人格と肉体は不可分である

前回の証明は、こうでした。
「人間の肉体はレンタル商品になりえない。」
証明
1、人間の人格はレンタル商品ではない。
2、人格と肉体は不可分である。
3、人間の肉体がレンタル商品であるならば、人間の人格もレンタル商品である。
4、したがって、人間の肉体はレンタル商品ではない。

これでは、まだ非常に曖昧です。
曖昧なのは、2そのものと、2から3の導出です。
まず2を検討しましょう。

2「人格と肉体は不可分である」
これは多義的です。ここでは3を導出するために2が持ち出されています。つまり、「人間の肉体を人格から分離して、肉体だけを貸すことができない」を主張するために、その理由として2が持ち出されています。
人間の肉体と人格が分離できないことは、例えばストローソンが主張していることです。

P. F. ストローソンは、『個体と主語』(中村秀吉訳、みすず書房)(P. F. Strawson,“Individuals An Essay in Descriptive Metaphysics ” Routledge, 1959)の第三章「人物」において、次のような人格論を主張しています。

「そもそも意識諸状態が帰属せしめられるための一つの必要条件は、それらがある一定の身体的諸特徴、ある一定の物的状況等が帰属せしめられるものとまさに同じものに帰属せしめられる、ということである。言い換えると、意識諸状態は、身体的特徴が人物に帰属せしめられないかぎり、そもそも帰属させることはできないのである。」(邦訳、123-124頁、原書, p. 102)

したがって、ストローソンによると、人物というものは、意識諸状態の帰属する自我(ないし純粋意識)と身体的諸属性の帰属する肉体という二つの主体の合成物ではなく、最初からこの二つは「人物(person 人格)」において不可分であり、「人物」という観念こそが「論理的に始原的なもの」(同頁、ibid.)であり、「純粋自我」はそれから派生した二次的なものです。彼が、このように考える理由は、人格(邦訳では「人物」となっています)を同定するには、その意識状態をある肉体に帰属させなければ同定できないからです。それは他者の人格の場合もそうだし、自分の場合も同様です。

私はこの議論は、人格(ないし人物)を同定できると考える(そう考えない可能性もありますが)限りは、非常に説得力のある議論だとおもいます。

さて、ストローソンが主張している意味で、2「人格と肉体は不可分である」を理解するとき、そこから3が帰結するでしょうか。

肉体はレンタル商品になりえない

人間の肉体は、レンタルのDVDと同じ意味では、レンタル商品になりえないように思われる。違いはなにだろうか?

レンタルDVDでも、借りている期間は、自由に使ってよいということではない。それにキズをつけてはならない。それをコピーしたりネットに公開したりしてはならない。それをまた貸ししてはならない。それを上映して不特定多数の人を集めてはならない。などなど、たくさんのこまかな規定があるだろう。人間の肉体と労働力をレンタルしているときも同様に、さまざま配慮すべき事柄があるだろう。レンタルDVDを借りているときに守るべき規定は、貸し手の権利、あるいは著作権者など関係者の権利を保護するためのものであろう。これは、雇用契約でも同じであろう。

では、違いはなにだろうか。最も重要な違いは、DVDはレンタル契約の主体ではないが、労働者は、レンタル契約の主体であるということである。

「人間の肉体はレンタル商品になりえない。」
証明
1、人間の人格はレンタル商品ではない。
2、人格と肉体は不可分である。
3、人間の肉体がレンタル商品であるならば、人間の人格もレンタル商品である。
4、したがって、人間の肉体はレンタル商品ではない。

前回と同じような推論です。
1を~pとし、3をq→pとし、4を~qとすると、

~p
q→p
∴~q

という推論になります。

証明の検討

前回の証明を検討しよう。
証明は、次のように整理できるだろう。

テーゼ「労働力は商品ではない」
証明
1、人間の肉体は商品ではない。
2、肉体と労働力は不可分である。
3、したがって、人間の労働力は商品ではない。

仮に1を認めることにしよう。このとき、1と2から、なぜ3が帰結するのだろうか。その説明を書き込めば次のようになる。

証明
1、人間の肉体は商品ではない。
2、肉体と労働力は不可分である。
3、人間の労働力が商品であるならば、人間の肉体も商品である。
4、したがって、人間の労働力は商品ではない。

