「これは黄色だ」とどうして言えるのか

              「上の四角は、何色ですか?」と問われたならば、
              「それは黄色です」と我々は即座に答えるでしょう。

このとき、私はどのようにして答えているのでしょうか。
おそらく、これまで「これが黄色だよ」「それも黄色だ」「あれは黄色だ」「こいつは黄色じゃない」
などと沢山の色について学習してきて、黄色にぞくする沢山の色のサンプルの記憶があります。
その記憶を用いて、それと上の四角の色が類似している、ことを確認して、
そこで、「それは黄色です」と答えるのでしょう。。

ただ上の四角だけを見ても、そこから「黄色」という言葉は出てきません。
上の四角を見ることだけでなく、「黄色」の言葉の使用例についての記憶が、必要です。
それから、さらに、それらの記憶された黄色のサンプル群と、上の四角の色が、類似していることの認識が必要です。

たとえば、目の前に二つの四角があり、「その二つの色は似ている」というためには、何が必要でしょうか。
そのためには、「色」の語の使用例の記憶が必要ですが、それに加えて、「似ている」という語の使用例の記憶が必要です。
これは、この場合の二つの色の関係は、これまでに「似ている」で使用例で記憶されている関係のサンプル群と、<似ている>必要があるのでしょうか。そうすると、この場合に<似ている>は、どのようにして知られるのでしょうか。

これをさらに<<似ている>>というように、繰り返えしても、役に立ちそうにありません。

では、このあと、どのように説明したらよいのでしょうか。
もう一度、問いましょう。「これは黄色だ」とどうして言えるのでしょうか。

(もし、なにかよいアイデアがありましたら、教えてください。)

「私は生きたい」と、私はどうして知るのか?

アメリカの国会議事堂、アメリカ民主主義の象徴でしょうか。権力の象徴でしょうか。
残念ながら私のとった写真ではありません。若い友人からの贈り物です。

「私は生きたい」と、私はどうして知るのか?

これに答えることは簡単ではありません。なぜなら、自分の気持ちを反省して、<生きたい>という欲望を感じるのだとしても、そのときには、その欲望について「これは、生きたいという欲望だ」という記述をおこなっているのです。問題は、「これは生きたいという欲望だ」という記述がどうして可能なのか、ということだったので、これでは、問題に答えたことにならないのです。

もし、欲望が言語を含まず、言語とは異質なものだとすると、「生きたい」という言葉が、どうしてその欲望と一致しているのかを説明することはできません。
もし、欲望が(欲望一般はいざ知らず、少なくともこの欲望が)本質的に言語を含んでいるのだとすると、そのようなことがどのようにして可能になるのかを説明しなくてはなりません。

セラーズは、「所与の神話」という言葉で指摘して、批判していました。セラーズが詳しく論じているのは、感覚与件説の批判ですが、しかし彼が念頭においている「所与」は感覚与件に限りませんでした。感覚や知覚は、認知状態の一種(非信念的認知状態)であるのに対して、欲望や欲求は認知状態でない、という大きな違いがあります。しかし、これらの言語で表現するときの、これらと言語との関係に関しては、同じようなことが指摘できます。

アメリカの国会議事堂を見て、「これは権力の象徴だ」というときには、多くの知識が前提になっています。
しかし、「これは白い」というときにも、感覚以外の多くの知識ないし信念が前提になっています。
それと同様で、「私は生きたい」というときにも、私が心の中に感じる欲望だけでなく、多くの信念が前提になっています。

もう一度、問いましょう。「私は生きたい」と、私はどうして知るのでしょうか?  

