証明

「労働力は、商品ではない」の証明

牛を購入した者は、牛を使って農作業をするとき、牛の労働力を買ったのではなくて、牛を買ったのであり、賃金を牛には、支払わない。しかし、牛に餌をやり、牛小屋を作り、牛の世話をするだろう。そうしなければ、牛が死んでしまい、農作業に使えなくなるからである。奴隷は、この牛のようなものであるが、しかし賃金労働者は、奴隷とは異なる。

牛を3日借りて牛を使って農作業をするとき、借りたものは、牛の持ち主に、借り賃を支払う。このとき、借りた者は、牛の労働力3日分を購入したと考えることができる。もし牛の持ち主が、毎朝牛を農場まで連れてきて、お昼にはその牛に餌をやり、夕方には牛を家に連れて帰り、牛に餌をやり牛小屋で眠らせ、翌朝にはまた農場まで牛を連れてゆくのだとしよう。このとき、牛の持ち主は、牛の労働力を売っているといえるだろう。労働者が労働力を売ることは、これと同じだろうか。

二つの間には、大きな違いがある。牛の持ち主は、牛の労働力ではなくて、牛そのものを売ることができるし、牛が死んでも牛の持ち主は死なない。しかし、労働者は、彼の労働力ではなくて、彼そのもの(あるいは彼の肉体そのものを)を売ることができない。彼の肉体が死ねば、労働者も死ぬ。
人間の労働力が、牛の労働力のような商品であると言うためには、少なくとも労働者の肉体が商品でなければならない。しかし、労働者の肉体は商品ではない。なぜなら、人間は、その肉体を商品のような仕方で所有しているのではないからである。したがって、人間の労働力は、牛の労働力のような商品ではない。QED.

 これで、証明は完璧でしょうか?

資本主義に内在する不当性

人はパンのみにて生きるにあらず、されどパンなしで生きるにあらず。
アントワープの市場にうっていたパンです。
ネロもこれを食べたのでしょうか?

資本主義社会の経済格差を制限するには、その格差が不当なものであることを示す必要があります。
その論証の仕方には次ぎの二つが考えられます。

パターン1<資本主義経済システム自体は正当であり、その限りでそこから生まれる格差も正当である。しかし、大きな格差は、別の規準からすると不当である。そこで、二つの規範の衝突が生じる。そこでこの衝突をどのように回避するかが問題となる。そして結果として、格差の制限が持ち込まれる。>

パターン2<資本主義経済システム自体が、完全に正当なものではない。これに内在する不当性を取り除くないし補償するないし緩和するために、格差が大きくなりすぎないように経済システムを規制する、あるいは税による所得の再分配をおこなう。>

資本主義は、労働力を商品と見なします。しかし、果たしてそうでしょうか。もしこれが間違いであれば、それは資本主義に内在する不当性の一つです。そこで、この書庫では、「労働力は商品ではない」というテーゼの証明をしたいとおもいます。

土地と労働力が商品になったことで、産業資本主義社会が成立しました。現実には、これらは商品として扱われています。しかし、土地も労働力も、他の商品とは異質です。もちろん、これらにかぎらず、食品も、通常の商品とは異質であり、文化的な価値のある絵画も通常の商品とは異質です。このようなさまざまな異質なものを、商品として一括して扱うことで、資本主義が成立し、それが経済活動の駆動力となってきました。多くの資本主義に対する批判は、このことに対する批判です。資源が商品として乱獲され、非経済財とされてきた環境が汚染されてきました。

「会社は、株主のものである」という考えは、「労働力は商品である」という考えを前提しています。もし労働力は商品ではない、と言えれば、会社は株主のものではない、といえるかもしれません。

さて、「労働力は、商品ではない」をどうやって証明しましょうか?

偽であるのか、無意味であるのか?

