03 所有権を問答の権利に還元できるか? (20200607)

[カテゴリー:問答の観点からの権利論]

プライバシーについての前回の説明に倣って、最も基本的な権利だと考えられている「所有権」についての説明を試みてみよう。

 ある対象Xを所有するとは、

  Xを自由に使用でき、

  Xを自由に処分(加工、売却、廃棄、破壊、など)でき、

  他者がXを使用したり処分したりすることを禁止できる

ということである。

<Xを自由に使用・処分できる>とは、「なぜXを使用するのか?」「なぜXを使用しないのか?」「なぜ売却するのか?」「なぜ売却しないのか?」、「Xをどうするつもりか?」などに答える必要がないということである。

 (なぜなら、もしこれらの問に答えたならば、その返答に拘束され、Xの使用・処分の自

由が制限されることになるからである。なぜなら、例えば「ある理由Yゆえに、処分するのだ」と答えたときには、その理由Yが解消したときには、Xを使用・処分する理由がなくなるからである。もちろんそのときにもXを使用・処分をすることはできるが、その時同じように「なぜXを使用するのか?」と問われたら、答えることが必要になってしまうのである。そのことは所有者の自由をそこなう。)

まとめるとこうなるだろう。

 <Xを所有する>とは、<「Xをどうするのか?」「なぜXを…するのか」という問いに答えることを拒否できる>ということである。別の言い方をすると<「Xの所有に関する問いに答えるかどうか」「どう答えるか」「どういう理由で答えるか」などが、その人の自由にゆだねられている>ということである。

 これらの問いを拒否できる理由は、それが私の問題であり、あなたの問題ではないということである。「問いQが私の問題であり、あなたの問題ではない」とは、「問いQにどう答えるかは、私の自由である」ということである。問いQは、私の個人問題である。

 個人問題によって個人が成立する。前回、プライバシーに関連して、個人情報によって個人が構成されるといったが、個人問題によっても個人が構成される。個人情報は真偽をもつが、個人問題は真偽を持たない。もちろん、ある問題がある人の個人問題であるということは、真偽をもつ個人情報であるが、個人問題そのものは、真偽を持たない。

 もう一つ説明すべきことが残っている。それは、<他者がXを使用したり処分したりすることを禁止できる>とはどういうことか、ということである。これを次に考えよう。

02 プライバシーは、問答に関する権利である (20200605)

[カテゴリー:問答の観点からの権利論]

(昨年秋にプライバシーについて考えていて、それが問答に関する権利だと気づいた。この考えをすべての権利に拡張できるのではないかと思いついて、「すべての権利は問答に関する権利である」と考えるに至った。そこで、まずプライバシーについての最初の思いつきを説明したい。)

#プライバシーを問答の権利に還元する

(注:アメリカの弁護士のウォレンとブランダイスは、論文「プライバシーの権利」(The Right to Privacy)(1890)で、プライバシーを「一人でいさせてもらう権利」(the right to be let alone)と定義した。ウェスティンが『プライバシーと自由』(1967)で、プライバシーの権利を「自己に関する情報に対するコントロールという権利」であると定義した。)

 これを踏まえて、プライバシーを二つに分けて、「一人にしておいてもらう権利」を「消極的プライバシー」とよび、「自己に関する情報に対するコントロールという権利」を「積極的プライバシー」と呼ぶことができるだろう。

A、消極的プライバシーについて

 プライヴァシーへの権利を認めることは、自分のことについて問われたときに、「知りません」とか「わかりません」と応えしても良い、ということではない。なぜなら、それは嘘を付くことだからである。プライヴァシーを認めるということは、それについて問われたときに、「それには答たくありません」とか「ノーコメントです」と応えることを認めるということである。あるいは他者には<問うてその答えを求める権利>がないような問いがあるということである。「問う権利がない問い」「答える義務がない問い」があるということである。

 ただし、問う権利とその答えを得る権利は、区別すべきである。例えば、警官に名前を問われたときに、市民には答えない権利があるが、しかし、警官に問う権利はあるだろう。警官は名前を問う権利を持つが、その答えを得る権利をもたない。市民同士であっても同様だろう。私たちは、他者に名前を尋ねる権利をもつのではないだろうか。ただし、答えてもらう権利はない。