この推論は、妥当である。1と3からは論理的に4が帰結する。

この証明でなお吟味すべき点があるとすれば、2から3を導出する点である。
我々が労働力を商品として売っているとすると、我々は肉体も商品として売っているのだろうか。
例えば、8時間肉体を売ることはできない。できそうなのは、8時間肉体を貸すことである。
<肉体を貸すことはできるが、肉体を売ることはできない>とすると、肉体と労働力が不可分なのだから、<労働力を貸すことはできるが、労働力を売ることはできない>ということになる。

しかし、DVDを売るのではなくて貸しているレンタルビデオ店にとって、DVDははやり商品なのではないか。肉体や労働力を貸すのだとしても、それらはやはり商品なのではないか。

ここで生じているのは、1に対する疑念である。
「人間の肉体は、商品ではない」は正しいのだろうか?
人間の肉体は、レンタル商品になりえないのか?

人間の肉体は、レンタルのDVDと同じ意味では、レンタル商品になりえないように思われる。
違いはなにだろうか?

証明

「労働力は、商品ではない」の証明

牛を購入した者は、牛を使って農作業をするとき、牛の労働力を買ったのではなくて、牛を買ったのであり、賃金を牛には、支払わない。しかし、牛に餌をやり、牛小屋を作り、牛の世話をするだろう。そうしなければ、牛が死んでしまい、農作業に使えなくなるからである。奴隷は、この牛のようなものであるが、しかし賃金労働者は、奴隷とは異なる。

牛を3日借りて牛を使って農作業をするとき、借りたものは、牛の持ち主に、借り賃を支払う。このとき、借りた者は、牛の労働力3日分を購入したと考えることができる。もし牛の持ち主が、毎朝牛を農場まで連れてきて、お昼にはその牛に餌をやり、夕方には牛を家に連れて帰り、牛に餌をやり牛小屋で眠らせ、翌朝にはまた農場まで牛を連れてゆくのだとしよう。このとき、牛の持ち主は、牛の労働力を売っているといえるだろう。労働者が労働力を売ることは、これと同じだろうか。

二つの間には、大きな違いがある。牛の持ち主は、牛の労働力ではなくて、牛そのものを売ることができるし、牛が死んでも牛の持ち主は死なない。しかし、労働者は、彼の労働力ではなくて、彼そのもの(あるいは彼の肉体そのものを)を売ることができない。彼の肉体が死ねば、労働者も死ぬ。
人間の労働力が、牛の労働力のような商品であると言うためには、少なくとも労働者の肉体が商品でなければならない。しかし、労働者の肉体は商品ではない。なぜなら、人間は、その肉体を商品のような仕方で所有しているのではないからである。したがって、人間の労働力は、牛の労働力のような商品ではない。QED.

 これで、証明は完璧でしょうか?

資本主義に内在する不当性

人はパンのみにて生きるにあらず、されどパンなしで生きるにあらず。
アントワープの市場にうっていたパンです。
ネロもこれを食べたのでしょうか?

