反論への不十分な応答

 
年末に訪れた鳥取砂丘です。
 
「反論への不十分な応答」です。
 
予想される反論は次のようなものだった。
 
「三角測量は、私や他人の存在を前提している。したがって、三角測量によって、(私や他人の)人格(の同一性)の成立を説明することは循環論証である」
 
「三角測量は、私や他人の存在を前提している」という反論者の主張を確認しておいた方がよいだろう。三角測量についてDavidsonは確かにそのように主張している。
 
「二つの視点があって初めて、思考の原因に場所が与えられ、ひいては、思考の内容が定まる。それはある種の三角測量とみることができる。つまり、二人の人物の各々は、一定の方向から流れ込む感覚刺激に別様に反応している。刺激が流れ込んでくるさいの通路を外部へ引き延ばすと、その交点が共通の原因である。二人の人がお互いの反応(言語の場合なら、言語的反応)に気づくとするなら、各人は、それらの観察された反応を、自分が世界から得た刺激と結びつけることが出来る。こうして共通の原因が特定される。これによって、思考と発言に内容を与える三角形が完成する。しかし、三角測量のためには、二人が必要である。328
 
彼はこの最後の部分で「三角測量のためには、二人が必要である」と述べている。
 
Davidsonは論文「自己の概念の還元不可能性」(『主観的、観主観的、客観的』清塚邦彦、柏端達也、篠原成彦訳、春秋社)のなかでも「二人の人物と一つの共通世界からなるこの基本的な三角形は、我々がそもそも思考を持つならば、気付くはずのものの一つである。」(邦訳、146)と述べている
 
彼は、人物についての知識がどのようにして発生するのかについて、次のように語っている。
 
「私が、その文を発話したのであれば、私はそれを発話したのが私であるということを観察することなく知っている。このようにして私は、「そこ」(「ここ」、「私の後ろに」)、「それ」(「これ」)、「今」(「明日」、あるいはすべての時制化された動詞)、「あなた」といった語をしようすることにより、自分自身を様々な場所や物体や時間や他の人々と関係づけるのである。この方法以外に自分を公共的世界の中におく方法は存在しない」(邦訳、145
 
おそらく次のように考えているのであろう。<自分の心や発話についての知識は、物についての知識や他者の心についての知識との関係づけの中で成立する。知識が成立するときに、二人の人物についての知も成立するが、それらは互いに関係づけあう中で同時に発生するのだと思われる。> Davidsonは、明言していないが、おそらく人格の発生と三角測量の発生は同時なのである。
 
しかし、これではおそらく反論者は納得しないだろう。
 
 
 
 

正月に感じたこと

お雑煮です。
 
おめでとうございます。
この正月に感じたことを二つ記します。
 
(1)東アジア文化経済共同体?
久しぶりにvideoを借りに行くと、韓流映画のコーナーだけでなく、華流映画のコーナーもありました。日韓合作ドラマ、日中合作映画、中韓合作映画もたくさんあるようです。映画やTVドラマやポピュラー音楽の分野では、東アジア域内の交流がどんどん進んでいます。このまま進むと文化の領域では、アジアの共通市場ができそうです。文化と経済の面では、東アジア共通市場ができそうです。
 
(2)もう一つは、民主主義がうまく機能していないという言説と、様々な制度が民主的になっていないという言説が目についたことです。人々は、個々の問題のだけでなく、現在の政治システムそのものがうまく機能していないと感じているようです。つまり、原発や財政や年金など個別の問題ではなくて、これらの問題を解決する能力一般を現在の政治システムが持っていないということが明らかになっているように思われます。しかも、そのことに多くの人が気づいているのにもかかわらず、政治システムを修正するメカニズムが働いていないのです。政治制度は、社会問題を解決するものとして創設され、そのようなものとして正当性をもちます。社会問題を解決する能力を持たない政治制度は正当性を持ちません。それを変える必要があります。社会問題を確定して、その解決方法を決定し、それを実行するシステムを作り上げなければなりません。(さて、どうしたらよいのでしょうか。これについては、いずれ(人格論に区切りがつけば)書庫を立ち上げて考えたいとおもいます。)
 
今年もよろしくお願いします。
 
 

