11 懐疑と批判  (20200808)

[カテゴリー:問答と懐疑]

ここからローカルな懐疑について考えたいが、ある主張を疑うことと、ある主張を批判することは同じだろうか。

 命題pの主張を疑うことは、「pは真であるか?」と問うことであり、場合によっては、「それは真ではないかもしれない」「それはおそらく偽であるだろう」などの推論をともなう。それに対して、命題pの主張を批判することは、「pは真ではない」と主張することである。

 ある主張の懐疑を経て、場合によっては批判に至ることがある、という仕方で懐疑と批判は関係している。その意味では、懐疑は批判に先行するプロセスである。

 批判は、ある主張が偽であることを主張することなので、「全面的な懐疑主義」とは相いれない。批判に先行するのはローカルな懐疑である。

 ところで、ローカルな懐疑とは異なるものとて、「ローカルな懐疑主義」というものを考えるならば、それはどのようなものになるだろうか。それはおそらく、ある対象(ないしあるクラスの対象)についてのある種の主張について、その真理性(適切性)を問うだけでなく、その真理性(適切性)については、不可知である主張する立場になるだろう。

 例えば、現象の背後にある「物自体」について、それがどのような性質を持つかを知ることはできないと主張することは、ここにいう「ローカルな懐疑主義」である。また、物自体がそもそも存在するのかどうかについて、不可知だと主張するのも、ここにいう「ローカルな懐疑主義」にあたるだろう。人生の意味は不可知だと主張するのも、「ローカルな懐疑主義」にあたるだろう。

 まとめると、

・懐疑は批判に先行するプロセスである。

・ローカルな懐疑とローカルな懐疑主義を分けることができる

 ところで、ミュンヒハウゼンのトリレンマを用いて、全面的懐疑主義を論証しようとすると、前回のべた3つの反論が持ち上がるが、ローカルな懐疑主義(特定領域の全ての命題や、特定の命題についての懐疑)を主張することに対しては、この3つの反論は無効である。つまり、ミュンヒハウゼンのトリレンマは有効であるように見える。

 ます、ローカルな懐疑およびローカルな懐疑主義と、ミュンヒハウゼンのトリレンマの関係を考えてみよう。

10 ミュンヒハウゼンのトリレンマから全面的懐疑主義へ?  (20200804)

[カテゴリー:問答と懐疑]

 ミュンヒハウゼンのトリレンマによる懐疑主義の論証は、次のようなものだった。

<主張の根拠について「なぜ」と問い、その答えである主張についてさらに「なぜ」と問うことを繰り返すと、無限に反復するか、どこかで循環するか、どこかでストップするという3種類しかなく、どれであっても最初の主張の正当かはできないので、どのような主張であってもそれの究極的な正当化はできない>

 この論証から帰結する主張は、「どのような主張も究極的に根拠づけることはできない」である。

これに対しては次のような反論が可能である。

 反論1:この主張は、自己矛盾する。

 反論2:この論証は、次のトリレンマ(推論規則の一つ)が正しいことを前提している。

       p1ならばqである。

        p2ならばqである。

       p1ないしp2ないしp3である。  

       ∴qである。

  ゆえに、この論証は自己矛盾している。(ただし、この推論規則の妥当性について、「なぜ、なぜ」と問い続けると、トリレンマに陥る。)

 反論3:この論証において、「なぜ、その主張ができるのか」「その主張の根拠は何か?」という問いを反復するが、この問いは、前提(蝶番)をもつ。それは、

   「すべての主張は、それが主張であるためには、何らかの根拠を持たねばならない」

という命題である。これは、西洋哲学の伝統では「根拠律」と呼ばれてきたものである。この根拠律についても、私たちは「なぜ根拠律は正しいのか?」と問うことができる。この問いに対して、私たちは、どう答えることができるだろうか? この問いは、「根拠律もまた何らかの根拠をもつ」という命題を蝶番としているように見える。

 このように全面的懐疑主義を吟味しようとするといたるところに自己矛盾や循環論証が現れる。ただし、循環論証は、論証の失敗ではあっても、そこから主張の間違いを導出することはできないものである。自己矛盾は、通常の主張の正当化の場合には、そこで間違いを認めざるを得ないものなのだが、懐疑主義の場合には、全てのことを疑うので、矛盾していても、その立場を保持することが(考え方によっては)可能である(おそらくナーガールジュナ(龍樹)ならば、自己矛盾が現れてもまったく気にしないだろう)。

