「人生は選択の連鎖である」

 
 
 
 
「人生は選択の連鎖である」
 前々回に「②人が生きることは、常に何らかの行為をすることです」と書きました。そして、行為することは意図を伴っており、意図はそれが実現されていない現実の認識とペアになっていると述べました。その意味で、行為は、つねに問題を解決しようとする行為なのです。そして、その意味で、「人生は問題解決の行為なのです」
 ここでは、人が生きることと問の結びつきを、別の仕方で説明したいとおもいます。
「人が生きることは、選択することです」あるいは「人生は選択の連鎖です」そして、「選択は、問いに答えることである」ということを説明したいと思います。
 
 『世界の中心で愛を叫ぶ』の片山恭一さんのブログを拝見していたら、<自由と平等だけでは、不十分だ。なぜなら、それだけでは、個人主義を乗り越えられないから。そこで第三のファクターを見つけることが重要な課題である>というような趣旨のことが書いてありました。まったくその通りだとおもいます。第三のファクターとして、これまでは「博愛」「隣人愛」「寛容」などが考えられてきたかもしれません。ただし、(多くの場合は)これらは個人主義を前提してそれを補完するものとして持ち込まれてきたように思います。
さて、第三のファクターは何か、という問題設定も重要だとおもうのですが、他方で、自由と平等について、それらが何であるかもう一度考えておく必要を感じます。なぜなら、物理主義によって人間の自由は脅かされており、自由やそれを前提した平等を自明視することはできないからです。
近代的個人主義に対しては、ロールズないしカント的な自我、「負荷なき自我」という近代的個人は幻想であり、それ自体が歴史的社会的な産物であるという批判があると思います。しかし、他方で、あらゆる属性、あらゆる社会関係から身をもぎはなし、それらを対象化して反省するということが可能であるように思われます。またその可能性の確保は、自由の確保のための必要条件であるとおもいます。
 
では、我々は実際のところどのような存在なのでしょうか。私たちは、どのような社会的な属性、社会的な関係からも身をもぎ離すことができますが、しかし、何らかの社会的属性、社会的関係を選択し引き受けることなしに生きることはできません。さらに、選択肢の設定そのものはすでに与えられています。もちろん、この所与の選択肢、選択状況から身をもぎ離すことができるかもしれませんが、それを実現するには、別の選択肢を設定する必要があります。そして、私たちの自由が、自由に何かを選択することであるとすると、それは選択肢を前提する必要があり、選択肢の選択そのものを自由に選択することができたとしても、さらにこの最後の選択について、さらに選択肢を前提することになります。選択の自由は、所与を前提して成立するのです。
「AかBか、どちらにするのだ」と問われて答えるのが典型的な選択です。この選択問題を構成している現実認識とは、「AとBが、いまここでの選択肢がある」であり、意図とは「どちらかを選ぼう」あるいは「どちらかを選ばなければならない」というのが意図であると言えるでしょう。この現実認識もまた別の問いへの答えであり、意図もまた別の問いへの答えです。
つまり、「人生は選択の連鎖であり、言い換えると、選択問題の連鎖なのです」
 
 
 
 
 

人格とは問答である

 
 
「人格とは何か」という問いに、「人格とは、問答あるいは問答の連鎖である」と答えたいとおもいます。まずこの答えの意味を説明しましょう。
 
今回は「問答あるいは問答の連鎖」の部分の説明をします。
 
①「問い」とは何か
 私たちが何かを問うのは、現実認識と意図の矛盾が生じるときです。現実認識は、現実そのものとは別のものですが、おおよそ現実を反映したものです。 現実認識は判断であり、命題の形式をとるものです。意図もまた、「・・・したい」という形式をとる命題です(拙論参照)。この二種の命題が、矛盾するとは、どういうことでしょうか。
 