人生論のある基本前提

これは、少し前の、時間があったときの写真です。
最近、忙しくて人生について考えている暇がない、というのが実情です。
これは、いったい何という人生でしょうか。
そんな人こそ、人生について、考え直す必要があるのではないでしょうか。

3、人生論のある基本前提

人生論における最も基本的な問題だと思われるのは、次の二つの問題です。
「自分の死についてどのように考えたらよいのか」
  「私は何のために生きるのか」
端的にいえば、死の問題と生きる意味の問題です。人生には、それ以外にも沢山の問題があるでしょうが、それらは、これらから派生する問題であるか、そうでないとしても、これらよりも重要性の低い問題になるのではないかと思われます。
 ランダムに挙げみます。これらは上の問いよりも、より具体的で、より切実かもしれません。しかし、上の問いよりも基本的であるとは思えません。(それはなぜでしょうか?)
   「老いについて、どのように考えたらよいのか」
   「失業について、どのように考えたらよいのか」
   「何のために働くのか」
   「何のために勉強するのか」
   「結婚するとはどういうことか」
   「子供を育てるとは、どういうことか」

さて、最初の二つの基本問題について、これまで瞥見してきたのは、実は、それらがともに共通の前提を持つことを示すためでした。その前提とは、
   「私は生きたい」「私は死にたくない」
という欲求の存在です。
 もしこの欲求がなければ、我々は「自分の死についてどのように考えたらよいのか」悩まないでしょうし、「何のために生きるのか」悩まないでしょう。

ところで、我々は「生きたい」という欲求を持っているということは、本当なのでしょうか。
問題をより簡単にしましょう。

「私は『私は生きたい』という欲求をもっている」という主張を、私(あるいは、あなた)は、どのようにして証明ないし正当化できるでしょうか。

 「そんなことは自明だ。なぜなら、私はそう感じるからだ。」
と大方の人は答えるでしょう。あるいは、これ以外に答えようがないと思うかもしれません。
しかし、このような答え方については、セラーズによる「所与の神話」という有名な批判があるのです。

これについて、次回に考えましょう。

「私は何のために生きているのか」という問いはどのようにして発生するのか

前回最後の問題は、以下のとおりです。

>ここでは、次の二つの意図(欲求)の矛盾が成立している。
>    「生きるのが苦しいので、私は生きるのをやめたい」という意図・欲求
>    「私は生きるのをやめたくない」という意図・欲求
>では、この二つの意図の矛盾の解決のために、次の問いを立てるのだろうか。
>    「私は何のために生きているのか」
>私は、これまで、現実と意図の矛盾から、問いが発生すると考えてきたのだが、
>このケースについては、どのように考えたらよいのだろうか。

今日は、これに答えたい。

私の中に二つの矛盾する欲求がある、ということは、しばしばあることである。
例えば、「ケーキを食べたい」
    「健康のためにダイエットしたい」
このときの我々にとって問題になるのは、二つの欲求の矛盾をどのようにして解決するのか、と言うことである。
    「二つの矛盾する欲求がある」という現実認識
    「欲求の矛盾を解消したい」という意図
そこで、立てられる問いは、
    「どうやって、この矛盾を解決したらよいのだろうか」
という問いであろう。

先の二つの意図(欲求)の矛盾については、どうなるだろうか。
    「生きるのが苦しいので、私は生きるのをやめたい」という意図・欲求
    「私は生きるのをやめたくない」という意図・欲求
ここでも、次の問いが立てられるだろう。
    「私は、どうやって、この矛盾を解決したらよいのだろうか。」
 
 これに対する答えが次のものである。
 「もしここで『私は何のために生きているのか』という問いに対して、『私はxのために生きる』という答えが得られたならば、『私はxのために生きる。そのためには、私は苦しくても、生きるのをやめることは出来ない』と考えることが出来る。これによって、我々は、『生きることは苦しいので、生きたくない』という欲求を消し去ることができ、当初の矛盾を解消することができる。」

 この答えに基づいて、「私は『私は何のために生きるのか』という問いの答えを知りたい」という意図、願望を持つ。
 しかし、「私は、この問いの答えを知らない」という現実がある。
 この矛盾を解決するために、「私は、何のために生きるのか」という問いが立てられる。

このように考えるのは、ペダンチックで冗長であるかもしれない。
これは一般化すると次のようになる。
   「Aは、qという問いの答えを知りたい」(意図、願望)
   「Aは、qという問いの答えを知らない」(現実)
この二つの矛盾から、Aはqという問いを立てる。

