17 言語の起源と問答 3 (20210411)

[カテゴリー:『問答の言語哲学』をめぐって]

言語の起源の説明が課題でした。そして、「言語は、問いに対して答えることに始まる」というのが提案でした。言語に特徴的なことの一つは、ある意図を伝達することによって、同時にその意図が実現するということにあると思われます。「関連性理論」にしたがって、ある意図を伝達しようとする意図を「伝達意図」と呼ぶことにします。では、このような伝達意図は、どのようにして発生するでしょうか。これが最初に発生するのは、他者の問いかけに答えようとするときではないでしょうか。他者から何かを問いかけられたと考える時、それに応答する行為は、不可避的に、他者に自分の返答を伝える行為、つまり自分の何らかの意図を伝えようとする行為になってしまいます。したがって、問いかけに対する返答は、伝達意図をもつことになり、このような伝達意図なしに、問いかけに答えるということは不可能です。伝達意図をもつ発話行為は、他の場合にもありうるかもしれませんが、問いかけに応答する場合に特徴的なのは、伝達意図を持つことが不可避になるということです。問われたときには、それに答えることが不可避になるということ、これを「問答の不可避性」と呼ぶことにしました。

 「問答の不可避性」について改めて考えてみたいと思います。問いかけは不思議な力を持っています。「一緒にキャンプに行きませんか?」と問われたら、「はい」か「いいえ」かの返事を迫れることになります。もちろん、「少し考えさせてください」と返事することができ、それは「はい」でも「いいえ」でもありませんが、それもまた一つの返事です。黙っていれば、おそらく「いいえ」という返事をするのと同じことになるでしょう。つまり、「一緒にキャンプに行きませんが?」と問われたら、不可避的に何らかの返事をすることになるのです。

 (言語が浸透している集団の中では、質問でなく、他の発言でも、その発言に応答することが不可避になります。質問でなく「熊だ!」という発話の場合も同様であり、どのように発言しようと、あるいは無視しようと、それは「熊だ!」という発言への応答になってしまいます。言い換えると、全ての発話は、応答を求めており、それに続く発話は、それへの応答であるという意味を持ってしまいます。これは『問答の言語哲学』第三章で述べたことです。)

 次は、問答の不可避性ではなく、選択の不可避性の例です。

 キャンプしていて、テントのそとでガサガサ音がすれば、動物かもしれないと思い、その音が大きく、また鼻息まで大きく聞こえてくれば、熊であることがまだ確実ではないとしても、その可能性を考えて、それに対応した行動をとるでしょう。たとえば、逃げる用意をするとか、熊よけスプレーを準備するでしょう。ここで、いくつかの行動の選択肢を思いついたとき、その中からどれかを選択することは不可避です。いくつかの選択肢の中のどれも選択しないとすれば、そのこともまた一つの選択肢であったということになります。

 また例えば、大学生協で食券の券売機に並んで、自分の順番が来たときには、食券を買うことをやめて立ち去ることもまた一つの選択肢だとすれば、そこで何も選択しないことは不可能です。行為の選択肢が思い浮かんだ時には、何らかの選択することは不可避になります。

 このような選択の不可避性が、他者への応答に関して生じる時、問答の不可避性が成立します。他者に問いかけられたと思ったときには、実際に問いかけられていなかったとしても、その問いかけにたいして何らかの応答を選択することは不可避になります。つまり、実際には相手に問いかけるという能力がなかったとしても、ひとが相手に問いかけられているかもしれないと思ったならば、そのときには、応答すること、つまり、伝達を意図することが不可避に生じるのです。つまり、不可避に言語が生じるのです(グライスの言う非自然的に意味することが、不可避に生じるのです)。

 では、ひとが問いかけられている(あるいは、問いかけられているかもしれない)と思うことは、どのようにして発生するのでしょうか。

16 言語の起源と問答 2 (20210407)

【カテゴリー:『問答の言語哲学』をめぐって]