 問いによっては、他者に問う権利がないものもある。例えば、就職の面接では、「あなたの本籍地はどこですか?」「家業は何ですか?」「支持政党はどこですか?」など問うてはいけないとされる問いがある。

B、積極的プライバシーについて

 私は私についての情報で構成されている。個人は、個人情報で構成されている。したがって、自分の個人情報を自分でコントロールすることは、自己支配、自己決定することにほかならない。プライバシーへの権利は、自己決定の権利の一部である。

 ところで、他者がもっている自己に関する情報をコントロールするとは、次のようなことであろう。

   ①他者が自分についてどんな情報を持っているのかを知ること

   ②他者が自分について持っている情報を訂正すること

   ③自分についての情報を他者がどのように扱うべきかを指示できること

①は、「あなたは、わたしについて何を知っていますか?」と問い、それに答えてもらう権利を持つことである。

②について説明しよう。「相手に訂正を強制する」とは、相手の同意なく、相手にAを行わせることである。言い換えると、<相手に個人の情報の訂正を行わせる権利がある>とは、「なぜ訂正しなければならないのですか?」という相手の問いに答える義務がなく、かつ、相手に「訂正してもらえますか?」と問う必要がなく(儀礼上は別にして)、端的に「訂正せよ」と命令できるということである。

 ただし、その情報が真であるなら、この限りではない。例えば、私が昨日駐車違反をしたとしよう。私が昨日駐車違反したことは、私の個人情報である。この個人情報を、私が昨日駐車違反しなかった、というように訂正することはできない。なぜなら、私が昨日駐車違反したことは事実だからである。事実である情報を修正することはできない。それは偽だからである。

③について説明しよう。「相手に個人情報をある仕方で扱うことを強制する」とは、相手の同意なく、相手にAを行わせることである。言い換えると、<自分についての情報を相手にある仕方で扱わせる権利がある>とは、「なぜそのように扱わなければならないのですか?」という相手の問いに答える義務がなく、かつ、相手に「しかじかに扱ってもらえますか?」と問う必要もなく(儀礼上は別にして)、端的に「しかじかに扱いなさい」と命令できるということである。

 ただし、このような権利があるのは、個人情報の内容や、相手の資格や、相手と私との関係、などに依存する。たとえば、その個人情報が、新型コロナウィルスに感染しているということであれば、医者は、患者の意向に関わらず、それを保健所に報告する義務があるだろう。

このように「プライバシーへの権利」は、個人情報に関する問答についての権利である。

01 法と権利 (20200603)

[カテゴリー:問答の観点からの権利論]

#法とは何か?

 法は、共同体に自己同一性を与え維持する統制的ルールであり、道徳は、個人に自己同一性を与え維持する統制的ルールである。共同体が、組織とルール(法)からなるとすると、個人は、身体(行為)と言葉(道徳)からなる。(この法と道徳の区別については、どこか別のところで、詳しく説明することにしたいと思います。)

 <法は、社会の変化に合わせて変える必要がある>この変更は、法を設定したときのより上位の目的を実現するために行われる。では、そのより上位の目的は何だろうか。それは共同体や社会を維持すること、よりよい状態にすること(言い換えると、社会問題を解決すること)であろう。たとえば、コロナウィルスの感染を抑える(つまり、ある社会問題を解決する)ために、新法を作ったり、古い法を改正したりする。

#法は、二種類ある。

 法には、国民の権利や義務を規定する法がある。例えば、「他人の所有物を盗んではならない」。これは、「何人もその所有物を盗まれない権利を持つ」と言い換えられるだろう。これは行為を禁止する法である。例えば、「国民は、税金を納めなければならない」。これは「国民は、税金を納める義務を負う」と言い換えられるだろう。これは、行為を命じる法である。

 法は、最終的には、個人や法人に行為を行うことないし行わないことを命令する(行為を命令するか禁止する)。しかし、全ての法が、直接的に行為を禁止したり命じたりするものではなく、間接的にそれを行うものもある。その場合、義務や禁止を、条件法「もし…ならば、…せよ(するな)」という形式で表現し、この条件法に従うことを命令する。ある役柄を引受けることを命じることは、条件法の束に従うことを命じることである。役柄は条件づけられた役割の束であり、役割は条件づけられた行為の束である。