②現実認識と意図の矛盾とはどういうことか、「生きる」とはどういうことか
 現実認識は、現実の有り様を反映している必要があります。さもなければ、それは生きることに役立たないだけでなく、危険をもたらすことにもなるからです。したがって、それは、当事者にとっては、現実と区別されていません。それを反省した時には、それは<現実>から区別された認識であると考えざるを得ませんが、そのときの<現実>とは、それ自体が、また現実認識に他なりません。私たちにとって、現実と現実認識はこのような意味で不可分に融合しています。
 人が生きることは、常に何らかの行為をすることです。そして、「何をしているのか」と問われたら、(アンスコムの言うように)私たちは即座に「・・・しています」と答えることができ、「なぜ・・するのか」と問われたら、(アンスコムの言うように)私たちは、即座に「・・・だからです」と理由を挙げることができるのです。この場合の「・・・だからです」という理由は、「・・・したいからです」という意図を説明するものになるでしょう。私たちは、何かの意図を持っており、その意図が現実世界と矛盾するとき、その矛盾を解決しようとして問を立てるのです。
 私たちが何かを意図するとき、それは常に現実と矛盾するのです。なぜなら、意図するとは、何か(Aとします)の実現を意図することであり、もしAが実現しているのならば、それを実現しようとする必要はなくなるので、Aの実現を意図しているかがり、Aは実現していないのです。ということは現実については、「Aでない」が真となります。意図の内容は、「Aを実現したい」です。このとき、「Aでない」と「Aを実現したい」は、論理的には矛盾しません。意図が実現を目指している状態である「A」と現実の「Aでない」が矛盾するのです。問いが、現実認識と意図の矛盾であるというときには、この意味での矛盾だと理解してください。(これは不正確な表現なので、この「矛盾」についてさらに分析すべきだと思いますが、ここでは横道にそれるので、これ以上の深入りをしません。)
 
③「人格は問答あるいは問答の連鎖である」
「全ての命題は、問いに対する答えとしてのみ意味を持つ」ということを、最初に主張したのは、コリングウッドです。そこでこれを「コリングウッド・テーゼ」と名付け、これの論証を行いました。(拙論1拙論2、参照)もしこれが正しいとすると、現実認識の命題は、別の問いに対する答えとしてのみ意味をもち、意図命題もまた別の問いに対する答えとしてのみ意味をもつことになります。つまり、問を構成する現実認識と意図は、それぞれ、別の問いに対する答えなのです。そしてその別の問を構成する現実認識と意図もまた、それぞれさらに別の問いに対する答えなのです。
 したがって、問は問答の連鎖の中で成立しているのです。したがって、生きることが、問答であるとすれば、「人格は問答である」さらに「人格は問答の連鎖である」といえるようにおもいます。
 
(まだ少し、あいまいですので、これから明晰にすべく努力します。)
 
 
 

橋本努の「問題主体」について

 
 
 
橋本努の「問題主体」について

 「問答としての人格」という書庫のタイトルをみて、橋本努の「問題主体」という概念を想起したひともいると思います。

 

 (私はずいぶん前から問答の考察が重要だと考え、その観点からさまざまな哲学テーマを論じなおしたいと思ってきました。ですから、橋本努の「問題主体」論に出会った時には、虚を突かれた感じがすると同時に、そのアイデアを自分もまた展開してみたいと思いました。しかし、私の研究は、いまだに理論哲学の領域で問答の観点を生かそうとすることだけで、手一杯です。これでは、いつになったら本格的に実践哲学についての論じられるのか、わかりません。そこで、とりあえず、このブログでそれを試みたいと思うのです。)
 
 橋本努は、『社会科学の人間学』の中で、「価値」をコアにする「近代主体」概念に代えて、「問題」をコアにする「問題主体」概念を提案します。これは、私にとって非常に啓発的なアイデアでした。ただし、現在私が考えたいと思っている「問答としての人格」は、内容的に橋本努の「問題主体」とは、ズレてきているかもしれません。(このズレについては、いずれまとめて検討したいとおもいます)。また問題意識も少し違うのかもしれません。なぜなら、ウェーバー研究者ある橋本は、「問題主体」を人格理念とか理想として提案しているようにみえるからです。私の以下の考察には、<あるべき人格像や、あるいは現実の人格を理解するための一つの理念型>を構想するという問題意識はありません。現実の社会で「人格」と呼ばれているものがどのようなものであるかの考察を目指しているだけです。
 
橋本努の「問題主体」については、上記の本を、またとりあえずは、
橋本さんご自身による自著の紹介のテキストをご覧ください。
大変面白いです。
 
 

もう少し寄り道

 
 
