言語の起源について

 
     a Japanese balloon bombe の説明文です。
 
 
 
05 言語の起源について (201205015)
 
(言語起源論という悪名高い深みにはまってしまって、しばらく思弁的な勝手な推量を語ることになりそうです。)
 
復習ないし議論の再構成をしたいと思います。
 
「動物の群れと人間の社会を区別するものはなにだろうか?」
これに対して、「言語の有無だ」と答えると仮定しよう。
 
もし言語の有無によって、動物の社会から人間の社会を区別できるのだとすると、私たちは、次のような社会の定義を仮定することもできるだろう。(この二つの仮定が、必然的に結合しているのかどうかを検討してみる必要があるが、それはまだ未確定である)
 
仮定「個人では解けない問題を解決するために作られたものが、社会(社会制度)である。個人では解けない問題を解決しようとする活動が、社会運動である。社会制度や社会運動はそのようなものとしてのみ正当化されうる」
 
このように考えた時に「言語は、社会制度なのかどうか」という問いにはどう答えることになるのだろうか。これに対する答えには、肯定と否定の答えが可能であり、アンチノミーになりそうだ、と前回のべた。
 
しかし、この問いに対しては、とりあえず、次のように答えることにしたい。
<言語は、個人では解けない問題を解決するために作られたものである。それゆえに、社会制度であるように見える。しかし、言語によってはじめて解決される個人では解けない問題は、当事者が言語で考えている問題ではない。したがって、「言語は、個人では解けない問題を解決するために作られた」と言えるとしても、それは当の個人による理解ではなくて、記述する者が「個人では解けない問題」であると記述しているにすぎない。>
 
では、「言語を生み出すことになった、個人では解けない問題とは何であったのだろうか?」
これに対して、以下で提案したい答えは、次のとおりである。
「言語が成立するには、共有知の成立が前提となるだろう。そして、その共有知の成立が、個人では解けない問題を生み出したのだろう。」
 
(もし、類人猿は共有知を持たないとすると、言語を生み出すことになった、個人では解けない問題を解いたのが人間であり、解けなかったのが類人猿であったとは言えないことになる。つまり、言語を生み出すことになった、個人では解けない問題は、そもそも類人猿には生じなかったのだ、と言うことになる。このように考えるとき、「言語ではなくて、共有知が、動物の群れと人間社会を分けるものだといえるのではないか」という疑問が生じる。これについては後で考えよう。)
 
まずは、共有知によって生じた個人では解けない問題とは何であったのかを、推測してみよう。
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言語の発生や学習において、発話の意味を理解するよりも、次の①や②の理解が先行するだろう。(Davidsonは発話の意味の理解よりも、主張という発語行為の理解が先行すると考えた。ところで、発話は主張型発話には限らない。命令、警告、依頼、約束等々のその他の発語内行為もある。命令と警告の区別や、依頼と約束の区別などは、発話の意味の理解ないし想定なしには大変難しいだろう。主張しているのか、約束しているのかの区別についても、発話の意味の理解なしには難しいのではないだろうか。しかし、より曖昧な仕方でのつぎのような理解は、発話の意味の理解や、発語内行為の理解に先行して可能なのではないだろうか。)
 
①何かを伝えようとしていることの理解
②何かに注意を向けようとしていることの理解
 
例えば、外国人が何かを伝えようとしているが、何を伝えようとしているのか、わからないということがあるかもしれない。たとえば、質問しているのか、何かを依頼しているのかわからないことがあるだろう。そのときでも、彼女が何かを伝えようとしていることはわかるだろう。例えば、誰かが何かを指さして、大声を出しているとすると、何を指示しようとしているのかはわからないとしても、何かに注意を向けようとしていることがわかるだろう。
 
ところで、私たちは、次の二つの理解を区別できる。
 
(1)内容はわからないが、相手が何かを伝えようとしていることを理解すること
(2)相手が伝えようとしている内容を理解すること
 
この(2)が成立しなくても、(1)は成立しうる。(ところで、(2)が成立するときには、(1)が必ず成立していると言えるかどうかについては、ここでは未確定にしておきたい。)
 
この(1)と(2)の各々について、共有知が成立しうる。
(1)の理解についての共有知は、(2)の理解や(2)の理解の共有知がなくても成立しえる。
((2)の理解の共有知が成立するときには、(1)の理解の共有知が必ず成立するかどうかは、ここでは未確定にしておきたい。)
 