予想される反論

 
予想される反論
 
これまでのところで、次のものが、三角測量の中で成立する、ないし構成される、ということを説明した。
  ・現実認識、意図、両者の矛盾(問い)
  ・問答ないしその連鎖としての人格
  ・人格の同一性
 
しかし、三角測量は、「私」「他人」の存在を前提していたのではないか。これまでの議論は、<人格の存在を前提して人格の成立を説明する>という循環論証になっていたのではないだろうか。このような反論が予想される。
 
さて、この反論に応えるにはどうすればよいでしょうか。
お正月にお雑煮を食べながら考えたいとおもいます。
 
皆様、よい年をお迎えください。
 
 
 
 

問答と三角測量

 

淋しいベンチですが、寂しい暖かさがあります。
 
問答と三角測量

 
前回見たように、Davidsonは、次の三種類の知識は、互いに他を必要とし、そのうちのどれも他の二つなくしては成立しないと考える。
 
  ①自分の心の内容に関する知識
  ②世界内の対象についての知識
  ③他人の心の内容に関する知識
 
ところで、前に見たように、問いは、次の二つの矛盾から生じる。
   (a)現実認識
   (b)意図
 
(a)現実認識は、上記の②に属することが多いだろう。(b)意図の認識は②に属する。(a)現実認識と(b)意図が矛盾していることを知るためには、①と②が必要である。①が成立するためには、他者も同じように対象をとらえるということが必要であり、②が成立するためには、他者が私の意図を私と同じように知ることが必要である。そして、①と②の矛盾についての知識が、確実なものになるためには、他者もまたその矛盾をとらえることが必要であるだろう。さもなればそれは、私的な思い込みと区別がつかないからである。
 
簡潔に言うとこうなる。対象の認識、意図の認識は、三角測量の二つの頂点であり、他者の心の認識なしには成立しない。したがって、現実認識と意図の矛盾もまた、他者の心の認識なしには成立しない。問いは、他者を介して成立するのである。
 
(発達心理学において、現時点でどの程度確実に証明できているのかわからないが、おそらく次のようなことが言えるだろう。幼児の場合には、大人と幼児の共同注意の中で、対象についての知識が成立し、大人と幼児の共同行為の中で、自分の欲望や意図についての幼児の知識が成立するのだろうと思われる。幼児にとっての最初の問いの成立は、身近な大人を介して成立するのである。別の書庫「共同注意と・・」を参照)
 
ここから次のことが帰結する。
問いは、三角測量の中で成立し、答えもまた三角測量によって成立する。したがって、「人格は問答ないし問答の連続である」と言えるならば、「人格もまた、三角測量によって成立する」と言えるだろう。記憶の連続性や意図の連続性や現実認識の連続性を保証するのは、他者とのコミュニケーションであった。それゆえにまた、「人格の同一性(つまり問答の同一性ないし問答連続性)を保証するものは、他者とのコミュニケーションである」。
 
 

 
 

個人言語の不可能性、私的記憶の不可能性

カニバサボテンです。寒さのためか元気がありません。
 
「個人言語の不可能性、私的記憶の不可能性」
 
 前回述べたように、ウィトゲンシュタインによる私的言語批判を援用して、私的記憶の不可能性を主張したい。しかし、私が前回述べたことは、私的言語と個人言語を混同しているという批判があるかもしれないので、それについて言及しておきたい。
 
 ウィトゲンシュタイン研究者である友人S氏は、次のようにいう。<ウィトゲンシュタインが私的言語というのは、公共的に通用している言語ではなくて、ある人が新しく作った言語であり、独自の文法や語彙を持つものである。それに対して、個人言語というのは、ある人が全く一人で日本語で日記を書いているときのような言語である。ウィトゲンシュタインは、私的言語を不可能であると考えているが、個人言語は可能であると考えている。>
 私は、ウィトゲンシュタインがどのように考えていたのかを判断する知識を持たないので、ここではウィトゲンシュタイン解釈を問題にするものではない。私は個人言語も不可能であると考えるので、それを以下に説明しよう。
 
