24 経済活動とは何か

                                  年の瀬に賑わう道後です
 
24 経済活動とは何か (20130122)
 
12回目 (20120626)で示した図式の中に経済活動をどう位置づけるのかという問いに答えるには、「経済活動とは何か」に答える必要があります。
 
百科事典には次のような説明があります。
 
「〈経済〉とは,衣食住など物財の生産・流通・消費にかかわる人間関係の全体である。われわれ人間も他の動物同様,ものを食べなければ生きていけない。しかしわれわれがものを摂取する過程は,動物とは根本的に相違する。・・・われわれは単に生理的要求から消費しているだけでなく,文化的要求を満たすためにも消費している。すなわち文化を食べ,文化を身にまとい,文化のなかに住み,文化を呼吸し消費しなければならない。」(『世界大百科事典』平凡社、項目「経済」より)
 
この定義の中心的な部分は、次のとおりです。
  「衣食住などの物財の生産・流通・消費にかかわる人間関係の全体」
このなかに織り込み済みなのでしょうが、二点気になるので注記しておきます。
  1、狩猟採集を考えるならば、生産だけでなく、獲得もあげる必要があります。
  2、情報社会での財は物財に限らない。
 
 ポランニーや柄谷は、財の交換様式を、互酬性と再分配と商品交換の3つに区別しています。柄谷によると次のように歴史的に変化してきました(参照『世界史の構造』)。
  互酬性は、氏族社会の主たる交換様式
  再分配は、アジア的国家、古典古代国家、封建的国家における主たる交換様式
  商品交換は、近代国家の主たる交換様式です。
 
この三つのうち互酬性や再分配は、同時に政治の仕事でもあったと思われます。それらについては、経済と政治をはっきり分けて考えることはできません。政治と経済を分けて考えられるようになったのは、近代国家になり資本主義が発達して、交換が経済の統合形式になってからのことでしょう。
 
以上が「経済活動とは何か」へのとりあえずの答えです。
 
次に「経済活動を先の図式にどのように位置づけるのか」という問いに答えたいとおもいます。互酬性や再分配という制度は、政治制度でもありますから、社会問題を解決するものであったといえるでしょう。問題は商品交換です。  
「商品交換を先の図式にどうのように位置づけるのか」という問いに対しては、貨幣や市場は、社会全体で取り組まなければ解決できない社会問題を解決するために作られた社会制度だといえるでしょう。
 しかし、個々人が行う個々の商品交換は、個人が個人的な問題を解決するために行う行為です。これは社会問題ではなく個人問題にかかわる活動であるように見えます。
 

 

仕切り直し

 
 
23 仕切り直し (20130106)
 
 久しぶりにこの書庫に戻って来ました。
 「会社は社会組織であるか」という問題に手間取っていましたが、会社は、社会組織であると思います。なぜなら、利益の追究が会社の目的であるとしても、一人では追求できない利益を複数の人間が会社を作って追求するのならば、それは複数の人間にしか解決できない社会問題を解決するための社会組織だと言えるからです。(この場合の「社会問題」という語の用法が、通常の用法から少し離れているので、それがこの問いの扱いを混乱させていたのだと思います。しかし、複数の人間でしか解決できない問題を解決する複数の人間が「社会」を構成するのであり、その問題を「社会問題」と呼ぶという定義に忠実に考えるならば、会社は、社会組織です。)
 
 ところで、ドラッカーによると、会社の基本的機能の一つは「マーケティング」です。マーケティングとは、市場での取引、あるいは販売促進活動です。会社は市場と貨幣を前提しています。市場は、「安定的に財の交換をおこなうにはどうすればよいのか」という社会問題を解決するために作られた社会制度だといえるでしょう。市場は、最初は、場所と時間が限られる仕方で、例えば、一定の場所で定期的に開かれる物の交換場所として登場したと思われます。もし定期的でなければ、それは単なる物の交換であって、市場とはいえません。物の交換が、定期的にある場所で開かれる市場として制度化される時、その運営が必要になります。つまり市場はひとつの組織であり、社会制度の一つです。
 会社は、市場や貨幣という社会制度を前提して、そこで生じる社会問題を解決するための社会組織の一つだと言えます。
  ところで、ポランニーは、人類の歴史上の経済システムは、互酬性、再分配、交換の3つにわかれると言います。市場は、交換のために作られた社会組織です。経済を考えるには、もう少し基礎的なところから考える必要があるようです。
 
 そこで、ここで少し仕切り直ししたいと思います。この書庫を読みなおして、「問答としての社会」という図式において気になる点は、次の3つです。
  「経済活動はこの図式とどう関係するのか」
  「文化はこの図式とどう関係するのか」
  「個人問題と社会問題の関係をどう理解するのか」
 
そこでまずしばらく「経済活動は、この図式とどう関係するのか」という問いに答えたいと思います。
 
 

