組織と規則

久しぶりに訪れた森の中です。生き返ります。

19 組織と規則 (20120807)
前回確認したことは、<あらゆる組織が規則によって成立し、あらゆる規則が組織において成立する>ということでした。

ところで、社会にはさまざまな組織と規則があります。それらはどう関係しているのでしょうか。その関係は社会問題によってうまく説明できるでしょうか。
これを考えるために、つぎのように論点を分けて考えたいと思います。
   ①組織と組織の関係
   ②組織と規則の関係
   ③規則と規則の関係

①どのような組織があり、それらはどう関係しているのでしょうか?
 組織の要素が、人であるとすると、組織と組織の関係は、二つの集合の関係として考えられます。二つの集合の関係は、
  (a)全体-部分関係 (たとえば、国家と地方公共団体、大学と学部)
  (b)交差関係、   (たとえば、国家と国際企業、愛知県とトヨタ)
  (c)独立      (たとえば、大阪府と奈良県、トヨタとホンダ)
の三つです。

②組織と規則の関係もまた、組織間の関係に応じて、3つに分けることができます。
(a)組織が全体-部分関係にあるときの、組織と規則の関係を考えましょう。

 たとえば、国家と県の場合、県にとって、国家の規則である法律は、それに従うべきものです。県の設置そのものが、地方自治法にもとづいています。
県の規則である条例は、法律に反しないことを条件とします。
 私たちの前提によれば、国家は、国家によってのみ解決できる社会問題の解決のために設立されたはずであり、県もまた、県によってのみ解決できる社会問題の解決のために設立されたはずです。もしその県が、国家(の法)によって設置されているのだとすると、それは国家が、ある問題の解決のために県を設置したということである。この場合には、国家と県は、別の組織というよりも、県という組織は、国家という組織のその一部分であるといえます。

 しかし、全体と部分の関係にある二つの組織が、つねにこのような関係になるわけではありません。たとえば、奈良県の中で、奈良市に住む住民だけで作られているNPOがあるとき、このNPOは、日本国の法律や、奈良県や奈良市の条例に拘束されますが、このNPOは、日本国や奈良県や奈良市の組織の一文であるのではありません。仮にこのNPOがNPO法によって、NPOとして承認された組織であるとしても、このNPOは、日本国という組織の部分組織ではありません。
 ところで、このNPOは、この組織によってしか解決できない社会問題を解決するために作られた組織だといえるでしょうか。他のNPOでも解決できるかもしれませんし、あるいはその問題は、奈良市によっても解決できるかもしれません。それでも、このNPOが、社会問題を解決するために作られた組織であるということはいえます。なぜなら、社会問題は次のように定義されたからです。
「社会問題とは、ひとやグループが社会によってのみ解決できるような問題として申し立てる問題である」

社会制度とは何か

自治会の ノスタルジックな 夏祭り

18 社会制度とは何か (20120728)
 
(何をしようとしているのか、わかりにくいと思うので、展望を書いておきます。
 私の探求の最終目的は、問答に注目した理論哲学とこれに対応する形での問答に注目した実践哲学を考えることにあります。
 この書庫の目標は、問答に注目して社会を考察することです。そのときに特に重要になるのは、<社会問題>です。現在有力な社会理論は、システム論と社会構築主義だろうと思います。それらに対する不満の一つは、それらが社会変動をうまく説明できないことではないでしょうか。私たちは<社会問題を解決するために社会制度が作られ、そのようなものとして正当化される>と考えることによって、社会変動を説明できる社会理論を作ることができるのではないでしょうか。といっても、これはまだ単なる目論見にすぎません。)

12で示した見取り図の説明を続けましょう。社会問題についての説明をひとまず終えて、社会制度の説明に入りたいと思います。

塩原勉は、「社会制度」についてつぎのように説明しています(『世界大百科事典』平凡社、第二版、「制度」の項目参照)。「社会制度」とは、<価値体系、制度、社会集団からなる複合物の全体>です。狭い意味の「制度」とは、慣習,慣例,法などの「社会諸規範が複合化し体系化したもの」のことであり、「価値体系」とは、この制度を正当化するものであり、「社会集団」とは、この制度の規整の下で活動するものであると説明されます。たとえば、「家族生活は婚姻制度,扶養制度,相続制度,隠居制度,その他の諸制度によって規制されている」とあり、これらの制度は、価値体系によってある価値体系によって正当化されており、この諸制度の下に家族という集団が活動するということのようです。