もう少し寄り道
 永井均の〈私〉の議論は魅力的である。とくに若い世代に受け入れられたように思われる。これは、若い世代が、不登校やニートや引きこもりになっていること、あるいは日本全体が無縁社会になっていることと関係しているように思われる。私たちが引きこもりたくなるのは、他者と比較したり比較されたり、他者と競争したりしたくないからである。あるいは、空気を読んでつねに同調することに疲れているからである。一方における極端な同調と競争と、他方における極端な引きこもりが、日本の社会の現状である。
 現代の社会では、個人は個として社会に投げ出されて、競争社会の中で生きていかなければならない。確かに社会の中で生きることは、さまざまな社会関係の中で生きることであるので、利害を共有する人たちがいるはずだ。しかし、その人たちと連帯することが難しくなっている。同じ会社のサラリーマン同士であるとき、利害を共有しても、他方では競争相手であるからだ。競争の激しさが、連帯を困難にし、個人を孤立させ、さらに人一人を押しつぶしている。
 国家や会社のために個人があるのではないとすれば、(途中の論証がまだないが)、個人や労働力が商品であるということはありえない。というわけで、我々の社会の再構築のためにも、「人格とは何か」に答えることが重要だ。
 
まだ本論に入っていませんが、何でもご批判比ください。
 
 
 

言わずもがな、への予想される反論

 
 
言わずもがな、への予想される反論
 
「人格論が重要である、という主張こそが、問題なのだ」という反論があるかもしれない。
「人格は存在しないのであって、人格にとらわれているからこそ様々な問題が生じることになるのだ」という反論である。このような仏教的な言説には、たしかに人々を解放する側面がある。しかし、そのような否定的は発言をするだけでは、人格にとらわれている私たちが直面している問題を解決することはできない。もちろん、彼らは、問題を解決するのではなくて、問題を解消することを勧めている。
 しかし仏教者がそのように勧めても、我々は相変わらず人格にとらわれて、人格を前提とした諸問題に悩まされている。そこには原因があるはずだ。(修業が足りない、という原因ではなくて、そもそもなぜ修業が必要になるのか、という原因があるはずだ。)人格は存在せず、それが存在すると思うのは、「物象化的錯視」(広松渉)であるかもしれない。しかし、物象化にはそれなりの原因があるはずである。マルクスや広松が明らかにしようとしたように、それは生産関係に基づくのかもしれないし、あるいは別の説明が可能かもしれない。人格が社会的に構成されるものであることは、仏教者もマルクス主義者もルーマンのようなシステム論者もあるいは構造主義者も、概ね認めることであろう。
 仮に人格が存在しないとしても、それが社会的にどのように構成されているのかを明らかにすることが必要である。というわけで、やはり「人格とは何か」という問いに答えることが重要なのである。
 
 もう一つ考えられる反論は、一般的な「人格」ではなくて、かけがえのない〈私〉(永井均)について考えることの方が重要であるという反論である。〈私〉についてどう考えるかは、形而上学の問題であって、これの答えがどうであれ、人格としての私たちが直面している問題は、そのまま残り続けるだろう。かけがえのない〈私〉は何か、という形而上学的な問題を重視することによって、比較の眼差しにさらされている現実の人間関係の問題から解放されるように感じた人々がいたが、それは孤立の問題や引きこもりの問題に形を変えただけかもしれない。〈私〉についての形而上学の問題は残るにせよ、やはり「人格とは何か」という問題は重要だ。
 
 
 
 

言わずもがな

 
 
                  
 
言わずもがな、であるかもしれないが、次のような理由で、人格とは何かを考えることは重要である。
 
・道徳や法は、道徳的な人格、法的な人格を前提している。
・意志の自由が重要な議論になるとすれば、そのこともまた、人格の存在を前提しているのではないだろうか。なぜなら、持続する人格というものが無ければ、意志が自由であっても、それは意志決定が自然現象から独立に偶然的に生じるということに過ぎなくなるように思われるからである。そのような意志の自由について論じることは、自然現象の偶然性について論じることと重要性において違いがないように思われる。
・さらに、もし人格がないとすると、人生の意味も、人生そのものも存在しないことになるのではないだろうか。
・また、社会を、近代の契約論者のように個人からなるものとして考えるのではなくて、ウェーバーやパーソンズのように行為からなるシステムとして考えるにせよ、あるいはルーマンのようにコミュニケーションからなるシステムとして考えるにせよ。我々にとって、そのような社会が問題になるのは、その社会の中で我々が人格として存在しているからではないだろうか。
・我々は常にすでに自分をある人格として理解し、人格として存在している。
 
したがって、我々が、生きる意味や、社会について考えるときに、「人格とは何か」を考えることは重要なテーマである。
 
というわけで、森の中に奥深く入り込んで行こう。
 
 
 