 全面的な懐疑主義は、両刃の刃なのだが、宗教など、絶対的な真理を主張する人に対しては、有効である。また、自文化中心主義の人たちに対しては有効である。

 ということで、次にローカルな懐疑主義、特定の主張に関する懐疑主義を検討しよう。

9 懐疑主義の正当化の仕方の区別  (20200801)

[カテゴリー:問答と懐疑]

・疑いと懐疑主義の区別

 前に述べたように、「疑う」とは、ある命題の真理性ないし適切性を問うことだとおもいます。これは、日常生活でも頻繁に行っていることです。例えば、刑事ドラマを見るとき、私達は、登場人物をすべてについて、犯人かもしれないと疑ってみるとおもいます。このような疑いは、懐疑主義や懐疑論とは異なります。懐疑主義とは、ある命題の真理性ないし適切性を問うだけでなく、また、その問いに肯定的に答えられないと主張すること、あるいは否定的な答えの可能性が高いと考えることだけでもなく(ここまでならば、日常的な〈疑い〉に見られることである)、かなり十分に考えて、他者にその判断や態度を正当化する用意をもって、そのような否定的な判断ないし態度をとることである。例えば、自由意志についての懐疑主義とは、自由意志を疑ってみるだけでなく、自由意志の存在の主張を否定し、自由意識の非存在をかなりの程度正当化する用意をもっていることである。

・懐疑主義の様々な区別

 このような懐疑主義には、主張に関するもの、態度に関するもの、方法に関するものの区別があり、また、主張と態度に関するものについては、ローカルなものと全面的なものの区別があることを前回説明した。

 懐疑主義には、これらの区別に加えて、その正当化の仕方に関する区別がある。

 一つは、ある命題の真理性や適切性についての問いに、肯定的に答えようとすると、矛盾が生じることを示すことによって懐疑を正当化することである。

 第二のものは、ある主張が真である可能性を示し、もしその主張が真ならば、当初の問題になっている命題の真理性や適切性が成立しないことを示す方法である。

 第三のものは、問題の命題の正当化が不可能であることを示す方法である。古代の懐疑主義の方法がこれである。これの現代的なバージョンが、「ミュンヒハウゼンのトリレンマ」と名付けられた論証である。H・アルバートは、ある主張の根拠の根拠の根拠の・・・とさかのぼってゆけば、①無限に遡行する、②最終的に根拠づけが循環する、③根拠付けがストップする、という3つのパターンしかないことを示し、そのいずれの場合にも、最初の主張は根拠付けられないことを指摘した。彼はこれを「ミュンヒハウゼンのトリレンマ」と名付けた。(ミュンヒハウゼンとは「ホラ吹き男爵」のことであり、川に落ちたと時に、自分の髪の毛を掴んで岸に持ち上げたというホラにちなんで用いられた。)アルバートは、これによって、どのような主張も、究極的に根拠付けることはできないことを論証した。つまり、いわゆる「絶対的な知」などは存在しないことを論証した。

8 懐疑主義とは、主張か態度か方法か  (20200730)

[カテゴリー:問答と懐疑]

懐疑主義(skepticism)を3種類に分けることができるだろう。

(1)主張としての懐疑主義

この一つのタイプは、特定対象や領域に関する主張に対する「ローカルな懐疑主義」である。「その命題は疑わしい」「星占いは、疑わしい」「自然科学は疑わしい」のようなものである。

もう一つは、「全ての命題は疑わしい」と主張する「全面的な懐疑主義」である。これに対する、よくある批判は、「それではこの命題も疑わしいのか?」という問いに、「はい」と答えれば、懐疑主義を否定することになり、「いいえ」と答えても、懐疑主義を否定することになる、ということである。

 主張としての全面的な懐疑主義は、このように自己矛盾するので、成り立たない。

(2)態度としての懐疑主義

 これは、懐疑的な態度のことである。この態度の対象になるのは、命題、人物、制度、規範、などであろう。この場合にも、あらゆる対象に対して懐疑的にふるまう「全面的懐疑主義」と、特定の対象について懐疑的にふるまう「ローカルな懐疑主義」を分けることができるだろう。

