語表現を使用するとは、その表現が持つ複数の関数から一つを選択することであり、一つの関数にコミットすることです。ここに言語表現の理解とコミットメントの区別が生じます。

 2.1.3では、(第1章では、発話がコミットしている意味(命題内容)を、問答推論関係として説明しましたが)、命題内容にコミットするとはどういうことかを説明しました。

 命題「これはべジマイトである」を理解することと、この命題にコミットすること(この例では命題の真理性を主張すること)は、別のことです。つまり、命題を理解することと命題にコミットすることは別のことです。では、命題にコミットするとはどういうことでしょうか。これに答えるために、まず、語句の意味と指示対象の区別、および意味の理解と指示へのコミットメントの区別は、すでに問いにおいて暗黙的に行われており、問答関係において明示化されるということを示しました。次に、語の意味から文の意味がどのように合成されるのか、といういわゆる「合成の問題」(デイヴィドソンのいう「述定の問題」)を「語の使用におけるコミットメントを結合することによって、どのようにして文の発話によるコミットメントが成立するのか」という問いとして捉えて、次の答えを提案しました。

<文未満表現の使用におけるコミットメントの結合は、問いへのコミットメントと答えへのコミットメントの結合となるときに、命題内容へのコミットメントとなる。>

この提案は、<命題は潜在的には問答によって構成されている>という提案になります。例えば、

 「次のアメリカ大統領はバイデンになると思います」

という命題へのコミットメントは、

 「次のアメリカ大統領は誰になると思いますか?」

 「バイデンになると思います」

という暗黙的な問答によって成立するということです。

04 第1章の見取り図(後半) (20201102)

[カテゴリー:『問答の言語哲学』をめぐって]

 第一章の後半、「1.2 推論的意味論から問答推論的意味論へ向けて」では、ロバート・ブランダムの「推論的意味論」を紹介し、前半で説明した「問答推論」を用いて、それを「問答推論的意味論」へと拡張しました。

 (個人的な話になりますが、私は2005年の秋冬に5ヶ月間ピッツバーグ大学で客員研究員となり、Nuel Belnapさんのもとで彼のLogic of Question and Answer(『問いと答えの論理学』)の翻訳に取り掛かり(この翻訳は帰国後完成したのですが、権利の関係で出版できていません)、毎週Belnapさんの部屋で細かな質問をしていました。そのときにはブランダムさんとは、彼のヘーゲル論についての2,3回面談しただけでした。2015年の秋冬にも、3ヶ月ほどピッツバーグ大学で客員研究員の機会に恵まれ、毎週ブランダムさんの推論的意味論についてや私の問答研究についての話し合う機会を持てました。この第一章後半の議論は、その時のBelnapさんやBrandomさんとの話し合いの成果も生かされています。)

 ブランダムは「推論的意味論」の基本的なアイデアを次のように説明しています。

「人が自らコミットしている概念的内容を理解することは、一種の実践的な熟練である。それは、主張から何が導かれ何が導かれないか、あるいは、何がその主張を支持する証拠で何がそれに反する証拠なのか、等々を判別できるということに存する。」(Brandom 2003, p.19 訳 p.27. Cf. Brandom 1994, p. 89)

ある主張pを結論とする推論をpの「上流推論」、ある主張pを前提(の一部)とする推論を、pの「下流推論」と呼ぶことにしました(ブランダム自身は「上級推論」「下流推論」という表現を使用していませんが、このほうが簡潔なので)。文の意味(命題)を理解しているとは、その正しい上流推論と正しくない上流推論の判別と、その正しい下流推論と正しくない下流推論の判別ができるということになります。これは、言語の意味の「使用説」の一種です。言語表現の意味を、それを推論において使用することとして説明することだからです。

 私は、現実の推論は問いを前提しており、そのことを明示化すれば問答推論になることから、推論的意味論を問答推論的意味論へ拡張することを提案しました。その基本的なアイデアは次のようになります。

<命題の意味を理解するということは、その命題がどのような問いに答えるための前提になりうるのか、また、なりえないのか、また、どのような問いの答えとなりうるのか、またなりえないのか、を判別できることである。>

 真理条件意味論や主張可能性意味論は、真理値を持たない命題の意味を説明できないのですが、推論的意味論は、真理値を持たなくても推論関係をもつ命題であれば、その意味を説明できるというメリットをもちます(ただし、ブランダムは「主張」というタイプの発話を主に考えているので、このメリットについては言及していません)。ただし、推論的意味論は、(疑問文のように)通常の推論関係を持たない命題の意味については説明することができません。問答推論的意味論は、疑問文の意味も説明できるより包括的な説明になります。

