探求したり議論したりするとき、対象の定義や語の定義は非常に重要であるので、これと推論的意味論の関係を説明したい。
対象を定義する代表的な方法は、「明示的定義」(explicit definition)とよばれるものである。
明示的定義とは、種=類+種差という仕方で、語の意味や対象を同定することである。
人間=理性的動物(類(動物)+種差(理性的))
西=北を向いた時の左手の方向
これがアリストテレスに始まる定義の定式化である。「Aとは何か?」の答えが定義を与えるのだとすると、定義は「Aは、Bである」という形式になる。ただし、「リンゴとは何か?」に「リンゴとは赤い果物である」と答えるとき、この答えは真であるとしても、この答えは定義ではない。なぜなら、「赤い果物はリンゴである」とは言えないからである。「AはBである」が定義となるためには、それが同一性文でなければならない。つまり「BはAである」とも言えなければならない。つまり「A=B」という形式にならなければならない。しかし、このような同一性文を与えることが可能であるとしても、現実的には非常に難しい語がある。またこのような同一性文を与えることが原理的にできない語がある。それは名詞および名詞句以外の表現である。例えば形容詞「おいしい」が仮に「うまい」という形容詞と同義であり、常に置き換え可能であるとしても、「おいしい=うまい」といえない。なぜなら、等号で結合するには、両辺に名詞ないし名詞句である必要があるからである。もし「おいしいはうまいである」と言えるとすれば、それを「おいしいということは、うまいということである」という文の省略形として解釈しているからである。この文は、「おいしいということ」という名詞句を別の「うまいということ」という名詞句で定義している。名詞句にしないで、形容詞のまま定義しようとすると、「明示的定義」では不可能であり、「文脈的定義」が必要になる。
xはおいしい≡xはうまい
これは「おいしい」という語を用いた文と同値な文を与えることによって「おいしい」の意味を文脈的に定義している。
xは硬い≡xに傷をつけようとしても、なかなか傷をつけられない。
これは「硬い」を用いた文と同値な文を与えることによって「硬い」という形容詞の意味を定義している。(「なかなか」という表現が曖昧であるので、文脈によってはこの定義では役立たない。)
また「より硬い」というような関係を表す語の定義にも文脈的定義が用いられる。
xはyより硬い≡xとyをこすり合わせると、xには傷がつかずyに傷がつく
動詞や副詞などにも文脈的定義が必要になる。
また次の例のように、名詞であっても、文脈的定義が必要な場合がある。
xは水溶性である≡もしxを水に入れるならば、xは水に溶ける
というように、語「水溶性」を用いた文に対して、それと同値な文を与えることによって、「水溶性」という語の意味を定義する方法である。能力や傾向性を表す名詞(名詞句)の定義には、このように右辺に条件文を用いる同値文が必要になる。
ところで、学問用語の場合には、定義ともに用語として導入されることが多いので、明示的定義や文脈的定義が可能であることも多いかもしれない。しかし多くの日常語については、このような定義を厳密な仕方で与えることができない。それにも関われず私たちは、その語の意味を理解している。では、その時私たちは何を理解しているのだろうか。ウィトゲンシュタインは、語の定義は困難であるとし、その家族的類似性を示すことができるだけだとした(『哲学探究』67節)では、家族的類似性を理解しているとはどういうことだろうか。
例えば、「忖度」の定義を考えてみよう。この定義を与えるのは難しいだろう。「他人の心情を推し量ること、また推し量って相手に配慮すること」という説明がWikipediaにあるが、上司が部下の心情を推し量って配慮して、褒美を増やすとき、それを忖度と言うだろうか。言わない場合が多いだろう。部下が上司にパソコンの使い方を分かりやすいように説明する時、それを忖度というだろうか。おそらく言わないだろう。「忖度」の定義を与えることは非常に難しい。
それでは、私たちはその語の意味をどうやって理解しているのだろうか。それは「忖度」という語の使い方を学習することによってである。AがBにどのようにふるまったときに、「AがBに忖度した」と言えるのかを理解していること、言い換えると、「AがBに忖度した」を結論とするための正しい上流推論を判別できることである。また「AがBに忖度した」が言える時、そこから何がいえるのかを理解する事、言い換えると、「AがBに忖度した」を前提とする正しい下流推論を判別できることである。
ある語を理解するとは、その語を含む文を理解するということであり、(推論的意味論によれば)その語を含む文を理解するとは、その文の正しい上流推論と下流推論を判別できるということである。
例えば「包丁とは、料理の時に食材を切る道具である」というのは、包丁の定義とはならない。
料理の時に食材を切るものは、包丁だけでなく、皮むき器、ミキサーなどもあるからである。しかし、この理解は、次ぎの下流推論を理解しているということである。
これは包丁である┣これは料理の時に食材を切る道具である。
このような不十分な定義は、下流推論の理解であることが多い。また「テロとは何か」に答えられなくても
パリの爆破事件は…であった┣パリの爆破事件はテロであった
という上流推論をすることはできる。また、
xはテロである┣xは悪いことであり、防ぐべきことだ
というような下流推論をすることはできる。
私たちが日常生活で語を理解して使用しているというためには、このようないくつかの上流推論と下流推論ができれば、それで充分である。
(以上のように語の意味の定義を、語の意味の推論的意味論による説明に置き換えることが有用である。これをさらに問答推論的意味論による説明に置き換えることが有用であることを示したいが、それに先立って、次回は、「公理主義」における「無定義術語」について、検討しておきたい。)