この説明は、よくできているように見えます。足りないところは、「なぜこのような社会制度が発生するのか」、「なぜこのような社会制度が変動するのか」という説明です。もちろん、社会変動については、「社会変動」の項目を見れば、また興味深い説明があります(事典の中での説明には限界があるので、塩原勉の著作を読む必要があります。ここでは塩原氏の批判を意図しているのではありません。むしろ多くを学びました)。注意したいのは、社会制度の説明と、その発生と変動の説明は切り離せないということです。そしてそれを結びつけて説明するときに<社会問題を解決するために、社会制度が作られる>と考えることが有効であろうということです。

 ところで、価値体系は、社会問題の設定の段階で前提として機能しているとおもいます。もちろん、価値体系それ自体が、社会問題の解決のために設定されるということもありえます。その意味で、価値体系は、社会問題の前提として機能すると同時に、社会制度の一部でもあります。このような事情のために、まずは単純な事態を考えておくために、社会制度の中の、<規範ないし規則(塩原氏のいう制度)>と<組織ないし集団(塩原氏のいう社会集団)>について、考察したいと思います。

 ここから本題です。社会問題を解決するために、社会制度が作られます。その社会制度は、ある局面では、規則と組織の二つに区別できるようにみえます。例えば、一方に、国家という組織、県や市という組織、警察、病院、学校、消防などの組織があります。他方に、法律、条例、校則などの規則があります。しかし「組織と規則は独立したものではありません」。これの証明を試みましょう。

 まず、<どんな組織も規則を必要とします>の証明
 ある問題の解決のために共同作業をする必要があるとき、この共同作業をするものが組織です。共同作業が成立するためには、行為の約束(あるいは相互予期)が必要です。組織が、恒常的にある共同作業をするときには、一回の行為の約束(相互予期)ではなくて、規則(の集団的受容)が必要になります。学校は、時間割を守ること、クラス編成に従うこと、宿題をしてくること、などの規則(の集団的受容)によって成立しています。

 次に、<どんな規則も組織を必要とします>の証明
 規則が成立する(規則が社会的に受容される)ためには、規則に従うべき人々の集団が必要です。例えば、毎朝6時に公園に集まってラジオ体操するという規則があるとしよう。そこに集まる人々は常に同じ人達ではなくて、その都度入れ替わりがあるとしても、そこに一度でも参加した人々がおり、そこにほとんど参加しているひとがおり、参加の頻度はいろいろであるとしても、そこにはゆるやかな集団があります。

 ちなみに、この集団は、どのような社会問題を解決するためにつくられたのでしょうか。誰かが呼びかけて、朝の公園でのラジオ体操がはじまったとしましょう。呼びかけたひとの動機は、一人でラジオ体操するよりも数人集まってしたほうが楽しい、ということであったかもしれません。それに賛同する人たちがそこに集まってきたとしましょう。これは、「自然発生的に」成立した規則であり、集団であると言われるかもしれません。しかし、最初に呼びかけたひとの問題(「もっと大勢で楽しくラジオ体操したい」という意図を実現するにはどうすればよいか、という問題)は、大勢で取り組まなければ解決しない社会問題だと言えます。

起源と正当性は異なる

夏の樹木

17 起源と正当性は異なる(20120726)

私たちは、14で、社会問題を次のように定義しました。
「社会問題とは、クレイムを申し立てる人やグループ自身が社会によってのみ解決できるような問題として申し立てる問題である」
しかし、「クレイムを申し立てる」という表現が、「常に特定の人やグループに対して要求する」という意味に理解される可能性があり、それでは定義が狭くなりすぎるように思われるので、これをとって次のように定義したいと思います。
「社会問題とは、ひとやグループが社会によってのみ解決できるような問題として申し立てる問題である」

ここで曖昧なのは、「社会によってのみ解決できるような問題」と言う場合の「社会」です。夫婦で解決しなければ、一人では解決できない問題があるとすると、それは夫婦という社会の問題です。野球をしようとして集まったけれども、人数が足りない時に、どうやってその問題を解決するかは、そのグループで解決する必要のある問題です。学校や、会社や国家なども、社会になります。最も大きな集団は、(AIや宇宙人に出会うまでは)人類になるでしょう。
 これらの多種多様な社会は、互いにどのように関係するでしょうか。社会を、個人を要素とする集合として考えるとき、社会同士の関係は次の3種になります。
  1,S1(社会1)がS2(社会2)と並んで存在する。
  2,S1とS3の一部のメンバーが重複している。
  3,S1がS4の一部分になっている。
そして、この社会同士の関係が、社会問題を生み出すことがあるでしょう。その時の社会問題とは、より大きな「社会」の問題ということになるかもしれません。(これについては、後で考えることになるとおもいます。)