 例えば、日本国憲法第一条「天皇は、日本国の象徴であり日本国民統合の象徴であつて、この地位は、主権の存する日本国民総意に基く。」これは、「天皇」とされる個人に、「日本国の象徴であり日本国民統合の象徴」として行為することを義務付ける、あるいは「象徴」として行為する権利を与える。そして、国民にその人を「日本国の象徴であり日本国民統合の象徴」として扱うことを義務付ける。ただし、この条文ではどのように行為すべきかは明示されていない。「日本国の象徴であり日本国民統合の象徴」として行為が、どのようなものであるかは、他の条文や法律で規定されることになる。

#法と権利命題の推論関係:権利命題の上流推論と下流推論

*権利命題の下流推論

  「この車は私のものである」(つまり「私はこの車の所有権を持つ」)

この発話が成り立つということから帰結するのは、例えば、「私はこの車を自由に処分できる」ということである。「この車を自由に処分できる」ということは、「なぜ、色をかえるのか」とか「なぜ、売るのか」とか問われたときに、理由を答える義務がないということである。

   私はこの車の所有権を持つ┣私はこの車を自由に処分できる

これは「私はこの車の所有権を持つ」の下流推論である。

*権利命題の上流推論

これの上流推論は、例えば次のようなものである。

   私は、この車を販売店で買った┣私はこの車の所有権を持つ

   この車の車検証には、所有者として私の名前が書かれている┣私はこの車の所有権を持つ

法と初期条件を前提とし、それから具体的な権利を記述する命題「私はこの車の所有権を持つ」が結論として帰結する、権利命題の上流推論がある。権利や義務を記述する文は、このように上流推論や下流推論を持つ。

 より一般的に言うと、法と状況の記述を前提として、具体的な権利命題を、次のように推論できるだろう。

  法、状況の記述┣権利命題 (権利命題の上流推論)

法と権利は、このような法的三段論法の推論関係にある。

 この三段論法でも、前提から帰結する命題は、複数ある。その中から特定の権利命題が結論になるのは、問いに対する答えとしてである。

   「この車はだれのものか?」

不動産を購入し、不動産の税金を支払っている者は、その所有者である。xさんは、5年前にこの車を購入し、毎年自動車税を支払っている。┣この車は、xさんのものである。

 この二つの前提からは、(気の利いた例ではないが)「この車は、6年前にはxさんのものではなかった」「もしxさんがこの車の自動車税を払っていないならば、この車の所有者ではない」なども、論理的に結論となりうる。その場合には、それぞれ、「この車がxさんの者でなかったのは、いつのことか」、「もしxさんが自動車税を支払っていなかったとしても、この車はxさんのものか?」などの問いに対する答えになるだろ。

15 科学研究における事実の明示化 (20200531)

[カテゴリー:問答推論主義へ向けて]

 XとYが同義の表現であるとしよう。この場合、次の理由でXもYも保存拡大である。Xの導入規則と除去規則のXにYを代入したものは、Yの導入規則と除去規則になる。したがって、Xの導入規則と除去規則を連続して適用した結果できる推論は、Yを用いて推論できる。つまり、このようなYとXがあるときには、XもYも保存拡張である。この場合、Xは他の語彙の意味を変えないのだから、意味の明示化に使用できる。つまり、XはYの意味の明示化に使用できる。(たとえば、「りんご」と「アップル」が完全に同義の表現だとしよう。このとき、「りんご」をもちいて、「アップル」の意味を明示化できる。つまり、「アップル」を使用した文に、「りんご」を代入して、「アップル」を使用した文の意味を明示化できるからである。)

 この言語からYを除去した言語(もとの言語の断片)をつくるとき、その言語において、Xは保存拡大であるかもしれないし、非保存拡大であるかもしれない。

 この言語において、Xが保存拡大であるとしよう。この場合Xは、他の語の意味を変えない。したがって、Xを含まない他の命題の意味を変えない。したがって、Xは他の命題の真理値を変えない。推論によって語「X」の意味を明示化できるとともに、対象Xに関する事実を明示化できる。ただし、この事実の明示化は、分析的な明示化である。

#日常生活や科学において、事実を解明するとは、新しい真なる命題を発見することである。対象「X」は語「X」の導入によって成立する。もし導入した「X」が保存拡大であれば、導入前の命題の真理値は変化しない。したがって、新しく真となる命題は「X」を含む命題だけである。「X」を含まない命題の中には、新しく真となる命題はない。