共有知とは何かを説明してから、それが生み出す個人では解けない問題を説明しよう。
 
 

群れをつくる理由

 第二次大戦中に日本軍が放った風船爆弾は、ここOmahaで爆発しました。しかし、けが人は出なかったそうです。 このあたりは、Omahaのビバリーヒルズとよばれているところです。
 
04 群れをつくる理由 (20120509)
 
Wikipediaで調べると、動物が群れを作る理由としては、次のようなものが指摘されているようだ。
  ・他の種の動物から身を守るために集団でいた方が有利。
  ・餌をとるのに、集団の方が有利
  ・過酷な環境に耐えるのに、集団でいた方が有利
  ・生殖相手を見つけるのが容易
群れを作るデメリットとしては、次が考えられているようだ。
   ・仲間から攻撃を受ける可能性がある
 
さて、人類の祖先の動物が群れを作ったとき、上記のような理由であったとすると。個体では解決できない問題を解決するために群れを作った、といえる。また、森の中からサバンナへと群れとして移動したのだとすると、それもまた、個体では解決できない問題を群れで解決したといえる。
 
このような群れが、次の仮説「社会の規則や組織などは、一人では解決できず集団で取り組まなければ解決できない問題(社会問題)を解決するために作られたものであり、またそのようなものとしてのみ正当化される」を前提するときに、「社会」だと言えるかどうかは、「問題を解決するために作られた」をどのように解釈するかに依存する。
 
たとえば、チンパンジーが、固いクルミの実をとるために、石をつかって、殻を壊しているとしよう。「チンパンジーは、石を使うことによって、「どうやってクルミの実を取り出すか」という問題を解決したのだ」と語ることができる。しかし、そのように語るのは人間である。チンパンジー自身が「どうやってクルミの実をとりだすか」という問いを立て、それに答えたのではない。「問題を解決する」によって、<言葉にして問いを立て、それに答えること>を意味するなら、このような意味で社会を作るのは、言語を持つものだけである。このような意味で「社会」を理解するなら、社会が登場するのは、言語の発生の後である。
 
オーストラろピテクスが、霊長類のなかで出現するまえから、人類の祖先は群れで生活していたかもしれない。もしそうだとすると、群れを作った時に、言語を持っていなかったことは確実である。 言語は、群れの生活の中で出現したのだといえる。
 
言語そのものは、社会制度だと言えるだろうか。先の仮説を採用するとき、言語は社会制度になるのだろうか。言い換えると、言語は、個人では解けない問題を解決するために作られたものだといえるだろうか?「そのとおり」と答えたくなる。
しかし、他方では、言語が何かの問題解決のために作られたとしても、その問題はまだ言語化されていないはずである。したがって、この仮説によれば、言語は社会制度ではないことになる。
 
これをどう考えたらよいだろうか。
 
 
 
 
 
 

社会とは何か?

Central High School in Omaha
OmahaはKripke が生まれた街です。この高校がKripkeの通っていた高校です。
アメリカは高校も大学も大変立派です。アメリカは教育を大切にしているし、子供たちを大変大切にしているという印象を受けました。
 
01 社会とは何か? (20120423
 
この問に対する答えには、次のようなものがある。
 
社会は有機的な全体であるとする立場(ヘーゲル)
社会は個人から構成されると考える立場(ホッブズ)
社会は行動から構成されると考える立場(パーソンズ)
社会はコミュニケーションから構成されると考える立場(ルーマン)
 
この問いに答えるためには、「社会」という語で何を指示するのかを、確定する必要がある。その指示対象xについて、「xは何か」と問い、それに対して「xは○○である」と答えたものが、上記の様々な答えである。上記のような答えを検討する前に、まず「社会」で何を指示するのかを、検討する必要があるだろう。
 
「社会とは何か?」に答えるには、その前に、「「社会」で何を指示するのか?」を問う必要がある。
 
 
 
 
 

三つ巴:人格・言語・問答

                                    春を迎え 嵐の予感の 出張前
 
三つ巴:人格・言語・問答 (20120403)
 
