33 「絶対知」はなぜ必要なのか? (20210924)

[カテゴリー:日々是哲学]

フィヒテの「絶対知」は、カントの「統覚」概念のフィヒテなりの継承発展の一つの帰結です。

もし全ての対象が知られることによって私にとって存在するのだとすると、知もまた知られることによって存在します。そうするとこの知もまた存在するには、知られる必要があります。こうしてある知が成立するには、知の知の知の・・・と反復することになります。意識の場合もどうようでえあり、意識の意識の意識の・・・と反復することになります。この反復が終わらなければ、知も意識も成立し得ません。そこでフィヒテは、「意識の意識」と言う時に、「意識される意識」と「意識する意識」が同一であるような意識がなければならないと考え、それを「知的直観」と呼びました。全ての知は存在するためには最終的には知的直観に基づかなければならないのですが、では知的直観が二つあるとき、どうなるでしょうか。一つの知的直観が、他方の知的直観にとって存在するためには、それによって知られる必要があります。ところで、複数の知があるとき、それらの関係が成立しますが、その関係が成立するためには、それが知られる必要があります。このようにしてすべての知の関係が知られていくとき、最終的に知は一つの知に包括されることになります。絶対知というのは、すべての知をこのように包括する知の知です。それは個人の数だけあるのではなく、一つしかありません。

 バークリは、実体を観念の束と考え、「存在するとは知覚されることである」と主張しましたが、サクランボが存在するとは、それが知覚されることであるとしても、サクランボの知覚が存在することは、さらに何らかの仕方で知られる必要があるとは考えませんでした。だから彼のいう観念や知覚は、さらに知られたり意識されたりしなくても、存在しているのです。その点では、机のような実体とおなじ存在の仕方をしています。それゆえに、フィヒテは、バークリを「実在論者」と呼んだのです。

 フィヒテにとって、バークリをもじっていうならば、「存在するとは、知られることである」と言えます。フィヒテの表現ではこうなります。「あらゆる存在が知性の思考によってのみ生じ、それ以外の存在については何も知らないとする」 (「知識学 への 第二序論」GAI-4, 237, SWII, 483)フィヒテは、これが「最も決定的な観念論」であると述べています。

 この「絶対知」の主張の何処に問題があるのかを次に説明します。

33 フィヒテによるカントの「統覚」の展開 (20210922) 

[カテゴリー:日々是哲学]

フィヒテの『知識学の叙述』(1801/02)は、彼が出版を計画し、第一部の14章まではすでに印刷も終わっていたのですが事情により出版されなかったものです(この経緯については、『フィヒテ全集』晢書房、第12巻の「解説」に詳しい説明があります)。前期フィヒテは、「自我」ないし「自己意識」を原理にして知の体系を叙述しようとしていたのですが、『知識学の叙述』(1801/02)からは、「絶対知」を原理にして知の体系を叙述しようとするように変化します。ここから「後期」フィヒテが始まります。この変化の理由をどう説明するかという問題が、フィヒテの「変説問題」と言われるものです。(この前期から後期への変説について詳しくは、拙論 「観念論を徹底するとどうなるか --フィヒテ知識学の変化の理由―」『ディルタイ研究』第18号、日本ディルタイ協会発行、pp.38-54、2013.(https://irieyukio.net/ronbunlist/papers/PAPER33.pdf)をご覧ください。)

 フィヒテは、カント哲学を知って決定論を克服できると考えるようになったと言われています。そのとき、フィヒテにとって重要だったのは、カントの「統覚」の考えです。カントの統覚は、認識の成立において、直観に与えられる多様と悟性のカテゴリーを結合して認識を形成するときには、その二つを結合するものです。すべての表象には、「私が考える」という表象が結合しうるのであり、これによって、表象は私の表象になるというものです。統覚は「私が考える」という表象だと言われることもありますが、「私が考える」という表象と他の表象(直観の多様や知覚や経験的概念など)を結合する能力でもあるだろうと思います。表象が成立するには、表象の表象もまた必要であり、意識が成立するには、意識の意識もまた必要なのです。しかし、単なる反復ではなく、それが自己表象、自己意識であることが必要です。そのとき「私が考える」という表象が発生しているのです。自己意識が成立するには、意識されている意識と、意識している意識が同一であるだけでなく、その同一性の意識が必要です。ちなみに「自己意識(Selbstbewusstsein)」という語は、カントの造語です(「意識(consciousness)」はロックの造語です。西田幾多郎の『善の研究』には「自覚」は登場しますが、「自己意識」の語はありません。おそらく西田は、Selbstbewusstseinを「自覚」と訳していたのだろうとおもいます。それをいつ頃から「自己意識」と訳すようになるのかは、未確認です。関心のある方は調べてみてください。)