 
 
 
 
 

病気としての悪

紅葉の始まる山の中です。紅葉のはじまりは、山の中ではFallの始まりです。まるで雨のように、一日中、ハラハラ、ハラハラと松葉などの木ノ葉が落ち続けます。
 
もし「物理主義の世界」の中で、道徳や法が成り立つのだとすると、そのとき、それに対する侵犯である「悪」は、人間の自由な意志の所産ではありません。それにもかかわらず、それが排除されるべき行為として理解されているのだとすると、それは「病気」として理解されているのかもしれません。
 
これは「物理主義の世界」において、「悪」が成立する場合の、一つの有力な可能性です。というわけで、悪を病気として理解することが、果たして整合的であるかどうかは、検討に値するでしょう。
 
しかし、どうも、このところ、このテーマに気が乗らないのです。
私としては、できれば物理主義を批判して、自由の可能性を追求してみたいと考えているということも、気が乗らない理由の一つなのですが、もう一つは、自分が納得していない物理主義を前提して考えることに、少し飽きてきたということがあります。
 
そこで、「病気としての悪」を考える前に、人格について考えてみたいと思います。たとえ物理主義を採用するにしても、道徳や法が成立するのなら、そこでは人格も成立しているはずです。したがって、「病気としての悪」をかんがえるためにも、「人格とは何か」を考えておく必要があるでしょう。
 
この問題については、すでに書庫「人格とは何か」で少し論じました。しかし、そこでは、明確な人格論を提案できていません。そこで、もう一度それを試みたいとおもいます。
 
という訳で、新しい書庫「問答としての人格」を始めます。
 
そのあとで、また「病としての悪」に戻ることにします。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

さあ、仕切り直しです

 
                  海の中のような森の中
 
 
決定論を理解できないというストローソンの主張への批判は、とりあえず前回で終わりました。
 
最初の問題に戻りたいとおもいます。
つまり「物理主義の世界」で道徳や法は可能だろうか、という問題です。
 
仮に、ストローソンの主張、(道徳的な)怒りと物理主義は両立しないを受け入れたとしましょう。しかし、そのときそこから帰結するのは、<物理主義は理解できない>という選択肢だけではありませんでした。もう一つの選択肢は、<道徳的な怒りは理解できないという物理主義者の主張>です。
 
そうすると、問題は、「怒りがなくても、道徳や法律は成立するのか」と言うことになります。この物理主義者は、<我々は、不道徳な行為に怒りを感じるかもしれないが、その時には、その怒りを幻想的な「擬人化」によるものだと反省して、消去する>と主張することになるでしょう。
 
このとき、(すこし論理的な飛躍がありますが)次の可能性を考えてみたいと思います。それは、「悪は病気の一種である」と考えるという可能性です。
 
ここから、仕切り直しです。
 
 

私たちは人間を「擬人化」しているのか

窓からの眺めが水槽の水草の眺めに似ていることに、最近気がつきました。
地球の表面は、水の中も陸上も緑の世界だったのかもしれません。
 
 
 ストローソンの主張は、次のようなものでした(以下は私の勝手なまとめです)
<人間は、他者の振る舞いに対して怒ることがあるが、自然現象に対しては、怒らない。したがって、他者に対して怒ることと、他者を自然現象と考えることは両立しない。したがって、他者を自然現象として考えるということが、どういうことなのか、理解できない>
 
これに対する反論として、前々回に挙げたのが、以下の二点でした。
①動物や家具に対して怒るときがある。
②動物や家具に刑罰を与えることもある
 
①に対するストローソンからの批判としては、次の二つないし三つが予想できます。
(i)怒りの種類を分けるべきだ:動物や家具に対する怒りと人間に対する怒りはことなる。前者の怒りは自然現象に向けられるが、後者の怒りは自然現象には向けられない。したがって、人間を自然現象と見なすことは、理解できない。
(ii)動物や家具に対する怒りは擬人化にもとづく:動物や家具を自然現象と考えているときには、それに対して怒ることはありえない。
(iii)上記二つの批判は、両立可能であるので、場合によって両方を使い分けて用いることもできる:動物に対して、思わず生理的に(?)怒りを感じるときもあるが、そうでない怒りを感じるときもある。そうでない怒りの時には、動物を擬人化している。
 