こんな風にいわなくても、「Aは、qという問いの答えを知りたい」という願望から、直接に、Aは、qという問いを立てる、と考えることもできるかもしれない。

(このあたりは、もっと整理する必要があるとおもいますが、しかし、以上で人生論の二つの重要問題の導入を終えて、
もっと、基本的な問題について、次に考えることにします。)
 

第二の問題、再検討

讃岐富士(飯野山)の2007年4月1日の景色です。

第二の問題の再検討

■仕切りなおし
我々が第二の問題「私は何のために生きるのか」を問うのは、次の矛盾のためであると上にのべた。
  (a)「私はもっと生きたい」という意図・願望
  (b)「私は何のために生きるのかわからない」という現実認識

この二つが、本当に矛盾しているのかどうかが曖昧なので、今回検討することを予告した。
 しかし、これについて考えているうちに、もっと重要な間違いに気づいた。

 (b)「私は何のために生きるのかわからない」という自己認識は、「私は「何のためにいきるのか」という問いに答えられない」ということであり、私が「私は何のために生きるのか」と問うて、答えられなかった、という経験にもとづく認識であるだろう。
 もし、そうだとすると、「私は何のために生きるのかわからない」という現実認識が成立する前に、すでに「私は何のために生きるのか」という問いが発せられていることになる。つまり、この問いは、(a)と(b)の矛盾(仮にこの二つが矛盾だとしても)によって発生するのではない。

■振り出しに戻って
 では、「私は何のために生きるのか」という問いは、どのようにして発生するのだろうか。このような問いを問うときに前提になっていることは、「私は生きている」という認識である。なぜなら、この問いは、「私が生きている」ということの理由を問うものだからである。 ところで、「私は生きている」と「私はもっと生きたい」だけでは、そこから「私は何のために生きるのか」という問いは生まれない。では、何が必要だろうか。

 一般的に、人が行為の理由を問うのは、どのようなときだろうか。
 たとえば、ジョギングをしていて苦しいとき、「私は何のためにジョギングしているだろうか」と自問することがあるかもしれない。私が次のように考えているとしよう。
   私はジョギングしている。
   ジョギングが苦しいので、私はジョギングをやめたい。
   しかし、私はジョギングをやめたくない。
このとき、私は次の問いを立てるだろう。
   「なぜ、私はジョギングをやめたくないのか」あるいは
   「私は何のためにジョギングをしているのか」

 これをさらに少し変えて、私が次のように考えているとしよう。
    私は生きている。
    生きるのが苦しいので、私は生きるのをやめたい。
    しかし、私は生きるのをやめたくない。
このとき、私は次の問いを立てるだろう。
    「なぜ、私は生きるのをやめたくないのか」あるいは
    「私は何のために生きているのか」

ここでは、次の二つの意図(欲求)の矛盾が成立している。
    「生きるのが苦しいので、私は生きるのをやめたい」という意図・欲求
    「私は生きるのをやめたくない」という意図・欲求
では、この二つの意図の矛盾の解決のために、次の問いを立てるのだろうか。
    「私は何のために生きているのか」
私は、これまで、現実と意図の矛盾から、問いが発生すると考えてきたのだが、
このケースについては、どのように考えたらよいのだろうか。

(今日は、もう頭が動かないので、次回にこれを検討します。)

第二の問題:生きる意味

サボっている間に、桜の季節も終わりに近づいてきました。
落ち葉とおなじく、地面に散った桜もよいものです。(桜餅をおもいだしてしまいます。)
パソコンがこわれたり、年度末と年度初めの雑用に追われて、更新が遅れてしまいました。
パソコンは、昨日修理から戻ってきて、今のところ快調に動いています。

2、第二の問題:生きる意味
 死が問題なのは、死にたくないからである。「死にたくない」というのは、言い換えると「もっと生きたい」ということである。しかし、他方で、「何のために生きるのか」がわからない。ここに生じる次の矛盾(*)が、人生について考えるときの第二の問題である。
   「私はもっと生きたい」という意図・願望
   「私は何のために生きるのかわからないという」という現実