 ローカルな懐疑主義は、成立可能であるが、全面的な懐疑主義は、成立不可能であろう。

なぜなら、疑うことは、命題の真理性や適切性について問うことの一種であり、問うことは一定の前提(ウィトゲンシュタインの言う蝶番)を受け入れることによって可能になるので、すべての命題を疑うことはできないからである。(ちなみに、人物、制度、規範などに対して、懐疑的な態度をとることは、人物、制度、規範などについての命題の真理性や適切性を疑うことである。)

(3)方法としての懐疑主義

 古代の懐疑主義は、そのものを目的にしているのではなく、懐疑によってある主張に固執することを避け、心の平静を保つための方法であった。また、デカルト的懐疑と言われるものは、確実な知を獲得するための方法であった。また「科学的懐疑」と言われるものは、常識や迷信を疑い、科学的な知を獲得するための方法である。

 以上が、懐疑主義についての大まかな分類である。では、私たちは、今日、懐疑主義を飼いならせているのだろうか。

7 規則遵守問題と蝶番への問い  (20200727)

[カテゴリー:問答と懐疑]

 「規則遵守問題」とは、「規則に従うとはどういうことか」という問題である。あるいは、〈規則に従っていることについての疑い〉が生じたときにどうすればよいのか、という問題である。

 「1000+2はいくつですか?」という問いに対する生徒の答えが「1004です」であるとき、教師は「君は、「+」の使用規則に正しく従っていますか?」と問うだろう。これは、〈「+」の意味(使用の規則)についての疑い〉である。したがって、〈規則に従っていることについての疑い〉は、〈表現の意味についての疑い〉の一種である。

もしこの生徒が、私たちと同じ意味で「+」を理解していたならば、生徒は単に計算間違いをしていたことに気づき、「すみません。間違えていました。1002でした」と答え直すだろう。この場合には、計算結果「1000+2=1004」の真理性についての疑いは、ふつうの「論理学や数学の命題への疑い」である。

しかし、この生徒が、ウィトゲンシュタインが語ったように、「でもぼくは〔これまで〕おなじようにやってきているんです!」と答えるのならば、その生徒は、この問い(とりわけ「+」)を私たちとは異なる意味で理解している。彼にとっては、「1004」という答えは、自明の答えなのである。

私たちは、問いの理解に従って、答えを求めるだろう。私たちが、ここでの規則遵守問題にほとんど気づかないのは、この問い(簡単な足し算問題)を理解したときには、答えもまた自明なものとして成立するからである。問いを理解したときには、「+」という表現の使用の規則にすでに従っているからである。

問答が成立していると互いに思っている限りで、両者は、問いも答えも同じように理解していると思っている。従って、問答が成立している限りで、問いの文の理解に関する規則遵守問題には気づかない。この生徒の「+」の理解が私たちの理解と異なることは、計算結果の違いに出くわすまでは、わからなかったことである。しかし、逆にいうと、足し算問題に私たちとおなじように答える生徒がいたとしても、その生徒は私たちとは異なる仕方で問いを理解し、私たちの答えと偶然に一致するような仕方で答えた、という可能性が常に残っている。

「私たちは、本当に言語の規則を共有しているのだろうか?」「私は、言語の規則に正しく従っているのだろうか?」という問い(規則遵守問題)には原理的に答えられないのだろうか。そこから、懐疑主義に陥るのではないだろうか。

<疑いには蝶番があり、その蝶番への疑いには、また別の蝶番があり、・・・>というように反復していくとき、疑いは、「哲学的な疑い」になる。なぜなら、哲学というのは、普通よりもより深くより広く問うことであり(これについては、カテゴリー「哲学とは何か」を見て下さい)、それは普通の問いの前提(蝶番)を問うことだからである。

次回から、懐疑主義について考えます。

02 CBDCによる資本主義と国家の関係の転換 (20200725)

[カテゴリー:グローバル化のゆくえ(2)]

 このカテゴリーの課題の一つは、「貿易と投資の自由化は、必然的に進んで行くように見えるが、それはなぜなのか」ということでした。しかし、最近このグローバル化に逆行する動きが見られます。

