123 対象言語とメタ言語の区別再考(Reconsidering the distinction between object language and metalanguage)(20140625)

*とりあえずの帰結

命題論理と一階述語論理では、そこでの語や文の意味(使用法)は公理と推論規則によって規定されていると考えることができます。このような意味論を仮に「公理論的意味論」と呼びます。それに対して、一階述語論理よりも複雑な公理系では、不完全性定理によれば、公理と推論規則によっては、ある命題及びその否定を証明できない命題が存在します。したがって、「公理論的意味論」を採用できません。

 そこで、タルスキーのようにある公理系の語や文の意味(使用法)については、メタ言語で語ることにするとき、そのメタ言語の意味(使用法)を語るには、さらにメタメタ言語が必要になります。ただし、これが無限に反復するとしても、最初の公理系の語や文の意味(使用法)はいつになっても確定しないということにはならないと思います。なぜなら、対象言語の語や文の意味(使用法)が、メタ言語で定義できるとすれば、その定義の意味(使用法)が仮にまだメタメタ言語で規定されていないとしても、そのメタメタ言語の記述によって、メタ言語の使用法が変化することはないからです。そしてメタ言語の使用法が変化しないならば、対象言語の語と文の意味(使用法)の記述もまた変化しないのです。ただし、意味論的メタ言語によって、対象言語の意味(使用法)を完全に与えることはできません。なぜなら、このメタ言語の公理系について「不完全性定理」が成り立つからです。

 ある言語の内部で「…は真である(あるいは偽)である」などの述語を用いるとき、その一部の例が必然的に矛盾を引き起こすときに、その不具合が公理系全体に広がらないようにする手立てを考えるというアプローチがあるかもしれません(そのような試みとして、クリプキの真理論、グプタとベルナップの真理論、矛盾許容論理などを挙げることができると思います)。

 ところで、タルスキーの「定義不可能性定理」の証明は明確で非の打ちどころのないものですが、

その前提となる対象言語とメタ言語の区別は、タルスキーが考えたような仕方で可能なのだろうか、という疑問があります。その疑問を説明したいと思います。

#対象言語とメタ言語の区別再考

 対象言語とメタ言語の区別は、タルスキーが考えたような仕方で可能でしょうか。タルスキーは、対象言語はメタ言語なしに成立すると考えています。しかし、言語はそれについてのメタ言及なしには成立しないのではないでしょうか。

 私たちは、自分の発話について頻繁に言及します。例えば、「何と言いましたか」「それはどういう意味ですか」「それは・・・という意味ですか」などの発話は非常に頻繁になされます。会話を進めるには、発話に言及して、何と言ったのか、どういう意味で言ったのかを確定しつつ会話を進めることが不可欠です。会話は、発話の想起によってコントロールされ構成され、発話の想起は、発話についてのメタ発話として成立します。

 問いに答えようとするときには、問いを覚えおり想起していることが必要です。問いの想起は、問いへの指示を必要とします。したがって、問答関係の中で暗黙的にメタ発話が行われており、メタ発話によって問答が成立しています。

 つまり、言語はそれについてのメタ発話なしには成立しないのです。もしこう言えるならば、メタ言語が対象言語を前提するように、対象言語もまたメタ言語を前提することになります。もし両者が、相互的な意味依存の関係にあるとすれば、両者は二つの言語ではなく一つの言語だというべきです。

 

 このことと結合しているのですが、次に<意味論的概念、「指示」「述定」「真」などは、対象言語の中の問答関係の中にすでに暗黙的に内在している>ということを指摘したいと思います。(そして、そのことと、前に論じた「真理の定義依拠説」との関係を説明したいと思います。)

122 公理系が不完全であるとき、構文論と意味論が分裂する(When the axiomatic system is incomplete, syntax and semantics split)((20240611)

[カテゴリー:問答の観点からの認識]

*公理系の健全性完全性の説明

ある公理系で文pを定理として証明できるとき、┣pと表記し、文pを意味論的に真であると証明できるとき、⊨pと表記します。ある公理系が健全であるとは、全ての定理が真である(┣p ⇒ ⊨p)ということです。完全であるとは、全ての真なる命題を定理として導出できる(⊨p ⇒ ┣p)ということです。

#公理系が不完全であるとき、構文論と意味論が分裂する。

命題論理と述語論理は、健全性と完全性を持ちます。つまり、真で去ることと定理であることは同値なのです((⊨p ⇔ ┣p)。

 しかし、自然数論を含む述語論理は、不完全であることをゲーデルが証明しました(1931)。つまり、自然数論を含む述語論理では、真であることと定理であることの間にずれが生じるのです。健全性は証明されているので、真であるのに証明できない式が存在するということです。

 そうすると、構文論とは別に意味論が必要になります。ここで重要になるのが、タルスキーの真理の「定義不可能性定理」です。

#タルスキーの真理の「定義不可能性定理」(1933)

この定理は、「一階算術」(加法と乗法を含みペアノの公理で公理化された自然数についての理論)の中で、「一階算術の文の真理の概念を一階算術の式で定義できない」という内容の定理です。タルスキーは、この定理を拡張して、「その定理は否定を持ち対角線補題が成立する程度に自己言及できる十分な強さを持ついかなる形式言語にも適用できる」ことを証明しました。(以上の説明には、Wikipediaの項目「タルスキーの定義不可能性定理」を利用しました。)

 手短にいえば、ある言語の内部で、その言語の文の真理について語ることは出来ないということです。ある言語の文の真理性について語るには、その言語を対象とするメタ言語が必要であり、「真である」という語もメタ言語の語彙として可能になります。このメタ言語は公理系として構成できますが、さらにこのメタ言語の文の真理について語るにはメタメタ言語が必要となり、これは反復します(参照、1944「THE SEMANTIC CONCEPTION OF TRUTH AND THE FOUNDATIONS OF SEMANTICS」(part I, section 9)

 ところで、もしこのように反復するとすれば、最初の対象言語の文の真理性はいつになっても確定しません。これは問題にはならないのでしょうか。ちなみに、ゲーデルの不完全性定理の証明では、このような反復の問題は生じませんでした。なぜなら、公理系が不完全であることが分かったとしても、つまりある命題もその否定もどちらも証明できない命題があることが分かったとしても、そのことは健全性をそこなわないからです。以上をゲーデルの「不完全性定理」とタルスキーの「定義不可能性」のとりあえずの紹介とし(もし必要になれば、そのときより詳しく論じることにします)、これらが私のこれまでの議論とどう関係するのかを考えたいと思います。