アダムソンより

イエナ大学で見つけたトルストイの記念プレートです。
1861年に、単に旅行で訪れたのか、講演でもしたのでしょうか。

乳児のコミュニケーションの発達について、ローレン・B・アダムソン著『乳児のコミュニケーション発達』(大藪秦・田中みどり訳、川島書店)では、次のようにまとめられています。

■初期コミュニケーションの発達指標(同書、p. 21)
開眼 0ヶ月
相手の目を見る     2ヶ月
社会的微笑       2ヶ月
クーイング       2ヶ月
声をたてて笑う     4ヶ月
かなきり声、震舌音、うなり声、叫び声、 4ヶ月
規準的な南語(「バババ」など)     7ヶ月
1語の理解       9ヶ月
10語の理解      10.5ヶ月
複雑な喃語       11ヶ月
指さし、        12ヶ月
50語の理解      13ヶ月
初語          13ヶ月(9~16ヶ月)
10語の発語      15ヶ月(13~19ヶ月)
50語の発話      20ヶ月(14~24ヶ月)
二語文         21ヶ月(18~24ヶ月)

■初期コミュニケーション発達の4段階 (同書、p. 41~)
第一期:注意深さの共有(shared attentiveness)の時期
(誕生時(おそらくそれ以前に)~満期産児で2ヶ月頃)

第二期:対人的関わり(interpersonal engagement)の時期
(生後2ヶ月頃~生後5~6ヶ月頃)
「乳児と養育者の注意が、彼ら自身相互に、また両者を結ぶコミュニケーション・チャンネルに、そして両者間に流れる親密なメッセージにも焦点化できる」「コミュニケーションの主たるトピックは、乳児とそのパートナーによる注意と情動の表現の共有という対人的なものである。この時期は社会的微笑と視線の接触(eye-to-eye contact)が特徴的である。」p. 42
この時期は、乳児が注意を周囲の対象物に移し始めることによって終わる。

第三期:対象物への共同関与(joint object involvement)の時期
(生後6ヶ月頃~2年目の中頃まで、しかし終結時期ははっきりしない。)
「乳児は対象物について他者とコミュニケーションし始める。」「参加者は対象物への注意を共有でき(指示と呼ばれる機能)、対象物を扱うときには互いに援助を求めることができる(要請と呼ばれる機能)。さらに、乳児とそのパートナーが対象物についてコミュニケーションするときには、コミュニケーションに常に付随している文化的背景が対象物の扱い方に明確に現われる。」p. 43
この時期は、共有される対象がコミュニケーション場面に直結するものから次第に距離をとり始めることによって、終結する。

第四期:象徴的なコミュニケーションの出現(emergency of symbolic communication)の時期
(一般的には生後13ヶ月頃~ )
「発達のこの時期に、よちよち歩きの幼児とその親とのコミュニケーションは、文化的なレパートリーに基づく交流方法が繰り返され拡張されるにつれて、慣例化し儀式化されるようになる。とくに顕著なことは、メッセージを伝達することばやその他の社会的に共有される手段が焦点になることである。こうした最初のことばは、しばしば人が行なっている活動と重なり、文字どおり手元にある対象物への言及であることが多い。」pp. 43-44

この四つの時期を詳しく見れば、共同注意が個人の注意に先立ち、指示が共同指示先立つことがいえるだろうと思います。これは、アダムソンが引用していたヴィゴツキーの次の言葉と同じことです。
「子供の文化的発達に見られる機能はすべて2回出現する。最初は社会的レヴェルで、その次に個人的レヴェルで。最初は人と人との〈間で〉(精神間)、その次に子どもの〈内部で〉(精神内)。1978、p.57」(同書p.38からの孫引き)
しかし、私には、このヴィゴツキーの言葉に加えて言いたいことがあるのです。ある発話行為が、個人的レヴェルで行なえるようになったときに、社会的レベルから独立して、それなしに可能になっているのではなく、それを可能にしている機能が社会的レベルで働いているのです。その社会的なレヴェルの基底的な機能は、2回出現するのではなくて、1回しか出現しないのです。