 このように意識は自己意識として成立します。前期フィヒテは、これを「事行」(Tathandlung)とか「知的直観」とか「自我性」と呼びました。後期フィヒテは、これを「知の知」とか「絶対知」と呼びます。

 この「絶対知」がどうして必要になるのかは次回に説明します。そこからさらに「絶対的存在」に言及するようになるどうしてなのかは、フィヒテ研究者にとって重大な謎です。これについては、次回に推測を説明します。それからスピノザ批判に向かうことにします。

32 唯物論と観念論の共約不可能性 (20210920)

[カテゴリー:日々是哲学]

 フィヒテは、スピノザ哲学を唯物論の哲学とみなして批判するのですが、しかし前期(1793年から1800年、これはフィヒテがイエナにいた時期に相当します)には、観念論と唯物論の対立は深刻であり論争不可能であると考えています。

「これらの二つの体系はいずれも相手を直接に論駁することはできない。というのも、両者の争いは、それ以上は他から導出することのできない第一原理についての争いだからである。両者はいずれも、自分の原理だけを承認するときに、相手の原理を論駁する。いずれも相手のすべてを否定し、両者は、相互に理解しあい、相互に一致しうるようなどんな点をも共有しない。たとえある命題の語句について両者の意見が一致したように見えたとしても、両者は同じ語句を違った意味で受け取っているのである。」(GA I/4, 191, SW I, 429f. 日本語全集7巻、373)

これはクーンの言うパラダイムの共約不可能性の説明とそっくりではないでしょうか。パラダイムの共約不可能性は、通常は言明の共約不可能性として考えられているかもしれませんが、根本的には問いの共約不可能性です。何故なら、言明は問いに対する答えとして成立するからです(もちろんこれは、私の意見でフィヒテの意見ではありません)。では問いが共約不可能であるにもかかわらずそれが対立したり競合したりするのはなぜでしょうか。それはそれらの問いがより上位の問いを共有しているからです。共約不可能な二つの問いの直近の上位の問いがまた共約不可能であるとしても、上位の問いをさかのぼっていけば共通の問いに行き着くとおもいます。自然科学の場合には、最上位の問いは「自然はどうなっているのか?」という問いであり、それに答えるために様々な下位の問いが立てられるのであり、それを下っていくとき、すべての科学的な問いは、そのどこかに登場するはずです(このアイデアをさらに詳細に論じることは、いずれ別のカテゴリーで行いたいとおもいます)。

 では、唯物論と観念論の対立は共通の上位の問いを持つのでしょうか。これらが対立・競合している限りは、共通の問いがあるはずです。しかし、この対立は自然哲学ないでの対立ではなく、哲学対立です。哲学の最上位の問いとは何でしょうか。この答えは、哲学によって異なります。

例えば、唯物論では「物自体とは何か?」であるかもしれませんし、観念論では「知性とは何か?」であるかもしれません。もしそうだとすると、この二つの哲学はなぜ競合するのでしょうか。それは、唯物論の最上位の問い「物自体とは何か?」に答えるために下位の問いを立て、それを下っていくなかに「知性とは何か?」が登場し、それと観念論の「知性とは何か?」の問いの意味が異なるからです。そもそも「知性」で指示しているものが異なるだろうと思われます。逆に、観念論の最上位の問い「知性とは何か?」に答えるために下位の問いを立て、それを下っていくなかに「物自体とは何か?」が登場し、それと唯物論の「物自体とは何か?」の問いの意味が異なるからです。 

 では、どうしたらよいのでしょうか。フィヒテは、この違いは、唯物論者と観念論者の「関心」の違いであると考えています。

「観念論者と独断論者の相違を生む究極的な根拠は、彼らの関心の相違なのである」(GA , SW I, 433, 全集七巻、三七六)