  Antwerp駅の天井ドームです。

形而上学的実在論の主張を次のようなものだとしよう。
MR「我々の(言葉を含む)表象から独立に、物が実在する」
この発話が自己矛盾していることをこれまでの議論で証明できたとしよう。
つまり、我々は、MRは真でない、といえるだろう。

問1「我々はMRは偽であるというべきなのだろうか。それとも、MRは無意味だと言うべきなのだろうか」

問2「もしMRが偽であるなら、その否定、~MRが真であることになるのだろうか」

  ~MR「我々の(言葉を含む)表象から独立に、物が実在することはない」

問3「もしMRが無意味であるなら、どうようにして、~MRも無意味だというべきだろうか?」

問1の答えは、MRは無意味であり、問3の答えは、~MRも無意味だ、ということになりそうだ、
と思うのですが、もうひとつ自信が持てないでいます。
なにか、助言がありましたら、お願いします。

格差の限界について

貧富の格差は、何処まで容認されるのか?
この問いをつぎのように言い換えてみることができるかもしれません。
相続税率、贈与税率、と所得税率の累進性を何処まで上げるべきか?

さて、この書庫で、所得税の累進税率は、どこまで上げるべきか?
を考えようとして、以前には明確な基準を示せませんでした。
その後、アメリカ発の金融危機が起こりました。我々は、最近の歴史で、日本のバブルの崩壊と、アメリカのバブルの崩壊を経験しました。このようなバブルの崩壊は、社会の存続にとっての深刻な問題となります。
したがって、「このようなバブルの崩壊は、避けるべきだ」といえるとしましょう。

次に、このようなバブルの崩壊は、ある程度の富の偏在を前提しているでしょう。その富の偏在は、所得の累進税率を上げることによって、調整できるのだとしましょう。
そのとき、もし経済学者が、どの程度の累進税の場合に、富の偏在が強くなって、彼らの投資がバブルを生み出す、ということを、理論的経験的に主張できるようになったとすると、そのときには、バブルとその崩壊を繰り返さないために、必要な累進税率、というものが計算できることになります。
もし「我々が二度経験したようなバブルの崩壊を避けるべきだ」と言うのならば、そこから一定の累進税率を算定できるはずです。

累進税率、富の偏在、バブルの発生、この間の関係を実証的に論証してくれる経済研究を待ちたいと思います。現在の累進税率は、すでに低すぎるのではないか、というのが、私の素人予想です。
つまり、現在の累進税率は、現在の財政赤字の原因であるだけでなく、バブルの原因であった可能性もあるということです。

ホネット対スローターダイク

ホネットとスローターダイクが
FAZ(Frankfurter Argemeine Zeitung)とZeitで
で論争しているのを、みつけました。
とりあえず、以下をご覧下さい。
http://www.faz.net/s/Rub5C2BFD49230B472BA96E0B2CF9FAB88C/Doc~E8DF1B2E5D29642DEB6C55CFE501EC71D~ATpl~Ecommon~Scontent.html

論争は、現代社会の理解の違いにありますが、とあえずは、累進課税制度にあるようです。

以前の繰り返しですが、先進国は揃って下げてきた、富裕層の所得税率を2,30年前に戻すべきです。

今後の展開が楽しみです。

証明のやり直し

Antwerpの駅構内です

前回の証明には、あいまいなところがあるので、やり直します。
  ①「その宮殿についての我々の言葉がなくても、その宮殿は存在します」
これにはおかしいところがあるでしょうか? 
一般に「pである」と言えたら「「pである」と我々は言えます」と言えます。それゆえに、①が言えたら、②が言えます。
  ②「「その宮殿についての我々の言葉がなくても、その宮殿は存在します」と我々は言えます」
②に、おかしいところがあるでしょうか。②に、おかしいところがあるとしても、それは前回書いた説明では、不十分だとおもいます。そこで、やり直しです。