これは、いまのところ予想です。これを証明したいと思います。ぼち。ぼち。

三田三丁目の東京タワー

  先週出張で見た東京タワーです。

雑用に終われて、しばらく書き込みできませんでした。
前回の続きです。
「チンパンジーと二歳から三歳の子供に、三つの容器のうち、どれにご褒美が入っているかを教えるのに、(a)正しい容器を指さす、(b)正しい容器のうえに小さな木片を印として置く、あるいは(c)正しい容器のレプリカを見せた。子供はすでに指さしを知っていたが、伝達用の符号として印やレプリカを使うことは知らなかった。それにも関わらず、子供はご褒美を見つけるために、そういう新しい符号を非常に効果的に使うことができた。」(p. 137)
チンパンジーと違って人間の子供は、どうして符号の意味を理解できたのでしょうか。
まだ発達したことばを持たない子供がどのように考えたのかを、我々が言葉で説明するときには、慎重でなければなりません。しかし、一応方弁として、子供がつぎのようなことを考えたとしましょう。

「なぜ大人は、そうしたのだろうか? それは、私にあれの入っているものを示すためではないだろうか。」

この時期の子供が、どの程度言葉を使用できるのかを確認しなければなりません(この確認をできれば後で行いたいと思います)が、これに似たことを考えたのだとしましょう。なぜなら、このように考えるのでなければ、木片が正しい容器を示めす符号であることを理解することは、困難であるように思われるからです。

この場合には、前回述べたトマセロがいう言葉を理解するための三つの条件が揃っています。
①「他者も意図をもつ主体であるということを理解しなければならない。」(p. 136)
②「共同注意場面への参加が必要である」(p. 136)
③「共同注意場面の中で特定の意図的行為、つまり、伝達意図を表す伝達行為を理解しなければならない。」(p. 136)

つまりこうです。
「なぜ大人は、そうしたのだろうか(大人は意図をも主体である)? それは、私にご褒美の入っているものを示すためではないだろうか(大人の伝達意図の理解)。」

②「共同注意場面への参加が必要である」も成立していることの説明が必要ですが、これは後回しにさせてもらって、ここでは、③「伝達意図の理解」の成立について考えて見ましょう。

トマセロは、これについて次のように言います。

「相手の伝達意図を理解するためには以下を理解しなければならない。
相手は[私がXに対する注意を共有することを]意図している。
Grice(1975)以降、誰の分析においても、伝達意図の理解には、この埋め込み構造がなければならないとされている。」(p. 137-138)

(グライスの論文「論理と会話」から伝達意図についてのこのような分析を引き出せる、という主張に対して、私は疑念を持つのですが、しかしそれは瑣末な問題なので立ち入りません。)
ともかくトマセロは、
「相手が[私がXに対する注意を共有することを]意図している」
ということの理解が、上の実験において成立していると主張しているのです。上の実験のケースで言うと
「大人は[私がご褒美の入っている容器に対する注意を共有することを]意図している」
ということになります。
この段階の子供は、誤信念課題を解くことができません。つまり、「わたしが知っていることは他のひとも知っている」とおもっています。この段階の子供が、「他のひとが知っていることは、私も知っている」と思っているかどうか、これについて私は知りません(ご存知の方がおられましたら是非教えてください)。
この段階の子供は、上のような伝達の意図をどのように理解しているのでしょうか。それは大人がそれを理解する仕方とは、違っているはずです。大人の理解を転移しないように注意して、この問題を考えてみたいとおもいます。