 「X」が非保存拡大であれば、「X」の導入は、導入以前に成立していた古い命題の真理値を変化させる。綜合的な新しい真なる命題を発見するためには、語「X」が非保存拡大でなければならない。

 例えば「H2O」は非保存拡大である。

   ① xは水である┣xはH2Oである  (H2Oの導入規則)

   ② xはH2Oである┣xは水素と酸素で出来ている (H2Oの除去規則)

   ③ xは水である┣xは水素と酸素でできている

最後の推論は、「H2O」を使用せずには不可能であった。それゆえに「H2O」は非保存拡大である。この推論③によって、水についての新しい真なる命題が発見され、水についての新しい事実が発見されたことになる。

09 狭い意味の非合理な答え (20200528)

[カテゴリー:日々是哲学]

前回、答えが合理的である場合には、次の3つあると述べた。

   ①真であるという意味での合理性

   ②正当化されているという意味での合理性

   ③適切であるという意味での合理性

①と②の問いの答えのなかには、推論によって得られるものがあった。しかし、推論の前提をさかのぼれば、いずれは推論によって証明したり正当化したりできない命題に行き着く。それは、知覚報告や記憶報告や伝聞であったりするかもしれない。これらについて、「05 合理な答えと非合理な答えの区別 (20200518)」では、次のように述べた。

「問いの答えが、知覚、記憶、伝聞によって得られる場合、その答えは、事実の記述である。事実の記述に関しては、合理的な答えがあるだろう。したがって、知覚による答え、記憶による答え、伝聞による答えは、(推論によって得られる答えではないが)合理的な答えとなりうる。」

ここで「事実の記述に関しては、合理的な答えがあるだろう」というのは、<知覚報告であれ、記憶報告であれ、伝聞であれ、それらが推論の結論ではないとしても、それらは真として受け入れられている他の命題と整合的でなければならない、その整合性を充たす限りにおいて、それは合理的な答えだと言える>という意味である。しかし、整合性を充たす候補が複数ある時には、その中から一つを選ばなければならない。そしてその選択は、推論によって証明したり正当化したりできないものである。

 価値判断の場合については、「06 問いの答えが事実の記述でない場合 (20200520)」において次のように述べた。

「認知主義であれ非認知主義であれ、似たような対象については(似たような状況では)、似たような価値判断をすべきであろう。したがって、価値判断については何らかの正当化があるはずだから、その答えは合理的である。」

ここで「価値判断については何らかの正当化があるはずだから、その答えは合理的である」と述べたのは、<価値判断は、推論の結論となっていないとしても、受容されている他の価値判断と整合的でなければならず、その整合性を充たす限りにおいて、それは合理的な答えだと言える>という意味である。しかし、ここでも、整合性を充たす候補が複数ある時には、その中から一つを選ばなければならないが、その選択は、推論によって証明したり正当化したりできないものである。

 事実判断や価値判断についてのこれらの選択ないし受け入れは、意識的な決断による場合もありうるが、気づいたときにはすでに受け入れているというものであるかもしれない(たいていは後者であろう)。意識的な決断によってある命題を受け入れる時には、問答によって、つまり「pを受け入れるか否か?」という問いに対して「受け入れよう」と答えることによって行われる。気づいたときに受け入れているというのは、このような問答を意識的には行わなかったということであって、問答がなかったということではないだろうと推測する。

 意識的な決断によって、あるいは無意識のうちに受け入れたこれらの前提は、①と②の意味での合理性を持たないし、その合理的な答えに矛盾するという意味の不合理性も持たない。この意味で、これらの前提は、非合理である。ただし、これらの前提は、③の意味の合理性はもつだろう。しかし、③の合理性だけでは、答えの内容の決定を説明するには不十分である。この意味で、これらの前提は、非合理である。

#「知性」と「理性」という語を、つぎのように使用することを提案したい。

私たちは、問いに対して推論で答える時と推論に寄らずに答える時がある。推論の能力を「理性」と呼び、問答能力を「知性」と呼ぶことにしたい。問いを理解すること、その答えとなる発話を行うことは、ともに知的な行為である。問答を含まない知的な行為は、考えられない。知的な行為は問答によって構成されている。問答の能力とは、適切に問いを立て、問いに適切に答える能力である。これに対して、問いに対して推論で答える能力は、「理性」だといえるだろう。動物は言語を持たないが、しかし動物もまた探索していると言える限りにおいて、動物もまた問答していると言え、その限りで知性を持つといってもよいだろう。

