[カテゴリー:問答の観点からの認識]
#共同指示は、どのようにして成立するのか
AとBが対象Oを「共同指示する」ときには、次が成立していると思われます。
①AがOを見る。
- BがOを見る。
③Aが、BがOを見ていることに気づく。(Aが②に気づく)
④Bが、AがOを見ていることに気づく。(Bが①に気づく)
⑤Aが、BがOを見ていることに気づいて、Oを見る。(Aが③を介して、Oを見る。)
⑥Bが、AがOを見ていることに気づいて、Oを見る。(Bが④を介して、Oを見る。
しかし、厳密に考えるならば、これではまだ共同指示が成り立っているとは言えません。このような補足をさらに重ねる必要があります。ただし、このような補足を何度重ねても厳密な共同指示の定義にはなりません。そこで、前回提案したのは、<同一対象への共同注意ができている>と仮定して、行為して齟齬が生じた時には信念を修正する>というアプローチをすることでした。
ただし、前回のこの説明にはある視点が欠けていました。それは、<AとBが共同注意や共同指示が成立するには、同一の言語を用いることは必要ない>ということです。
#同一対象の指示は同一の言語の共有なしに可能である?
個人として、言語の規則に従うことは不可能であり、他方で他者が従っている言語規則を特定することも不可能です。ウィトゲンシュタインによれば、<言語の規則に従うことは、個人では正当化できません>、また<他者がどのような言語の規則に従っているかを特定することも不可能です>。ここから帰結することは、<二人の人が一つの言語を共有することは不可能である>ということです。
それにもかかわらず、私たちがコミュニケーションできているとすれば、DavidsonやBrandomが言うように、二人の人は一つの言語を共有しなくてもコミュニケーションできるということになります。(参照、デイヴィドソン論文「第二人称」(1992)論文「言語の社会的側面」(1994)、ブランダムMIE(たしかに、MIEに書いてあったのですが、その個所を見つけられずにいます))
デイヴィドソンもブランダムも、コミュニケーションのために必要なのは、同一の言語を採用することではなく、会話の双方が、相手の言語を理解し、相手が理解できる仕方で話すことであり、そのためには、同一の言語(言語規則)を採用している必要はないと言います。
これを、特に指示に適用するならば、二人の人が、同一の対象を指示することは、二人が同一の言語を使用しなくても、可能であると思われます。
#ただし、命名宣言により固有名の共有が可能になる。
共通の言語がなくても対象を一緒にもつことや一緒に触ることは可能です。したがって、共通の言語がなくても同一の対象の指示を共有できる場合があります。その場合、その対象に二人で同じ名前を付けることが可能ではないでしょうか。
例えば、生まれたての赤ん坊に、二人で名前を付けるとき、二人はその固有名を共有しているといえるでしょう。これと同じような仕方で、すでに名前を持っている対象を含めて、二人で新しく名前を付け直して、名前を共有することは可能でしょう。さらに、他の人たちが共有している対象の名前を学習して、その名前を共有することが可能でしょう。定義や学習によって、私たちは名前を共有することできます。また既に使用している語の使用法が、他の人々の使用法と一致するかどうかをチェックして、一致していないならば、自分の使用法を修正して、使用法を他の人々と共有することも可能です。
次回は、前回の議論に欠けていたもう一つの論点<指示は照応に基づく>ということを論じます。