 ところで、ブランダムが、推論関係によって命題の意味を明示化できると主張するときに、重要な論点は、推論法則は表現の意味を変えないという指摘です。論理的語彙の使用法は、その導入規則と除去規則(例えば、「かつ」(∧)という論理的語彙の場合、p、q┣p∧qという「∧の導入期測」とp∧q┣p、p∧q┣q、という「∧の除去規則」)によって尽くされており、それが同時に基本的な論理法則ともなります。これを最初に論じたのは、論理学者ゲンツェンです。しかし、このような導入規則や除去規則を任意の仕方で設定することはできません。そこには制限が必要ですが、どのような制限が必要でしょうか。そこでNuel Belnapが提案したのが「保存拡大性」です。これは、導入規則と除去規則を連続して適用してその論理的語彙が消えたときに、結果として成立する推論が、その論理的語彙を導入する以前の論理法則だけで導出できるものになっているということです。もしそれまでの論理的語彙だけではできなかった推論が、それまでの論理的語彙だけでできるようになっているのだとすると、それまでの論理的語彙や他の語彙の意味が変化していることになるからです。つまり「保存拡大性」は、ある論理的語彙の使用が、その他の語彙の意味を変化させない、ということを示しています。これによって、推論関係によって言語表現の意味が明示化されるのです(ダメットがこれを示唆していたのですが、全面展開したのはブランダムです)。

 論理的語彙がこの「保存拡大性」を持つことが、推論的意味論を可能にしている条件です。それと同様のことが疑問表現の語彙についても言えること、つまり疑問表現の語彙(疑問詞)についてもその導入規則と除去規則を想定して、それが「保存拡大性」を持つことを示し、それゆえに問答が言語表現の意味を変えることはなく、言語表現の意味の明示化に役立つことを示しました。(論理や問答は、他の言語表現の意味を変えませんが、それゆえにこそ、探求にもまた利用できるのです。)

 第1章の最後で、問答推論的意味論が4つのメリットをもつことを説明しました。

03 第1章の見取り図 (20201101)

[カテゴリー:『問答の言語哲学』をめぐって]

第1章の前半では、問いと推論の関係について論じました。

「考える」とはどういうことか?と問われたら、もっとも予想される答えは次の二つでしょう。一つは、考えるとは、問い、それに答えることです。もう一つは、考えることは推論することです。では、この二つは、どう関係しているのでしょうか。推論するとは、ある文(前提)から別の文(結論)を導出することです。この導出が妥当なものであるためには、推論が妥当でなければなりません。妥当な推論とは、前提が真であるならば、常に結論が真となるような推論です。例えば、次のような推論です。

  ソクラテスは人間である。

  人間は死すべきものである。

  ゆえに、ソクラテスは死すべきものである。

しかし、この二つの前提から論理的に導出可能な結論は、「ソクラテスは死すべきものである」だけではありません。「ある不死なるものは、ソクラテスではない」とか「すべての不死なるものは、ソクラテスではない」とか「不死なるソクラテスは存在しない」などもこの二つの前提から導出可能です。しかし、一つの結論を選ばなければ、推論は完成しません。したがって、私たちが現実に推論するためには、論理法則以外のものを必要としている、ということです。推論することもまた行為ですから、私たちが推論するときには、何か目的があるはずです。その目的は、問いに答えるということではないでしょうか。問いに答えるために、可能な複数の結論の中から、一つを結論として選び出すのではないでしょうか。つまり、<推論とは、問いの答えを見つけるためのプロセスである>と思われます。そうすると、現実には、問いを前提にした次のような推論を行っていることになります。

   ソクラテスは不死ですか?

   ソクラテスは人間である。

   人間は死すべきものである。

   ゆえに、ソクラテスは死すべきものである。

このことは、理論的推論についてだけでなく、実践的推論についてもなりたちます。詳しくは本書で説明しましたが、別のカテゴリー「問答推論主義へ向けて」の最初の方でも、もう少し詳しく説明しました。

 さらに、問いに答えるために、別の問いを立てる必要が生じる時、<問いを前提として、またいくつかの平叙文を前提として、別の問いを結論とする>推論も考えられます。このように平叙文だけでなく問いを前提や結論に含む推論システムを考えることが必要になります。これを「問答推論」と呼ぶことにします。問いを含む論理学の研究は、ヌエル・ベルナップのLogic of Question and Answerなどがあります。本書では、ポーランドの論理学者ウィシニェフスキの「問いの推論」の研究を紹介し、拡張する仕方で、問答推論を説明しました。

