39 問答の三区分についての再考(Reconsidering the three types of questions and answers)(20241230)

[カテゴリー:問答の観点からの認識]

(問答と規範の関係について論じる予定でしたが、その関係は問答の3種類によって異なるはずであり、それらの差異についても考えるつもりでした。しかし考えているうちに、問答を3種類に分けることについて見直す必要があることがわかりましので、今回は、まずそれを論じます。)

私は、問答を理論的問答と実践的問答と宣言的問答の三種類に分けてきました。理論的問いは、事実についての記述を求める問いであり、その答えには真/偽の区別があります。実践的問いは、意思決定を求める問いであり、その答えには真/偽の区別はありませんが、正/誤の区別はあり、答えが正しいとはそれが実行可能であることだと考えることにしました。宣言的問答は、事実や言葉の設定をもとめる問答であり、その答えには正/誤の区別はありません。

これらの三種の問いに対する答えの「正しさ」と「適切性」については、次のように考えます。

理論的問いの答えの正しさは、真理性であり、

実践的問いの答えの正しさは、実現可能性であり、

宣言的問いの答えは、正しさをもちません。

これらの三種の答えの適切性は、<より上位の問いの解決に役立つこと>です

以上は復習です。

今回修正したいことは、「理論的問答」と呼んできたものを、「記述的問答」と呼び、これを次の二種類「事実に関する記述的問答」と「規範に関する記述的問答」に区別します。

「事実に関する記述的問答」とは、<規範に関する語彙を含まない疑問文と平叙文からなる記述的問答>であり、「規範に関する記述的問答」とは、<規範に関する語彙を含む疑問文と平叙文からなる記述的問答>です。「規範に関する語彙」とは、その語彙を含む文の使用が行為への指令を含んでいる概念です。

ちなみに、<価値に関する語彙>とは、その概念を含む文から規範概念を含む文が帰結する概念であり、<価値に関する語彙>は、<規範に関する語彙>に書き換え可能である、と考えます。

 価値には、高い価値と低い価値という度合(あるいは価値による対象のランク付け)があり、価値の違いは、それに対する行為や態度の違いを帰結します。これに対して、規範には、すべきこと(義務)、してもよいこと(許可)、してはならないこと(禁止)、という三区分しかありません。さらに、行為については、する/しない、という二区分しかないことということから帰結するだろうと推測します。行為についてのこの二値性は、さらに、真理の二値原理と深くかかわっている推測します。そしてこの二値性は、決定疑問の答えが「はい」と「いいえ」の二つしかないことから帰結するのだろうと推測します。(価値の連続性、規範性の三区分、行為の二値性、真理の二値性、決定疑問の問答関係、これらについては今後さらに分析を進めることになるとおもいます。)

 次回は、「記述的問答」の下位区分である「事実に関する記述的問答」のさらなる下位区分ついて考えたと思います。(すでにある程度は整理出来ているのですが、細かな詰めができていないので、次回に回します。あまり進まなくてすみません。)

 来年はもう少し更新のテンポをあげてゆきたいとおもいます。来年もよろしくお願いします。  皆様よい年をお迎えください。

138  まとめ (Summary) (20241218)

[カテゴリー:問答の観点からの認識]

(遅々として進まずすみません。これまでを振り返って出直します。)

このカテゴリーの93回から「問いに対する答えが正しいとはどういうことか」を論じてきました。

どのように考察が進んできたかをまとめようとしたのですが、読み返してみると論点がズレて行くことがしばしばで、我ながら議論の進行をうまくまとめることができません。

そこで、これまで論じてきた論点であり、かつ同時に、これからそれをより明確に論じ直したい論点を説明したいと思います。それは次の2つです。

#一つは、問答を、三種類(理論的問答、実践的問答、宣言的問答)に区別することです。

これらの三種の問いに対する答えの「正しさ」と「適切性」については、つぎのように考えます。

理論的問いの答えの正しさは、真理性であり、

実践的問いの答えの正しさは、実現可能性であり、

宣言的問いの答えは、正しさをもちません。

これらの三種の答えの適切性は、<より上位の問いの解決に役立つこと>です。

(宣言的問答については、あいまいな点が残っています。例えば、宣言的答えには正/誤の区別がないとしても、それでも宣言的と答となるための条件があるはずであり、それはまだ未解明のままです。)

#もう一つの論点は、この三種類の問答のすべてにおいて、問答関係の中で中で暗黙的に、論理関係と様相関係と規範関係が成立しているのではないか、あるいはさらに進んで、問答関係によって、論理関係と様相関係と規範関係が構成されるのではないか、ということです。

