(今回はテクニカルな説明です。)
平叙文だけでなく疑問文も前提や結論になりうる論理の体系を「問答論理学」と呼びたい。これには種々の可能性があり、ここで述べるのは一つの提案に過ぎない。
Γ┣p (Γは命題の列であり、pは命題である)
この推論が現実に行われるのは、前に述べたように、何らかの問いに答えるためである。その問いをQとするとき、ここには次の問答推論が成立している。
Q、Γ┣p (Qは問いであり、Γは命題の列であり、pは命題である)
pはこの問いQの答えとなっており、Γ┣pは、Qに答えるための推論になっている。
通常の推論の場合、推論が妥当であるとは、<前提が真であるならば、結論が真となる>という関係が成立していることであるが、問いは真理値を持たないので、この定義をそのまま使うことはできない。そこで、問いの「健全性」という概念を導入したい。「問いが健全である」とは、その問いが真なる答えを持つということだとする。そこで、このタイプの問答推論(タイプ1)が妥当であるとは、<(問いQが健全であり、Γを構成するすべての命題が真であるならば、pが真であり)かつ(pはQの可能な答えの一つである)>ということである。
<pがQの可能な答えの一つである>とは、次のような関係にあることだと考えたい。
まず補足疑問の場合を考えよう。日常語の場合、平叙文pのある部分に疑問詞を代入して、必要ならば語順を変えると、補足疑問文となる。形式言語の場合、例えば一階述語論理を前提する場合には、
Fa
?x(Fx) = どれがFか?
?F(Fa) = aは何か?
?xと?Fを補足疑問子とする。「誰」「どこ」「いつ」のように個体変項の領域が限定されている時には、?x(人間x∧Fx)、?x(空間位置x∧Fx)、?x(時間位置x∧Fx)のように表記する。「何色」のように述語変項の領域が限定されている場合には、?F(色F∧Fa)のように表記する。このような補足疑問については、その可能な答えは、変項に定項を代入し、補足疑問子を取り除いた式が、補足疑問の答えとなる。
決定疑問の場合には、日本語の場合、平叙文の最後に「か」か「のか」を付け加えて疑問文にする。形式言語の場合、例えばpや∀Fxの場合には、?(p)、?(∀xFx)などのように表記することができる。冒頭の?を決定疑問子と呼ぶことにする。このような決定疑問については、その可能な答えは、決定疑問子を除いた式(pや∀xFx)か、その先頭に¬をつけた式(¬pや¬∀xFx)となるだろう。
ここでもう一つのタイプの問答推論(タイプ2)を考えたい。それは問い自体が結論となる推論である。
Q1、Γ┣ Q2 (Q1とQ2は問い、Γは命題の列)
これは、問いQ1を解くためにQ2を解くことが有用になる場合である。このタイプ2の問答推論(タイプ2)が妥当であるとは、<Q1が健全であり、rとsが真であるならば、Q2が健全である>ということである。
ただし、これだけでは、「Q1を解くためにQ2を解くことが有用になる」という条件を充たせない。例えば次の例をみよう。
Q1「その人は男性ですか?」
Q2「その人の身長はいくらですか?」
Q1が真なる答えを持つとすると、Q2も真なる答えを持つ。しかし、Q2の答えは、Q1に答える時の有用な情報ではない。
次の場合はどうだろうか。
Q1「その人は男性ですか?」
Q2「その人は男子高出身ですか?」
Q2の答えが、「はい」ならば、Q1の答えを導出できる。しかし、Q2の答えが「いいえ」ならば、Q1の答えは出せない。それでも、Q2の答えることは、Q1に答える上で有用だといえるだろう。Q1が成り立つならば、Q2は健全である(真なる答えを持つ)だろう。それゆえに、Q1┣Q2は、問答推論として妥当である。
次の場合はどうだろうか。
Q1「彼はコロナウィルスに感染していますか?」
Q2「彼のPCR検査の結果はどうでしたか?」
Q2の答えは、Q1の答えのために必要であり、かつ十分である。しかし、Q2の問いが健全である(真なる答えを持つ)ためには、彼がPCR検査を受けていることが必要である。そこで、次のrの前提が必要である。
Q1「彼はコロナウィルスに感染していますか?」
r「彼は、PCR検査を受けました」
Q2「彼のPCR検査の結果はどうでしたか?」
Q1、r┣Q2
この問答推論は妥当である。
(参照、入江幸男、「問いと推論」『待兼山論叢』第48号、2014年12月、pp.1-16。IRIE, Yukio, “Semantic Inferentialism from the Perspective of Question and Answer”, in Philosophia Osaka, Nr. 12, Published by Philosophy and History of Philosophy / Studies on Modern Thought and Culture Division of Studies on Cultural Forms, Graduate School of Letters, Osaka University, 2017/3, pp. 53-69.)