問題は、こうでした。
「ヒトはなぜ「人格(ひと、人物)」という概念を必要とするのか?」
「わたしたちはなぜ自分探しをするのか」
 
箕面の滝の近くに沢山のサルが住んでいる。サルは、食べ物と食べ物以外のものを識別できる。サルとサル以外の動物も区別できるだろう。また、群れの中の他の個体の識別もできるだろう。つまり、他の個体の同一性を認識している。そして、他のサルとエサなどをめぐって争うことがあるだろう。つまり、そのときサルは、自分のエサや、自分の安全を確保しようとしている。このようにして、私たちは、サルの行動を記述するとき、「自分」という語を使用する。しかし、それは擬人法である。サルは、自分の観念や自己意識を持っているかのようなふるまいをするだけである。サルは、鏡を見せられても、その中に写っている個体が、自分であることが認識できない。そこに他の個体が写っていると考えるのだ。自分のvideo映像を見せられても、自分だとはわからない。サルが自分と彼女の親密そうな映像を見せられた時に、他のオスと自分の彼女が親密そうにしていると思って、怒り出すというというTV番組を見たことがある。
 最近自動掃除機が売りだされている。それは室内を移動しながら掃除をして、その電池残量が少なくなると、自動的にベースとなる機械のところに戻って充電するようになっているそうだ。それを私たちが観察するとき、「その機械は自分の電池残量を常に一定以上に確保しようとする」と記述することもできる。このように「自分の電池残量」という言葉でその機械の振る舞いを記述するが、しかしその機械が「自分」という観念を持っているとは考えていない。この記述も一種の擬人法である。(この場合には、「それの電池残量」と言い換え、また「確保しようとする」という意図を思わせる表現を、「保つようにふるまう」と言い換えれば、擬人法を避けられる。)
 サルがよくできた機械だとすると、「サルが自分のエサを確保しようとしている」という記述は一種の擬人法である。サルは、知覚したり、感情をもったり、欲求をもったりしているように見えるし、またそのように記述できるような振る舞いをする。しかし、この場合「知覚」や「感情」や「欲求」という語をどのように理解するかについては、多様な可能性がある。したがって、「サルは欲求をもっている」という文の意味は多様であり、どのような意味においてそれが真であるのか、難しい問題が生じる。また、「サルは自分の仲間であるサルの観念を持っている」とか「サルはエサの観念をもっている」などの文についても、文の意味は多様であり、どのような意味においてそれが真であるのか、難しい問題が生じる。(ここには、クワインの「言語と事実の解離不可能性テーゼ」や、デイヴィドソンのいう「意味と信念の相互依存性」という問題がある。)
 この困難に対処するために、ここでは、とりあえず、「観念をもつことは、言葉をもつことなしにはあり得ない」と前提する(これの証明は別途必要である)。そうすると、サルが「自分」という観念を持っているかどうかを言うことはたやすい。<サルは言葉をもたない。ゆえにサルは「自分」の観念を持たない>となる。
 ところで、「観念をもつことは、言葉をもたないではあり得ない」と前提すると、「人格」の観念を持つためにも、言葉を持たなければならないことになる。しかし、言葉を持った後に、一つの観念として「人格」の観念を持つようになるというのではないだろう。ヒトが言語を獲得するために、また幼児が言葉を学習するためにも、言語表現そのものへ言及することが必要である。「「デンキ」は、・・・という意味ですか」と尋ねることができなければ、「デンキ」という語を習得できないだろう。また話し手や聞き手に言及できなけければ、「あなたは今何といったのですか」と尋ねることができなくなり、言語を学習できないだろう。人称代名詞の習得は、固有名の習得よりも遅れるので、まず最初に「○○ちゃん」という固有名や、固有名として使用される「ママ」などの語を習得しなければ、話し手や聞き手への言及は不可能であり、言語の学習はできなくなるだろう。AさんがBBさんは自分への言及ができる必要がある。おおそらく最初の段階では、「○○ちゃん」というような固有名を理解するという仕方で、自分を言及するようになるのだろうが、とにかく自分への言及が必要である。ここに「人格」概念の萌芽がある。もし「人格」概念が普遍的な概念であるとすると、「ぼく」や「あなた」という人称代名詞を使用し始めるころが、「人格」概念の萌芽になるというべきかもしれない。
 このように言えるとすると、言語を使用するためには、「人格」概念が必要である。これに基づいて、「ヒトはなぜ「人格(ひと、人物)」という概念を必要とするのか?」に答えるならば、「なぜなら、言語を使用するためには「人格」概念が必要であり、かつ、ヒトは言語を必要とするからである」と答えることになる。
 
