126 問いに対する答えの正しさと適切性の区別 (Distinguishing between correctness and appropriateness of answers to questions) (20240729)

ここまでは、理論的問いに対する答えが正しい(真である)とはどういうことか、を論じてきました

(まだまだあいまいな部分を残したままですが)。ここから、問いに対する答えの正しさ(真理性)と区別される、答えの適切性について論じたいとおもいます。問答関係を論じるとき、この区別はとても重要になるものです。

 まずは、理論的問答の適切性について考察したいとおもいます(あとで、実践的問答や宣言的問答の正しさと適切性の区別についても考察します)。

#「適切性」の定義

・理論的問いの真なる答えには、複数のものがありえます。例えば、ある物質についてついて「これの重さはいくらですか」という問いへの真なる答えは、複数ありえます。「大体3グラムです」「3.12グラムです」「3,122mgです」「0,11オンスです」「ちょうどあれの二倍です」これらがすべて真なる答えである場合があります。この問いに、どのような単位で答えるか、どの程度の精確さで答えるか、については複数の可能性があります。ただし、実際にこの問いに答えるためには、この複数の答え方の中から一つを選択しなければなりません。この選択は、この問いを問う理由、つまりこの問いのより上位の問いに依存するでしょう。例えば、料理をするために重さをはかるときと、化学実験のために重さをはかるときでは、答え方が違ってくるでしょう。塩を測るとき、金を測るとき、ダイヤモンドを測るときでは、使用される単位が異なるでしょう。科学実験の場合も、その実験内容によって求められる精確性はさらに異なってくるだろう。これらが全て真なる答えであるとしても、適切な答えと不適切な答えの区別が可能です。ある問いを問うことが、より上位の問いに答えるためであるときには、そのより上位の問いに答えるのに有用な仕方で答える必要がありますが、それを答えの「適切性」と呼ぶことにしたいと思います。

 上の例は、量を問う問いです。

#補足疑問(WH-疑問)の問いの真なる答えは、複数可能であるように思われます。

*場所を問う「どこ」の問いの場合:「あなたはどこで生まれましたか」に対して、次の答えが考えられます。「私は、東アジアでうまれました」「私は日本で生まれました」「私は香川県で生まれました」「私は丸亀市で生まれました」「私はうどん県で生まれました」「私は讃岐で生まれました」どれも真なる答えです。このとき、どのような答えが適切であるかは、この問いのより上位の問いが何であるかに依存します。

*時間を問う「いつ」の問いについても同様に考えられるので、例を省略します。

*次に、「どれ」の問いの例を挙げます。「Xさんの車はどれですか」という問いに対する真なる答えとして、つぎのような複数の例を考えることができます。それら答えは、より上位の問いによって適切な答えとなることがあります。

  「Xさんの車は、あの赤い派手な車です」(Xさんの車で葬式に行くかどうかを検討しようとしている人には、役立つ答えである)

  「Xさんの車は、あの高級車です」(Xさんに投資を進めるかどうかを検討しようとしている人には役立つ答えである。)

  「Xさんの車は、最も進んだ自動運転の安全な車です」(XさんAIに関心があるかどうかを知りたいと思っている人とっては、役立つ答えである)

  「Xさんの車は、奥さんが選んだあの赤い車です」(Xさん夫婦の仲が良いかどうかを知りたいと思っている人にとっては、役立つ答えである。

*次に、「なぜ」の問いの例を挙げます。 「なぜ、そのとき、そこで、大雨が降ったのですか」

という問いに対する真なる答えとして、次のような複数の例を考えることができます。

  「なぜなら、当時の気圧配置がこうなっていたからです」

  「なぜなら、そこでの気圧配置がこうなっていたからです」

  「なぜなら、大雨が降るのはこういう気圧配置のときだからです」

これらの答えは、全て真なる答えでありうるのですが、この中のどの答えが適切であるかは、この問いを問うたときの、より上位の問いが何であったかに依存します。

#決定疑問(yes/no疑問)の真なる答えには複数性はない。

 決定疑問への真なる答えは、省略形を除けば、「はい」か「いいえ」のどちらかしかありません。つまり、決定疑問の真なる答えには複数性はありません。これは、その決定疑問が、理論的問いの場合にも、実践的問いの場合にも同様です。