 次に考えたいのは、次の問いです。
 「これら多種多様な社会は、どのようにして発生したのか」
この問いに対して、つぎのように答えたいとおもいます。
「社会は、それ自体が社会問題の解決のために創られたものである。つまり、ある人々 が集まることによってしか解決できない問題が登場した時に、その問題解決に取り組む中で社会集団が成立したのだ」

では、この答えをどのように証明すればよいでしょうか。たとえば、つぎのような説明で充分でしょうか。
<集団が発生するには、原因ないし理由があったはずであり、その原因ないし理由としては、集団によってのみ解決できる問題を解決すると言うこと以外には考えられません>

この説明に対しては、次の反論が考えられます。
<人間は、人間になる前から、つまり霊長類の段階で、すでに群れを作っていたと考えられます。したがって、すくなくとも言語が成立する以前の段階のヒトが作っていた集団については、その原因は、社会問題を解決することではありませんでした。>
 
この議論は「04 群れを作る理由」の議論の反復になります。そこでは、いつから動物の群れ社会が人間の社会になるのかを考えようとしました。その境界を言語の有無に求め、自覚して「問題を解決する」ができるようになることに求めました。ここでは、最初の説明をつぎのように改めたいとおもいます。
<人間が言語を持つようになってから、形成した集団もあれば、それ以前から成立している集団もあります。しかし、すべての集団は、集団によってのみ解決できる問題を解決するために作られたのであり、またそのようなものとして正当化され、そのような正当化によって存続します。したがって、霊長類の時の群れ社会が、言語を習得したあとにも継承されているとすると、そのときの集団は、集団の問題を解決するものとして正当化されているはずであり、そのようなものとしてのみ存続するのです。もし正当化を持たないならば、そのような集団はやがて解体するでしょう。>

ここから言える重要なことは、次のことです。社会制度は、社会問題の解決のために設立され、そのようなものとして正当化され、そのような正当化によって存続します。しかし、社会制度は、それ自体が、別の社会問題を引き起こすことがあり、そのときにはその解決のために、社会制度の修正や、新たな社会制度の設立が必要なります。またこのような過程をへることによって、社会制度は、その起源となった社会問題の解決のためではなくて、別の社会問題の解決のためのものとして正当化されることもあります。(ニーチェがいうように、起源と正当性は同一であるとは限らないのです。)

グローバルな社会は、<グローバルな共有知>で構成される

     夏の彫刻

02 グローバルな社会は、<グローバルな共有知>で構成される (20120722)

①グローバルな人・物・金・情報の流通によって、社会問題もまたグローバル化します。グローバルな社会問題とは、環境問題、金融問題、難民問題、食糧問題など、グローバルな社会的取り組みによってのみ解決できる問題のことです。このようなグローバルな取り組みのためには、グローバルな取り組みが必要であることがグローバルに共有される必要があります。

②ところで、グローバルな共有が可能なのは、(CNNのニュースのような)断片的な情報です。分厚いコンテクストをもつ知は、伝統を持つ共同体の中でしか共有されません。断片的な情報は、グローバルに共有されることが可能であり、またグローバルに共有されていることがグローバルに共有されることも可能です。つまり、断片的な知のみが、<グローバルな共有知>(これの明確な規定は、今後の課題である)になることが可能なのです。

③他方、社会構成主義のいうように、私たちの世界が、知によって社会的に構成されているのだとすると、社会を構成する知は社会に共有されている<共有知>である必要があります。そして、構成されるのが、グローバルな社会であるときには、それを構成する共有知は、<グローバルな共有知>である必要があります。そして、上記のように、断片的な知のみが、<グローバルな共有知>になりうるのです。

④こうして、グローバルな世界は、断片的な情報で構成されており、その情報は、歴史や複雑な組織化や階層をもたず水平的に並列することになります。グローバルな社会は、断片的で水平的な情報によって構成された、ある意味では薄っぺらな社会です。(200年くらいすると、グローバルな社会そのものも歴史を持ち、分厚いコンテクストをも通用になるかもしれませんが、いまのところ、グローバルな社会は、希薄な共有知で構成されているにすぎません。しかし、それでもそれが私たちの社会の最終の拠り所なのです。)

提案は弱すぎる?