 では、「ヒトは、なぜ言語を必要とするのだろうか?」ヒトが生物として存続するためには、自分の餌を確保したり、自分の安全を確保することが必要である。それを行う上で問題状況を言語で明確に語り、その解決に取り組むことは、非常に有用である。もし問題が、<事実についての認識>と<欲求や意図>の矛盾から生じるのだとすると、問題を言語で明確に語ることは、言語で世界の状況を客観的に記述し、自分の欲求や必要を言語で明確に語ることによって可能になる。そして「自分の欲求」「自分の必要」を言語で明確に語ることは、「私は…したい」「僕は・・・する必要がある」などの表現になるだろう。つまり「人格」概念を必要とするだろう。
 
 思弁(経験的な証拠に基づかない議論)が過ぎるような気もするが、ヒトが生物として出会う問題に有効に対処するために、言語も生まれたし、人格概念も生まれた、と言えるのではないだろうか。
 
 明日から出張です。次回は多分出張先からuploadします。
 
 

ここまでの復習

 
 
 

                  ハナミズキ 異国から来て 百周年
 
1912東京市尾崎行雄が、アメリカワシントンD.C.ソメイヨシノ)を贈った際、1915にその返礼として贈られたのが、日本のハナミズキの始まりだそうです。今年が桜の寄贈100周年だそうです。(Wikipediaより
 
 ここまでの復習 (20120328)

 

この書庫の課題は、「人格は、問答ないし問答の連鎖である」というテーゼを説明し、証明することだった。
 
①問題とは現実認識と意図の矛盾であり、そのような問題を解決するために、私たちは問いを立てる。
②私たちが生きることは、行為することであり、行為を構成する実践的知識は問いに対する答えとして成立する。これらの問いは、問いの連鎖のなかで成立している。したがって、私たちが生きることは、問いの連鎖である。
③人格とは、問題群の束の連続的な変化である。
④人格の同一性を個人の記憶で保証することはできず、Davidsonのいう「三角測量」を必要とする。三角測量によって人格の同一性は、公共的に保証される。
⑤しかし、三角測量によって人格の同一性を保証することは、もし三角測量が人格を前提しているのなら、循環論法になるように見える。この問題を解決するために、人格の同一性を区別した。
⑥短期・中期・長期の人格の同一性の区別
 (1)三角測量と同時に成立する人格の同一性(短期の同一性)
 (2)計画する人格の同一性
  (2-1)単に計画する人格の同一性(中期の同一性)
  (2-2)約束する人格の同一性
     (2-2-1)社会制度に関わらない同一性(中期の同一性)
     (2-2-2)社会制度に関わる同一性(長期の同一性)
⑦<計画する人格の同一性>は、計画の設定、実行、変更などの合理性が問答によって構成されることによって構成される。
⑧<約束する人格の同一性>は、共同計画の設定、実行、変更などの合理性と、責任の発生、継続、変形、解消などの合理性が問答によって構成されることによって構成される。
 
まだ残されてる課題は多い。たとえば次のようなものである。
 
①三角測量が前提すると同時に三角測量によって保証される<短期の人格の同一性>の分析を行う必要がある。
②問答としての人格について、これ以上に分析を進めようとすると、「合理性」「自由」「責任」などの概念の分析を行う必要がある。
③廣松渉の行為主体論との対質。
④大庭健の責任論との対質。
⑤永井均の<私>論との対質。
 
これらの課題のうちの多くは、<人格と社会との関係>の分析を必要とするだろう。あるいは、人格と社会の関係の分析の後で、この書庫記述の多くを見直す必要が出てくるかもしれない。そこで、次に別に書庫をたて「人格を構成している個人問題が、社会問題とどのように関係しているのか」を考察したい。
 
しかし、その書庫に移る前に、そこでの議論との接続を考えて、考えておきたい問題がある。それは次の問題である。
「ヒトはなぜ「人格(ひと、人物)」という概念を必要とするのか」
「わたしたちはなぜ自分探しをするのか」
 