 補足疑問の場合には、より上位の問いが異なれば、適切な真なる答えは変化します。決定疑問のより上位の問いも複数あり得るのですが、決定疑問にたいする真なる答えは、一つしかなく、したがって、適切な真なる答えも一つであり、それはより上位の問いが変わって変化しません。(なにか不思議な感じがするのですが、これが何を意味するのか、まだよくわかりません。)

 次回は、このより上位の問いが、理論的問いである場合、実践的問いである場合、宣言的問いである場合に、区別されること、そしてそれが何を意味するのかを論じたいとおもいます。

125 「真理の定義依拠説」を振り返る (A look back at the “definition-based theory of truth”) (20240715)

[カテゴリー:問答の観点からの認識] 

 (あれこれと考えているうちに、遅くなりすみません。)

 論理学や数学の命題が問いに対する正しい答えであることは、それらの公理系で証明できるということです。そして、どのような公理や推論規則を設定するかは、ベルナップが主張したように、まず公理を推論規則に変形して、全ての推論規則が保存拡大性を充たすように設定するということが必要条件になります。ただしそれに加えて(111回に述べたように)、問答関係に暗黙的に内在する論理的関係を充たすように設定するという条件を加える必要があると考えています。

 ところで、公理や推論規則に基づくだけでは答えることができない問いの場合には、科学的な理論命題を含めて、最終的には日常的な経験的な語彙の意味(使用法)に基づくことになると思われます。日常的な問答の答の正しさ(真理性)は、経験的な語彙の学習に基づいており、その学習の正しさを遡れば、それは、経験的な語彙の定義に基づきます。これを真理の「定義依拠説」と名付けました。

 しかしここでの問題は、日常的な語彙の定義をどのように理解するかです。

語の意味(使用法)は、語を用いた推論によって与えられ規定されます。<推論は、それに含まれる語の意味によって成立し、構成される>と考えるとき、それは「形式推論」であり、逆に<推論は、それに含まれる語の意味を規定するものであり、それらの語に意味を与えるものである>と考えるとき、それは「実質推論」であると呼びたいとおもいます。これはブランダムの「実質推論」の理解に依拠しています。形式推論は単調推論ですが、実質推論は非単調推論になります。

 日常的な語彙の意味の特徴は、非単調な実質推論によって意味が与えられるということになります。(これを非単調な実質推論によって意味を与えることを、「定義」と呼ぶことには批判があるかもしれません。しかし、「これはリンゴです」や「私には二本の手があります」などの真理性については、定義依拠説と呼んでもよいように思われます。)

さて、現在以下のような問題を考察中なのですが、ここから次にどう進むか思案中です。

  タルスキーに始まる、意味論的語彙をどう扱うべきか、と言う問題

  問いに対する答えの正しさと適切性の区別の問題

  実質推論の非単調性と推論規則の拡大保存性の関係

いずれにしても、少し仕切り直したいと思います。

124意味論的関係「指示」「述定」「真」などは、問答関係の中に暗黙的に内在している。(Semantic relations such as “denotation,” “predication,” and “true” are implicit in question-answer relations.)(20240702)

(公理系で意味(使用法)を規定できない言語の意味(使用法)については、定義や実質推論によって、意味(使用法)を理解することになる。)

 対象言語が有意味であるならば、そこにはすでに意味論的関係が成立しています。この意味論的関係について、タルスキーのようにメタ言語において成立すると考えるか、それとも対象言語とメタ言語は不可分なので、意味論的語彙は対象言語自体の中に成立すると考えるか、という違いに関係なく、意味論的関係は対象言語においてすでに(たとえ暗黙的であるとしても)成立しています。対象言語のなかに意味論的関係が成立しているということは、言い換えれば、対象言語の中に、その語句と対象との指示関係、文と事態との対応関係が成立している、あるいはそれに似たことが成立しているということです。それは、どのように成立しているのでしょうか。