さて、このようなストローソンに対して、どのように批判することができるでしょうか。
 
物理主義者ならば、つぎのように批判するかもしれません。
<ストローソンの主張:≪人間は、他者の振る舞いに対して怒ることがあるが、自然現象に対しては、怒らない。したがって、他者に対して怒ることと、他者を自然現象と考えることは両立しない。したがって、他者を自然現象として考えるということが、どういうことなのか、理解できない≫の最初の二つの文章を認めて、そこから次の文を導出することも可能である。<したがって、他者に対して怒るということがどういうことか理解できない>。
ストローソンも、動物に対して思わず怒ることがあるだろう。そのとき、彼は動物を擬人化していたと反省して、動物に対する怒りを不合理な振る舞いだったと考えて、撤回するのだろう。
私は、それと同じことを人間に対しても行う。私は人間に対して思わず怒ることがある。その時私は人間を「擬人化」していたのだと反省して、人間に対する怒りを不合理なふるまいだったと考えて、撤回する。
この場合の「擬人化」とは、人間に対するある種の幻想化である。それはよく考えようとしても理解できない幻想である。>
 
このような物理主義者は、他者への怒りを認めず、おそらく刑罰も、自由も認めないでしょう。
 
これで、ストローソンの検討をいったん、終わりたいと思います。なぜなら、このような物理主義者の批判を(同意でなく)理解できるとすれば、ストローソンの、そもそもの批判、物理主義を理解できない、という批判は、回避できるからです。つまり、「物理主義の世界」で道徳や法は可能になるのか、という問題設定は、理解できることになるからです。
 
 

クマに罪はあるのか

 
森の中によくある看板です。一句作りたかったけれど、余りに散文的なテーマなので、できませんでした。
 
 
前回の反例3で言及したプラトンの当該箇所を引用します。
少し長いですが、興味深いので引用します。このくらいなら著作権の許容範囲だろうとおもうのですが、もし問題があったらご指摘ください。
 
プラント『法律』第9巻からの引用です。
 
「もし動物が、荷を運ぶ動物でも、その他の動物でも、誰かを殺した場合は、――ただし、公に催される競技において、競技中にそのようなことが起こった場合は別として――、近親者は、その動物を殺人のかどで訴えるべきである。そして近親者から指名された地方保安官が、――誰が指名されても、また何人指名されてもよい――、裁判をおこなって、その動物に罪がある場合は、これを殺して、国土の境界の外に投げ棄てるべきである。
 また、何か生命をもたない物体が、人間から生命を奪った場合は、――ただし、稲妻とか、天から何かそのような矢が落ちてきて死んだ場合は別として、それ以外のもので、ひとがその上に倒れたために、あるいは、そのものがひとの上に落ちてきたために、その人を殺したというような場合であるが――、そのときには、近親者は、いちばん近い隣人をそのものに対する裁判官にしてこれを裁かせ、このようにして自分自身のためにも親族全体のためにも償いをさせなければならない。そしてその物体に罪があった場合は、動物の場合についての述べられたと同じように、国土の境界の外に投げ棄てるべきである。」(プラトン『法律』873E-874A、『プラトン全集13』森進一、池田美恵、加来彰俊訳、岩波書店)
 
さて、このような発想は、一見奇想天外ですが、しかし、よく考えてみれば、身に覚えのある発想です。このような裁判で、「動物に罪がある場合」とは、どのような場合なのでしょうか。人間がその動物を脅かすなどしたために、その動物にかみ殺されたときには、動物に罪はないということでしょうか。人間による山の開発で熊の住む場所がなくなり、熊が人里にやってきて人を殺したとき、熊には罪がないのでしょうか。豊かな自然があるのに、人里にやってきて、人間を襲う熊なら、「罪がある」のでしょうか。なんとなく、そんな風に感じるとすると、我々もプラトンとかわらない、ということでしょうか。
 
家具に「罪がない」とはどういうことでしょうか。地震で家具の下敷きになった時には、家具には「罪がない」けれども、静かな時にいきなり家具が倒れてきて、人が死んだときには、家具に責任があるということでしょうか。しかし、それは家具を作った人に責任があるのではないでしょうか。
 
動物の場合には、ともかく、家具に罪があるというのが、もう一つよくわかりません。家具に欠陥があるのならばわかります。その欠陥の責任が、作った人でなく、家具自身にあるというのがわかりません。この発想が、奴隷制とどこかで繋がっているのでしょうか。
 
これらのことを考えるのは、この書庫のテーマではありませんが、興味深い発想です。
 
今回は、余談でした。