人間の言語活動にあって、動物の言語にないものは何かと問われれば、語による指示、伝達意図、問答関係、などを挙げることができるでしょう。チンパンジーに指示ができないことについては、次を参照してください(http://langint.pri.kyoto-u.ac.jp/ai/ja/nikkei/42-2016-03-06.html )『関連性理論』のスペルベル&ウィルソンならば、動物は伝達意図を持たないと言いそうです。

#では、この伝達の意図の認識は、どのように生じるでしょうか。言葉を話すということは、何かを伝達しようとすることです。それゆえに、単なる発声ではなく、言葉を話しているとわかれば、それが伝達意図をもつと想定できます。

 ただしこれは、すでに言語が成立している社会でのことです。いまだ言語が一般的でない社会では、相手の伝達意図の認識は、どのように生じるのでしょうか。こちらからの問いかけに対して、相手の発声があるとき、相手の発声は何らかの伝達意図をもっているのかもしれないと推測できます。(ここで、相手の発声の伝達意図を推測できる者は、すでに伝達意図についての概念を持っていなければなりません。)

#伝達意図の条件

普通は、他者が自分を喜ばせようと意図していることを知って、人は嬉しくなるでしょう。しかし、その他者がストーカーであれば、彼・彼女が自分を喜ばせようと意図していることを知っても、その人は嬉しくなりません。<Aを実現しようという意図を知らせることによって、Aが実現する>ということが成り立つための条件は何でしょうか。

 AがBを喜ばせようと意図1するとしましょう。このAの意図1を知って、Bが喜ぶのは、どのような場合でしょうか。BがAをストーカーだと思っている時には、BはAの意図1を知っても不快に感じるでしょう。AがBを喜ばせようと意図するとき、AはBを喜ばせることができると信じています。しかしBは、「AはBを喜ばせることができる」とは思っていません。ここでは、意図の前提を共有していないので、Aの意図を伝達しても、「喜ばせよう」というAの意図は実現しないのです。

 威嚇についても同様です。多くの場合、AがBを威嚇しようとする意図を伝達するだけで、Bは怖れを感じて、威嚇しようとするAの意図は実現します。しかし、この場合にも、そうなるためには、Aの意図の前提「AはBを威嚇できる」をBもまた共有している必要があります。それを共有していなければ、BはAの意図を知っても、怖れを感じないでしょう。

 意図の伝達が意図の実現になるためには、意図の前提を共有していなければなりません。<意図の前提の共有>は、意図の伝達が意図の実現になるための、必要条件です。(では、十分条件はなにでしょうか。)

 スペルベルとウィルソンは、相手を喜ばせようとする意図は、その意図が伝わるだけで相手を喜ばせることになり、相手を脅迫しようとする意図は、それが伝わるだけで相手を脅迫することになる、と語った後で、次のように続けます。「このような可能性が例外的にではなく、常に利用される類の意図がある。すなわち、情報を伝えようとする意図は一般的にそれを認識可能にすることで達成されるのである」 (スペルベル&ウィルソン『関連性理論』内田聖二他訳、研究社出版、25)

 ここでは、情報意図は、つねにそれを伝達することで実現する、と言われています。情報意図が、伝達されることで実現することは、次のように説明出来ます。

①話し手Sが、聞き手Hにpを信じさせようと意図1(情報意図)して、pと話すとしよう。

②Sが、意図1をHが認知することを意図2している(意図2は、意図1を伝達しようと意図している伝達意図である)

③Sは、Hが意図1の認知にもとづいて、pを信じることを、意図3する。

情報意図が伝達されることで実現するのは、この③による、と考えられています。しかし、③の意図が実現するには、聞き手が、話し手の知的な能力と誠実性を信頼していることが必要です。<知的な能力と誠実性への信頼>は、集団生活の中で育まれるものでしょう。<知的な能力と誠実性への信頼>のない集団では、言語は発生しないでしょう。そしてそのようなヒトの集団は人類の進化のプロセスにおいて淘汰されるでしょう。<知的な能力と誠実性への信頼>は、グライスの「協調の原理」、デイヴィドソンの「寛容の原理」に似たものです。

 ところで、問答関係の不可避性は、「協調の原理」や「寛容の原理」よりも、より基礎的なものであると考えます(『問答の言語哲学』「3.3.4問答の不可避性」を参照)。問答関係の不可避性と伝達意図の関係を次に考えたいとおもいます。