 前回発言01は20130829でしたので、およそ7年ぶりの発言になります。この間多くのことがありました。日本では2012年から第二次安倍政権が始まり、今も続きています。中国でも2012年に習近平が最高指導者になり、今も続いています。アメリカでは、2017年にオバマ政権からトランプ政権に変わり、アメリカの政策は大きく変わりました。ヨーロッパでは、ブレクジットも決定しています。

日本ではナショナリストが首相に居続け、中国でもアメリカでも指導者がかつての自国の繁栄の復活を目指しており、ヨーロッパでもEUから分離しようとする動きが複数みられます。グローバル化の流れは、必然ではなかったのでしょうか。(そうではない、グローバル化はやはり続くだろう、というのが、以下で示したい私の予想です。)

 中国とアメリカの覇権争いは、この数日新たな段階に入ったように思われます。アメリカの国務長官ポンペオ氏がいうように、私たちは、<中国が経済発展すれば、中間層が力を持つようになり、民主化が進むだろう、それは共産党独裁と矛盾し、いずれ政治システムの変化が生じるだろう>と考えていたと思います。しかし、現実にはそうなりそうにないように思われるようになりました。冒頭の予測が間違ったのは、中国の特殊事情のためだ、と思われているかもしれません。しかし、必ずしもそうではないと思います。なぜなら、自由主義諸国でも、冷戦後は経済格差が拡大し、中間層が没落しているからです。この時期に中間層が育たなかったのは、中国だけでなく、自由主義諸国でも同じなのです。

 つまり、<資本主義の発達>と<中間層の台頭による民主主義の発展>は、必然的に結びついているのではない、ということです。資本主義と民主主義の結合が必然的ではないとすれば、資本主義が共産党独裁と結合することも可能であることになります。

 経済のグローバリゼーションは、資本主義が国家を必要としないかのように思わせてきました。しかし最近の世界情勢は、資本主義が国家と結合していることを明らかにしつつあります。資本主義システムは、国家システムの影響を偶然に受けることがあるというよりも、むしろ資本主義システムは国家システムとの必然的な結合によって成り立っているのです。

 この結合の中心(の一つ)は、政府が貨幣を発行するということにあります。

・金貨の時代には、政府が発行する金貨の金の含有量を保証していました。

・兌換紙幣の時代には、政府が発行する紙幣と金との交換を保証していました。

・不換紙幣の時代には、政府が紙幣の発行量をコントロールしています。

 では、このあと貨幣はどうなるのでしょうか。そのような時代が来るかどうかわかりませんが、もしビットコインのような暗号通貨の時代になれば、通貨発行量を政府がコントロールすることはできなくなります。それゆえに、各国中央銀行は現在、ビットコインを拒否しています。フェイスブックのリブラも拒否されました。しかし、取引の利便性のために、各国がCBDC(中央銀行発行デジタル通貨)を採用しようとしています。もしそれが主流通貨となるとき、何が起きるでしょうか。外貨との交換は用意になり、外貨での支払いも用意になるでしょう。そうすると、政府が貨幣の発行量をコントロールしても、経済活動をコントロールすることは難しくなるでしょう。多くの人々は、金利の高い通貨や安定した通貨で資産を保有し、支払いのときには、必要に応じて、自国通貨などの通貨に交換して支払うだろう。これは、支払い時にスマホで簡単にできるようになるに違いない。もしこのようになれば、各国中央銀行が、自国通貨の発行量を調整することによって、自国の経済活動をコントロールすることは不可能になるだろう。

 以上から言えることは、次のようなことです。<少なくともこれまでは、資本主義システムは、通貨発行の主体である国家システムとの結合によって可能であった。しかし、通貨の主流がCBDCになるとき、貨幣による取引は、個別通貨から自由になり、国家が管理する通貨システムからの独立性を獲得するだろう。資本主義下の契約の自由は、従来は国家が管理する通貨によって可能になっていた。つまり、契約の自由が想定する個人の自由も、国家システムのもとで可能になっていたが、資本主義が国家に管理された通貨システムから自由になるとき、個人の自由もまた、国家システムから自由になるだろう。>

6 蝶番は問いの前提である(20200723)

[カテゴリー:問答と懐疑]

ウィトゲンシュタインは、全てを疑うことへの批判として「蝶番」の比喩を持ち出す。『確実性の問題』の中でこれが登場するのは、3か所だけであるので、引用しておこう。まず、最初の二か所は、つぎの341と343にある。