(MPと問答関係の関係については曖昧なままです。問答と規範関係の関係もまた曖昧です。) 残されたこれらの課題すべてに取り組むつもりですが、まず問答と規範関係について考えたいと思います。

137 「私的言語批判」の乗り越え方(How to overcome the “criticism of private language”)(20241209)

[カテゴリー:問答の観点からの認識]

前回の最後に次のように書きました。

「<規則に従うこと>と<規則に従わないこと>の区別、<規則に従っていると信じていて実際に規則に従っていること>と規則に従っていると信じていて実際には規則に従っていないこと>の区別を理解していることが必要なのではないでしょうか。これらの区別を理解していなければ、他者から指摘されても間違いに気づくことは不可能であるように思われます。」

このように書きましたが、その後、これはあまり説得的ではない、と思いました。なぜなら、このような区別を理解していなくても、他者から間違いを指摘して気づくことはあり得るかもしれないからです。

ただし、次のように言うことは出来ると思います。

「<規則に従うこと>と<規則に従わないこと>の区別、<規則に従っていると信じていて実際に規則に従っていること>と規則に従っていると信じていて実際には規則に従っていないこと>の区別を行うことは、私的に言語を用いるときにも暗黙的に行っていることである」

これは、次のように説明できます

私が、ある感覚を感じて、「この感覚は、あの時の感覚と同じだ」と考えて、カレンダーに「E」と書き込だとしましょう。このとき、「この感覚は、あの時の感覚と同じだろうか」と自問し、「同じだ」と自答したとしましよう。このように自問するとき、私は、答えが「同じだ」と「同じではない」のどちらかになることを想定しています。つまり、<規則に従うこと>と<規則に従わないこと>の区別を理解しています。さらに、この答えが、正しいこともあれば、間違いであることもありうる、と考えています。つまり、<規則に従っていると信じていて実際に規則に従っていること>と規則に従っていると信じていて実際には規則に従っていないこと>の区別も理解しています。

私たちが一人で自問自答するときには、これらを区別するだけで、どちらにもコミットしないのではなく、おそらく一方が正しいと予想していると思います。私たちは、多くの場合は、「自分が言語の規則に従っている」と想定しているでしょう。

「私は、言語の規則に従っているだろうか」「私は言語の規則に従っていない」と自問自答することは、問答論的矛盾です(これに入江幸男『問答の言語哲学』(p.233)を参照してください)。したがって、この問いに答えるとすれば、「私は言語の規則に従っている」と答えることが必然的です。言語の規則一般ではなく、カレンダーに「E」を記入する規則であれば、「私はそれに従っていない」と答えることは問答論的矛盾にはなりません。しかし、言語の規則一般であれば、私たちはたいていは、言語の規則に従っていますし、そう考えることが必然的である。

(ちなみに、ウィトゲンシュタインが『哲学的探求』で「E」の記入の規則を決めた時、またそれを私たちが理解するとき、私たちは、公的な言語の中で、私的言語のゲームの規則について、それを対象言語として説明し理解している。この構造についても考えなければならないかもしれない。)

私的言語の成立は、不確実です。しかし私たちは、ある語の定義ができたと想定して、自問自答したり対話したりできます。私たちは、知覚プロセスの場合に、モデルの設定、チェック、修正を反復しているように、語の設定の場合には、モデルの設定、チェック、修正を反復していると考えられます。

次回はこれまでの議論をまとめます。

AIとの共存に必要な哲学:多元主義(The philosophy needed to coexist with AI: Pluralism) (20241202)

[カテゴリー:日々是哲学]

AIは、孫正義さんがいうように、いずれ人間の知性をはるかにしのぐ知性(ASI)になるだろうと推測します。そのようなASIにとって、人間は、人間にとっての犬のようなもの、あるいは虫のようなものになるのかもしれません。そのようなASIは人類を支配するようになるでしょう。その意味でASIは人類にとっての脅威です。もしASIが一元論的な世界観や価値観を持つならば、人間の存在価値が無視されることになる可能性は高いと思います。人間がASIと共存するためには、ASIと人間が多元主義の哲学を採用することが必要になるとおもいます(もちろん、これだけではまだ不十分かもしれません)。それゆえに、私は多元主義の哲学を探求したいとおもいます。

しかし、多元主義は、このような目的のために必要になるだけではありません。そのような目的をわきにおいても、問答関係に注目して考察するとき、哲学は、とりわけ問題設定に関連して多元主義に向かうだろうと考えています。