{*この二つが本当に矛盾しているのかどうか、を検討しなければならないが、それは後の議論に回したい。}

 この矛盾(問題状況)を解決する方法は、次の二つである。

(解決方法1)ひとつの方法は、「私は何のために生きるのか」という問いに答えて、現実を変えることである。
(解決方法2)もう1つの方法は、「もっと生きたい」という意図や欲望を変更することである。これは、「死を受容する」ということである。この場合には、次の問い「私は、どのようにして死を受容するのか」に答えなければならない。

 念のために確認しておくと、上の矛盾した命題は、共に「私」を主語としている。
   「私はもっと生きたい」
   「私は何のために生きるのかわからない」
ゆえに、この矛盾を解決する1つの方法は、次の個人的な問いに答えることである。
   「私は何のために生きるのか」あるいは「私の人生の意味は何か」

(1)答え方1
 この問いに答える1つの方法は、次のような一般的な問いの答えを求め、その答えから上の問いの答えを導出することである。
   「人は何のために生きるのか」
   「人は何のために生きるべきか」
   「人生の意味はなにか」
しかし、この問いに答えることは、難しいだろう。なぜなら、ミュンヒハウゼンのトリレンマに陥るからである。ミュンヒハウゼンのトリレンマに陥ったときの反応は、一般的には次の三つ(四つ)にまとめられる。
    懐疑主義、決断主義、規約主義(約束主義、慣習主義)
これをここで適用すると、次のようになるだろう。

    懐疑主義「生きる意味は解らない」
    決断主義「わたしは、生きる意味は・・・であると見なすことに決断する」
    約束主義:たとえば、愛し合う朔太郎と亜紀が「私達の生きる意味は、二人で一緒に生き続け
         ることにある」と考える場合。
    慣習主義:たとえば、伝統的な仏教国では、生きる意味は、解脱にあった。
        (現在では、このような慣習を維持することは困難である。)
ここで答えとして役立ちそうなのは、決断主義と約束主義であるが、しかし、これらは一般的な問題に対して個人的な答えを与えるだけであり、したがって、最初の「私の生きる意味は何か」という問いに答えるために、一般的な問いに問い合わせたことは無駄であったということになる。つまり、この答え方は、役立ちそうにない。

(2)答え方2
 もう1つの方法は、次のように答えることである。

  「私は、すばらしい絵を書くために生きる。わたしの人生の意味は、すばらしい絵を描く
    ことにある」
  「私は、真理を追究するために生きる。わたしの人生の意味は、哲学を研究することである」
  「私は、彼女のために生きる。わたしの人生の意味は、彼女と生きることにある」
  「私は、金儲けのために生きる。私の人生の意味は、世界一の金持ちになることである」

 このような答えに対して、他者が「それはおかしい」と批判することは、(それが何らかの社会的な規範に反している場合や、その人の他の信念と矛盾している場合を別にすれば)、おそらく不可能であろう。その理由は、以下の通りである。
 もし、絵描きになろうとする人に、
   「なぜ、あなたはすばらしい絵を描きたいのですか?」
と問うのならば、この「なぜ」は理由を求めている問いである。このような理由を求める「なぜ」に対して、理由を答えられないとしても、その意図を撤回すべきであるということにはならない。またもし「幸せになりたいからだ」というのが、その答であるとき、さらに「なぜ幸せになりたいのか」と問われて、その理由を答えられないとしても、「絵描きになりたい」という意図や「幸せになりたい」という意図を撤回すべきであるということにはならない。理由を問う「なぜ」と問いに答えられなくても、意図を撤回すべきであることにはならない。
 上の問いに対して、たとえば彼が次のように答えたとしよう。
   「私は、小さいころにゴッホの絵を見て感動し、ゴッホのような絵描きになりたいと
     思ったのです。」
この答は、「私が、すばらしい絵を書きたいと思う」理由ではなくて、そのように思うようになった原因を答えている。この原因が間違っていても(たとえば、彼が押さないと金見たのがゴッホの絵ではなくて、別の人の絵であったとしても)、またこのような原因を挙げることが出来ないとしても、「絵描きに成りたい」という意図を撤回すべきであるということにはならない。原因を問う「なぜ」の問いに答えられなくても、意図を撤回すべきであることにならない。
 「私はすばらしい絵を描きたい」などの発話は、表現型の発話であって、真理値を持たない。それゆえに、根拠を持たない。ゆえに、根拠を問う「なぜ」の問いは無効であり、それに答える必要はない。