明日から名古屋に出張なので、2,3日お休みします。

コメント

    昨日は、東京出張でした。

4spaceさん、鋭い分析ありがとうございました。
私が「認識論的個人主義」と呼んでいるものは、まさに
(x)[ K(x) -> (Ey)[I(y) & (x is y's)] ]
で表記されているとおりのものです。
したがって、その否定はご指摘の通り、
(Ex) [K(x) & ~(Ey)[I(y) & (x is y's)] ]
となります。
そして、ご指摘の通り、「いかなる個人にも属さないような認識がある」と主張したいと思っています。
そこで以下のご質問に答えたいと思います。
「これは一体、どんな様子なのでしょうか?」
「「個人」ではない、「全体者」あるいは「複数者」とでもいうような存在者による認識(そしてそれは「個人」によっては所有され得ないようなもの)がある、ということなのでしょうか? 」
個人の知ではないような「共有知」というものが個人の知の「基底」にあるだろうと考えています。
そのとき、個人の知と「共有知」の関係が問題になるのですが、その関係の前に、
そもそも、そのような「共有知とは、どのようなものなのか?」という問に答えなければならないでしょう。
「全体者」とか「複数者」というようないわば「大きな主体」を考えないで済ませたいとおもっています。J.サールもまた、”collective intentionality”(集団的志向性)を主張しつつも、ヘーゲルの精神を呼んで批判していますが、私もこれには賛成です。なぜなら、そのような主体の存在を証明することは出来ないし、仮にそのようなものを想定すると、それをどのような規模で考えるのか、ということが問題になります。不都合のない形で、それを想定することが難しいだろうと思います。
そこで、この共有知については、いわゆる「主体」を想定しないで考えてみたいとおもっています。むしろ、「主体」に関しては、「個人が知の主体である」というときに、「知の主体である」とはどういうことなのか、ということを分析する必要があるだろうと思います。
私は、個人を超えた共有知を考えていますが、しかし、共有知もまた、個人の知とおなじく、誰かの脳の現象(ないし随伴現象)であるだろうとおもいます。しかし、そこから全ての知の主体が、個人であるとか、個人の脳である、と言うことにはならないだろうと、予想しています。
(これは、まだ全くの予想です)
wise man’s knowledge と言うのをネットで調べてみたのですが、うまくヒットしなかったので、
お暇なときに、どういうものなのか、どこを見ればよいのか、などを少し教えていただけたらありがたいです。

やっとポイントにたどり着いた?

以前の批判(2007年12月2日11月23日)をやり直します。
そこでは、対話の相手の存在認識についての認識論的個人主義者の主張を次のように構成して、それを反論しました。

<私は「あなたが存在している」と想定しています。もちろん、それが私の想定に過ぎない可能性はあります。なぜなら、私は、私の認識の外部に出てゆけないからです。しかし、単なる想定ではなく、実際にあなたが存在することもまた可能です。もちろん、それもまた私個人の想定になりますが、しかし、この想定には矛盾したところはないと思います。>

この主張の弱点は、冒頭の次の部分にあります。
「私は「あなたが存在している」と想定しています。もちろん、それが私の想定に過ぎない可能性はあります。」

前回はこの部分の弱点を指摘しそこなったように思います。
前回行った批判は、私が「あなたは存在しないかもしれない」とあなたに話しかけるとき、
発話行為の事実<私があなたに話しかける>と 
発話内容「あなたは存在しないかもしれない」
とが矛盾しているように思われる、ということでしたが、この部分の弱点は、それとは別のところにあります。

この部分の弱点は、<認識論的個人主義者が対話の相手に対して「あなた」と呼びかけることによって、相手の存在を想定しそれを相手に伝達しておきながら、他方で、相手が本当は存在しない可能性がある、と考えている>という点にあるのです。これは矛盾しているのではないでしょうか。これは道徳的に不誠実な態度のようにも思えます。

認識論的個人主義者は、この点について次のように答えるかもしれません。
<私の態度は、不誠実な態度ではありません。
考えてみてください。私が、相手に次のどちらを語るのが道徳的によい態度でしょうか。
a「あなたの存在をみとめています」
b「私はあなたが存在しないかもしれないと考えています」
もし相手が存在するとすれば、aの発言が適切であることになります。bを語ることは、相手の存在を承認しないことです。もし相手が存在しないとすれば、何を相手に語ろうとそれは無意味ですから、aもbも同じことです。つまり、どちらにせよ、私はaの発言をすることが道徳的には好ましいのではないでしょうか。
では、内面では、次のどちらを考えるのがよいのでしょうか。
 c「相手は存在する」
 d「相手は存在しない可能性がある」
もし相手が存在するとすれば、私は、cを考えるのが正しいことになります。もし相手が存在しないとすれば、私は、dを考えたほうがよいでしょう。しかし、私は、どちらが正しいのか解かりません。解からない限りは、私は、dを考えることが知的に誠実な態度です。無理やりaを信じ込むようにするというのは、知的に不誠実な態度です。