 
 

約束を守る義務はどのようにして発生するのか

 
                                                まどろむは、私か猫か 梅の下
 
約束を守る義務はどのようにして発生するのか  (20120323)
 
 ここでは上記の宿題に答えよう。
 
 前にもふれたが、約束における誠実性の義務は、嘘をつかないという義務の特殊ケースである。しかし、「おなかが減っていませんか」と問われて「はい減っています」と答えるときの誠実性と、「この本をくれますか」と問われて「はい差し上げます」と答えるときの答えの誠実性は、次の点で異なる。
 前者は現在の状態についての発言である。これが嘘でないとは、これの真偽に関係なく、発話者がこの返答を真であると思っているということである。後者は未来の行為についての発言である。これが嘘でないとは、発話者が実際にその本を挙げるかどうかに関係なく、発話者がその本をあげようと思っているということである。前者には真理値があり、後者には真理値がないという違いがある。
 
 人格論との関係で重要な差異は、前者は、発話者の現在の状態(おなかの減り具合)にコミットしているだけであるが、後者は、発話者の未来の行為にコミットしている点である。計画を立てるときと同様に、約束するときには一定の未来にわたる人格の同一性にコミットする。しかも、計画の時には、一定の未来にわたり人格の同一性を保持する責任はないが、約束の場合には、一定の未来にわたり人格の同一性を保持する責任が発生する。ここでは、人格の同一性を保持する責任だけでなく、そのような人格としてある行為を履行という責任が発生する。
 
 いつの間にか、約束を結ぶときの誠実性の義務が、約束の履行の義務に変わっているように見えたかもしれない、つまりこの二つの義務は不可分であるように見えたかもしれないが、そうではない。この二つを区別することは、次の二つを区別することと類比的である。
 
 「私のおなかは減っていません」という発話が誠実であるとは、発話者がその発話を真であると思っているということである。しかし、このような主張型の発話を主張するときには、誠実に発話していることだけでなく、つまり発話が真であると思っていることだけでなく、実際に発話が真であることに責任を持つことになる。誠実に主張する義務と、発話が実際に真であることに責任を持つことは異なる。これと同様に、誠実に約束する義務と、約束を実際に履行することに責任を持つことは異なる。
 約束を守る義務が発生するのは、何かを主張した時に、それが真であることを立証したり保証する義務が発生するのとよく似たことである。たとえば、何かを主張して、後で実際にそうでないことが分かった時には、彼は何らかの仕方で責任をとる必要があるだろう。これは、約束をして、それを履行しないとき、何らかの仕方で責任をとる必要があるのと同様である。
 
 主張の発話にせよ、約束の発話にせよ、相手に何かを語るとき、相手に何らかの責務を負うことになる。不誠実な主張であっても誠実な主張であっても、主張内容についての立証責任を負うことになる。同様に、不誠実な約束であっても誠実な約束であっても、約束の履行の責任を負う。
 約束の履行の義務は、おそらくは約束や主張に限らず全ての発話の場合にも生じている責任の特殊ケースなのである。
 
 次回は、これまでの流れを復習したい。
 

 
 

約束の誠実性と人格の同一性

 
 
 
■脇道:カントのうっかりミス2つ
 
うっかりミス1:カントは『純粋理性批判』序論で、数学の全ての命題は、アプリオリな綜合判断であると言う。カントにとって、数学とは幾何学と算術のことである。しかし、前回引用したように「三角形を作るには三本の線を引かなくてはならない」は分析判断である。それゆえに、<数学の全ての命題は、分析判断であるか、アプリオリな綜合判断である>とすべきだったことになる。
 
うっかりミス2:前回引用したように、カントは、「[三角形の]その二本の長さの和は三本目よりも長くなければならない」をアプリオリな綜合判断であると述べている。この命題はユークリッド原論の「命題20」にあたる。「命題」は「公理」から論理的に導出されたものである。ところで、「公理」がアプリオリな綜合判断であるので全ての「命題」(定理)はアプリオリな綜合命題になる、とカントは考える。これはよいだろう。しかし、この命題が定理である以上、これは公理から導出可能である。つまり理性の推論によって証明可能である。この点が、前回の引用部分「理性の推論によって証明することが不可能である」は、うっかりミスではないだろうか。(もちろん、前提をさかのぼって、公理まで行けば、理性の推論によっては証明できないので、究極的には証明不可能である。しかしそのような意味で「証明不可能である」と言ったのではないだろう。もし、そう言うならば、形式論理学においても、公理はもはや証明可能ではないのだから、全ての命題は、証明不可能になる。)
 