 私は昔日記をつけていた。その日記は何年も読み返していないが、しかし読み返せば、それを私は理解できるだろう。またそれを他の人が見つければ、読むことができるだろう。しかし、私がそれを実際に読み返えしてみるまでは、それが理解できるかどうかは、不確定である。私が読み返して理解できたとしても、他人がそれを読んで理解することができるかどうかもまた、実際に他人がそのようにしてみるまでは、不確定である。(ドアの向こうに廊下があるかどうかは、実際にドアを開けてみるまでは、不確実である、と言う観念論的な主張と似ている。)
 
 どうしてこういうことになるのだろうか。私は部屋に一人で、この文章を書いているが、これを他人が読めば理解できるだろうと思って書いている。私が書いているのは、通常の日本語であり、他の人も読むことができると思っている。しかしそのことを保証するのは、私の記憶である。つまり、私が一人で使っているのが、通常の日本語であることを確認するまえには、ある言語が、(上で説明したような意味での)私的言語であるのか個人言語であるのかを区別できない問ことである。私が一人で書いた日本語が、本当に日本語であるかどうかは、他人に読んでもらうまで不確実である。そして他人に読んでもらったなら、そのときそれはもはや個人言語ではない。
 
 次に、これとよく似た仕方で、私的な記憶の不可能性を説明しよう。
 
 私が小さな子供が写っている古い写真を見て、「これが小さいころのぼくだ」と思ったとしよう。それの発言の証拠は何だろうか。それは、私がその写真を昔も見たことがあり、そのとき私の写真だと考えていたという記憶であるかもしれない。しかし、私が今手にしている写真が、本当に昔見た写真と同一であることをどうやって保証すればよいのだろうか。写真の裏側に撮影の日付と私の名前が書いてあればよいのだろうか。しかし、その記載が内容が真実であることを保証するものは何だろうか。私の母親にたしかめたらよいだろうか。しかし、母親の記憶が正しいことを誰が保証するのだろうか。
 
 もちろん、こんなことを疑えば、ほとんどのことは疑わしくなる。私たちは、そんな疑念を無視してもそれほど困らない。私たちは私たちの大抵の記憶が正しいことを他者の記憶によって確認し、他者の記憶が正しいことを、さらに他者の記憶によって確認することができる。そして、必要な範囲でいつでも、そのように確認することができるだろう、と思っている。
 
 ただし、このような「常識」にもとづくのでは、原理的に先の疑念を晴らすことはできない。同じ疑念は、言語の公共性についても生じる。つまり、原理的には公共的な言語は成立しないかもしれない。とりあえず、ここでいえるのは、一人ではなくて、二人いることが、記憶の信憑性や言語の成立にとって、充分条件ではないにしても、必要条件であるということである。
 
(どなたでもご批判をお願いします。) 
 
 さて以上の話を問答と関係づけるために、次に三角測量の話をしよう。
 
 
 
 
 
 

余滴2 承認願望と無関心

 
大学の銀杏はまだのようです。この天気とおなじような、どんよりとした補足です。
 
久しぶりの補足です。
 
■無関心という悪意
「苦しんでいる人がいるのに、それを無視することは、悪である。助けられないのならば、仕方ないかもしれないが、助けられるのに、助けないのはえて、悪である。もしこのようにいえるのならば、我々のほとんど全ての人は悪人である。苦しんでいる人に対する無関心は、悪である。」
と書きましたが、その悪に気付いていながら、無関心を続けるとき、その無関心は悪意である(あるいは、悪意と区別できない)。
 
■特異な悪意を作り出すのは、私たちの悪意である。
「特異な悪意」は、悪意のポジティヴフィードバックの中で起る。この悪意のポジティヴフィードバックは、偏在する社会の無関心=悪意、によって引き起こされるのではないか。インターネット空間は、それを加速させることがある。特異な悪意を作り出したは、私たちの悪意なのではないでしょうか。
 
■競争社会と無関心
無関心である理由として、競争社会の中で勝ちたいという意図が働いているのではないか。共同体を離れて都会にくると、その空気は私たちを自由にする。それは、無関心という悪や悪意を互いに許容するという空気である。都会の競争社会を生きることと、無関心という悪を生きることは、不可分に結びついている。そして、現代では、世界全体が都会化している。世界全体が、競争社会になっている。
 