さて、以上の考察で解かるように、私は、aを発言し、bを考えるということが道徳的によい態度であり、知的に誠実な態度であることになります。

私が、aを語って、dを考えるというのは、道徳的に不誠実ではないのです。それを説明しましょう。私が「相手は存在しないかもしれない」と考えることは、これは相手の思想や信条を認めないということではなく、人格を認めないということでもありません。通常の場合には、相手の信条や人格を否定することは、相手の存在を認めることが前提になっています。なぜなら、存在しない人の信条や人格を否定することは不可能だからです。ここでは、その前提となっている存在を疑っているのであって、相手の人格を傷つけるものではありません。>

これに対して私は次のように答えましょう。

<あなたが、「私はあなたが存在しないかもしれない」と言葉に出して相手に伝達する行為は、単にそれを心の中で考えていることとは別の意味をもちます。あなたが、相手に「私はあなたが存在しないかもしれないと考えています」と語るとすると、それはやはり相手の人格を否定することになるのではないでしょうか。もちろん、人格は相手が存在することが前提されていて、相手が存在しないとすれば、その人の人格を否定することも不可能になるのだ、と言うことができます。しかし、その人の存在がその人の人格の前提であるとすれば、その前提を否定することは、その人格を否定することになるでしょう。そして、仮に前提を否定するのではなくて、前提が存在しないかもしれないと考えることは、やはり尊重すべき人格が存在しないかもしれないと考えることであり、相手の人格を否定することになるといえます。
 さらに、単に心の中で「この人は存在しないかもしれない」と考えているとしても、相手の人格を否定することになるのではないでしょうか。これは嘘をつくことの一種であり、もし嘘をつくことが、相手の人格を尊重しないことであるとすると、これもまた、相手の人格を尊重しないことになります。もし「嘘をつくべからず」が自己に対する義務であって、他者に対する義務ではない、と考えるならば、別の仕方で議論しなければなりません。しかし、どちらにせよ、不道徳な行為であることになります。
 認識論的個人主義者は、不道徳な態度なのです。>

認識論的個人主義者は次のように言うでしょう。
<そうかもしれません。しかし、私の立場が不道徳だとしても、それが間違いであるということにはなりません。仮に、私が「他者は確実に存在する」と無理やり信じ込むことにしたとすれば、それは知的に不誠実な態度であり、やはり不道徳なのではないでしょうか。従って、道徳的な見地からしても、私が認識論的個人主義を捨てるべきだということにはなりません。>

私は次のように言いましょう。
<では、あなたの立場が不道徳であるとしても、それは問わないことにしましょう。あなたの態度が、矛盾しているということを指摘しましょう。これが私の批判の本来のポイントなのです。
あなたは他者と話しているときに、相手が存在していることを前提して話しています。つまり相手に「あなたは存在している」と語り、他方で、「あなたは存在しないしないかもしれない」と考えています。これは矛盾ではないでしょうか。もちろん、あなたは、そのことと相手も正直に語ってもよい、と考えるでしょう。例えば、今私と議論しているときにそうしているようにです。しかし、本当にそう
でしょうか。あなたは相手に全く正直に、「私はあなたが存在すると考えていますが、しかしひょっとするとそれが私の想定に過ぎない可能性も認めています」と語ることはできます。しかし、あなたは、本当に首尾一貫して常に、相手の存在を不確実なものとして考え続けることができるのでしょうか。あなたが他者と話すときに、ついつい、相手が確実に存在すると考えてしまっているのではないでしょうか。(あなたはまた、あなたの周りの世界が、あなたの表象にすぎないと考え続けることもまた不可能であり、ついつい素朴な実在論をとってしまっていないでしょうか。これはいずれ後で論じることになるでしょう。)私の指摘したかった矛盾点は、ここにあります。本当にあなたは、あなたの立場を維持しつつ、他者と対話することができるのか、ということです。>

