中期の人格の同一性

一里松、百五十年、海を見る
 
中期の人格の同一性
 
 短期と中期の人格の同一性を区別するメルクマールとして、「計画」に注目したい。
 
「明日の朝は、早く起きて仕事にゆかなければならないので、お酒をこれ以上飲むことは、やめておこう」とか「211日の研究発表に間に合わせるためには、この週末に草稿を仕上げておこう」とか、ひとは計画に追われて生活している。追われているにせよ、自ら立てるにせよ、私たちは計画を立てて、生活している。
 計画には、社会との関係で必要になるものもある。例えばローン返済の計画を立てるというようなことである。ここでは、社会との関係において立てられる計画については、考えない。(それについては「社会とはなにか」を含めて、別の書庫で考えたい。)
 ここで考えたいのは、上記の例のような、我々が日常生活で個人として立てる計画である。ブラットマンは「人間は計画する生き物である」と述べ、特に行為論の文脈で計画のもつ重要性に注目する。(参照、ブラットマンの論文「計画を重要視する」『行為と自由の哲学』門脇俊介、野矢茂樹訳、春秋社、p. 259。日常生活において、「計画をもつということはどのようなことなのか」を検討し、計画設定の合理性や、計画に従って行為することの合理性や、計画の変更の合理性など、計画にかかわる我々の行為の合理性について、様々な検討を行っている。ブラットマンによれば、計画は「行動を制御する肯定的態度」である。計画は、個人間の調整の役割もはたす。計画にはある程度の安定性があり、重大な問題に直面しない限り、「それを再検討しない」。計画は、部分的であって、あらゆる状況を想定しないし、身体運動の細部まで指定しないし、計画の細部まで詰めない。)
 
 現代の行為論ではしばしば、行為は<信念と欲求>によって説明される。信念とは、現実についての認識である。それゆえに、行為のこの説明は、問いを<現実認識と意図>の矛盾からなると説明することと似ている。このように行為の説明方式と問いの説明方式似ていることには、次のような原因がある。つまり、意図的な行為は、つねに問題解決のための行為であるということだ。<信念と欲求から行為が説明される>のは、<信念(現実認識)と欲求(ないし意図)の矛盾から問いが生じ、その解決として行為が行われる>からである。
 欲求と意図は、もちろん異なる。我々は、テレビを見たいという欲求と、明日の仕事の準備をしたいという欲求など、両立しない欲求をたくさん持っている。その欲求に応じて、様々な問いが思い浮かぶ。しかし現実に採用できる欲求は一つだけであり、それが意図となる。(意図については、両立しない意図をもつことはできない。)そのとき、さまざまな欲求に応じて想定されたさまざまの問いの中から、意図に対応したある問いが現実に採用され、問われることになる。
 欲求と計画の関係についていうと、とりあえず、次のようになる。行為が計画によって制御されるとき、行為は信念と計画によって決定される。テレビをみたいという欲求が強くて、仕事の計画が変更されるときもあるかもしれないが、仕事の計画を実行するために、テレビをみたいという欲求を無視することになる。ダイエットの計画を実行するために、ケーキに手を付けるのをあきらめる。
 
 このように<計画する人格>は、<単に欲求する人格>とは異なる種類の同一性をもつだろう。この違いについて、もう少し詳しくけんとうしてみよう。