資本主義社会の経済格差を制限するには、その格差が不当なものであることを示す必要があります。
その論証の仕方には次ぎの二つが考えられます。

パターン1<資本主義経済システム自体は正当であり、その限りでそこから生まれる格差も正当である。しかし、大きな格差は、別の規準からすると不当である。そこで、二つの規範の衝突が生じる。そこでこの衝突をどのように回避するかが問題となる。そして結果として、格差の制限が持ち込まれる。>

パターン2<資本主義経済システム自体が、完全に正当なものではない。これに内在する不当性を取り除くないし補償するないし緩和するために、格差が大きくなりすぎないように経済システムを規制する、あるいは税による所得の再分配をおこなう。>

資本主義は、労働力を商品と見なします。しかし、果たしてそうでしょうか。もしこれが間違いであれば、それは資本主義に内在する不当性の一つです。そこで、この書庫では、「労働力は商品ではない」というテーゼの証明をしたいとおもいます。

土地と労働力が商品になったことで、産業資本主義社会が成立しました。現実には、これらは商品として扱われています。しかし、土地も労働力も、他の商品とは異質です。もちろん、これらにかぎらず、食品も、通常の商品とは異質であり、文化的な価値のある絵画も通常の商品とは異質です。このようなさまざまな異質なものを、商品として一括して扱うことで、資本主義が成立し、それが経済活動の駆動力となってきました。多くの資本主義に対する批判は、このことに対する批判です。資源が商品として乱獲され、非経済財とされてきた環境が汚染されてきました。

「会社は、株主のものである」という考えは、「労働力は商品である」という考えを前提しています。もし労働力は商品ではない、と言えれば、会社は株主のものではない、といえるかもしれません。

さて、「労働力は、商品ではない」をどうやって証明しましょうか?

偽であるのか、無意味であるのか?

  Antwerp駅の天井ドームです。

形而上学的実在論の主張を次のようなものだとしよう。
MR「我々の(言葉を含む)表象から独立に、物が実在する」
この発話が自己矛盾していることをこれまでの議論で証明できたとしよう。
つまり、我々は、MRは真でない、といえるだろう。

問1「我々はMRは偽であるというべきなのだろうか。それとも、MRは無意味だと言うべきなのだろうか」

問2「もしMRが偽であるなら、その否定、~MRが真であることになるのだろうか」

  ~MR「我々の(言葉を含む)表象から独立に、物が実在することはない」

問3「もしMRが無意味であるなら、どうようにして、~MRも無意味だというべきだろうか?」

問1の答えは、MRは無意味であり、問3の答えは、~MRも無意味だ、ということになりそうだ、
と思うのですが、もうひとつ自信が持てないでいます。
なにか、助言がありましたら、お願いします。

格差の限界について

貧富の格差は、何処まで容認されるのか?
この問いをつぎのように言い換えてみることができるかもしれません。
相続税率、贈与税率、と所得税率の累進性を何処まで上げるべきか?

さて、この書庫で、所得税の累進税率は、どこまで上げるべきか?
を考えようとして、以前には明確な基準を示せませんでした。
その後、アメリカ発の金融危機が起こりました。我々は、最近の歴史で、日本のバブルの崩壊と、アメリカのバブルの崩壊を経験しました。このようなバブルの崩壊は、社会の存続にとっての深刻な問題となります。
したがって、「このようなバブルの崩壊は、避けるべきだ」といえるとしましょう。

次に、このようなバブルの崩壊は、ある程度の富の偏在を前提しているでしょう。その富の偏在は、所得の累進税率を上げることによって、調整できるのだとしましょう。
そのとき、もし経済学者が、どの程度の累進税の場合に、富の偏在が強くなって、彼らの投資がバブルを生み出す、ということを、理論的経験的に主張できるようになったとすると、そのときには、バブルとその崩壊を繰り返さないために、必要な累進税率、というものが計算できることになります。
もし「我々が二度経験したようなバブルの崩壊を避けるべきだ」と言うのならば、そこから一定の累進税率を算定できるはずです。

累進税率、富の偏在、バブルの発生、この間の関係を実証的に論証してくれる経済研究を待ちたいと思います。現在の累進税率は、すでに低すぎるのではないか、というのが、私の素人予想です。
つまり、現在の累進税率は、現在の財政赤字の原因であるだけでなく、バブルの原因であった可能性もあるということです。

