物理主義の世界に住むということ

 
 
 
 
 
4月上旬に撮った写真です。ありきたりのサクラです。ところで、サクラは、バラ科サクラ属だそうです。
ちなみに、リンゴもバラ科です。
 
検察官に私はとりあえず次のように答えるでしょう。

「カルヴァンの救霊予定説では、個人の救済は決定しているけれども、個人はそれを知らない。しかし、もし個人が善行できたならば、彼が善行することに決定していたことになり、救済されるように決定されたことになる。それゆえに、個人が善行をしようとすることに意味がある。
検察官は、同様のことを、社会のレベルで考えるのですね。
我々の社会が、幸福な社会になるかどうかは決定しているけれども、我々はそれを知らない。しかし、もし法治国家でありえたならば、我々の社会は幸福になるだろう。それゆえに、我々が法治国家を維持しようとすることには意味があるのだ。

 
わかりました。とりあえず、<もし我々が法治国家を維持しようとすることが可能ならば、それには意味がある>ということを認めるとしましょう。
 
しかし、<我々が法治国家を維持しようとすること>は果たして可能なのでしょうか。我々は「物理主義の世界」に住んでいます。つまり、我々は、意志の自由が無いことを知っており、またみんなそれを知っていることを知っています。
したがって、「我々が法治国家を維持しようと意図する」ことが可能だ、と我々が信じることはありえません。それは、我々が「物理主義の世界」に住んでいることと矛盾するからです。