87 生成文法の規範性(Normativeness of generative grammar)(20250630)

[カテゴリー:『問答の言語哲学』をめぐって]

(伝えたいことができたので、久しぶりにコノカテゴリーに戻ってきましたが、今回のトピックは、偶然にも前回話題にしていた発話の統制原理と構成原理、というトピックとつながっています。)

今回は、生成文法の規範性がどこから生じるのかを説明したいと思います。まず、私の質問とそれに対するAIであるcopilotの答えを掲載します。

入江の質問「生成文法は生得的な規則であるのに、どれも「・・・すべである」という規範的な規則になっているのは矛盾しないのでしょうか。」

copilotの答え「興味深い視点ですね!生成文法は 生得的な言語知識 を前提としていますが、それが「規範的な規則」として表現されることに矛盾を感じるのはもっともです。生成文法の基本的な考え方は、「人間の脳には普遍文法(Universal Grammar)が備わっており、それを基盤として個別言語が習得される」というものです。つまり、これは 記述的な理論 であり、「こうあるべき」という規範を示すものではなく、「人間の言語能力がどのように機能しているか」を説明するものです。しかし、生成文法の研究では、言語の構造を明確にするために「句構造規則」や「統語規則」を定めます。これらの規則は 理論の枠組みとして定義される ため、結果的に「~すべきである」という表現が使われることがあります。これは 理論の明確化のための便宜的な表現 であり、規範文法のように「正しい言語使用を指導する」ものではありません。つまり、生成文法は 生得的な言語能力を記述する理論 であり、規範文法のように「正しい言語の使い方を指導する」ものではないため、根本的な矛盾はないと考えられます。」

生成文法は、規範性を持たないが、「理論の明確のために便宜的な表現」として規範的表現が使われるのだという説明です。この答えに間違いはないのですが、問題は、なぜそのような「規範的表現」をすることになるのか、ということです。そこで考えた私の答えは、次のようなものです。

入江の答え:

生成文法は構成規則であり、それに従わなければ、発話が成立しないというものです。したがって、それにいはする発話は、無意味であり、無意味な発話をすることは、真でも偽でもなく、正しくも不正でもありません。したがって、生成文法には、それを守るべきだという規範性はありません。

 他方で、私たちは、間違った語の使い方を訂正しようとします。それは、間違った語の使い方が広まると、言語が乱れ、さらに進むと有意味な発話ができなくなるからです。文法は構成規則であり規範性を持たないのですが、文法によって一旦言語の使用が可能になると、文法に従わうことは、規範性を持つのです。文法に従うことは義務になり、それに反することは禁止されるのです。

 同じことが問答関係にも成立します。問答関係は、意味論的関係であり、二つの発話は問答の関係にあるために必要な条件は、問答の構成原理であり、規範性を持たないのですが、一旦問答関係が成立すると、その関係は規範性を持つのです。問いに有意味に答えること、正しい答えを答えることは、責務となり、無意味な答えをかえすこと、誤った答えを返すことは、禁止されるのです。

161 時間と空間の規則性と規範性(Regularity and normativity of time and space)(20250626)

[カテゴリー:問答の観点からの認識]

概念の使用は、規則性をもち、それゆえにそこから規範性も生じるのですが、「概念」と区別されることが多い「直観」もまた規則性をもち、それゆえに規範性を持つだろうと推測します。これをどのように説明できるか、思案中ですが、ウィトゲンシュタインの次の発言を見つけました。彼は、数列について次のように述べています。

「数列のはじめは無限に敷かれた眼に見えない軌道の、眼に見える一部分なのだ、という考えがどこから来たのか。そう、規則の代わりにわれわれは軌道を考えることができよう。そして、際限なき規則の応用が無限に長い軌道に対応する。」(『哲学探究』§218)

鉄道の軌道をどこまでの伸ばすことを想像できるように、私たちは、数列をどこまでも伸ばすことができると彼は言うのです。ここで彼は、軌道の比喩によって、数列を考えているのですが、私たちは、数列の比喩によって、直線をどこまでも伸ばすことを考えられます。数列を続けることが際限なき規則の応用であるのと同様に、時間や空間上での延長もまた際限なき規則の応用だと考えられます。私達は、直線をどこまでも伸ばすことができますは、この反復は、直線を引くという規則の応用なのです。私たちは、線を引くことによって空間や時間を理解できます。つまり空間と時間の理解の中に規則性が含まれているのです。

 「この直線をもっと伸ばすことができる」という考えの中には、「この直線をもっと伸ばすことができるはずである」という必然性の考えも含まれています。また「この直線をもっと伸ばすことができると考えるべきである」という規範性の考えも含まれています。これが正しいとすると、私たちが、時間空間の中で思考したり行為したりするとき、私たちはすでに規範性のなかにいるのです。

 ここから、時間空間論をどう展開するかは、検討課題ですが、認識論を考えるときに、時間空間を考えることは基礎的な作業になるので、時間空間の規則性と規範性の考察は避けて通れません。 (最近思うのですが、現代社会は「分断の時代」に向かいつつあるような気がします。そこで社会の「分断」について、別のカテゴリーに移って少し考えたいと思います。ただし、規則遵守問題はそこにもつながっています。)