梅雨明けの 空に浮かぶ 金団雲

16 提案は弱すぎる? (20120720)

私たちの提案に対しては、次の問いが向けられるかもしれません。

「ある人達Aが、xは社会によってのみ解決できる問題であると考え、他の人々Bは、それは社会によらなくても解決できる問題であると考えているとしましょう。このとき、xは社会問題なのでしょうか」

この問いに対して、私たちの提案では、次のように答えることしかできません。
「xはAにとっては社会問題であり、Bにとっては社会問題ではありません」
これでは、定義として弱すぎするということでしょうか?

例えば、ある国の内戦状態を、大統領は国内問題であると考えており、反政府運動の人たちは国際社会の支援がなければ解決できない国際問題であると考えている時、もし大統領が反乱軍を鎮圧したとすれば、彼はそれは国内問題として解決されたと言うでしょう。反乱軍の方は、国際社会の支援がなかったので解決できなかったと言うでしょう。
もし反乱軍が勝って民主化が行われたとすると、反乱軍の方は、国際社会の支援によって解決されたというでしょう。大統領は、国内内問題に対して不当な内政干渉があったので、解決できなかったと言うでしょう。

当事者にとっては、このような答えでは不十分です。しかし、このような場合に何が社会問題であるかについて決定できる定義をしようとするのならば、そこに一定の価値判断や規範を持ち込むことが必要になるでしょう。

しかし、そのような価値や規範そのものが社会によって構成されたもの、広い意味の社会制度であると考えられます。そして、この社会制度は、社会問題の解決策として作られ正当化されるものなのです。このように考えようとするならば、社会問題の定義の中には、このような規範や価値判断を持ち込まないほうがよいと思われます。そのほうがむしろより大きな説明力を持つ理論になるのです。

別案の検討

       今日は東京出張でした。

15 別案の検討 (20120714)

前回、次のような「社会問題」の定義を提案しました。
「社会問題とは、クレイムを申し立てる人やグループ自身が社会によってのみ解決できるような問題として申し立てる問題である」

この定義は、
①社会学者が<社会がある機能を持ったシステムとして理解し、その機能に反する逆機能を持つ状態を、社会問題である>と理解するのでは、客観性を持ち得ないという欠点を回避しています。
②キツセとスペクターによる、「社会問題」とは「何らかの想定された状態についてを述べ、クレイムを申し立てる個人やグループの活動(claim-making activity)」であるという定義がもつ、広すぎるという欠点を回避しています。
③クレイムを申し立てる個人がグループの数によって、社会問題とそうでないものを区別ことはできない、という基準をクリアしています。

ここで念の為に別の案を検討しておきたいと思います。

別案1
「社会問題とは、クレイムを申し立てる人やグループ自身が、社会が原因となって生じた問題として申し立てる問題である」
別案2
「社会問題とは、クレイムを申し立てる人やグループ自身が、社会が解決すべき責任のある問題として申し立てる問題である」

別案1の欠点は、<社会が原因となって生じたのではないとしても、社会全体で取り組まなければ解決できない問題>が社会問題から除外されることにあります。なぜなら、それでは困る場合があるからです。例えば、大規模な自然災害の場合に、いかにして復興するかは社会で取り全体で取り組まなければ解決できない問題なのですが、これは社会問題に入れる必要のあるだと考えるからです(さらに理由を問われたら、なんと答えたらよいものでしょうか。)
別案1のもう一つの欠点は、それによると、社会問題が生じるためには、すでに社会が存在していることが前提される、ということです。このとき、社会そのものが社会問題の解決のために創られたと考えることができなくなります。

別案2の欠点1は、<社会に解決すべき責任がないのだが、社会全体で取り組まなければ解決できない問題>が社会問題から除外されることにあります。上に述べた大規模な自然災害の場合がこれに当たります。
別案2の欠点2は、別案1の欠点2と同じことです。

では、<社会全体で取り組まなくても解決できるが、しかし社会が原因となって生じた問題>は社会問題ではないといえるでしょうか。
微妙な美妙なケースでは「社会が原因となって生じた」ということの意味が問題になりそうですが、大抵の場合には<社会が原因になって生じた問題の解決については、社会全体の責任である>と言えそうです。その意味で、その問題の解決は社会がスべきことであるとおもいます。しかし、それは社会問題ではないと考えます。もし社会が解決すべき問題であるにもかかわらず社会が解決しようとしていないのならば、そのときに初めて、社会問題になると考えられます。