(念のためにいうと、前回は、約束をするときの誠実性と、約束を履行する義務を区別するために、カントに言及したまでであって、それ以上ではない。ここではカントの主張に依拠するつもりはない。なぜなら、カントの道徳論も法論も、「人格」を前提しているからである。それに対して、この書庫での私の課題は、「人格」概念を分析することである。
 ロックのような経験論では、全てが感覚に還元されてしまうので、人格の同一性をどう考えるかが、問題になったのだが、カントを含むドイツ観念論では、「超越論的な統覚」としての自我を想定するので、「人格の同一性」はほとんど問題にならなかった。)
 
■約束の誠実性と人格の同一性
以前に確認したように「約束の拘束力は、人格の同一性を義務にする」そこで、前回の最後に宿題「約束を守る義務をどう説明するのか」を立てたが、ここでは、その前に次の問いを考えておきたい。
 
問い「約束の誠実性は、人格の同一性とどう関係するのか?」
 
 たとえば、「来週の日曜日1時に会いましょう」と誠実に約束をすることは、少なくとも来週の日曜日までの人格の同一性を前提している。Davidsonの「三角測量」の議論が正しいとすると、私たちが何らかの信念を持つためには、他者とのコミュニケーションが必要である。したがって、私が計画を立てるためにも、潜在的には他者とのコミュニケーションが必要である。三角測量の議論では、「来週の日曜日に一時にyさんに会おう」という発話が有意味であるためには、私的言語であってはならず、公的でなければならず、したがって他者とのコミュニケーションが必要だ、と言うことであった。
 
 しかし、約束が成立するときには、計画の信念を持つために他者とのコミュニケーションを必要とするのとは、別の意味で、他者とのコミュニケーションを必要とする。「来週の日曜日1時に会いませんか?」と問われて、「はい、そうしましょう」と答えることによって、約束が成立する。約束するには
相手が必要であり、約束の発話は他者との会話の中で、より明確には上のような問答において成立する(あるいは、約束が曖昧であった場合には確認の必要があるが、それは問答によって可能になる)。
 
 これについては、二つの解釈が可能である。
 第一の解釈:xさんがyさんから「来週の日曜日の1時に会いませんか」と問われて「はい、そうしましょう」と答えるときに、yさんの問いとxさんの答えの間に、次のようなxさんの自問自答が行われている。「来週の日曜日1時にyさんに会おうかどうしようか」「会うことにしよう」
 第二の解釈:他者に問われてこたえるときに、上記のような自問自答が行われる場合もあるが、しかし他者の問いを理解し、それを自問しなおすことなく、直接に返答することもあるだろう。迷う必要のないような簡単な問いかけの場合にはそうである。
 
 おそらくは、第二のあり方がより基底的である。他者との問答を、自分一人で再現することによって、一人で考えることができるようになり、第一のあり方が可能になるのだろう。(もっとも、これが正しいかどうかは発達心理学での検証を待たなければならない。)
 
 この書庫では、<人格は問答であり、人格の同一性は問答の連鎖である>を説明し証明しようとしてきた。その際<問いは、現実認識と意図の矛盾から生じ、その現実認識と意図はそれぞれ別の問いの答えとして成立している>と考えてきた(これはこの書庫での前提であり、証明はしていない)。約束の発話「来週の日曜1時に会いましょう」というxの意図は、問いへの答えとして意味をもち得るのだが、もし第二のあり方がより基底的だとすると、その問いは、他者からの問いかけである。その問いは、「ある事柄を月曜日までに決めたい」というxとyの意図、しかし「土曜日まではxさんは出張している」というxとyの現実認識、そこで出てきた解決策の一つが「日曜の1時に相談する」である。「日曜の1時に会いませんか」という問いは、次の矛盾から発生する。「ある事柄を月曜日までに決めたい」というxとyの意図と、その意図を実現するための方策が未決定であるというxとyの現実認識との矛盾である。このように、他者の問いに答えるためには、問の共有が必要であり、そのためには問の前提である現実認識と意図(欲望、課題、計画など)の共有が必要である
 