 以下に説明するように、それは、問答関係の中に成立しているだろうと考えます。

#指示の関係は、すでに問答関係の中で成立しています

 指差し行為で指示すると同時に、「あれ」という発声によって指示することが、指示のもっとも原初的な形態だろうと推測します。そして、この指差し行為は、対象についての共同注意を形成するために行われるのだろうと推測します。指示詞による対象の指示もまた、対象についての共同注意を形成するためでしょう。

#「指示」とは、第一義的には人が行う行為であり、語がもつ機能ではありません。

しかし、人が、ある語を用いて、ある特定の対象だけを指示するとき、その対象を指示することはその語の機能だと言えます。例えば、ひとの固有名は、その人を指示する機能を持つといえます。指示は、第一義的には語と対象の関係ではなく、話し手が語を使用する仕方の一種であり、意味論的概念というよりも、語用論的概念です。

 名前のように、ある語句が特定の対象だけを指示するのに使用されるのではなく、指示詞のように、話し手が指さす対象を指示するなど、話し手と一定の関係に立つ対象を一般的に指示する場合もあります。固有名であれ指示詞であれ一般名であれ、語句とそれを用いて指示を行うときの指示対象との間に、一定の規則性が成り立つとき、その規則性を、その語句の機能だと見做すことができます。そのとき、指示は、その語句がもつ機能であり、使用法です。

 ある語句で特定の対象を指示することは、二義的には、語句と対象の関係ですが、第一義的には、人がその語句を用いて特定の対象を指示するというその語句の使用規則に従うことです。

 語句を用いて対象を指示する行為は、共同注意を実現するために行われます。その行為が有意味であるためには、共同注意が実現で来たかどうかを確認できることが必要です。共同注意の成立の確認、あるいは指示の成立の確認は、問答によって行われます。したがって、指示は、問答によって行われます。

 語の意味は使用法であり、もしその語の意味(使用法)が、人がそれを用いて特定の対象だけを指示することであるならば、「指示すること」は、その語句の使用法の特性を示す概念です。意味論的概念とは、語の意味(使用法)の特性を示す概念です。

  「Xさんの車はどれですか?」「あの赤い車です」

という問答は、「Xさんの車」問い語句の意味(使用法)の特性が「指示すること」であることを暗黙的に組んでいます。また「どれ」という疑問詞もまた、相手に「Xさんの車」の指示対象を指示することを求めており、「指示すること」を暗黙的に含んでいます。

 指示は、語句と対象の関係ではなく、語句の使用法の特性の一つです。その使用法を説明するには、対象への言及だけでなく、話し手への言及が必要です。語句が対象を指示するのは、人が語句を用いて、ある対象を指示するということことであり、さらに言えば、人が語句を用いて対象を、特定の他者(他者たち)に指示するということです。<指示は、指示する人、指示される人、指示する語句、指示される対象、の4つの関係として成り立ちます。>

#述定の関係も、すでに問答関係の中で成立しています。

 次の問いは、述定をもとめ、答えはその述定を行っています。

  「これは何ですか」「それはリンゴです」

この問答において、「リンゴ」は述定に用いられています。文が成立するのに語による対象の指示は可欠ではありませんが、述定は不可欠です。述定によって語の集まりは、文になります。

#真理の関係も、すでに問答関係の中で成立しています

 「真である」という述語は、決定疑問に暗黙的に内在しており、

  「それはリンゴですか?」「はい、リンゴです」

  「Is that an apple?」「はい、it is true」などの問答の中で明示化されます。

また、次のような指示や述定の学習のための補足疑問の問答は、真なる命題を学習することでもあります。

  「どれがリンゴですか」「これがリンゴだ」

  「これは何ですか」「これはリンゴだ」

指示や述定や真なる命題の学習は問答によって行われています。

問答の中には、指示関係(語句と対象の関係)、述定関係(語句と性質の関係、対象と性質の関係)真理関係(命題と事実の関係)が、暗黙的に含まれており、これらの学習と、問答の学習は、不可分です。

 さて、以上を踏まえて、前に説明した、真理の「定義依拠説」に戻りたいと思います。