 非合理主義を取り上げ始めたときに、私が語り語ったことは、この知性と理性の区別である。

 非合理主義については、デイヴィドソンが論じた「意志の弱さ」や「自己欺瞞」、ポパーの「理性への非合理な信仰」に基づく「批判的合理主義」など、他にも重要な事柄があるが、思いのほか長くなったので、とりあえずここで閉じる。(デイヴィドソンは、心の分割によって「意志の弱さ」や「自己欺瞞」を説明したが、これについては、分人主義と関連付けて論じたい。ポパーの「理性への非合理な信仰」については、問答論的矛盾による超越論的論証と関連付けて論じたい。後者については執筆中の本が出版されたら、それを踏まえて論じたい。)

08 問いに対する答えが合理的であるとはどういうことか? (20200526)

[カテゴリー:日々是哲学]

{つぶやき:非合理性を一般的に、問いの答えの性質として理解できるということを示したたかっただけなのですが、非合理な答えを、合理的な答えに矛盾する不合理なものと、合理的な答えと矛盾しない非合理なもの(狭い意味の非合理なもの)に区別してから、なかなか「狭い意味の非合理な答え」の具体例に辿りつかなくて長くなってしまっています。}

 問いに対する答えが、正当化と無縁であるとしても、適切/不適切の区別を持つとしたら、適切な答えは、合理的だといえるだろう。

 では、問いに対する答えが適切であるとは、どのような場合だろうか。

 <問いに適切に答える>ことは、少なくとも次の二つを意味するだろう。

 第一に、ある発話が、意味に関して、問いに対する答えとなっていること、を意味する。

 例えば「あなたは何を食べますか」という問いに、「彼はそばを食べます」とか、「私は学生です」と応答することは、問いへの答えになっていない。寿司屋さんに入って「何にしますか」と問われて「天津飯をください」と答えることも不適切である。(最後の寿司屋の例は、意味に関して不適切なのか、事実に関して、不適切なのか迷うところである。この不適切性は、問答が行われる状況に依存しているが、意味と状況を分離しないならば、この不適切性は、意味に関するものである。このように曖昧な事例はあるかもしれないが、おおよそ、答えの適切性を、意味に関する適切性と、事実に関する適切性に、分けることができる。)

 この条件を充たさない答えは、そもそも答えであるとは言えない。したがって、不合理な答えでも狭い意味の非合理な答えでもない。

 第二に、問いQ1には、より上位の目的(より上位の問いQ2に答えること)があり、Q1の答えA1が、より上位の目的の実現に役立つものになっていること、を意味する。

 例えば、飲食店で「何にしますか?」と問うとき、店員は、注文をとって、それを作って、提供して、お金をもらう、という目的を持っている。それゆえに、お店に天津飯がないときに、「天津飯をください」と言われても、店員のより上位の目的を実現することはできない。この答えは、不適切です。お店に天津飯があれば、この答えは適切です。

 問いの答えが上の二つの意味で適切であるとき、その答えは、合理的だと言えるでしょう。

 これまで述べた問いの答えの合理性には次の3種類がありました。

   ①真であるという意味での合理性

   ②正当化されているという意味での合理性

   ③適切であるという意味での合理性

 これらに対応して、次の三種類の不合理性があります。

   偽であるという意味での不合理性  

   間違って正当化されているという意味での不合理性

   不適切であるという意味での不合理性

 問いの答えが合理的である場合と不合理である場合を、このように3種類に区別できるとするとき、問いの答えが、「不合理性」とは異なる「狭い意味の非合理性」を持つ場合は、あるのでしょうか。それはどのような場合でしょうか。

07 問いの答えが、正当化と無縁である場合 (20200524)

[カテゴリー:日々是哲学]

 前回までで分かったことは、<もし問いの答えが(狭い意味で)非合理であるとしたら、その問いの答えは正当化と無縁である>ということです。(ただし、<もし問いの答えが正当化と無縁であれば、それはかならず非合理である>とは言えないだろうと予想します。)