別案2の場合も同様です。<社会全体で取り組まなくても解決できるが、しかし社会が解決すべき責任のある問題>は、これ自体が社会問題なのではなくて、社会がこの問題を解決しようとしていない時に、社会問題になります。

このように考えるならば、別案1と2は不要であり、私達の提案1だけでよいことになります。

では、これで十分でしょうか。

日本における人文社会科学の課題の大転換

                新しき 書庫を立ち上げる 七夕の日、
 
 
01 日本における人文社会科学の課題の大転換 (20120707)
 
(以下の主張は、Pacific Division of APA in Seattle, April 6. 2012、での発表“Philosophy in Japan after the WW II”の一部を書き換えたものです。)
 
(1)明治維新以後、日本の人文社会科学にとって、あるいは日本社会にとって、重要な問いは次の二つでした。(これは他の非西洋国にも共通の問いであるかもしれません。)
  ・「西洋近代とはなにか」
  ・「私たちは西洋近代にどう対応すべきか」
 
(a)「西洋近代とはなにか」
日本の大学では明治以後、「西洋(西洋近代)とは何か」を知るために、西洋社会や西洋文化の研究に力を注いできた。(哲学研究でも同様であり、明治以来の日本の思想界にとっては、西洋思想を理解することが非常に重要な課題であり、それは戦後も変わらなかった。戦前から現代にいたるまで、日本における哲学研究の主流は西洋哲学史の研究である。)これは、西洋にどう向き合うかを考えるために、あるいは西洋に追いつき追い越すために、不可欠な研究だったのです。)
(b)「私たちは西洋近代(その哲学)にどう対応すべきか」
 私たちは、西洋近代社会の特徴は、個人主義、民主主義、資本主義、合理主義、科学技術などとして理解してきました。そして、私たちは、これらに対してどう対応すべきか、を問うてきました。それに対する答えは、主に次の3つに分けることができます。
  ①近代主義
  ②復古主義(東洋思想、日本思想)
  ③マルクス主義
この傾向は、第二次世界大戦を挟んでも変わりませんでした。
 
(2)しかし、このような状況は1990年頃に大きく変化しました。その原因の一つは、冷戦の終わりです。これによって③のマルクス主義は力をうしないました。私たちは、それによって社会と歴史についての大きな物語を失いました。他方で、欧米社会を追いつき追い越すべきモデルとして考えた①の近代主義も力を失うことになりました。なぜなら、日本社会はバブルの時期に経済的に欧米社会に追いついたために、欧米社会は、日本が抱える問題を解決するための手本とはなりえなくなったからです。もちろん個別的には、欧米の様々な制度や文化が目指すべきモデルであり続けていますが、社会全体のモデルにはなりえないのです。これは、明治以後の日本にとって初めての状況です。②の復古主義も力を持ちません。バブルのころには一時「日本回帰」が言われて復古主義者たちが力を持ちそうになったことがありました。しかし、グローバル化の時代に突入すると、伝統的なものの復活で対応できないことは自明になったからです。こうして1990年以後には、①②③は答えとなりえなくなった。
 しかし、それだけではありません。実は「私たちは西洋近代にどう対応すべきか」という問いの重要性が失われたのです。それに代わって、緊急の課題として登場した問いが、次の二つです。
  ・「グローバル化とは何か」>

  ・「私たちはグローバルカにどう対応すべきか」
「西洋近代とは何か」よりも「グローバライゼーションとは何か」の方がより重要な緊急の問いになったのです。
 こうして日本における人文社会科学が答えるべき最重要の課題は、大きく転換しました。ヨーロッパ研究の学問は社会的な緊急性を失いました。というよりも、かつて普遍性を主張していたそれらの学問が、ヨーロッパ研究になってしまったのです。
 
 こちらの書庫はどのくらいの頻度で書き込めるか、未定ですが、頑張ります。
 

 
 
 

社会問題とは何か

 
 
              7月の 水田の緑 美しき

              (前回の「ゆすらうめ」と「さくらんぼ」はどうも別のようです)
 

13 社会問題とは何か (20120702)

 
前回の図表が「問答としての社会」を考えるときの基本的な枠組みです。しばらくは、この基本枠組みの説明をします(それが終われば、つぎにこれを拡張したいとおもいます)。まず、もっとも基本的な概念である「社会問題」の説明をしましょう。
 