15 言語の起源と問答 (20210406)

[カテゴリー:『問答の言語哲学』をめぐって]

(前回までは、『問答の言語哲学』の内容紹介をしてきました。ご批判、ご質問をぜひお願いします。ブログのコメント欄に書きにくければ、(philosophy(アット)irieyukio.net へ)メイルを送ってください。

今回からは、ご意見への回答、この本で書き残したこと、あるいは出版後に言語に関して考えたことを少しずつ書いていきます。)

チョムスキーは人間の言語に共通の普遍文法を想定し、それに対応する生得的な言語能力の存在を想定していましたが、人間とは異なるコミュケーション方法をとる知性システムがあるかもしれません。その知性システムは、人間の言語能力とは異なるメカニズムを持つかもしれません。しかし、その場合でも、おそらく言語は他者とのコミュニケーションに基づいているでしょうから、人間とは異なるコミュニケーションシステムであっても、関連性理論が指摘した「情報意図」と「伝達意図」の区別があるだろうと推測します。(この二つの意図については、『問答の言語哲学』第2章で論じました。)鳥のさえずりや狼の遠吠えには、ひょっとすると情報意図はあるかもしれませんが、伝達意図はないと思われます。人間の言語ないしそれに似た言語システムが成立するためには、伝達意図の成立が不可欠です。

二日前に別のカテゴリーで、思弁的な予測として次のように言いました。

<言語の始まりは、問いと答えの成立になると思います。言語は、他者に伝えようと意図することに始まります。その意図が明示的になるのは、問いに対して答える時です。相手が何かを求めて発声し、それに応えて発声するとき、その発声は、相手の求めに対する応答であると同時に、応答であることを相手に伝えようと意図するものになります。>

ここでの伝達意図の発生についての予測を、もう少し詳しく説明したいとおもいます。

相手が何かを求めて発声していると思うとき、相手の発声についてのその理解が正しくなかったとしても、私はそれにどう対応すべきかを考えて応答する必要があります。相手が何かを求めて発声しているのかもしれないと疑うだけでも、私にはどう対応すべきかを考える必要が生じます。そして、相手に対する応答は、何らか内容を相手に伝えようとしているのだと思わる可能性をもちます。つまり、伝達意図を持ってしまうのです。つまり、伝達意図は、相手の問いかけに答えようとすることにおいて成立するのです。もし、言語が伝達意図の成立によって成立するならば、言語は相手が何かを問いかけているかもしれない思ったときに、それへの応答において成立するのです。

・相手が何かを伝えようとしていると考える時、それが仮に間違っていたとしても、相手の伝達意図を想定して、それに答えることが必要になります。なぜなら、相手の伝達意図を理解して、それを無視したと理解される可能性があるからです。伝達へのコミットメントが不可避に生じるのです。

・問答において、互いの伝達意図は明示化されています。なぜなら、問いに答える時には、答える者に答える意図があるならば、答える者には、伝達意図があるからであり、また問う者が、相手に答えを求める意図があるならば、問う者には、伝達意図があるからです。

14 あとがきのあとがき (20201122)

[カテゴリー:『問答の言語哲学』をめぐって]

 前回で第1章から第4章の内容紹介が終わりました。

 本書で採用した推論主義的アプローチの基本は、命題の意味をその上流推論関係と下流推論関係によって明示化するということにありました。本書では、この推論主義アプローチを、問答推論関係へ拡張し、発話の意味や言語行為にも展開することを試みました。

 本書における問答の言語哲学の研究が、どういう意味を持つかは、そこからどのような下流推論が可能になるか、つまりそれを認識、実践、社会問題に適用するときに何が帰結するか、に依存するでしょう(とりあえずは、問答推論主義アプローチを認識に適用することが私の次の仕事になります)。本書に残されている課題としては、問答の観点から照応関係、文法構造を考察すること、問答論理学の形式化などがあるが、これらは、本書の議論にとっての上流推論を仕上げるという課題になるでしょう。