(3)答え方3(?)
 (2)のような具体的な願望を述べることができないとき、あるいは(2)の答が一応あるのだが、本当にそれで満足できるのかどうかわからないとき、あるいは(2)の答が二つ以上あって、両立しないとき、どうしたらよいだろうか。あるいは、そのとき、ひとはどうするのだろうか。
 そのとき人は結果としては、この問いの答えがわからないままにとりあえず生きることになるだろう。このとき、彼の人生に対する態度には、ど
のようなパターンがありうるだろうか。

 (この問題を考える前に、次回は、上の矛盾を吟味したいと思います。)

第二の問題:生きる意味

サボっている間に、桜の季節も終わりに近づいてきました。
落ち葉とおなじく、地面に散った桜もよいものです。(桜餅をおもいだしてしまいます。)
パソコンがこわれたり、年度末と年度初めの雑用に追われて、更新が遅れてしまいました。
パソコンは、昨日修理から戻ってきて、今のところ快調に動いています。

2、第二の問題:生きる意味
死が問題なのは、死にたくないからである。「死にたくない」というのは、言い換えると「もっと生きたい」ということである。しかし、他方で、「何のために生きるのか」がわからない。ここに生じる次の矛盾(*)が、人生について考えるときの第二の問題である。
「私はもっと生きたい」という意図・願望
「私は何のために生きるのかわからないという」という現実

{*この二つが本当に矛盾しているのかどうか、を検討しなければならないが、それは後の議論に回したい。}

この矛盾(問題状況)を解決する方法は、次の二つである。
(解決方法1)ひとつの方法は、「私は何のために生きるのか」という問いに答えて、現実を変えることである。
(解決方法2)
もう1つの方法は、「もっと生きたい」という意図や欲望を変更することである。これは、「死を受容する」ということである。この場合には、次の問い「私は、どのようにして死を受容するのか」に答えなければならない。

念のために確認しておくと、上の矛盾した命題は、共に「私」を主語としている。
「私はもっと生きたい」
「私は何のために生きるのかわからない」
ゆえに、この矛盾を解決する1つの方法は、次の個人的な問いに答えることである。
「私は何のために生きるのか」あるいは「私の人生の意味は何か」

(1)答え方1
この問いに答える1つの方法は、次のような一般的な問いの答えを求め、その答えから上の問いの答えを導出することである。
「人は何のために生きるのか」
「人は何のために生きるべきか」
「人生の意味はなにか」
しかし、この問いに答えることは、難しいだろう。なぜなら、ミュンヒハウゼンのトリレンマに陥るからである。ミュンヒハウゼンのトリレンマに陥ったときの反応は、次の三つにまとめられる。
   懐疑主義、決断主義、規約主義(約束主義、慣習主義)
ここでは、次の二つが考えられる。
   懐疑主義「生きる意味はわからない」
   決断主義「わたしは、生きる意味は・・・であると見なすことに決断する」
    約束主義:たとえば、愛し合う朔太郎と亜紀が「私達の生きる意味は、二人で一緒に生き続けることにある」と考える場合。
慣習主義:たとえば、伝統的な仏教国では、生きる意味は、解脱にあった。(現在では、このような慣習を維持することは困難である。)
ここで答えとして役立ちそうなのは、決断主義と約束主義であるが、しかし、これらは一般的な問題に対して個人的な答えを与えるだけであり、したがって、最初の「私の生きる意味は何か」という問いに答えるために、一般的な問いに問い合わせたことは無駄であったということになる。つまり、この答え方は、役立ちそうにない。