「341 すなわち、われわれが立てる問題と疑義は、ある種の命題が疑いの対象から除外され、問や疑いを動かす蝶番のような役割をしているからこそ成り立つのである。

342 つまり科学的探究の論理の一部として、事実上疑いの対象とされないものがすなわち確実なものである、ということがあるのだ。

343 ただしこれは、われわれはすべてを探求することはできない、したがって単なる想定で満足せざるをえないという意味ではない。われわれがドアを開けようと欲する以上、蝶番は固定されていなければならないのだ。」(ウィトゲンシュタイン、『確実性の問題』黒田亘訳、『ウィトゲンシュタイン全集9』大修館書店)

ここで考えられている「疑いの対象から除外される命題」や「問や疑いを動かす蝶番のような役割をしている」命題とは、「問いや疑いの前提」であるだろう。ちなみに、「問いや疑いの前提」とは、問いや疑いが真なる答え、あるいは適切な答えを持つための必要条件であり、「疑い」とは命題の真理性ありは適切性への問いである、と考えたい。

 「蝶番」の第三の使用例は、次である。

「655 数学的命題には、いわば公式に、反駁不可能のスタンプが押されている。すなわち、「異義は他の命題に向けよ。これは君の異論の支えになる蝶番であり、動かすべからざるものである」と。」

ここで蝶番とされる「数学的命題」の例として「12×12=144」が挙げられている。一ダース入りの鉛筆を12箱(1グロス)鉛筆の数を数えたときに、145本あったとしても、私たちは、12×12の計算をやり直したりせず、鉛筆を数えなおすだろう。計算ミスはあるだろうが、何度か確認した後の計算結果は、通常は、計算結果は蝶番として使えるものである。

 すべての問いや疑いがこのような蝶番を持つが、私たちはどのような蝶番についてもその真理性や適切性を問うことができるだろう。なぜなら、蝶番は命題であり、どのような命題についても、「本当にそうなのか?」とか「なぜそうなのか?」と問うことができるからである。(ただし、この問いもまた蝶番を必要とするので、全てを同時に疑うことはできない。しかし、同時でなく、交互にすべての蝶番を疑うことならば、可能であろう。これについては、後で考えよう。)

 すべての疑いについて、その蝶番をさらに疑うことが可能である。問いや疑いは、多くの前提(蝶番)をもつだろうから、それらについて多くの疑いが可能になる。

 「経験的疑い」の蝶番は、経験的命題、論理的数学的命題、意味論的命題、哲学的命題であり、「論理的数学的疑い」の蝶番は、論理的数学的命題や意味論的命題や哲学的命題であり、「意味論的疑い」の蝶番は、意味論的命題、哲学的命題であり、「哲学的疑い」の蝶番は、哲学的命題である、と予想する。これらの蝶番命題について、さらに疑うことが可能である。

 規則遵守問題では、まず論理的数学的疑いとして始まり、次にその蝶番である、論理的数学的命題、意味論的命題、哲学的命題などについての疑いを引き起こすことになっている。

5 表現の意味への疑い  (20200722)

[カテゴリー:問答と懐疑]

 例えば、「これはテロだろうか?」という問いは、「テロ」の定義を前提したうえで、「これ」が指示する対象がその定義に当てはまるかどうかを問うており、事実に関する問いであり、経験的疑いである。これに対して、「これを「テロ」と呼べるだろうか?」という問いは、「テロ」の意味ないし定義が曖昧なので、この問いへの答えによって、「テロ」の意味ないし定義を明確にしようとしており、表現の意味への疑いである。

 ところで、いわゆる「規則遵守問題」(following rule problem)もまた、表現の意味への疑いの一種だと思われる。

規則遵守問題とは、ウィトゲンシュタインが指摘した問題であり、次のような生徒に、+2の規則に従うことをどうやって教えるのかという問題、あるいは、私たちが+2の規則を知っていると思っているときに、それが正しいことをどうやって正当化できるのかという問題である。