本書が成立するには、多くの先人の仕事、多く研究者や学生からの刺激が必要だったのですが、この関係は、本書成立の上流推論となっています。本書がどのような下流推論を持つことになるのかは、読者の方々がそこから何をくみ取ってくださるかにかかっています。本書の意味は、このような上流推論関係と下流推論関係によって明示化されることになります。

一つの命題の意味がそれだけで成立するのではなく、他の命題との関係の中で成立するのと同様に、書物の意味もまた一冊だけで成立するのではなく、他の書物との関係(インターテクスチャリティー)の中で成立します。作品の意味は、またジャンルを超え、媒体を越えて、他の作品と問答推論関係を持っています。人間の生きる意味もまた、他の人との関係の中で、また関係を越え、共同体を越え、時代を越えて、他の人々と問答推論関係のなかで構成され明示化されると思います。今後もこのように偏在する問答推論関係を分析したいと思っています。

ご批判、ご質問、感想をお待ちしています。

13 第4章の見取り図 (4) (20201121)

[カテゴリー:『問答の言語哲学』をめぐって]

「4. 4 超越論的論証の限界」では、問答論的矛盾を用いた超越論的論証は、他の超越論的論証と同様の限界をもち、究極的な根拠づけにはなっていないことを説明しました。

 まず超越論的論証一般の限界を説明しました。それは、超越論的論証が、古典論理を前提して成り立つ論証であるということにあります。それは次のような事情です。

 今仮に、命題T が、真なる経験的命題E の超越論的条件であることを証明するとします。この場合には、

   E → T

が成り立ちます。これを証明するには、この対偶

   ¬T→¬E

を証明すれば、古典論理に基づいて、これからE→Tを導出することができます。

 ¬T→¬E の証明は、次のように行うことができます。例えば、T が「私が存在する」であり、E が「私はpを主張する」であるとすると、¬T→¬E は、「もし私が存在しなければ、私がpを主張することはない」となります。これは自明であるかもしれませんが、この自明性は、日本語の「存在する」や「主張する」の意味に基づいています。ここでは仮に、これらの語の意味の理解については問わないことにして、仮に¬T→¬E が成り立つとしましょう。その場合、それに続く超越論的論証は、次のようになります。

    1(1)¬T→ ¬E     仮定

    2(2)¬T        仮定

   1, 2(3)¬E       (1)(2)MP

     4(4)E         仮定 

 1, 2, 4(5)¬E&E     (3)(4)&+

     1, 4(6)¬¬T      (2)(5)¬+

     1, 4(7)T              (6)二重否定消去

       1(8)E → T         (4)(7)→ +

この証明の(6)から(7)のステップにおいて、「二重否定消去」を使用しています。しかし、この推論規則は、古典論理では認められますが、直観主義論理では認められないものです。その意味で、超越論的論証は、古典論理の採用を前提しています。

 もし、このような論証で究極的な根拠づけを行うとすれば、古典論理の採用を正当化する必要がありますが、それはなされていません。これが、超越論的論証の論証としての限界です。

 問答論的矛盾による超越論的論証の場合にも、ある問いに対して否定の返答が、問答論的矛盾を引き起こすことを介して、肯定の返答の必然性を証明しました。ここでも、この最後のステップで「二重否定消去」を用いており、古典論理の採用を選定するという限界を持っています。

『問答の言語哲学』の「序文」全文が掲載されました(20201120)

拙著の「序文」全文が「けいそうビブリオフィル」の「あとがきたちよみ」コーナーに掲載されました。ぜひご覧ください。https://www.keisoshobo.co.jp/book/b535722.html

ここでの内容紹介の方も継続します。

12 第4章の見取り図 (3) 超越論的論証 (20201116)

[カテゴリー:『問答の言語哲学』をめぐって]

「4.3 問答論的矛盾による超越論的論証」では、表題通り、問答論的矛盾を用いて、いくつかの超越論的論証を行います。

 ある問いに対する答えが、問答論的矛盾を引き起こすならば、それを避ける答えを行うことが、問答関係を成立させるための必要条件(超越論的条件)となります。ある問いに対する特定の返答のこのような必然性を「問答論的必然性」と呼ぶことにしました。ここでは、問答論的矛盾をもちいて、問答関係の成立条件についての超越論的論証を行いました。