■承認願望と無関心
 競争の中で生き抜くためには、限られた資源を有効に使わなくてはならない(選択と集中)。そこで、ある課題に対する努力と関心の集中と、その他の事柄に対する無関心、が生じる。例えば、中高生は受験に集中して、他のことに関心を持てない。会社員は、会社の仕事に集中して、家庭に関心を持てない。多くの人は、目先の課題に集中して、苦しんでいる人々に関心を持てない。
 承認を求めようとするとき、それ以外のことに対する無関心が生まれる。承認を求めようとすることが、他の人に対する無関心、忘却になる。 仕事をして認められるという承認は、一方向的な承認である。一方向的な承認の追及は、排除、忘却、を伴う。
 
 資本主義社会の中での、相互承認は、法的な権利主体としての相互承認と、私的な恋愛や友情や仲間などの相互承認だけかもしれない。しかし、これでは苦しむ人への無関心や忘却の回避には向かわない。
 
 
 
 

「人格とは何か」の復習

 
 代わり映えのしない写真ですみません。
 
「人格とは何か」の書庫でのべたことの復習です。
 
(1)人格の同一性が、身体の同一性によるのだとすると、次のような困難がある。
①身体を構成する分子は新陳代謝によって、入れ替われるので、身体の同一性とは、身体の物質の同一性ではない。
②身体の同一性が、分子が作る構造の同一性だとするとしても、身体の構造は、年齢とともに変化するので、身体の同一性は、身体構造の同一性ではない。
します。
(前の書庫で述べたのは、ここまででした。次の3を付け加えました)
③身体が同一性であるとは、身体の物質と構造が連続的に変化しているということであるとすると、その連続的変化を何によって保証するのか、ということが問題になる。
これを保証するのは、当事者の記憶や周りの人の記憶であろう。
 
つまり、身体の同一性は、記憶の正しさに依存することになる。これと似たことが意識の同一性についても生じるので、次に意識の同一性について考えよう。
 
(2)人格の同一性が、心ないし意識の同一性によるのだとすると、次のような困難がある。
①人格の同一性は、心の内容(ないし意識内容)の連続的変化によって成立するのだとしよう。このときには、心の内容が連続的に変化していることを保証するのは、記憶である。つまり、昨日の私の心の内容と今日の私の心の内容の連続性を保証するためには、昨日の私の心の内容についての記憶の正しさを前提する必要がある。
 
この記憶の正しさを記憶によって保証することはできない。しかし、他にはその保証の方法が見つからないとすると、①は循環論法に陥る。
(3)さて、そこで考えられるのが、身体と心の結合体として人格をとらえて、その両方の連続的変化として、人格の同一性をとらえるというアプローチである。(エイアーがそうであり、おそらくストローソンもそうである)
 
さて書庫「人格とは何か」では、この(3)のアプローチもうまくゆかないので、人格を構成されたものとして考えるというアプローチに可能性がありそうだ、と言うあたりで、終わっていました。
 
ここでは、この(3)からもう一度考えてみたいと思います。
 
 

問い、役割、人格

 
良い写真がなくなったので、二年前の冬の写真です。
 
論旨が不明確であったかもしれないので、すこし復習しておきます。
・問題とは現実認識と意図の矛盾であり、そのような問題を解決するために、私たちは問いを立てます。
・私たちが生きることは、行為することであり、行為を構成する実践的知識は問いに対する答えとして成立するものでした。また、私たちが生きることは選択することであり、それは選択問題に答えることでした。これらの問いは、問いの連鎖のなかで成立しています。したがって、私たちが生きることは、問いの連鎖なのです。
 
今回は、問いと「人格」概念を関係づけてみます。
人類の歴史上、言語や国家が成立していない段階もあり、そこでも「人格」を考えることができるだろうと思うのですが、とりあえずここでは、現代社会における人生、人間ないし人格について考えてみます。ここで「人格」というときには、「人」「人物」と訳されることもある’person’を考えています。(日本人なのにどうして日本語をもとにして考えないのか、という質問に対しては、私がここで考えたいのは、日本人や日本社会についてではなくて、人類社会に広く成り立つ議論でだからです、と答えておきます。)
 
①役割=問題
 私たちは、自分のことを「画家」「政治家」「ビジネスマン」「投資家」「主婦」「学生」「研究者」などの社会的役割を表現する名詞で理解していることが多いのではないでしょうか。
 このような役割を自分に引き受けることは、<現実認識>の一部を構成するとともに、私の<意図や目標>の一部を構成することになります。つまりは、私が生きていくときに取り組んでいるある<問題群>を構成することになります。このような役割を引き受けるのは、人間ないし人格です。
 