「生徒に1000以上のある数列(例えば「+2」を書き続けさせる、すると、かれは1000、1004、1008、1012と書く。われわれはかれに言う、「よく見てごらん、何をやっているんだ!」と。–かれにはわれわれが理解できない。われわれは言う。「つまり、君は2を足していかなきゃいけなかったんだ。よく見てごらん、どこからこの数列をはじめたのか!」–かれは答える、「ええ!でもこれでいいんじゃないのですか。ぼくはこうしろと言われたようにおもったんです。」――あるいは、かれが、数列を示しながら、「でもぼくは〔これまで〕おなじようにやってきているんです!」と言った、と仮定せよ。――このとき、「でもきみは……がわからないのか」と言い――かれに以前の説明や列を繰り返しても、何の役にも立たないだろう。」(ウィトゲンシュタイン『哲学探究』藤本隆史訳、『ウィトゲンシュタイン全集8』大修館書店、1976、186節)

私たちは通常は「+」の意味を考えたりしない。「1000+2はいくらか?」と問われたときも、「+」の意味など考えずに、即座に「1002です」と答える。しかし、上記のような生徒に出会ったとすると、私たちは途方に暮れて、「+」の規則を説明しようとするだろう。しかし、「+」の意味は、その使用の規則に他ならず、その使用の規則は、「+」の計算の例をあげて示すしかない。どんなにたくさんの例を挙げても、すべての事例を枚挙することはできない。そして、いまだ例に挙げていない「+」の計算にであったときに、自分とは異なる答えを出す者があるとき、自分の答えを正当化しようとすれば、他の人々の賛同を求めるしかないだろう。

 ところで、〈疑い〉は、(信念や主張の)命題の真理性についての問いである。ここでは、「+」の使用規則が問題になっているが、この使用規則を命題で明示することができないので、「+」の使用規則を疑うということはありえない。疑うことができるのは、「1000+2=1002」という具体的な計算式(命題)である。

 それでは、規則遵守問題についてどのように理解して、どのよう受け止めればよいのか、それは本当に「意味への疑いの一種」なのか、など、これから考えたいと思います。

04 経験的疑いと哲学的疑いの区別を再考 (20200721)

[カテゴリー:問答と懐疑]

前回「別の経験的な命題によってテストできる疑いを「経験的疑い」と呼び、別の経験的な疑いによってはテストできない疑いを「哲学的疑い」と呼ぶ」と区別した。ここでは、この区別の有効性、妥当性を検討したい。

 前回、疑いの対象となる命題には、次のようなものがあると述べた。

・知覚判断への疑い

・記憶判断への疑い

・経験的な個別判断への疑い

・経験的な全称判断への疑い

・未来予測への疑い。

・評価判断(価値判断)への疑い。

・命令への疑い

・論理学や数学の命題への疑い

・表現の意味への疑い

 ここでまず問題になるのは、最後から3番目の「・命令への疑い」について、私たちが02で考えた〈疑い〉の定義は当てはまらない、ということである。02で、〈疑う〉こと次のように定義した。「〈疑う〉ことには、命題の真理性を問うことに加えて、その問いに、真ではないかもしれない/真ではない/偽であるであるかもしれない/おそらく偽である/偽である、などと答える(信じたり、主張したりする)ことも含まれる。」

 命令への疑いは、命令の適切性を疑うのであって、命令の真理性を疑うのではない。なぜなら命令には真理値はないからである。これに対応するためには、広義の〈疑い〉を次のように定義しよう。

「広義の〈疑う〉ことには、(信念や主張や命令の)命題の適切性を問うことに加えて、その問いに、適切でないかもしれない/おそらく適切でない/不適切であるかもしれない/おそらく不適切である/不適切である、などと答える(信じたり、主張したりする)ことも含まれる。」

 次に問題になるのは、最後の二つの疑いである。まず、「論理学や数学の命題への疑い」について考えよう。数学の命題に対する疑いは、「別の経験的な命題によってテストできる疑い」なのだろうか。論理学や数学の命題は、経験的な命題ではない。それは経験によって検証されたり反証されたりしない。例えば、93錠の薬から、7錠取り除いて、数えたら87錠になったとしても、それは93-7=86を反証したことにならないし、数えたら86錠であったとしても、それは93-7=86を検証したことにならない。

 したがって、論理学や数学の命題への疑いは、経験的な疑いではない。しかし、これを「哲学的疑い」と呼ぶのではなく、「論理的数学的疑い」と呼ぶ方が適切だろう。そのためには「哲学的疑い」を再定義する必要がある。