 まず、問答関係の基礎的超越論的条件として3つを説明しました。

  「私の声が聞こえますか?」

    「いいえ、聞こえません」

  「私の言葉がわかりますか?」

    「いいえ、わかりません」

  「誠実に話していますか?」

    「いいえ、誠実に話していません」

これらの否定の返答は、問答論的矛盾を引き起こすので、このように問われたときには、肯定の返答をすることが問答論的必然性を持ちます。そこで次の3つが問答関係の基礎的超越論的条件になります。

 (1) 会話者が互いに声を聞くことができる(絡路の相互確認)

 (2) 会話者が相互の言語を理解できる(言語の相互理解)

 (3) 会話者が互いに誠実に話している(誠実性の相互確認)

次に、問答関係の意味論的超越論的条件を考察しました。詳細は省きますが、それは次のようなものです。

 (1)照応関係

 (2)タイプとトークンの区別

  (3)言語の規則に従うこと

次に、問答関係の論理的超越論的条件を考察しました。

 (1)同一律

 (2)矛盾律

次に、問答関係の規範的超越論的条件について考察しました。

 (1)根拠を持って語る義務

 (2)嘘をつくことの禁止

 (3)相互承認の義務

これらは、問答関係が成り立つための超越論的条件の網羅を意図したものではありません(おそらくこれら以外にもあるだろうと予想します)。重要なことは、これらが問答関係が成り立つための超越論的条件であるということです。

11 第4章の見取り図 (2) 問答の照応関係と問いの前提 (20201113)

[カテゴリー:『問答の言語哲学』をめぐって]

「4.2 問答関係の分析」では、一般的な問答関係と問答論的矛盾の関係を考察します。

この前半では、問答が照応関係を必要とすることを確認した上で、問答論的矛盾がその照応関係を妨げることを説明します。

 「昨日私は奇妙な人に会いました。彼女は変わった帽子をかぶっていたのです。」

という文があるときに、「彼女」という代名詞は、ここで「照応詞」として使用されています。「彼女」は、「奇妙な人」を指します。正確には、「奇妙な人」が指示する人を指示します。そのとき「奇妙な人」を「先行詞」と呼びます。照応関係は、名詞(名詞句)に限らず、動詞、形容詞、副詞などにも見られ、ありふれているけれども大変興味深い現象です。

ところで、ある疑問文の発話とそれに続く平叙文の発話が、問答の関係にあるときには、平叙文の中の一部の表現が、照応詞ないし照応表現として、問いの中の表現をその先行詞としている必要があります。なぜなら、問いは答えの半製品であり、答えの一部はすでに問いの中に現れている必要があるからです。例えば

  「このリンゴは何ですか?」

    「はい、それはマッキントッシュです」

の「このリンゴ」と「それ」が照応関係にないとしたら、これは問答になりません。

ところで、問答論的矛盾を引き起こす問答の場合には、この照応関係が成り立ちません。例えば、

  「私の言うことが聞こえますか?」

    「いいえ、あなたの言うことが聞こえません」

返答の中の「あなたの言うこと」は、問いの中の「私の言うこと」が指示するものを指示する必要があります。しかし、聞こえないならば、この照応的な関係自体が成り立たないはずです。以上から、問答論的矛盾を惹き起こす問答の間には、適切な仕方で照応関係が成立していないと言えます。

後半では、「問いの前提」について一般的に説明し、それと問答論的矛盾の関係について考察しました。発話一般の前提については、第3章の3.2で説明したのですが、問いの前提については触ていませんでした。ここでは問いの前提について、まず一般的に説明します。問いの発話は、意味論的前提と語用論的前提を持ちます。

問いの「意味論的前提」については、Belnapの提案を拡張して、、問いが真なる(あるいは適切な)答えを持つための必要条件と考えました。例えば、「フランス王はハゲていますか?」という問いの意味論的前提は、「フランス王が存在する」となります。