 ここで、<正当化と無縁である>とは、<正当化できないし正当化を必要としない>という意味です。例えば、「食堂で何にしますか?」と問われて、「うどんにします」と答えたとき、この答えは、正当化を求められていないし、正当化する必要もないし、正当化することもできないと思います。お店の人が「何故、うどんにするのですか」と(正当化を求めて)問うことはありません。なぜなら、うどんであれ、他の何かであれ、お店の人にはどちらもでも好いからです。もし一緒にいた友人から「なぜうどんにするの?」と問われたら、「特に理由はありません」とか「うどんを食べたいと思ったから」とか「うどんがすきだからです」とか「いつもうどんを食べているからです」とか「昨日は蕎麦だったから」とか答えることもできます。この場合に、(最初の「特に理由はありません」以外の)これらの答えは、うどんを注文する理由であっても、うどんにしなければならないこと説明するものではありません。つまり、うどんの注文を正当化するものではありません。

 このうどんの注文は典型的な例です一般に自由な決定を求める問いに対する答えは、自由な決定であり、正当化を必要としないし、正当化できません(なぜなら、正当化できるとすれば、自由な決定ではなくなるからです)。

 では、この場合の「うどんにします」という注文は非合理でしょうか。「xは非合理である」といえば、そこから「xは避けるべきことである」ということが帰結するように思います。しかし、うどんの注文は、避けるべきことではありません。では、「うどんにします」という注文は、合理的でしょうか。正当化を必要としない答えであるのに、これが合理的であるとしたら、その場合の「合理的である」とはどういう意味でしょうか。

 もう一度まとめるとこうなります。自由な決定を求める問いに対する答えは、正当化を必要としない。しかし、それを非合理な答えということはできないように思われる。では、それは合理的な答えなのだろうか。それとも、合理的でも非合理でもない答えなのだろうか。これを次回に考えたいと思います。

06 問いの答えが事実の記述でない場合 (20200520)

[カテゴリー:日々是哲学]

#問いの答えが、事実の記述でない場合の一つは、価値判断である場合である。

価値判断については、認知主義者は、事実と同じく価値は実在しており、認識の対象であると考える。そして価値判断は実在する価値の記述であり、真理値を持ちうる。それゆえに、価値判断は合理的な判断である。

価値判断について、非認知主義者は、事実についての認識に価値を付与する仕方で、価値判断を行う。つまり、価値そのものを認知するのではなくて、価値は付与されるもの、ないし構成されるものだと考えるのが、非認知主義である。したがって、価値判断は真理値を持たない。ただしこの場合でも、価値判断は恣意的なものではなく、似たような対象については似たような価値判断をすべきだと考えられている。その限りで、価値判断には何らかの従うべき基準があり、それに従う限りで合理的な判断である

認知主義であれ非認知主義であれ、似たような対象については(似たような状況では)、似たような価値判断をすべきであろう。したがって、価値判断については何らかの正当化があるはずだから、その答えは合理的である。

#問いの答えが、事実の記述でない場合のもう一つは、実践的推論の結論の場合である。

「xするにはどうしたらよいのか?」というような問いに対して、実践的推理によって答える場合である。これの答えは、真理値を持たない。むしろ、「…すべし」という指令になるだろう。理論的推論ではないが、これもまた推論による答えである。そして、この実践的推論で答える答えもまた合理的である。

問いの答えは、それが価値判断である場合も、実践的推論の結論の場合も、正当化可能なものであり、その内容は合理的なものでありうる(もちろん不合理なものの場合もある)。

では、問いの答えが正当化と無縁であるような場合はないのだろうか。

05 合理な答えと非合理な答えの区別 (20200518)

合理的な答えと非合理な答えの区別を論じ前に、「不合理な答え」と「非合理な答え」の異同について説明したいとおもいます。不合理性もまた、問いに対する答えがもつ性質だと考えています.

ところで「不合理」も「非合理」も、英語ではどちら’irrational’であり、英語にはこの区別はなさそうです。しかし、日本語の場合には、いかに述べるような違いがあるとおもいます。

 問いに対する不合理な答えとは、合理的な答えと矛盾する答えであり、間違った答え、避けるべき答えである。このような不合理な答えを、非合理なり答えということあるようにおもう。例えば、男女差別の制度は、この意味で不合理な制度であるが、それを非合理な制度ということもできる。他方で、合理的な答えが存在しない問いに対する答えを、非合理な答えということもある。この場合、非合理な答えは合理的な答えと矛盾することはない。それゆえに、非合理な答えは、不合理な答えを含むがより広い概念である。