 哲学的疑いについての前回の例をもう一度みよう。「このリンゴはよく熟している」という主張に対して、「このリンゴは実在するのだろうか?このリンゴは私の知覚像に過ぎないのではないか?」という哲学的な疑いの特徴は何だろうか。

 「このリンゴはよく熟している」への経験的疑いは、「このリンゴはまだ熟していないのではないだろうか」と問うことである。この問いに、「このリンゴはよく熟している」(肯定)と答えるにせよ、「このリンゴはまだ熟していない」(否定)で答えるにせよ。どちらの場合にも、これらの答えは、「このリンゴが実在する」を前提しており、これは経験的疑いの前提でもある。 

 先の哲学的疑いは、経験的疑いのこの前提を疑うものである。「p」という命題について、経験的疑いは、「pは真か?」と問うが、この問いは多くの前提を持つ。問いの前提とは、問いが成り立つための、言い換えると、問いが真なる答えを持つための必要条件である。哲学的疑いは、この必要条件を疑うものである。

 しかし、この必要条件を問うことのなかには、哲学的疑いだけでなく、経験的疑いも含まれている。例えば、「これは瑠璃色だ」という主張の真理性を問う問いが、「これは瑠璃色だろうか?」であるとき、この問いの前提の一つは、「これは色を持つ」である。この前提を問う問い、つまり「これは色を持つのだろうか?」という問いは、経験的な疑いである。

 このように経験的疑いの前提の真理性を問う〈疑い〉に、経験的疑いと哲学的疑いの二種類がある。したがって、哲学的疑いを、「哲学的疑いとは、通常の経験的疑いの前提を疑うものである」とするのでは、定義としては不十分である。これに前回の定義(の試み)「哲学的疑い」は、「別の経験的な命題によってはテストできない疑い」を組み合わせて、つぎのような定義を提案したい。

「哲学的疑いとは、通常の経験的疑いの前提を疑うものであり、かつ、別の経験的な命題によってはテストできない疑いである」

この定義は、前半部分で、論理的数学的疑いを排除し、後半部分で、経験的な疑いを排除している。この定義の検討のまえに、つぎに「表現の意味への疑い」を考察しよう。 

03 経験的疑いと哲学的疑い (20200719)

[カテゴリー:問答と懐疑]

疑いの対象となる命題には、次のようなものがある。(これはまだ整理されていないし、網羅的でもないかもしれない。)

・知覚判断への疑い

・記憶判断への疑い

・経験的な個別判断への疑い

・経験的な全称判断への疑い

・未来予測への疑い。

・評価判断(価値判断)への疑い。

・命令への疑い

・論理学や数学の命題への疑い

・表現の意味への疑い

まず、最も単純そうに見える「知覚判断」への疑いについて、それがどのようなものであるかを考えてみよう。

 「このリンゴはよく熟している」という主張に対して、「このリンゴは本当によく熟しているのだろうか?」と問うとき、これは主張を疑っている。この疑いが、「このリンゴはまだ熟し方が足りないだろう」という推測を伴っているとき、この疑いを確かめるもっとも良い方法は、それを切って食べてみることである。私たちは、この場合に「疑いを確かめる」という言い方をするが、それは、疑いに伴っている想定を確かめることを意味している。このような知覚判断への疑いは、それと矛盾する別の知覚判断を確証することによって確かめられる。経験的な命題への通常の疑いは、別の経験的な命題によってテストできる。

 この例は、主語が指示する対象について述定が真であることを疑う場合であるが、主語が指示する対象が実在するかどうかを疑う場合もある。例えば、「このリンゴはよく熟している」という主張に対して、「これはリンゴだろうか、スモモではないだろうか?」と疑う場合がそうである。この場合にも、「これはリンゴではなくスモモである」という経験的な命題によってテストできる。

 しかし、経験的な命題への疑いの中には、別の経験的な命題によってテストできないものがある。例えば、「このリンゴはよく熟している」という主張に対して、「このリンゴは実在するのだろうか?このリンゴは私の知覚像に過ぎないのではないか?」という疑いである。

 別の経験的な命題によってテストできる疑いを「経験的疑い」と呼び、別の経験的な疑いによってはテストできない疑いを「哲学的疑い」と呼ぶことにしよう。

 次に、この二種類の疑いの関係を考えたい。