問いの語用論的前提とは、質問という発語内行為が成立するための必要条件であり、質問発話の誠実性と正当性です。例えば、

 ・答えを知らないこと

 ・答えを求めていること

などが誠実性に関わる語用論的前提となります。

また正当性にかかわる前提としては、例えば、「明日の会議に出席しますか?」と問う場合には、その質問者が、相手にそれを尋ねる資格があること、質問者が相手がその会議に出席する資格があると信じていること、などになります。

では、このような問いの意味論的前提と語用論的前提は、問答論的矛盾とどう関係するでしょうか。次の問答論的矛盾の問答で考えてみましょう。

  「あなたは私の言うことが聞こえますか?」

    「いいえ、私には、あなたの言うことが聞こえません」

この否定の返答は、(詳細な分析を省きますが)この質問の意味論的前提と語用論的前提を否定しませんし、これらの前提を承認するように聞き手に要求する「前提承認要求」を否定することもありません。

しかし、以上のことは質問の通常の語用論的前提、つまり誠実性と正当性に関して言えることです。例えば、

  ・質問者の声が相手に届くこと

  ・質問者の言葉を相手が理解すること

  ・相手が誠実に答えてくれること

これらもまた質問の語用論的前提だとすると、事情は異なってきます。上で、問いの語用論的前提を、〈質問という発語内行為が成立するための必要条件〉として定義しましたが、この定義によるならば、これらもまた問いの語用論的前提となります。これらは通常の問答では成立しているので、看過されているのです。ここでの返答「いいえ、私には、あなたの言うことが聞こえません」は、「質問者の声が相手に届くこと」という問いの語用論的前提と矛盾しています。つまり、問答論的矛盾の返答は、問いのある語用論的前提と矛盾することになります。

問答論的矛盾を惹き起こす返答が否定している語用論的前提は、問答が成立するための超越論的条件となるでしょう。それを次に考察します。

10 第4章の見取り図 (1) 問答論的矛盾 (20201111)

[カテゴリー:『問答の言語哲学』をめぐって]

 第1章で命題の意味を、第2章で発話の意味を、第3章で言語行為を考察してきました。命題の意味は発話の意味の一局面として成立し、発話の意味は言語行為の一局面として成立するものです。そして、第3章の最後に、言語行為は問答関係の不可避性によって成立すると説明しました。これを受けて、第4章では、コミュニケーションが成立するための条件、つまり問答関係が成立するための必要条件(超越論的条件)を考察しました。第4章は、4つの部分に分かれています。

 「4.1 問答論的矛盾の説明」では、問答関係が成立しなくなる特殊な矛盾関係「問答論的矛盾」について説明します。この矛盾を避けることが、問答関係が可能になるための必要条件(超越論的条件)となります。

 問答論的矛盾とは、例えば「私の言うことが聞こえますか?」「いいえ、聞こえません」というような問答関係の矛盾です。まず最初に、この矛盾が、従来「矛盾」関係として論じられてきた「論理的矛盾」「意味論的矛盾」「語用論的矛盾」とは異なることを説明しました。

 二つの文が「論理的に矛盾」するとは、たとえば「AはBである」と「AはBでない」という二つがともに真であることが論理的に不可能であるということです。二つの文が「意味論的に矛盾」するとは、例えば、「これは赤い」と「これは青い」の二つがともに真であることが、文の意味によって不可能であるということです。ある発話が「語用論的に矛盾」するとは、例えば「私は存在しない」という主張のように、主張するという発話行為と、主張される命題内容が、矛盾するということです。

 問答論的矛盾は、これらのどれでもありません。問答論的矛盾は、二種類「純粋な問答論的矛盾」と「混合型問答論的矛盾」に分けることができます。

 「純粋な問答論的矛盾」とは、例えば、次の問答の関係です

  「私の言うことが聞こえますか?」

    「いいえ、あなたの言うことは聞こえませ」

この問いも答えも、単独では問題のない発話です。しかし、この答えの発話が上の問いに対する答えとして発話されるなら、矛盾します。なぜなら、質問が聞こえなければ、それに答えることはできないはずだからです。

 したがって、この問いに対しては、「いいえ」という答えることは不可能であり、「はい」ということだけが可能になります。つまり「はい」という答えが問答論的に必然的なものになます。他にも次のような例があります。