 もちろん、現実認識や意図が全く違っているのに約束するということ(同床異夢)もありうるが、それは約束の基本的なあり方ではない。(これに対しては、「同床異夢こそが約束の基底であり、約束はいつ底割れするかわからない」という反論があるかもしれない。しかし同床異夢の場合であっても、約束によって、互いの行為調整ができている限りにおいて、何らかの現実認識や意図を共有していると言える。)
 
もし前々段落のように言えるとすると、約束は、現実認識と意図の共有に基づく共同計画として、成立することになるだろう。約束することは、共同計画の一部として人格を構成することである。誠実に約束するとは、誠実に共同計画の一部となることであり、不誠実に約束をするとは、共同計画の一部となっている振りをすることである。
 
 
(考えながら書いているせいで、結論から書き出せなくて、話が必要以上に複雑になってしまってすみません。)
 
 

<約束>と<人格の同一性>について

                                 梅の枝 生きる力の 優しさよ
 
<約束>と<人格の同一性>について  (20120304)
 
 前回までに確認したことは、私たちは計画を立て実行することによって、自己の人格の同一性を構成するということである。この文脈では、私たちが<人格の同一性>を構成する必要は、計画の必要性に由来しており、これはさらに、計画を必要とするような欲望に由来している。(この欲望は、おそらく、<<ある未来の時点t1が来れば、行為xを行おう>という形式の意図を実現することよって実現が可能になるような欲望>であると思われるが、これの検討には入らない。)
 
 (「人格の同一性」という概念とすることと、ある種の欲望は、おそらく同時に成立する。私たちが「人格の同一性」という概念を必要とするのだとすると、その概念の獲得は、それ自体が、おそらく何らの問題の答えの獲得になっているのだろう、と推測する。これについては、今後の宿題にしたい。)
 <計画する人格の同一性>について検討すべきことは、他にもありそうだが、とりあえずこれだけにして、次に進みたい。
 
 今回から説明したいことは、<約束>と<人格の同一性>の関係、言い換えると<約束>と<問答の連続性>の関係である。
 
 ところで、約束には次のようなものがある。
  ・自分との約束(?)
  ・他人との約束
  ・組織との約束(会社との雇用契約はこれに含まれる)
 
このなかで基本的なものは、<他人との約束>だろう。<他人との約束>を次のように分けることができる。
  ①法的な契約など、国家などの組織を介して成立する他人との約束
    (法的な婚姻はこれに属する)
  ②国家などの組織を介しない他人との契約
 
ここでは、②だけを扱いたい。(①については、国家や組織を考察するときに、扱いたい)
 
 まず、②と計画の違いを、簡単な例で確認しよう。
 「明日の朝10時に会いましょう」という提案に「はい」と答えた私は、明朝10時にひとと会う約束したことになる。10時にそこに行くためには、8時半には家をでなければならず、そのためには7時半におきなければならず、そのためには、12時ころには寝たほうがよい。約束をすると、それを実行するために、このように行動計画を立て、実行する必要が生じる。約束が単なる計画と異なるのは、何らかの事情が生じても、私一人で約束を解消したり、変更したりできないということである。
 
 次に<計画する人格の同一性>と<約束する人格の同一性>の類似性と差異を確認しよう。
 <約束をし、実行し、時に約束を変更すること>は、ある意味では<計画を立て、実行し、変更する>ことと似ている。これらのプロセスを通じて<人格の同一性>を主張できるのは、それらが合理的に行われているからであり、言い換えると、問答によって行われているからである。(この点で、計画する人格の同一性と類似している)
 
 ただし、約束の場合には、一人で勝手に約束したり、勝手に変更したりできない。つまり、約束は拘束力を持つ。もし約束した人格が現在の私の人格と同一でないならば、私には約束を守る義務はなく、したがって約束を破ることもできない。私は謝罪する必要がないからである。例えば、もし私が記憶喪失のために約束したことを忘れてしまっていたら、私には約束を守る義務はないだろう。なぜなら、私は約束した時と同じ人物ではないからだ。したがって、<私の人格に連
続性がないならば、私には約束を守る義務がない>
といえる。これの対偶は、<私に約束を守る義務があるならば、私の人格には連続性がある>となる。
 