「人がどのような哲学を選ぶかは、彼がどのような人間であるかにかかっている」(GA , SW I, 434, 全集七巻、三七八)

前期フィヒテは、唯物論と観念論の共約不可能性の前で立ち止まるしかありませんでしたが、後期フィヒテになると少し変わってきます。

31 フィヒテのスピノザ批判 (20210918)

[カテゴリー:日々是哲学]

唐突ですが、9月末までに、「フィヒテのスピノザ批判」についての論文を仕上げなければなりません。それと並行して別のことを考える時間がないので、しばらくフィヒテについて書くことにします。

フィヒテにとって、スピノザは生涯にわたる最大の論敵でした。もちろんスピノザ(1632-1677)とフィヒテ(1762-1814)の間には100年以上の隔たりがあります。フィヒテがスピノザを論敵と考えたのは、彼がスピノザを唯物論者だと考えたためです。フィヒテにとっては、唯物論(彼にとっては「実在論」も「独断論」も「唯物論」と同じ意味でした)は、物自体だけが存在するという主張であり、意識もまたその物自体によって説明されるものです。現代哲学では、自然主義者の立場になると思います。フィヒテがこの唯物論を批判するのは、それが自由を否定するからです。彼にとって自由は何よりも重要なものでした。脳研究やAI研究が進んでいる現代においても人間の自由は、脅かされています。フィヒテの時代に、スピノザを読んで自由の危機を感じたのは、一部の知識人だけだったでしょうが、現代では、ほとんどの人が、自由の危機を感じているのではないでしょうか。その意味では、フィヒテが、スピノザをどう批判し、自由を擁護したのかを確認することは興味深いことではないでしょうか。

(ただし、フィヒテのスピノザ理解が正しかったのかどうか、つまりスピノザの全体像が、フィヒテが考えていたような唯物論者であったのかどうかについては、反論の方が多いかもしれません。しかし、スピノザが意志の自由を認めていなかったことは事実だとおもいますので、フィヒテがスピノザを最大の論敵とみなしたことは、スピノザに対する誤解ではないと思います。)

 次回から、フィヒテのスピノザ批判を説明します。

30 民主主義と「放送法」 (20210506) 

[カテゴリー:日々是哲学]

民主主義のためには「報道の自由」が必要です。「報道の自由」は、日本国憲法21条

「第二十一条集会、結社及び言論、出版その他一切の表現の自由は、これを保障する。

2 検閲は、これをしてはならない。通信の秘密は、これを侵してはならない。」

の「表現の自由」のなかに含まれていると考えられています。

「放送法」第一条もまた「表現の自由」に言及しています。

「第一条 この法律は、左に掲げる原則に従つて、放送を公共の福祉に適合するように規律し、その健全な発達を図ることを目的とする。

一 放送が国民に最大限に普及されて、その効用をもたらすことを保障すること。

二 放送の不偏不党、真実及び自律を保障することによつて、放送による表現の自由を確保すること。

三 放送に携わる者の職責を明らかにすることによつて、放送が健全な民主主義の発達に資するようにすること。(放送番組編集の自由)」

しかし、次の「放送法」第93条は、この表現の自由、報道の自由と矛盾するものになっています。

「放送法」「第九十三条 基幹放送の業務を行おうとする者(電波法の規定により当該基幹放送の業務に用いられる特定地上基幹放送局の免許を受けようとする者又は受けた者を除く。)は、次に掲げる要件のいずれにも該当することについて、総務大臣の認定を受けなければならない。」

つまり、放送局免許は、総務大臣の認定によるということ、つまり政府の認定による、と言うことです。これは、憲法違反ではないでしょうか? これでは報道の自由は損なわれますし、現に非常に損なわれています。国際ジャーナリストNGOの国境なき記者団(RSF)による「世界報道自由度ランキング」の2021年版では、日本は71位でした。

放送局の免許の認定は、国会が定める第三者機関に委ねるのがよいと思います。

「放送法」の改正は、民主主義の実現のために緊急の課題だと思います。

29「グローバルな総中流社会」を目指して (29219413)