  「あなたは日本語がわかりますか?」

    「いいえ、わかりません」

  「あなたは、私の質問を憶えられますか?」

    「いいえ、憶えられません」

「混合型問答論的矛盾」となづけたものは、例えば次のようなものです。

  「あなたは、誠実に私に話していますか?」

    「いいえ、私は誠実にあなたに話していません」

この質問への返答であるためには、返答は質問に対して誠実なものである必要があるので、「いいえ、私は誠実にあなたに話していません」という返答は矛盾します。つまり、この返答の内容は、これが質問への返答であることと矛盾します。その意味でこれは問答論的矛盾です。ただし、この返答は、「私は誠実にあなたに話していません」という発話として単独にとらえたときに、語用論的に矛盾しています。つまり誠実に主張するという言語行為と、発話の「命題内容」が矛盾するのです。この問答では、問いと答えが問答論的矛盾になっているだけでなく、答えの発話がそれだけで語用論的矛盾になっているので、このような問答論的矛盾を「混合型問答論的矛盾」と名付けました。ここでも「はい、私は誠実にあなたに話しています」と答えることが問答論的に必然になります。他にも次のような例があります。

  「どなたかいませんか?

    「いいえ、誰もいません」

  「あなたは何か主張していますか」

    「いいえ、私は何も主張していません」

  「私はあなたの命令に従うべきですか?」

    「いいえ、あなたは私の命令に従うべきではありません」

純粋な問答論的矛盾と混合型問答論的矛盾は、興味深い構造をもっており、本書では、より詳しい分析を行っています。純粋な問答論的矛盾と混合型問答論的矛盾のこれらの事例から、〈問答論的矛盾は、言語的コミュニケーションのための必要条件(超越論的条件)を示している、と言えるでしょう。

09 第3章の見取り図 (3) 問答の不可避性 (20201110)

[カテゴリー:『問答の言語哲学』をめぐって]

「3.3 言語行為の不可避性」では、これらの言語行為がそもそもどうして可能なのか、どうして成立するのかを考察しました。その答えは、ある種の「不可避性」によって、成立するということです。

 まず、全ての発話は、暗黙的に質問であることを説明しました。すべての発語が、暗黙的に依頼(質問)であるとすると、すべての発話は聞き手に何らかの選択を求めていることになります。発語は、聞き手の選択を可能にするだけでなく、選択を迫り、選択を不可避なものにします。

 次に、この選択の不可避性が、指示を可能にすること、指示を不可避なものにすることを説明しました。ある発話が問いの答えとして発話されるとき、それに含まれる指示詞や確定記述のような表現は、対象を指示できるというだけでなく、むしろ対象を指示しないことはできないことはできません。このような対象の指示の不可避性が、指示を成立させるのです。

 次に、この種の伝達の「不可避性」がグライスの言う「協調の原理」で説明できることを示しました。「協調の原理」とは次のようなものです。

「会話の中で発言をするときには、それがどの段階で行われるものであるかを踏まえ、また自分の携わっている言葉のやり取りにおいて受け入れられている目的あるいは方向性[または問い]を踏まえたうえで、当を得た発言を行うようにすべきである」(Grice 1989: 26, 訳37、[ ]内は引用者の付記)

この「協調の原理」は、第3章で「会話の含み」の説明で述べたように、破ることができるのですが、しかし破ったとしても、破ることによってある意味を伝えようとしているのだと(「協調の原理」に則って)理解されてしまいます。つまり「協調の原理」は不可避的に私たちに迫ってくるのです。このことが、伝達の不可避性を成立させ、さまざまな言語行為を不可避的に成立させます。

 最後に、この「協調の原理」の不可避性の成立の前提になっているのが、問答の不可避性であることを説明しました。未開の民族の人間に出会ったとき、私たちは「協調の原理」が成り立つことを前提できないのですが、しかしそのような状況でも、それぞれの振る舞いが問いかけとそれに対する答えとなってしまうことは、想定できます。つまり、問答の不可避性は、想定できます。

 こうして、言語行為は最終的には問答の不可避性によって説明出来るでしょう。