 160 直観の規則性と規範性(復習)(Regularity and normativity of intuition (review))(20250616) 

[カテゴリー:問答の観点からの認識]

(前回の話しには、曖昧な表現があったので、再説します。)

例えば、カエルは、舌を伸ばしてハエを捕まえる能力を持っていますが、そのことを意識してはいません。動物は、反射や条件反射によって、反復的で規則的行動をすることが出ますが、反復していることを意識してはいません。人間の行動には、反射や条件反射もありますが、人間の場合には、反復的で規則的であり、かつ意図的な行為があります。このような行為の場合には、行為を反復するだけでなく、反復していることを意識しています。ただし、この意図的で自己意識的な反復的な行為の中には、<規則の表象に従って行っている行為と、規則的に行っており、反復していることも意識しているのですが、その規則の表象を持たないで反復している行為>があります。例えば、「は」と「が」の使い分けのような行為です。語「赤い」を使用する時や、自転車に乗る時も、箸を使う時も、規則の表象を用いてはいません。前回考えていたのは、このような三種類の行動ないし行為です。)

 ところで、この三種類の中の、中間の行為、つまり<規則の表象を伴わない規則的行為>の場合、私たちはそれをある種の技能(ノウ ハウ)として行っていると言えます。そして、技能知は反復可能であり、しかも反復であることの気づきを伴うとすれば、そこには反復性、規則性から外れたときの気づきも可能であり、そこに正しく反復べきであるという規範性が生じます。技能は成功することも失敗することもあるので、技能知の規則性の意識には、規範性の意識が生まれます。

 以上は、前回考えていたことを、繰り返しただけです。

 前回の最後に、ブランダムは、カントが概念の使用の規範性に気づいたことを、カントの画期的な仕事だと高く評価したが、カントが概念と対比した直観についても、規則性や規範性を見つけることができるのではないと述べました。その時考えていたのは、直観の規範性は、技能知の規範性の間には、密接な関係があるのではないか、ということでした。

 そこで前回のup以後、直観の規範性についての考えていたのですが、現代においてカントにおける「直観」概念をそのままの形で議論することが難しいということがわかってきました。  まず、知覚のエナクティズムや知覚のアフォーダンスを考えるとき、それらの知覚は概念的に構成されされているということを、カント的な直観と概念の二分法で説明することが難しいということがあります。ここで気になるのは、セラーズとマクダウェルの議論です。彼らがカントによる直観と概念の二分法についてどう考えているのか、あるいは直観の規範性についてどう考えているのか、を調べるために、彼らの本を読み直したいとおもいます。読み直しつつ、紹介し検討することになりそうです。

159 技能知と規範性(knowing-how and normativity)(20250611)

[カテゴリー:問答の観点からの認識]

前回は、規則遵守行為が、技能知に基づくことを説明しました。今回は、技能知もまた規範性を持つことを説明したいと思います。

技能知(ノウハウ、know how)は、ある種の実践的能力です。語「赤い」を適切に使用する能力を、ここでは自転車に乗る能力と同じような種類の能力として理解しています。

このような実践的能力は、その行為を反復して行うことができる能力です。しかも、その反復が正しく反復されている事が必要です。そのためには前回の行為と今回の行為が似たものであることに気づいており、その気付きが正しいことも気づいている必要があります。

さもなければ、「私は語「赤い」を使える」とか「私は自転車に乗れる」と信じることはできません。ある行為をするだけでなく、ある行為をある行為としてすることができる、ということが必要です。

ただし、ある反復的な行動能力を持っていても、それを意識しているとは限りません。例えば、カエルは、下を伸ばしてハエを捕まえる能力を持っていますが、そのことを意識してはいません。そのような行動能力を技能知(ノウハウ)とは特別しておきたいと思います。ただし、このノウハウは、反復可能であり、従って規則性を持つのですが、しかし、規則の表象に従って行為する能力ではありません。語「赤い」を使用する時、何らかの規則の表象を用いてはいませんし、自転車に乗るときも、規則の表象を用いてはいません。

「「赤い」は色を指す」とか「自転車に乗るにはサドルにまたがって、ペダルを踏混なければならない」という規則を表彰しているしているかもしれません。しかし、それらの規則の表象は、それだけは、語「赤い」の使用や自転車に乗ることを可能にするには全く不十分です。技能知は反復可能であり、しかも反復であることの気づきを伴うとすれば、そこには反復性、規則性から外れたときの気づきも可能であり、そこに正しく反復べきであるという規範性が生じます。行為の規則性にその規則性の意識が伴う時、規範性の意識が生まれます。

 

 ところで、私が規範性について考え始めたきっかけはブランダムの議論なのですが、ブランダムは、カントが概念の仕様の規範性に気づいたことを、彼の画期的な仕事だと高く評価しています。そのことに異議はないのですが、カントが概念と対比した直観についても、規則性や規範性を見つけることができるとおもいます。

 直観の規則性と規範性について次に論じたいと思います。