これに対して認識論的個人主義者は、どう答えるでしょうか。

クマ出現に注意

  クマのように手ごわい認識論的個人主義者

さて、前回の反論を吟味したいと思います。
 
前々回、私は次のように考えました。
「私は存在しない」という発話と同様に、「あなたは存在しない」という発話もまた、語用論的矛盾です。「あなたは存在しない」と私があなたに話しかけるとき、
発話行為の事実<私があなたに話しかける>と 
発話内容「あなたは存在しない」
が矛盾しているからです。ここから私は、次のように議論を拡張しました。もしそのようにいえるとすれば、「私はあなたに話しかけていないかもしれない」という発話も矛盾している。なぜなら、次の二つが矛盾しているからです。
発話行為の事実<私はあなたに話しかける>と
発話内容「私はあなたに話しかけていないかもしれない」

前回の認識論的個人主義者の反論は、この後者が矛盾していないという主張でした。

彼の反論を整理しましょう。 
まず、認識論的個人主義者は、よく似ている例として、次の事例<ドアを叩きながら、「どなたかいませんか」と質問する場合>を挙げて、それは矛盾していないといいました。
   発話行為の事実<私は内部にいる人に話しかける>
   発話内容「内部にどなたかいませんか?」
これは、質問なので、疑問文の内容と事実の主張とは直接には矛盾しないのですが、しかし、全ての疑問文は何らかの命題を前提します。ここでは、<発話者は、内部に誰かがいるのかどうかを知らない>という命題ないし事実が前提されています。
発話行為の事実<私は内部にいる人に話しかける>
   質問の前提<私は内部に人がいるかどうかを知らない>
この二つは矛盾するでしょうか。

認識論的個人主義者が述べたように、確かにわれわれはこのような質問を行います。そしてこのような質問は、われわれのコミュニケーションを可能にするために非常に重要な機能を持っています。実は、私は、このような質問は、コミュニケーションを可能にするために不可避のものであるとも考えています。しかし、そのように考えるとしても、そのことから、「その質問発話は矛盾していない」という命題を導出することはできません。

さて、この発話の事実と質問の前提は矛盾しているでしょうか。(今のところ、私には矛盾しているのかどうか、よくわかりません。「なぜ、矛盾しているかどうか、というような単純な問いに、明確に答えられないのか」ということ自体もよくわかりません。奇妙なねじれがありそうです。)

この質問との類似性に基づいて、「私はあなたに話しかけていないかもしれない」という発話が矛盾していないというのが、認識論的個人主義者の反論でした。

この二つの発話の間の、類似性、については、もう少し検討の余地があるだろうとおもいます。またその類似性を認めるとしても、これらが矛盾していないといえるかどうかについてもまだよくわからない、というのが、現在の私の感想です。つまり、認識論者の「『私はあなたに話しかけていないかもしれない』という発話は矛盾していない」という反論が、正しいのかどうか、現在のところ、私には曖昧です。

これでは、反論への批判になりません。
しかし、このように分析しながら、私は、前々回の批判がすこしピントはずれであったということに気づきました。そこで、前々回の批判を、やり直すことにしたいとおもいます。