おかしいのは、むしろ①そのものではないでしょうか。
①の中で「その宮殿についての我々の言葉がなくても」と仮定するときに、すでにその宮殿を言葉で指示しています。この仮定は、矛盾しているのではないでしょうか。
これが、矛盾だとすると、次ぎの仮定法の仮定部分も矛盾しています。
  ③「実在についての我々の言葉がなくても、実在は存在します」
③が矛盾しているとすれば、形而上学的実在論は、矛盾しています。

さて、今度は、完璧な証明でしょうか。

形而上学的実在論の批判

10月はじめにベルギーでの学会に参加しました。
会の後で、Antowerpに行きました。私が見た中で一番美しい駅でした。
ひょっとすると、世界でもっとも美しい駅かもしれません。

「その花はどんな花ですか」
と問われて
 「その花は、言葉では言えない美しさでした」
という返答が矛盾しないためには、言葉を対象言語とメタ言語に分けるか、
返答を通常の返答と通常でない返答に分けるか、いずれかをしなければなりませんでした。
 「その花は、どんな言葉でも言えない美しさでした」
という返答の場合には、返答を通常の返答と通常でない返答に分けるしか、矛盾を回避する方法はありませんでした。
さて形而上学的実在論は、次の問いに対する次の答えである。
  ①「実在は、どんなものですか」
  ②「実在は、我々の表象から独立に存在しています」
この「我々の表象」の中に、言葉が含まれるとすると、ここから次が帰結する。
  ③「実在は、我々の言葉から独立に存在しています」
この③にはおかしいところはないだろうか?

  ④「その宮殿は、その写真から独立に存在しています」
これにはおかしいところはないだろう。これは次の意味である。
  ⑤「その写真があっても、なくても、その宮殿は存在します」
では、つぎはどうだろうか。
  ⑥「我々の言葉があっても、なくても、その宮殿は存在します」
これにはおかしいところはないのだろうか?
我々に言葉がなければ、我々は「その宮殿は存在します」とは言えない。したがって、次はおかしい。
  ⑦「我々の言葉があっても、なくても、その宮殿は存在する、と我々はいえます」
もちろん、⑥と⑦はおなじではない。しかし、⑥がいえたら、⑦もいえるのではないか。
(なぜなら、一般に「pである」と言えたら「pである、と我々はいえます」と言えるように思われるからである。)ところで、⑦はおかしいので言えない、とすると、⑥もいえないことになるだろう。②から③が帰結し、③から次の⑧が帰結するだろう。
  ⑧「我々の言葉あっても、なくても、実在は存在します」
上の⑥が成立しないのならば、⑧も成立しないだろう。したがってまた、②も成立しないだろう。

 さて、形而上学的実在論に対するこの批判は、完璧でしょうか。

二種類の「返答」

森の中は落ち着きます。人類のふるさと?

「それはどんな花ですか」と問われて
   ⑤「それは言葉では表現できない花です」
と応えることが、問いの返答になっているのかいないのか、これが問題でした。

「それはどんな花ですか」と問われて
   ⑥「その問いに言葉では答えられません」
と答えるとすると、これは明らかに通常の意味の返答ではありません。しかも、この返答は一見矛盾しているようにみえます。なぜなら、この返答は言葉による返答だからです。この矛盾を解消するために詳しく言い換えると⑥は次ぎのようになるでしょう。
   ⑦「通常の意味での返答ならば、その問いに言葉で返答することはできません」
という意味なのです。この発言⑦そのものが返答になっているのですが、この⑦は、<通常の意味でなく特殊な意味での返答>であると理解すれば、矛盾は解消します。

もし、⑤と⑥が同じ意味であるとすると、⑤は「それはどんな花ですか」という問いへの返答ではないことになります。しかし、この場合は、⑤は⑦と同じ意味であり、<返答>についての二つの意味を区別する必要があります。
もし、⑤が「それはどんな花ですか」という問いへの返答であるとすれば、「言葉では表現できない花」は、その花についての言葉による表現であることになり、<言葉>を対象言語とメタ言語に区別しなければ矛盾するということになります。