 ところで、私が約束を破ることは、物理的には可能である。その場合にも、私の身体は同一性を保っている。では、人格の同一性についてはどうだろうか。もし私が約束を破ったことを認め、謝罪するのならば、私の人格の同一性は保たれているといえるだろう。
 私が、約束したことをうっかり忘れていたのだとすると、私は約束していたことを指摘されてすぐに思い出すだろう。そのときには、謝罪するだろう。そのとき、私は(私自身にとっても、相手にとっても)約束した人物と同一人物であり、約束を守る義務を負う。
 
 <約束を守る義務を負うとは、もしその義務を履行しなかったときには、責任をとる義務を負うということである。もし責任を取らなかったならば、責任を取らなかったことについての責任をとる義務を負うということになるだろう。一旦背負った義務は、もしそれが履行されなければ、形を変えて別の義務となり、履行されるまで、どこまでも迫ってくる。>
 
 したがって、次が帰結する。
 <一旦約束をすると、仮に約束を実行しないとしても、実行しないことについての責任をとることを要求され、私は同一人物であり続けることを要求される。>
 
 つまり、<約束の拘束力>は<人格の同一性>を義務にする
 
 では、なぜ<約束の拘束力>が生まれるのだろうか。
 
 
 
 

<約束>の前にもう一点

    
                        
 
                                         花を待つ 桜の枝の 頼もしさ
 
 
 <約束>の前にもう一点 (20120227)
 <約束する人格の同一性>を論じる前に、<計画する人格の同一性>についてもう一点検討しておくべきことがあった。
 前回までは、<単に計画する人格の同一性>について説明した。<計画する人格の同一性>を構成しているのは、様々な計画の設定、実行、修正などの調整の<合理性>であり、それは計画の調整のための問答によって保証された。この計画調整のための問答の連鎖が、<計画する人格の同一性>に他ならない。
 以上の説明は、計画と<人格の同一性>の共時的な関係、あるいは構造的な関係である。
 それでは、発生の上で、計画と<人格の同一性>はどのように関係しているのだろうか。(<約束>について考える前に、これを考えておきたい。)
 
 ここでは、計画の設定と実行を分けて考える必要がある。
 計画を実行するためには、実行する期間にわたる人格の同一性が必要である。
 では、単に計画を立てるだけのためなら、実行する期間にわたる人格の同一性は必要ないのだろうか。そうではない。実行する期間にわたる人格の同一性は「計画」そのものの中に組み込まれているはずであるので、計画を立てるときに、すでに実行する期間にわたる人格の同一性が想定されている。そして、計画を立てただけの時点では、計画を実行するための人格の同一性は、未来の事柄である。たとえば「丸太小屋を建てる」という計画を立て時点においては、計画を実行する過程は未来の事柄である。未来にわたる人格の同一性は、現在の私の期待の内容にとどまる。
 計画を立てることは、同時に、実行プロセスにおける人格の同一性を期待ないし想定することでもある。計画を実行することは、その期待した人格の同一性をまさに実現する過程でもある。普通の大人のように、これまでに、計画を立て実行した経験があるならば、その経験によって形成された過去の<人格の持続>を未来に期待して、それを実現することができるだろう。
 では、生まれて初めて計画を立てる場合はどうだろうか。その場合であっても、自覚的に事前に計画したのではないが、結果として振り返ってみれば、時間経過を必要とする仕事を成し遂げた、(たとえば、家から小学校まで歩いて行くというようなこと)という体験がもしあれば、つぎにはそれを事前に意図して、学校に行くこと、あるいは他の場所に行くことを計画することが可能になるだろう。
 計画を立て実行する体験を重ねれば、次第により長期のより困難な計画を立て実行することもできるようになる。こうして私たちは、さまざまなスキルを身に着けるとともに、自分が何者であり、何ができるか、何ができないか、を理解するようになる。
 
 もう一度整理すると、私たちは過去の<人格の持続>の体験をもとに、未来の<人格の持続>を必要とする計画を立てる。そして、それを実行することによって、<人格の持続>を実現する。もちろん、うまくゆかないこともあるし、計画を修正することもあるだろう。しかし、発生の上での、計画と<人格の同一性>の基本的な関係は、このようなものであろう。