48 <問答としての行為>による<行為の合理性>の説明 (20220902)

[カテゴリー:問答推論主義へ向けて]

「なぜそうするのか」という問いに対する「なぜなら、…するためです」という答えは、行為の目的(動能的理由)を説明するものです。そして、本人が目的だと思っている理由が本当の理由ではなく、別の理由が行為の本当の理由、つまり行為を引き起こしているものである可能性があります。

以上は、前回引用したデイヴィドソンが言う通りです。そして、この時点では、行為の正当化が正しく行われているかどうかは、本人にも決定できません。

では、このような間違った行為の正当化(説明)をどうしたら排除できるでしょうか。実は、その行為によって目的が実現されるとき、その目的にはさらにより上位の目的を持つはずです。したがって、もし<本人が行為の動能的理由だと思っている目的1と、本当の動能的理由である目的2が異なっており、当の行為によって、どちらも実現されており、どちらの目的が本当の目的であったがわからない>としても、それに続く行為が異なってきます。したがって、それに続く行為を考察すれば、どちらの目的が本当の能動的理由であったかを知ることができるでしょう。

つまり、動能的理由による行為の説明(合理化、正当化)は、その行為に続く諸行為について「なぜそうするのか」と問うことによって、あるいは、そのような問答を反復することによって、解決できると思われます。

しかし、ここで生じていることを、行為の説明(正当化、合理化)の変化として捉えることは、間違いだとは言えないのとしも、不十分です。なぜなら、ここでは行為(の意味)が変化しているからです。

「なぜそうするのか」と問われて「なぜなら、目的1のためです」と答えた時には、その行為は「目的1を実現するためにどうすればよいのか」という問いと「…すればよい」という答えからなる問答によって構成されていたのです。その後「なぜそうしたのか」と問われて「なぜなら、目的2のためであった」と答えた時には、その行為は「目的2を実現するためにどうすればよいのか」という問いと「…すればよい」という答えからなる問答によって構成されているものとして理解されています。つまり、行為(の意味)が変化しているのです。

行為の説明に関するもう一つの問題、つまり認知的理由による行為の説明(合理化、正当化)が逸脱因果の可能性によって不可能になるという問題については、どう考えたらよいでしょうか。

前回述べた二つの例は、行為者の意図から始まる、当初想定していた因果連鎖によって、意図が実現するのではなく、その意図から始まる逸脱因果連鎖によって、意図していたことが偶然に実現する事例です。確かにこのような場合には、当初想定してた認知的理由(ある因果連鎖)はそこでの出来事の正しい説明にはなりません。その出来事を、その人の「行為」とか「行為したこと」と呼ぶこともできないように思われます。その「出来事の説明」は、その人の「行為の説明」にはなりません。「逸脱因果連鎖」の説明は、「行為の認知的理由」の説明ではなく、「出来事の原因」の説明になっています。

前回述べたデイヴィドソンが挙げていた例は、行為者が、逸脱因果連鎖が生じたことに気づいている場合ですが、行為者が逸脱因果連鎖に気づいていない場合もあります。たとえば、AさんがBさんを毒薬Cで殺そうとしたが、実際には毒薬Cだと思っていたものは毒薬Dであり、それによってBさんは死んだとしよう。このような場合にも、逸脱因果連鎖の説明は、「行為の認知的理由」の説明ではなく、「出来事の原因」の説明になっています。

 

以上の説明から言いたいことは、行為の説明の第一の問題、行為の動能的理由の説明の困難は、行為を「その目的を実現するためにどうするのか」と「…しよう」という問答によって構成されたものとしてとらえることによって、解決することです。つまり、行為の本当の目的が隠されていたことがわかるとき、行為の説明が変化するのではなく、行為が変化するということです。

もう一つは、行為の説明の第二の問題、行為の認知的理由の説明の困難については、それを引き起こす逸脱因果連鎖が生じているときには、行為の説明ではなく、出来事の説明が求められる、ということ、つまり、それは、行為の認知的理由の説明の困難ではない、ということです。

以上の議論が、デイヴィドソンが考えていた行為の説明の困難を正しくとらえて、答えているかどうか自信がありません。私は問題を誤解しているかもしれません。次に、三つ目の問題、推論の説明の問題を取り上げたいと思います。

投稿者:

irieyukio

問答の哲学研究、ドイツ観念論研究、を専門にしています。 2019年3月に大阪大学を定年退職し、現在は名誉教授です。 香川県丸亀市生まれ、奈良市在住。