 社会問題とは何でしょうか。
 まず社会システム論者の理解を紹介します。
「社会問題」という概念が使われ始めたのは、それほど古いことではないだろうとおもいます。社会学での「社会問題」論として有名なものは、マートンの「社会問題と社会学理論」(1969)だろうと思います。そこで彼は、「社会問題とは、ひろい範囲の人々が共有している社会的標準と社会生活の現状との実質的な食い違い」(マートン、1969、p. 417)である。と定義しています。マートンは、このような「社会問題」を、さらに「社会解体」と「逸脱的行動」に区別します。「社会解体」とは、「相関連する地位や役割の社会体系における不適切ないし欠陥」(同書、四四二頁)のことであり、「逸脱的行動」とは、「それぞれの社会的地位にある人々のために設けられた規範からはずれている行為」(同書、446)のことです。この両方は、社会システムの中で、「逆機能」をもつものであるとされます。「社会的逆機能」とは「社会体系の特定の一部分の、その充足すべき要件に対する不適切さ」(同書、464)のことです。
 マートンは、社会システムのなかで逆機能を持つ「役割」「地位」「行為」を社会問題と呼ぶわけです。これによると、何が社会問題であるかは、社会学者が客観的に判断することになります。
 
 これに対して、異議を唱えたのが、社会構築主義です。彼らは次のように考えます。客観的な状態というものについての、専門家の同定が、価値判断とは独立に可能なものではない、とすれば、マートンの立場,つまりある状態が社会問題であるかどうかの判断に関して、メンバーの判断よりも、社会学者の判断を優位におく立場は、無効になります。社会構築主義者であるキツセ&スペクターは、「もしある状態がそれに関わる人々によって社会問題と定義されないのならば、その状態とは、部外者や科学者にとっては問題かもしれないが、人々にとっては問題ではないのである。」(キツセ&スペクター著『社会問題の構築 ラベリング理論をこえて』マルジュ社、1990、p. 67)という。つまり、マートンのいう(学者は気づいているが、当事者たちは気づいていない)「潜在的社会問題」というようなものを認めません。また、逆に、第三者や、科学者が、問題ではないといっても、当事者が間違って社会問題だと考えている「偽の社会問題」というようなものも、認めません。それは、当事者たちが問題であると考えている限りで、社会問題なのです。
 では、社会構築主義者の定義で十分なのでしょうか。
 
 
 

いよいよ本題へ

                                     サクランボ またの名を 桜桃 またの名を ゆすらうめ
 
12 いよいよ本題へ (20120626)
 
以前にも書きましたが、私の仮説は、「社会の規則や組織などは、一人では解決できず集団で取り組まなければ解決できない問題(社会問題)を解決するために作られたものであり、またそのようなものとしてのみ正当化される」ということです。この仮説の説明ないし証明が、この書庫の本来の課題でした。
しかし、それに先立ってこれまで、次の二つの課題を論じてきました。
課題1「人間社会そのものが、一人では解決できず集団で取り組まなければ解決できない問題を解決するために作られたものである」を説明すること
課題2「人格は、個人(あるいは個体)では解決できない社会問題を解決するために作られた制度である」を証明すること
 
どちらも明晰に説明ないし証明ができたとはいえません。それにもかかわらず、まずこれを論じたかったのは、「社会」や「個人」を前提したうえで、当初の仮説(テーゼ)「社会の規則や組織などは、一人では解決できず集団で取り組まなければ解決できない問題(社会問題)を解決するために作られたものであり、またそのようなものとしてのみ正当化される」の証明をするということを避けたかったからです。「社会」や「個人」がどのようなものであり、どのようにして成立するのかをも、このテーゼにもとづいて論じたいと考えたからです。その試みは、現段階では不十分ですが、私が考えようとしていることのあらましを理解してもらえれば、一応の意図は達成できたことになります。
 
―――――――――――――― 
というわけで、いよいよ本題です。次のテーゼの説明をしたいと思います。そして、このテーゼを出発点にして、社会の全体についての包括的な説明を追求したいと思います。
 
テーゼ「社会の規則や組織などは、一人では解決できず集団で取り組まなければ解決できない問題(社会問題)を解決するために作られたものであり、またそのようなものとしてのみ正当化される」
 
 このテーゼを次の図をもちいて説明したいと思います。(以下は拙論「社会問題とボランティアの公共性」の一部からの転載です。)
 