(2)答え方2
もう1つの方法は、次のように答えることである。
  「私は、すばらしい絵を書くために生きる。わたしの人生の意味は、すばらしい絵を描くことにある」
  「私は、真理を追究するために生きる。わたしの人生の意味は、哲学を研究することである」
  「私は、彼女のために生きる。わたしの人生の意味は、彼女と生きることにある」
  「私は、金儲けのために生きる。私の人生の意味は、世界一の金持ちになることである」

このような答えに対して、他者が「それはおかしい」と批判することは、(それが何らかの社会的な規範に反している場合や、その人の他の信念と矛盾している場合を別にすれば)、おそらく不可能であろう。その理由は、以下の通りである。
もし、絵描きになろうとする人に、
「なぜ、あなたはすばらしい絵を描きたいのですか?」
と問うのならば、この「なぜ」は理由を求めている問いである。このような理由を求める「なぜ」に対して、理由を答えられないとしても、その意図を撤回すべきであるということにはならない。またもし「幸せになりたいからだ」というのが、その答であるとき、さらに「なぜ幸せになりたいのか」と問われて、その理由を答えられないとしても、「絵描きになりたい」という意図や「幸せになりたい」という意図を撤回すべきであるということにはならない。理由を問う「なぜ」と問いに答えられなくても、意図を撤回すべきであることにはならない。
上の問いに対して、たとえば彼が次のように答えたとしよう。
  「私は、小さいころにゴッホの絵を見て感動し、ゴッホのような絵描きになりたいと思ったのです。」
この答は、「私が、すばらしい絵を書きたいと思う」理由ではなくて、そのように思うようになった原因を答えている。この原因が間違っていても(たとえば、彼が押さないと金見たのがゴッホの絵ではなくて、別の人の絵であったとしても)、またこのような原因を挙げることが出来ないとしても、「絵描きに成りたい」という意図を撤回すべきであるということにはならない。原因を問う「なぜ」の問いに答えられなくても、意図を撤回すべきであることにならない。
「私はすばらしい絵を描きたい」などの発話は、表現型の発話であって、真理値を持たない。それゆえに、根拠を持たない。ゆえに、根拠を問う「なぜ」の問いは無効であり、それに答える必要はない。

3、答え方3(?)
(2)のような具体的な願望を述べることができないとき、あるいは(2)の答が一応あるのだが、本当にそれで満足できるのかどうかわからないとき、あるいは(2)の答が二つ以上あって、両立しないとき、どうしたらよいだろうか。あるいは、そのとき、ひとはどうするのだろうか。
 そのとき人は結果としては、この問いの答えがわからないままにとりあえず生きることになるだろう。このとき、彼の人生に対する態度には、どのようなパターンがありうるだろうか。

自分の死という問題

urbeさん、遠い国からコメントありがとうございます。
功利主義者は、以下に述べるような、自分の死に対する態度を、どのように考えるようになるのでしょうか。功利主義者ならば、(c)「せめて、生きている間の快楽を最大にしよう」というのが、答えになりそうです。ピーター・シンガーがどのように考えるか、たずねてみたいところですね。

1、第一の問題:自分の死という問題
人生論の課題のなかでも特に重要な課題は、
  「自分の死についてどのように考えたらよいのか」あるいは
  「自分の死に対してどのような態度を採るべきか」
という問題に答えることであろう。

このような問題は、私達がおかれている次の問題状況から生まれてくる。
  「自分の死は確実にやってくる」という現実認識
  「私は死にたくない」という意図ないし願望
この二つの矛盾が、我々にとっての問題状況である。(一般的に、問題は、現実認識と意図との矛盾から生じると考えられる。ここでの問題を構成する矛盾は上述のようになるだろう。これについては、拙論「問題の分類」(http://www.let.osaka-u.ac.jp/%7Eirie/ronbunlist/paper18.htm)の参照をこう。)
人間は、このような矛盾を解消しようとするものである。