認識論的個人主義は宝くじを買う

前回の批判に対して、認識論的個人主義者は次のように反論するかもしれません。

<私は『あなたが存在している』と想定しています。そして、全ての表象が私の表象である限り、それが私の表象にすぎず、私の想定に過ぎない可能性はあります。そして、これが、私の想定に過ぎないとすれば、私が今、あなたに話し掛けていることも、実は私の勝手な想定であり、この話しかけは失敗しているということになります。
ちょうどドアを叩きながら、「どなたかいませんか」と質問しているような場合と同じです。もし人がいれば、答えてくれるし、もしいなければ答えは返ってきませんから、この発話は、誰に対する質問でもないことになります。しかし、それでもよいのです。それでも、私は、返答がないことによって、誰もいないという情報を得ることができるからです。
これと同じで、私は、今このようにあなたに反論していますが、そのあなたが私の表象に過ぎない可能性があるとしても、もしあなたから返答が返ってくれば、それによってとりあえず、私はあなたが存在しているという想定を継続する合理的な根拠を得たことになります。もちろんそれが私の錯覚で、実はあなたがいないことがいずれわかるかもしれませんが、しかし、それはわれわれの認識の限界として、引き受けるしかないことだと、私は考えています。ここには、矛盾はありません。
われわれが宝くじを買うときに、「当てよう」と思って買うのですが、しかし当たらない確率が高い、つまりおそらく当たらないだろう思っています。当てようとすることと、当たらないだろうと思うことは、この場合に矛盾していないでしょう。それと同じことです。>

さて、この反論にどのように答えたものでしょうか。

私はあなたに話しかけています

       

前述の認識論的個人主義者からの反論を一旦受け入れて、「相互承認」関係に依拠した、認識論的個人主義への批判の有効性については(まだあきらめていないのですが)一旦留保して、別の面から批判を試みたいと思います。
 
ここで対話の相手の存在認識についての認識論的個人主義者の同様の議論を構成してそれを反論したいと思います。

<私は「あなたが存在している」と想定しています。もちろん、それが私の想定に過ぎない可能性はあります。なぜなら、私は、私の認識の外部に出てゆけないからです。しかし、単なる想定ではなく、実際にあなたが存在することもまた可能です。もちろん、それもまた私個人の想定になりますが、しかし、この想定には矛盾したところはないと思います。>

この議論は、相手「あなた」に話しかけています。「私は存在しない」と言う発話は、周知の語用論的矛盾ですが、「あなたは存在しない」という発話もまた、語用論的矛盾ではないでしょうか。まず、「私は存在しない」が語用論的矛盾になる、ということを確認しておきましょう。
「私は存在しない」と私が発話するとき、
  
   発話行為の事実<私が発話する>と
  発話内容「私は存在する」

が矛盾しています。
これと同様に、「あなたは存在しない」と私があなたに話しかけるとき、

   発話行為の事実<私があなたに話しかける>と 
   発話内容「あなたは存在しない」

が矛盾しています。

もしそのようにいえるとすれば、上の議論の冒頭の部分の発話

  「私は『あなたが存在している』と想定しています。もちろん、それが私
   の想定に過ぎない可能性はあります。」

これは、矛盾しています。なぜなら、この二つ目の文の発話は次のような発話になるからです。

  「あなたは存在しないかもしれない」
あるいはこれをさらに言い換えると、
  「私はあなたに話しかけていないかもしれない」
となります。これらをあなたに話しかけるとき、

  発話行為の事実<私があなたに話しかける>と
  発話内容「あなたは存在しないかもしれない」あるいは
      「私はあなたに話しかけていないかもしれない」

は矛盾しています。

これに対して、認識論的個人主義者はどう反論するでしょうか。

 

相互承認には共有知が必要

認識論的個人主義者の反論は次のようなものでした。

<私は「他者が存在する」と想定しています。もちろん、それが私の想定に過ぎない可能性はあります。なぜなら、私は、私の認識の外部に出てゆけないからです。しかし、単なる想定ではなく、実際に他者が存在することもまた可能です。もちろん、それもまた個人の想定になりますが、しかし、この想定には矛盾したところはないと思います。>

この反論にどのように答えましょうか。ここで「相互承認」についての認識論的個人主義者の同形の議論を構成して、それを反論したいと思います。
(「相互承認」という言葉をいきなり持ち出すと解かりにくいかもしれません。これはフィヒテに始まる哲学用語です。人間と人間が自然状態でであったときに、戦争状態を避けるために必要とされる、最も基礎的な人間関係のことです。その中身は、「互いに相手の自由のために、自分の自由を制限する」ということです。)