②役割の束の連続
 ところで、私たちは一つの役割ではなく、「研究者」「教員」「男性」「中年」「夫」「父親」「息子」など複数の役割の束として自分を理解しています。「研究者」でありうるのは、人だけなのですが、人は「研究者」であるだけでなく、上記のように必ず他の役割も担っています。
 これらの役割は、時の経過とともに変化します。退職すれば、「教員」ではなくなり、「中年」から「老年」になり、離婚すれば「夫」でなくなり、親がなくなれば「息子」でなくなります。子供が死ねば「父親」でなくなり、性転すれば「男性」でなくなります。人格の同一性は、このような役割の束の連続的な変化として、理解できるかもしれません。この変化は、いつどこで生まれ、両親兄弟は誰であり、小学校、中学校、高校、大学はどこであり、大学で何を専攻し、卒業してどの会社に入り、いつ誰と結婚し、子供がいつ生まれ、いつどんな病気をして、いつ家を買い、いつ転職し、いつ離婚し、いつ親が亡くなり、いつ退職し、いつ死んだか。というような簡単な履歴とともに変化します。
 人格は、役割の束の連続的な変化であるということもできるでしょう。
 
①と②を組み合わせると、人格は、問題群の束の連続的な変化であるといえるでしょう。
 
 「人格は、問答ないし問答の連鎖である」というテーゼの説明のためには、このような人格が、社会と、つまり社会問題とどのように関係しているのか、を説明する必要があります。
 しかしその前に、次回からは、このような「人格」理解が、「人格の同一性をどう説明するか」という難問にどのように答えることになるのかを、見ておきたいと思います。
 
 
 

「人生は選択の連鎖である」

 
 
 
 
「人生は選択の連鎖である」
 前々回に「②人が生きることは、常に何らかの行為をすることです」と書きました。そして、行為することは意図を伴っており、意図はそれが実現されていない現実の認識とペアになっていると述べました。その意味で、行為は、つねに問題を解決しようとする行為なのです。そして、その意味で、「人生は問題解決の行為なのです」
 ここでは、人が生きることと問の結びつきを、別の仕方で説明したいとおもいます。
「人が生きることは、選択することです」あるいは「人生は選択の連鎖です」そして、「選択は、問いに答えることである」ということを説明したいと思います。
 
 『世界の中心で愛を叫ぶ』の片山恭一さんのブログを拝見していたら、<自由と平等だけでは、不十分だ。なぜなら、それだけでは、個人主義を乗り越えられないから。そこで第三のファクターを見つけることが重要な課題である>というような趣旨のことが書いてありました。まったくその通りだとおもいます。第三のファクターとして、これまでは「博愛」「隣人愛」「寛容」などが考えられてきたかもしれません。ただし、(多くの場合は)これらは個人主義を前提してそれを補完するものとして持ち込まれてきたように思います。
さて、第三のファクターは何か、という問題設定も重要だとおもうのですが、他方で、自由と平等について、それらが何であるかもう一度考えておく必要を感じます。なぜなら、物理主義によって人間の自由は脅かされており、自由やそれを前提した平等を自明視することはできないからです。
近代的個人主義に対しては、ロールズないしカント的な自我、「負荷なき自我」という近代的個人は幻想であり、それ自体が歴史的社会的な産物であるという批判があると思います。しかし、他方で、あらゆる属性、あらゆる社会関係から身をもぎはなし、それらを対象化して反省するということが可能であるように思われます。またその可能性の確保は、自由の確保のための必要条件であるとおもいます。
 