A この問題を解決する一つの方法は、後者の意図を変更すること、つまり「死んでもいい」と思うこと、つまり死を受容することである。
  (a)死の積極的な受容「それなりに幸せな人生で、満足しているので、死んでもいい」
  (b)死の消極的な受容「どう考えても、死を受け入れられないが、死がやってくることは確実で仕
方が無い」(諦念)
  (c)妥協(あるいは、条件闘争)「どうせ死を免れないのなら、せめて・・・したい」という条件闘
争を始める。例えば「せめて、それまでの間、楽しく過ごそう(苦痛なしに過ごそう。やりたかっ
たことをしよう。家族や友人に言葉を残そう。財産をどこかに寄付しよう。などなど。)」と考え
る。

(a)のためには、「生きる意味」の理解と、それの実現が必要である。
(c)のためには、「生きる意味」の理解と、それの部分的な実現が必要である。
(b)は、「生きる意味」の理解を必要としない。(ひょっとすると、その積極的な否定を必要とするかもしれない。)
これら3つは((c)も含めて)「死を受容する」ときの仕方である。
しかし、我々は多くの場合完全に死を受容できるわけではない。そこで、次のような解決方法が考えられる。

B この問題を解決するもう一つの方法は、「死が避けられない」という現実を変えることである。が、これは現在のところ困難である。

C この問題を解決するもう一つの方法は、「死が避けられない」という現実を忘れることである。実際私達は、日常生活において、このことを忘れている。また、逆に言えば、私達は、この問題(に限らず、哲学的な問題)を考え続けることはできない。(たとえば、空腹になれば、何かを食べなければならないし、家の中に食べ物がなければ、買いに行かなければならないし、財布の中にお金がなければ、銀行にお金を下ろしに行かなければならないし、口座のお金が少なければ、働かなければならない。働くためには、就職しなければならず、就職するためには、資格を取らなければならず、資格を取るためには勉強しなければならず、勉強するには、この問題をしばらく後回しにしなければならない。そのうち、この問題を後回しにしていることも忘れてしまう。)ただし、私達は死を忘れて生活できるとしても、どんな人も時々はそのことを思い出すだろう。そのとき、「<死が避けられない>という現実を忘れよう」というのが、この解決法である。これは、「memento mori(死を銘記せよ)」の反対である。

ここでの問題を解決する方法は、論理的にこの3通りだと思うのだが、どうだろうか。
このAとCについては、さらに考えるべきことが沢山あるが、さしあたりここでは、もう一つの人生論の問題を次にとりあげたい。

<哲学的人生論>は新しい学問である?

 「人生論」と呼ばれる書物は多い。それらは、「人生とは何か」とか「人生をいかにいきるべきか」とかの問題に答えてきた。しかし、その多くは、宗教に基づくものである。宗教に基づかない人生論、宗教批判を前提とした人生論は、むしろ新しい哲学分野である。
(このことは、パーフィットという哲学者が、非宗教的倫理学に関して、「他の学問と比べると非宗教的倫理学は最も新しく最も進歩していないものである」(パーフィット『理由と人格』森村進訳、勁草書房、154節)と述べているのと同じ事情である。)

 「哲学的人生論」の課題は、通常の人生論と同じく「人生とは何か」とか「人生をいかにいきるべきか」などの問題に、哲学の立場で取り組むことである。しかし、この問いに哲学の立場で答えが提供できるとは限らない。まずは、これらの問いそのものの分析が必要である。
 哲学の立場で、人生について、何をどこまで、語ることが出来るのか、あるいは何を語ることができないのか、あるいは何を語るべきではないのか、それは探求の最後に、結論として明らかになるだろう。

 さっそく、問題に取り掛かることにしよう。

哲学が人生について語れること

哲学が人生について何が言えるか?

という問いを聞くと、「哲学とは人生について語るものだ」と考えている人は、いぶかしく思うでしょう。しかしまた、「哲学は学問研究であって、人生論というような怪しげなもの、あるいは私的な価値観の主張とは、はっきりと区別されるべきだ」と考えている人は、胡散臭く思うことでしょう。

私は、このどちらとも少し違った考えを持っています。それを少しずつ書いてゆきたいと思います。
とはいっても、今日は急用ができたので、とりあえず、書庫の立ち上げだけです。