ホネット対スローターダイク

ホネットとスローターダイクが
FAZ(Frankfurter Argemeine Zeitung)とZeitで
で論争しているのを、みつけました。
とりあえず、以下をご覧下さい。
http://www.faz.net/s/Rub5C2BFD49230B472BA96E0B2CF9FAB88C/Doc~E8DF1B2E5D29642DEB6C55CFE501EC71D~ATpl~Ecommon~Scontent.html

論争は、現代社会の理解の違いにありますが、とあえずは、累進課税制度にあるようです。

以前の繰り返しですが、先進国は揃って下げてきた、富裕層の所得税率を2,30年前に戻すべきです。

今後の展開が楽しみです。

証明のやり直し

Antwerpの駅構内です

前回の証明には、あいまいなところがあるので、やり直します。
  ①「その宮殿についての我々の言葉がなくても、その宮殿は存在します」
これにはおかしいところがあるでしょうか? 
一般に「pである」と言えたら「「pである」と我々は言えます」と言えます。それゆえに、①が言えたら、②が言えます。
  ②「「その宮殿についての我々の言葉がなくても、その宮殿は存在します」と我々は言えます」
②に、おかしいところがあるでしょうか。②に、おかしいところがあるとしても、それは前回書いた説明では、不十分だとおもいます。そこで、やり直しです。

おかしいのは、むしろ①そのものではないでしょうか。
①の中で「その宮殿についての我々の言葉がなくても」と仮定するときに、すでにその宮殿を言葉で指示しています。この仮定は、矛盾しているのではないでしょうか。
これが、矛盾だとすると、次ぎの仮定法の仮定部分も矛盾しています。
  ③「実在についての我々の言葉がなくても、実在は存在します」
③が矛盾しているとすれば、形而上学的実在論は、矛盾しています。

さて、今度は、完璧な証明でしょうか。

形而上学的実在論の批判

10月はじめにベルギーでの学会に参加しました。
会の後で、Antowerpに行きました。私が見た中で一番美しい駅でした。
ひょっとすると、世界でもっとも美しい駅かもしれません。

「その花はどんな花ですか」
と問われて
 「その花は、言葉では言えない美しさでした」
という返答が矛盾しないためには、言葉を対象言語とメタ言語に分けるか、
返答を通常の返答と通常でない返答に分けるか、いずれかをしなければなりませんでした。
 「その花は、どんな言葉でも言えない美しさでした」
という返答の場合には、返答を通常の返答と通常でない返答に分けるしか、矛盾を回避する方法はありませんでした。
さて形而上学的実在論は、次の問いに対する次の答えである。
  ①「実在は、どんなものですか」
  ②「実在は、我々の表象から独立に存在しています」
この「我々の表象」の中に、言葉が含まれるとすると、ここから次が帰結する。
  ③「実在は、我々の言葉から独立に存在しています」
この③にはおかしいところはないだろうか?

  ④「その宮殿は、その写真から独立に存在しています」
これにはおかしいところはないだろう。これは次の意味である。
  ⑤「その写真があっても、なくても、その宮殿は存在します」
では、つぎはどうだろうか。
  ⑥「我々の言葉があっても、なくても、その宮殿は存在します」
これにはおかしいところはないのだろうか?
我々に言葉がなければ、我々は「その宮殿は存在します」とは言えない。したがって、次はおかしい。
  ⑦「我々の言葉があっても、なくても、その宮殿は存在する、と我々はいえます」
もちろん、⑥と⑦はおなじではない。しかし、⑥がいえたら、⑦もいえるのではないか。
(なぜなら、一般に「pである」と言えたら「pである、と我々はいえます」と言えるように思われるからである。)ところで、⑦はおかしいので言えない、とすると、⑥もいえないことになるだろう。②から③が帰結し、③から次の⑧が帰結するだろう。
  ⑧「我々の言葉あっても、なくても、実在は存在します」
上の⑥が成立しないのならば、⑧も成立しないだろう。したがってまた、②も成立しないだろう。

 さて、形而上学的実在論に対するこの批判は、完璧でしょうか。