三つ巴:人格・言語・問答

                                    春を迎え 嵐の予感の 出張前
 
三つ巴:人格・言語・問答 (20120403)
 
問題は、こうでした。
「ヒトはなぜ「人格(ひと、人物)」という概念を必要とするのか?」
「わたしたちはなぜ自分探しをするのか」
 
箕面の滝の近くに沢山のサルが住んでいる。サルは、食べ物と食べ物以外のものを識別できる。サルとサル以外の動物も区別できるだろう。また、群れの中の他の個体の識別もできるだろう。つまり、他の個体の同一性を認識している。そして、他のサルとエサなどをめぐって争うことがあるだろう。つまり、そのときサルは、自分のエサや、自分の安全を確保しようとしている。このようにして、私たちは、サルの行動を記述するとき、「自分」という語を使用する。しかし、それは擬人法である。サルは、自分の観念や自己意識を持っているかのようなふるまいをするだけである。サルは、鏡を見せられても、その中に写っている個体が、自分であることが認識できない。そこに他の個体が写っていると考えるのだ。自分のvideo映像を見せられても、自分だとはわからない。サルが自分と彼女の親密そうな映像を見せられた時に、他のオスと自分の彼女が親密そうにしていると思って、怒り出すというというTV番組を見たことがある。
 最近自動掃除機が売りだされている。それは室内を移動しながら掃除をして、その電池残量が少なくなると、自動的にベースとなる機械のところに戻って充電するようになっているそうだ。それを私たちが観察するとき、「その機械は自分の電池残量を常に一定以上に確保しようとする」と記述することもできる。このように「自分の電池残量」という言葉でその機械の振る舞いを記述するが、しかしその機械が「自分」という観念を持っているとは考えていない。この記述も一種の擬人法である。(この場合には、「それの電池残量」と言い換え、また「確保しようとする」という意図を思わせる表現を、「保つようにふるまう」と言い換えれば、擬人法を避けられる。)
 サルがよくできた機械だとすると、「サルが自分のエサを確保しようとしている」という記述は一種の擬人法である。サルは、知覚したり、感情をもったり、欲求をもったりしているように見えるし、またそのように記述できるような振る舞いをする。しかし、この場合「知覚」や「感情」や「欲求」という語をどのように理解するかについては、多様な可能性がある。したがって、「サルは欲求をもっている」という文の意味は多様であり、どのような意味においてそれが真であるのか、難しい問題が生じる。また、「サルは自分の仲間であるサルの観念を持っている」とか「サルはエサの観念をもっている」などの文についても、文の意味は多様であり、どのような意味においてそれが真であるのか、難しい問題が生じる。(ここには、クワインの「言語と事実の解離不可能性テーゼ」や、デイヴィドソンのいう「意味と信念の相互依存性」という問題がある。)
 この困難に対処するために、ここでは、とりあえず、「観念をもつことは、言葉をもつことなしにはあり得ない」と前提する(これの証明は別途必要である)。そうすると、サルが「自分」という観念を持っているかどうかを言うことはたやすい。<サルは言葉をもたない。ゆえにサルは「自分」の観念を持たない>となる。
 ところで、「観念をもつことは、言葉をもたないではあり得ない」と前提すると、「人格」の観念を持つためにも、言葉を持たなければならないことになる。しかし、言葉を持った後に、一つの観念として「人格」の観念を持つようになるというのではないだろう。ヒトが言語を獲得するために、また幼児が言葉を学習するためにも、言語表現そのものへ言及することが必要である。「「デンキ」は、・・・という意味ですか」と尋ねることができなければ、「デンキ」という語を習得できないだろう。また話し手や聞き手に言及できなけければ、「あなたは今何といったのですか」と尋ねることができなくなり、言語を学習できないだろう。人称代名詞の習得は、固有名の習得よりも遅れるので、まず最初に「○○ちゃん」という固有名や、固有名として使用される「ママ」などの語を習得しなければ、話し手や聞き手への言及は不可能であり、言語の学習はできなくなるだろう。AさんがBBさんは自分への言及ができる必要がある。おおそらく最初の段階では、「○○ちゃん」というような固有名を理解するという仕方で、自分を言及するようになるのだろうが、とにかく自分への言及が必要である。ここに「人格」概念の萌芽がある。もし「人格」概念が普遍的な概念であるとすると、「ぼく」や「あなた」という人称代名詞を使用し始めるころが、「人格」概念の萌芽になるというべきかもしれない。
 このように言えるとすると、言語を使用するためには、「人格」概念が必要である。これに基づいて、「ヒトはなぜ「人格(ひと、人物)」という概念を必要とするのか?」に答えるならば、「なぜなら、言語を使用するためには「人格」概念が必要であり、かつ、ヒトは言語を必要とするからである」と答えることになる。
 
 では、「ヒトは、なぜ言語を必要とするのだろうか?」ヒトが生物として存続するためには、自分の餌を確保したり、自分の安全を確保することが必要である。それを行う上で問題状況を言語で明確に語り、その解決に取り組むことは、非常に有用である。もし問題が、<事実についての認識>と<欲求や意図>の矛盾から生じるのだとすると、問題を言語で明確に語ることは、言語で世界の状況を客観的に記述し、自分の欲求や必要を言語で明確に語ることによって可能になる。そして「自分の欲求」「自分の必要」を言語で明確に語ることは、「私は…したい」「僕は・・・する必要がある」などの表現になるだろう。つまり「人格」概念を必要とするだろう。
 
 思弁(経験的な証拠に基づかない議論)が過ぎるような気もするが、ヒトが生物として出会う問題に有効に対処するために、言語も生まれたし、人格概念も生まれた、と言えるのではないだろうか。
 
 明日から出張です。次回は多分出張先からuploadします。