ところで、次ぎのケースでは、対象言語とメタ言語の区別が不可能でした。
④「このときの白樺湖は、どんな言葉でも言えない美しさでした」
この④が矛盾しないためには、これを次ぎの返答と同じ意味であると理解する必要があります。
   ⑧「このときの白樺湖の美しさについては、言葉では答えられません」
そして、この⑧が矛盾しないためには、<返答>についての二つの意味を区別する必要があります。

さて、これで本当に矛盾はなくなったのでしょうか。同様の仕方で、形而上学的実在論の主張も、矛盾を回避できるのでしょうか。

東アジア共同体と日米同盟

「東アジア共同体」構想に対して、USA高官が反対していると言うニュースがYahooにありました。
今後数十年は、日本の外交は、この二つをどう調和させるかという問題にとりくむことになりそうです。この外交課題は、日本に限らず、韓国、台湾、フィリピンでも同様の問題になるはずです。

中国の経済発展が続いて、1,2年のうちに日本を抜き、2,30年後にアメリカを抜くとすれば、経済的には「東アジア共同体」が生まれてくるでしょう。これは、日本の経済を考えるときに必要になってくる選択肢です。そのときの危惧は、中国の政治体制が民主的ではないということです。現在の共産主義体制のままの中国とともに共同体を形成することは、東アジアの民主化にとって、好ましいことではないと思います。アジアの民主化、中国の民主化のためには、日米同盟を含めて、東アジアの国のアメリカとの同盟関係が重要になってくるとおもわれます。経済発展を取るか、社会の民主化をとるか、ととわれれば、私は民主化をとります。

人々の権利を守ることは、人々の利益をまもることより重要です。中国が緩やかに民主化することを願います。

対象言語とメタ言語の区別による矛盾の回避

Passau, die schoenste Stadt, die ich bisher besucht habe.
パッサウ、私が行ったことのある最も美しい町でした。

①「このときの白樺湖は、言葉では言えない美しさでした」

この文が矛盾しているとすれば、それはどのような矛盾でしょうか。
②「このときの白樺湖は、英語では言えない美しさでした」
これは矛盾していません。なぜなら、「英語」は日本語ですが、英語は日本語ではないからです。
つまり、この文章は英語という対象言語に言及しているメタ言語としての日本語で書かれているのです。冒頭の文も、これと同様の仕方で対象言語とメタ言語の区別を導入すると矛盾は生じません。
つまり、次のようになります。
③「このときの白樺湖は、言葉1では言えない美しさでした」
この文が言葉2というメタ言語で書かれていると考えると、「言葉1」は言葉2の表現ですが、言葉1は言葉2ではありません。したがって、②と同様に③には矛盾はありません。
①が矛盾しているとすると、それは①の文の言葉と、①の中に登場する「言葉」が指示する言葉が同一の言葉であるときです。

繰り返しになりますが、もし我々が対象言語とメタ言語区別をしないのならば、①は矛盾します。
したがって、次ぎの文は、矛盾します。
④「このときの白樺湖は、どんな言葉でも言えない美しさでした」
この文では「どんな言葉」の中に、④の文で使用されている言葉も含まれるから、対象言語とメタ言語の区別による矛盾の回避が不可能になります。

しかし、おそらく別の反論があるでしょう。
それは<「言葉では言えない美しさ」というのは、美しさについての言葉による説明ではない>という反論です。
たとえば、「それはどんな花ですか」と問われて⑤「それは言葉では表現できない花です」というのは、返答になっていないのではないでしょうか。もし「言葉では表現できない花」が、花についての言葉による表現であるなら、⑤は返答になっているはずです。逆にもし⑤が返答になっていないとすると、「言葉では表現できない花」は、花についての言葉による表現ではないことになります。そうすると、⑤は矛盾していないことになります。同様に①も矛盾していないことになります。

「それはどんな花ですか」と問われて⑤「それは言葉では表現できない花です」と応えることが、
問いの返答になっているのかいないのか、これが問題です。