では、我々は実際のところどのような存在なのでしょうか。私たちは、どのような社会的な属性、社会的な関係からも身をもぎ離すことができますが、しかし、何らかの社会的属性、社会的関係を選択し引き受けることなしに生きることはできません。さらに、選択肢の設定そのものはすでに与えられています。もちろん、この所与の選択肢、選択状況から身をもぎ離すことができるかもしれませんが、それを実現するには、別の選択肢を設定する必要があります。そして、私たちの自由が、自由に何かを選択することであるとすると、それは選択肢を前提する必要があり、選択肢の選択そのものを自由に選択することができたとしても、さらにこの最後の選択について、さらに選択肢を前提することになります。選択の自由は、所与を前提して成立するのです。
「AかBか、どちらにするのだ」と問われて答えるのが典型的な選択です。この選択問題を構成している現実認識とは、「AとBが、いまここでの選択肢がある」であり、意図とは「どちらかを選ぼう」あるいは「どちらかを選ばなければならない」というのが意図であると言えるでしょう。この現実認識もまた別の問いへの答えであり、意図もまた別の問いへの答えです。
つまり、「人生は選択の連鎖であり、言い換えると、選択問題の連鎖なのです」
 
 
 
 
 

人格とは問答である

 
 
「人格とは何か」という問いに、「人格とは、問答あるいは問答の連鎖である」と答えたいとおもいます。まずこの答えの意味を説明しましょう。
 
今回は「問答あるいは問答の連鎖」の部分の説明をします。
 
①「問い」とは何か
 私たちが何かを問うのは、現実認識と意図の矛盾が生じるときです。現実認識は、現実そのものとは別のものですが、おおよそ現実を反映したものです。 現実認識は判断であり、命題の形式をとるものです。意図もまた、「・・・したい」という形式をとる命題です(拙論参照)。この二種の命題が、矛盾するとは、どういうことでしょうか。
 
②現実認識と意図の矛盾とはどういうことか、「生きる」とはどういうことか
 現実認識は、現実の有り様を反映している必要があります。さもなければ、それは生きることに役立たないだけでなく、危険をもたらすことにもなるからです。したがって、それは、当事者にとっては、現実と区別されていません。それを反省した時には、それは<現実>から区別された認識であると考えざるを得ませんが、そのときの<現実>とは、それ自体が、また現実認識に他なりません。私たちにとって、現実と現実認識はこのような意味で不可分に融合しています。
 人が生きることは、常に何らかの行為をすることです。そして、「何をしているのか」と問われたら、(アンスコムの言うように)私たちは即座に「・・・しています」と答えることができ、「なぜ・・するのか」と問われたら、(アンスコムの言うように)私たちは、即座に「・・・だからです」と理由を挙げることができるのです。この場合の「・・・だからです」という理由は、「・・・したいからです」という意図を説明するものになるでしょう。私たちは、何かの意図を持っており、その意図が現実世界と矛盾するとき、その矛盾を解決しようとして問を立てるのです。
 私たちが何かを意図するとき、それは常に現実と矛盾するのです。なぜなら、意図するとは、何か(Aとします)の実現を意図することであり、もしAが実現しているのならば、それを実現しようとする必要はなくなるので、Aの実現を意図しているかがり、Aは実現していないのです。ということは現実については、「Aでない」が真となります。意図の内容は、「Aを実現したい」です。このとき、「Aでない」と「Aを実現したい」は、論理的には矛盾しません。意図が実現を目指している状態である「A」と現実の「Aでない」が矛盾するのです。問いが、現実認識と意図の矛盾であるというときには、この意味での矛盾だと理解してください。(これは不正確な表現なので、この「矛盾」についてさらに分析すべきだと思いますが、ここでは横道にそれるので、これ以上の深入りをしません。)
 
③「人格は問答あるいは問答の連鎖である」
「全ての命題は、問いに対する答えとしてのみ意味を持つ」ということを、最初に主張したのは、コリングウッドです。そこでこれを「コリングウッド・テーゼ」と名付け、これの論証を行いました。(拙論1拙論2、参照)もしこれが正しいとすると、現実認識の命題は、別の問いに対する答えとしてのみ意味をもち、意図命題もまた別の問いに対する答えとしてのみ意味をもつことになります。つまり、問を構成する現実認識と意図は、それぞれ、別の問いに対する答えなのです。そしてその別の問を構成する現実認識と意図もまた、それぞれさらに別の問いに対する答えなのです。
 したがって、問は問答の連鎖の中で成立しているのです。したがって、生きることが、問答であるとすれば、「人格は問答である」さらに「人格は問答の連鎖である」といえるようにおもいます。
 
(まだ少し、あいまいですので、これから明晰にすべく努力します。)