 第1章の後半では、この問答推論をもちいて、問答推論的意味論を説明しました。

02 全体の見取り図 (20201031)

[カテゴリー:『問答の言語哲学』をめぐって]

 前回の目次にあるように、本書は序文、4つの章、後書き、から成ります。

 第1章では、ブランダムの推論的意味論を紹介した後、それを改良した問答推論的意味論を提案します。

 第2章では、命題の意味ではなく、ある文脈における命題の発話の意味について、それの問答推論関係から説明します。その前半は、発話が焦点を持つとはどういうことか、後半では、発話の含みについてのグライスと関連性理論の議論を紹介した後、それを改良した問答推論的語用論を提案します。

 第3章では、オースティンとサールの言語行為を紹介したうえで、質問発話の特殊性を示して、発語内行為の分類を改良し、つぎに命題行為、発語内行為、発語媒介行為という言語行為の分類に「前提承認要求」という言語行為を加えることを提案します。

 最後の第4章では、従来の論理的矛盾、意味論的矛盾、語用論的矛盾とは異なる「問答論的矛盾」があることを説明し、コミュニケーションが成り立つためには、この問答論的矛盾を避ける必要があることから、問答関係が成立するための超越論的条件があることを説明します。

 より詳しい全体の見取り図は、「序文」の後半にあります。

 序文の前半では、これまでの哲学は問いの答えにばかり注目して、問いそのものに注目することが少なかったことを指摘し、問いに注目することの重要性を訴えました。コリングウッドが指摘していたように、主張を理解するには、それがどのような問いに対する答えであるか、(答えの「相関質問」は何か)を理解することが必要です。したがって、答えの半分はすでに問いによって与えられています。答えは、問いに欠けている部分を埋めるだけなのです。問いは、答えの半製品なのです。

 問いが答えの半製品であることは、発話の理解に限りません。社会制度は言語で構成されていますが、社会制度は、社会問題の解決策であり、社会問題への答えなのです。それは社会問題への答えとして正当化されています。個人の行為もまた、個人問題への解決です。個人は、その信念内容(主張内容)によってのみならず、その人が抱えている問題によって構成されています。

 このように問いないし問題について考察することが重要なので、大胆にいえば、問答の観点から哲学全体を組み替えること、を大目標としています。

 但し、本書は、言語哲学について、問答の観点からの見直しに挑戦するものです。

01 挨拶と目次 (20201030)

[カテゴリー:『問答の言語哲学』をめぐって]

やっと本が出版になりました。帯に「問いを問う」とあるのは、わたしが当初計画したタイトルが『問いを問う 問答の観点からの言語哲学』だったことの痕跡がのこっているためです。これに続いて、『問いを問うII 問答の観点からの理論哲学』『問いを問うIII 問答の観点からの実践哲学』『問いを問うIV 問答の観点からの社会哲学』を計画していました。この長期計画に変更はないのですが、その実現にはまだまだ時間がかかりそうですので、タイトルは別のものになりそうです。

 この本の目的は、問答の観点から言語哲学の組み換えを目指すことですが、この本ではそのための手がかりを提供することにとどまっています。まだまだ足りない部分については、このカテゴリーで補足していくつもりです。ですから、問答の観点から言語哲学を組み替えていこうとするならば、何が足りないかを、コメントしてもらえれば助かります。

次回から、宣伝を兼ねて簡単な内容紹介をしてゆきたいと思います。

本書目次

序 文 問いの重要性に向けて

第1章 問答関係と命題の意味――問答推論的意味論へ向けて
 1.1 問いと推論の関係
 1.2 推論的意味論から問答推論的意味論へ向けて

第2章 問答関係と発話の意味――問答推論的語用論へ向けて(1)
 2.1 文と命題内容と発話の違い
 2.2 発話が焦点を持つとはどういうことか
 2.3 会話の含み

第3章 問答関係と言語行為――問答推論的語用論へ向けて(2)
 3.1 質問と言語行為
 3.2 言語行為の新分類
 3.3 言語行為の不可避性

第4章 問答論的超越論的論証
 4.1 問答論的矛盾の説明
 4.2 問答関係の分析
 4.3 問答論的矛盾による超越論的論証
 4.4 超越論的論証の限界

あとがき
参考文献一覧
事項索引
人名索引