 
 <社会的出来事と社会問題の関係>の説明
 ある社会的出来事は、社会問題の現れ、一事例として「解釈」されたり、「説明」されたりします。逆に、社会的出来事は、ある社会問題があることを確かに示す「証拠」となります。
 ここで、<社会的出来事・社会現象>と<社会問題>を点線の四角形で囲んであるのは、これらが別の現象ではなくて、同一の現象の異なる捉え方だからです。これに対して、<社会問題>と<社会運動>と<社会制度>の3つは社会を構成する、別の現象であって、単なる見方の違いなのではありません。
 <社会的出来事>の説明
 社会の中のすべての出来事が、つねに社会的出来事であるわけではありません。ある出来事を「社会的出来事」として捉えることは、すでに一つの「解釈」です。また、ある出来事を、単なる個人的な出来事とか私的な出来事としてとらえるのも一つの「解釈」です。たとえば、「ニート」(NEET=“Not in Employment, Education or Training”の略語で、英国の労働政策の中から生まれた言葉だといわれる。「無業者」ともいう)について考えてみましょう。この出来事は、当初は単に個人的な出来事と見なされたことでしょう。しかし、類似の出来事が多く観察されるようになると、それはある「社会現象」として理解されるようになります。そして、「社会現象」として捉えられることによって、それは「社会的な出来事」として解釈されるようになります。(もちろん、ある出来事が社会的出来事として解釈されるときに、それが頻出して見られる「社会現象」として解釈されるということを常に介するわけではありません)。また「社会現象」や「社会的出来事」のすべてが、問題を孕んだ困った出来事であるとは限りません。しかしこれが問題を孕んだものと理解される場合、この「社会的出来事」は、「社会問題」の一事例として理解されるようになります。「ニートの増加」は、最近社会問題として認知され始めている。すべての社会問題は、具体的に誰かある人(人々)が困窮するという社会的出来事として現象するはずです。この「ニート」の場合には、その当人や家族が常に困っているとは限らない。しかし、もし多くの場合に当人も家族も困っており、しかもその解決には何らかの社会的な取り組みが必要だと考えられているのだとすると、それは「社会問題」として「解釈」され、「社会的に構成」されていくのです。
 
 <社会問題と社会運動の関係>の説明。
 社会問題とその解決方法についてのある信念が一般的に広まると、その解決の実現を求める社会運動が起きます。大きな事件や災害など一回の社会的出来事が、社会運動を活性化するきっかけになるということもありますが、その場合にも、その社会的出来事が社会問題の現れとして解釈され、その解決方法についての信念が共有されるということが必要です。こうして社会問題は、社会運動の「原因」となります。逆にいうと、社会運動は、社会問題によって「正当化」されることになります。社会運動は、①ある問題が社会問題であることの認知をもとめる活動、②社会問題の解決のための直接的な活動(災害救援など)、③社会問題の解決方法を政府や企業などに政策提言する活動、などに区別することが出来ます。ところで、これら①②③に関して、人々の合意が得られるとは限りません。ある現象を社会問題として認めない人もいれば、解決方法に反対の人もいることが予想されるからです。そのとき、この考えの対立自体が、深刻な社会問題となることもありえます。(このような場合に、公共の議論が必要になります。)
 
 <社会運動と社会制度の関係>の説明
 社会運動は、社会問題の解決の為にある制度の創設や改廃を目標にするということがあります。しかし、社会運動の中には、制度の創設・修正を目標にしないものもあります。たとえば、災害救援のボランティア活動のように、運動そのものが、社会問題の解決である場合があります。したがって、社会運動がすべて社会制度の創設・改廃へ向かうとはかぎりません。また、社会問題は、いわゆる社会運動を経由せずに、直ちに社会制度の創設・改廃によって解決される場合もあります。ところで、社会運動が、社会問題によって「正当化」されるのと同様に、社会制度は、社会問題の解決策としてのみ「正当性」を獲得することができます。ある社会運動自体が別の社会問題を引き起こすことがあると述べたのと同様に、従来の社会制度自体が、社会の変化のために、社会問題の解決のために適切に機能しなくなるということや、別の社会問題を引き起こすということもありえます。この場合には、社会制度は「正当性」を失ったということであり、その制度の修正や廃止が「正当化」されることになるでしょう。
 
 

変な論証の終わり方

                台風で倒れた自転車たち
 
 
11 変な論証の終わり方 (20120620)
 