 不合理な答えである部分を除いた非合理な答えを、狭義の非合理な答えと呼ぶことにしよう。ところで、合理的な答えを持たない問いの答えは、すべて狭義の非合理な答えなのだろうか。

 まずは、合理的な答えを持つ問いとはどのようなものなのかを考えよう。

・答えが知覚によって得られる時、また答えが記憶によって得られる時、それらの答えは推論に基づいてはいないが、非合理ではない。知覚や記憶に基づいて答えることもまた、合理的である。

・問いの答えが、推論によって得られる時には、その答えは合理的である。

 問いの答えが、推論によって得られる時、推論には前提が必要であるが、その前提もまた別の問いの答えとして得られる。この前提が、問いに対する非合理な答えであるとしても、それから推論によって得られる答えは、とりあえず合理的な答えだとしておく。

・問いの答えが知覚によって得られる場合

「この紙の裏側は何色か?」と問われたとき、その紙を裏返して、そこを見て、「白色です」と答える。このときの答えは、推論によらず知覚によって得られる。

・問いの答えが記憶によって得られる場合

 「前回の哲学の世界大会はいつでしたか?」と問われたとき、記憶によって「2018年でした」と答えるとき、この答えは、記憶によって得られる。

 「次回は2023年で、前回はその5年前なので、2018年でした」と答える時には、記憶だけでなく、次の推論によって答えている。

  次回開催は2023年である。

  世界大会は5年おきに開催される。

  前回の世界大会は、2023年の5年まえである。

  ゆえに、全体の世界大会は2018年である。

・問いの答えが伝聞によって得られる場合

  「前回の哲学の世界大会はいつでしたか?」という問いに、インターネットで検索して前回の世界大会が2018年であったことを知る時には、伝聞によって答えたのである。

・問いの答えが、知覚、記憶、伝聞によって得られる場合、その答えは、事実の記述である。事実の記述に関しては、合理的な答えがあるだろう。したがって、知覚による答え、記憶による答え、伝聞による答えは、(推論によって得られる答えではないが)合理的な答えとなりうる。

では、問いの答えが、事実の記述でない場合には、どのような場合があるだろうか。

04 非合理性とは何か? (20200515)

[カテゴリー:日々是哲学]

 哲学でも、「非合理性」が議論されることがしばしばありますが、非常に多様な仕方で語られます。それは行為の非合理性であったり、決定の非合理性であったり、感情の非合理性であったりします。それらの多様な非合理性をまとめて共通要素を取り出して扱うことができるのか、それとも多様な非合理性のそれぞれについて区別して分析すべきものなのか、曖昧なことが多いです。

 そこで、ここではまず次を提案したいと思います。

  <合理性/非合理性は、問いに対する答えがもつ性質である>

現代の真理論では、真理の担い手(truth bearer)と真理の作り手(truth maker)を区別して議論されます。真理の担い手とは、「…は真である」という述語が述定される対象のことあり、命題や発話が真理の担い手とされることが多いとおもいます。真理の作り手とは、真理の担い手に真とならせるものものであり、対応や整合性などが考えられることがあります。真理論については、別途論じることにして、ここでは、この担い手と作り手の区別を「合理性/非合理性」に当てはめて考えたいと思います。

  <合理性/非合理性の担い手は、問いに対する答えである>

 問いの答えは、合理的であったり、非合理であったりするということです。信念、行為、感情、欲求などについて、非合理であると言われることがありますが、その理由は、これらが問いに対する答えとなるからだと思われます。(これらは、問いの答えとして、合理的なものである場合もありえます。)

 これらは、人間の反応や振る舞いの一種ですが、これらとは異質なものである「制度」についも、制度が合理的とか、制度が非合理とか言われることがあります。制度が合理的なものや非合理なものであるのは、制度が問題の解決(問いの答え)であるからである。(社会制度(社会組織と社会規範)が社会問題の解決策であるということについては、カテゴリー「問答としての社会」で論じています。)

 ちなみに「自然は合理的である」と言うことができる。このように語ることができる理由は、自然が問いに対する答えであるからではなくて、自然についての真なる記述が、つねに問いに対する答えとして合理的だからだといえるだろう。

 (問いもまた、それの問い自体が上位の問いの答えであるときには、合理性/非合理性の担い手となりうる。つまり「合理的な問い」や「非合理な問い」がありうる。)

 合理性/非合理性の作り手について、つぎに考えてみます。