<私は、「Bさんとの相互承認している」と想定しています。もちろん、それが私の想定に過ぎない可能性はあります。なぜなら、私は、私の認識の外部に出てゆけないからです。しかし、単なる想定ではなく、実際にBさんとの相互承認が存在することもまた可能です。もちろん、それもまた私の想定になりますが、しかし、この想定には矛盾したところはないと思います。>
 
これに対する私の反論は以下の通りです。
<相互承認は、互いに承認していることを互いに知っていることを互いに知っているというような反復が可能であるということを、構成条件としています。つまり、認識論的個人主義者が、「私は、「Bさんとの相互承認している」と想定しています。もちろん、それが私の想定に過ぎない可能性はあります。」というのは、「私は「私はBさんと相互承認しており、そのことを互いに知っていることを互いに知っているというような反復が可能である」と想定しています。しかし、それが私の想定に過ぎない可能性はあります。」と認めることになります。しかし、そうすると、これは、相互承認の関係を互いに知っていることを互いに知っているということの無限の反復可能性の主張と矛盾します。>

したがって、相互承認が成立していると考えるのならば、我々は認識論的個人主義を放棄しなければなりません。認識論的個人主義者が、相互承認が成立していると考えることは矛盾しているといえます。

これに対して、認識論的個人主義者は次のように反論するかもしれません。

<上の論証を認めましょう。私がそこから引き出す結論は、上述のような完全な意味でならば「相互承認」は成立しないと主張することです。私は、他者の存在を想定し、彼らを尊重し、ある人々とは対話し、互いに尊重しあっていると想定しています。これもまた私の想定で、間違っている可能性がありますが、しかしあっている可能性もあります。>

さて、この反論にどう答えましょうか。

認識論的個人主義とは

共有知の存在証明に取り掛かりたいとおもいます。

唯物論であれ、二元論であれ、観念論であれ、すべての意識ないし思考は、個人の意識ないし思考であるとしましょう。この立場を「認識論的個人主義」と呼ぶことにします。なぜなら、このときには、全ての認識は、ある個人が行っている認識であるということになるからです。
 このような認識論的個人主義では、私が見ている対象や私の思考は、全て私個人のものです。もし私がBさんと同じ部屋にいて、同じ黒板を見ているとしましょう。このこと、つまり「私がBさんと同じ部屋にいて、同じ黒板を見ている」ということは、私の認識です。私は、Bさんも、同じように考えていると思っていますが、しかし「Bさんも同じように考えている」ということもまた、私の認識です。つまり、認識論的個人主義が正しいとすると、個人が複数存在することを、想定することもまた、ある個人の想定であることになります。
ここから、「認識論的個人主義者が、他者の存在を想定することは自己矛盾している」ということを主張したいのですが、それを主張するには、まだ途中の論証を補う必要があるでしょう。

認識論的個人主義者は次のように反論するでしょう。
<私は「他者が存在する」と想定しています。もちろん、それが私の想定に過ぎない可能性はあります。なぜなら、私は、私の認識の外部に出てゆけないからです。しかし、単なる想定ではなく、実際に他者が存在することもまた可能です。もちろん、それもまた個人の想定になりますが、しかし、この想定には矛盾したところはないと思います。>

 さて、この反論にどのように答えましょうか。
 

そろそろ始めましょう

     先週末見た綺麗な紅葉でした。

そろそろ話しをはじめたいと思います。
ここで「共有知」と呼びたいのは、個人が考えている知ではありません。それは個人を超えて複数の人が共有している知です。諸個人が同じ内容の知を持っており、各人の心ないし頭に同じ知が人間の数だけ反復して成立しているというのではありません。

複数の個人が一つの知を共有すること、内容が同一の知が、人間の数だけ存在するのではなくて、数的に一つの知がそこに存在しているという状態を「共有知」と呼びたいとおもいます。

「そんなバカな」というご批判は、私がそのように考える理由を説明してから、喜んでお伺いしますので、今しばらくお待ち下さい。