 「こいつ」「あいつ」などの指示詞、「このひと」「あのひと」などの指示詞+一般名と、ひとの固有名たとえば「ユウちゃん」の違いは、前者は持続的な人格の同一性を必ずしも前提しないということです。
 しかし、人類は、言葉を使用する前に、おそらく持続的な人格の同一性を認識(?)していたとおもわれます。なぜなら、あるTV番組で、雄猿が、自分とメスザルがいるところを撮影したビデオを見て、自分を認識できず、自分が知っている雌猿が別の雄猿と仲良くしているとおもって、興奮するシーンを見たことがあるからです。もしそれのシーンが、本当にそのように理解できるのなら、雄猿は、自己の覚知はできないが、他の個体についてはある程度の長い期間持続する個体の認識ができていることになります。
 したがって、人間もまた利害関心から個体を識別するようになった時、その個体を持続的な連続性をもつ存在として理解している可能性が高いと思われます。もし人間が言葉を持つ前から、持続的な個体識別をしているのだとすると、言葉をもつようになったとき、早い段階でひとの固有名を持つようになったのではないかと思われます。
 もし言語が発生した原因が、自分が敵意を持っていないこと、あるいは互いに敵意を持っていないことを確認することにあったのだとすると、固有名(あるいは人称代名詞)を用いて、自分が敵意をもたないこと表明することもまた重要だったはずだからです。また言語が発生するときには、相手が言ったことがどういう意味なのかたずねたり、自分の言ったことがどういう意味なのかを説明することは、不可欠です。そのとき、単純に聞き返したり、「それは、どういうことですか」とか「それは、こういうことです」などの言い方で説明することもできるが、よりはっきりさせようとするのならば、固有名や人称代名詞で相手や自分を指示して、それについて語ることが必要になります。
 
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 指示詞、固有名、人称代名詞の発生順序や、発生メカニズムについて、ここでこれ以上推測に推測を重ねることはやめにしたいと思います。おそらく次のようにいえるでしょう。
 
 ①持続的な個体の識別は、おそらく言語が発生する前から成立していた。
 ②それゆえに、言語が発生した時に、持続的な個体を指示する表現が登場した。
 
表現(指示詞、固有名、人称代名詞)のそれぞれが、個人では解決できないどのような問題を解決するために作られたのか、を特定することは非常に難しいことです。しかし、そのような問題を解決するために作られたことは、確実なことではないでしょうか。なぜなら、もしそうでなければ、なぜ作られたのか、あるいは仮にあるひとが作ったとしても、それがなぜ集団内で受け入れられ広まったのか、を説明することができないからです。
 
ということで、議論をまとめましょう。
まず次の論証を考えました。
 
  ①人格は、問答ないしその連鎖です。
  ②問答は、言語によって成立します。
  ③言語は、社会的制度です。
  ④ゆえに、人
格は、社会的制度の一つです。
  ⑤社会的制度は、個人(あるいは個体)では解決できない社会問題を解決するめに作られた制度です。
  ⑥ゆえに、人格は、個人(あるいは個体)では解決できない社会問題を解決するために作られた制度です。
 
しかし、この⑤は断定されているだけなので、それに代えて、私たちはつぎのように言い換えることにしたいと思います。
 
  ⑤-1ひとを指示する表現(指示詞、固有名、人称代名詞)は、個人(あるいは個体)では解決できない社会問題を解決するために作られた制度です。
  ⑤-2人格は、ひとを指示する表現の集団内での使用によって、社会的に構成される。
 
以上で、課題であった⑥の論証を終わります。
(以上の論証では、「ひと」「個人」「個体」「人格」などを定義せずに曖昧に使ってしまいましたので、どこかで論証が循環している恐れはないのか、という危惧がのこります。到底厳密な論証とは言えないことを認めます。もし他のご批判があったら、ぜひお願いします。)
 
つぎに問いたくなる問題は、ひとを指示する表現(指示詞、固有名、人称代名詞)が成立することによって、それ以前の個体の識別はどう変化したのか、集団のあり方はどう変化したのか、ということです。群れの遊動生活や、定住生活において、ひとを指示する表現がどのような機能を持っていたのかを、あれこれ想像することもできます。
 
ところで、これらに答えたとしても、それで探求は終わりません。社会制度としての人格のもつ機能は、その発生の時の機能のままであるとは限りません。むしろ、社会の変化に連れて、その機能が変化したと考えられます。ニーチェがいったように、起源と本質は異なる、ということです。
人格の意味ないし機能は、例えば、封建的な儒教思想でのそれと、西洋近代の国家契約論でのそれとでは、異なります。さらにこれらは、グローバル化した現代の人格のあり方とも異なります。
 
これらについては、問答としての社会の分析をもっと進めたあとで、行うのが良いと思います。そこで次にいよいよ、「問答としての社会」の本論に入ろうとおもいます。