グローバル化の時代における人文社会科学の二種類の問題設定

 
16 グローバル化の時代における人文社会科学の二種類の問題設定 (20130113)
前回、1990年頃に人文社会科学の課題は、ナショナルな視点からグローバルな視点へ転換したと述べました。
   「西洋近代とは何か」
   「私たちはどのように西洋に向かい合うべきか」
これらの問いが、1990年頃から次の問に変わったのです。
   「グローバル化とは何か」
   「私たちはどのようなグローバル化を選択すべきか」
しかし、それは正確ではありませんでした。
 
保守的な人々は、相変わらずつぎのように問うでしょう。
  「私たち日本人はグローバル化にどのように対応すべきか」
彼らにとっては、グローバル化は、外からやってきたものなのです。2012年12月の総選挙での自民党の勝利は、そのように考える人が多いことを示しています。この保守的な態度に従うなら、おそらく人文社会科学の研究もナショナルな視点から継続されることになるでしょう。その際、私たちは以前とよく似た次の3つの種類の答え方を反復することになるでしょう。
  (1)グローバリズム:グローバル化推進論者
  (2)復古主義:反グローバル化
  (3)オルターなティズム:反グローバル化
 
日本国が存続する限り、「私たち日本人はグローバル化にどう対応するのか」というナショナルな視点からの研究は、一方で継続するでしょう。
 
他方で、グローバル化は、グローバルな社会問題(環境問題、難民問題、食料危機、金融危機など)を生み出しており、これらは、グローバルな連携によってのみ解決できるものです。そのためには、私たちは「私たち人類は、どのようなグローバル化を選択するのか」とい問いを立て、グローバルな視点から取り組まなければなりません。
 
どのくらい続くかわかりませんが、私たちは、しばらくは、これらの二つの問いの立て方をすることになるでしょう。 
 

問いの見直し

                                        Heidelbergの有名なAlte Brueckeです。現在のものは戦後再建されたものです。
 
明けましておめでとうございます。
今年はどんな年になるのでしょうか。
反動があろうがなかろうが、グローバル化が進むことは間違いないでしょう。 
 
15 問いの見直し (20130105)
 
この書庫の問題設定を少し見直したいと思います。
 
明治維新から1990年ごろまでは、次の問いが日本の人文社会学にとって重要であり、
   「近代西洋とはなにか」
   「私たちは近代西洋にどう対処すべきか」
1990年以後は、次の問いが重要になったと言いました。
「グローバル化とはなにか」
「私たちは、グローバル化にどのように対処すべきか」
 
2番目の問いの「私たち」は日本人です。では、4番目の問い「私たちはグローバル化にどう対応すべきか」の「私たち」とは、誰のことでしょうか。
 
2番目の問い「私たち日本人は、西洋社会にどう対応すべきか」という問いは、日本と西洋社会が別々に存在しており、それが出会った時の問題でした。グローバル化についても、日本人はしばしば「黒船」の喩で語ります、それは「外部」からやってきて開国を求めるものなのです。
 
しかし、正確に言うならば、グローバル化は、私たちの外部からやってきた出来事ではありません。日本の経済発展やバブルの崩壊は、グローバル化を引き起こした原因の(小さな部分であるにせよ)一部分だからです。どのような国にとっても、グローバル化は、外部の出来事ではなく、その国の変化が原因の一部になっている出来事です。そうすると、「私たちは、グローバル化にどのように対処するか」ではなくて、「私たちは、どのようなグローバル化を選択するのか」というべきでしょう。
 グローバル化が世界全体の動きであり、誰も部外者ではなく、誰もがそれに加担しているのだとすると、この問いの「私たち」は、「私たち人類」でもあり得ますし、「私たち人類は、どのようなグローバル化を選択するのか」という問いになるでしょう。
 
上記の問いの「私たち」の変化は、ナショナルな視点から、グローバルな視点への変化でもあります。学問においても、これは同様です。学問は、本来は普遍的なものだと思いますが、人文社会科学は、これまでナショナルな視点に拘束されてきたのだと思います。人文社会学そのものは、たとえば、ドイツ哲学とか、フランス文学とか、日本史とかのように、ナショナリズムをと結びついて発生したものであり、ナショナリズムが無効になった今日でもなおナショナルな視点と結びついています。
グローバル化のなかで、グローバルな視点からの人文社会学のための社会的な条件が成立したといえます。もちろん、グローバル化の時代になっても国家はなくならないし、ナショナル・インタレストもなくなりませんから、ナショナルな視点の人文社会科学もなくならないでしょうが、他方で、グローバルな視点の人文社会学の可能性も登場したということです。
たとえば、歴史学における世界システム論や、哲学における言語分析の哲学が、グローバルな視点からの人文社会科学の例として考えられると思います。
 このグローバルな視点からの人文社会科学は、黒船のようにやってきたのではありません。経済におけるとどうように、文化においても、グローバルな文化は、外からやってきたのではなく、これまでの文化の変化の帰結として登場したのだと思います。