[カテゴリー:日々是哲学]

「総中流社会」は、日本では高度経済成長の結果として一時的に実現していたかもしれませんが、グローバル化とそれにともなう新自由主義政策によってなくなってしまいました。したがって、それを復活させるには、新自由主義政策を変えて、1980年の頃の法人税率、所得税の累進税率を復活して、所得の再分配を進める必要があります(参照、https://irieyukio.net/blog/2008/10/16/%e8%b2%a1%e6%94%bf%e8%b5%a4%e5%ad%97%e3%81%ae%e5%8e%9f%e5%9b%a0/)。しかし、他方で、グローバル化以前の相対的に閉じた一国経済に戻ることはできないでしょう。そうすると、どうすればよいのでしょうか。

 一つには、バイデンがやろうとしているように、法人税の引き上げ、所得税の累進税率の引き上げを、それの国際的な共同実施を目指すことです。したがって、総中流社会の実現は、世界規模で行わなければ実現しないでしょう。(以上は、カテゴリー「格差問題」に10年以上前に書いたことでもあります。バイデンに期待したいとおもいます。)

 日本でこれを妨げるものは、政府にコントロールされたマスコミです。政府にコントロールされない自由なマスコミをつくることが不可欠になると思います。

28 嘘つき政治家を批判しないマスコミから、独裁政治へ (20210410)

[カテゴリー:日々是哲学]

(安倍晋三の影響でしょうか)政治家と官僚の言葉の軽さが気になります。彼らはまるで息をするように平気で嘘をつきます。そして記者からの問いかけを平気で無視します。つまり、質問に対して嘘を答えるだけでなく、質問を無視します。真摯にコミュニケーションしようという姿勢が見られません。彼らの本音は、「黙って俺の言うことを聞け」と言うことなのでしょう。しかし、それは民主主義ではなく、独裁です。政治家と官僚の嘘を許すことは、いずれ独裁政治に行き着きます。

 嘘をつく政治家、官僚は酷いですが、それを批判しないTV、新聞も酷いです。そういうTVや新聞が、やがて自由にものが言えない独裁政治を生み出すことになるのです。

27 「自粛」の倫理学 (20210328)

[カテゴリー:日々是哲学]

「自粛」「忖度」「わきまえる」「自主規制」

これらは似ています。そして、これらはカント的な「自律」とは両立せず、「他律」に属します。しかし、これらは、命令されたり、強制されたりする他律とはことなります。いわば、「触発」されるのです。カント的な「他律」は、強制的な他律と、強制的でない他律に分かれます。

 カントが、強制的でない他律として挙げているのは、感性的な欲望に触発されることです。ついついケーキを食べてしまうというような他律です。

 しかし、冒頭にあげたものは、これとは異なります。そこで、強制的でない他律を、二つのタイプに分けることができるでしょう。

  第一のタイプ:「触発」「促し」「誘惑」など。

  第二のタイプ:「自粛」「忖度」「わきまえる」「自主規制」など。

この二つは、何が違うのでしょうか。前者は、他者や対象に誘惑されて行動するのですが、その前提には主体の欲望があります。欲望がなければ、誘惑されません。欲望というのは、快楽や利益などの良きものへの願望です。それに対して、後者も、また他者や対象の影響によって行為調整するのですが、後者の「忖度」「わきまえる」などの背後には、不快や不利益を避けようとする願望があるように思います。

26 経済格差はコミュニケーションを困難にする (20210324)

[カテゴリー:日々是哲学]

 問題を共有していない人とは、コミュニケーションできません。つまり、互いにコミュニケーションする集団は、問題を共有する集団です。私たちは、どのような問題を共有するかに応じて、異なるコミュニケーション集団を形成しています。

・人種の違い、性の違い、年齢の違い、職業の違い、社会的地位の違い、学歴の違い、所得の違い、身体能力の違い、などさまざまな違いがあります。これらが、ときに身を切られるような痛みをもたらすのは、これらが社会の中で大きな意味を持っているからです。これらの違いは、共有する問題の違いを生み出し、そこから異なるコミュニケーション集団が成立するからです。これらの違いは時に差別を生み、社会の分断を生みます。

 私たちがある集団に属してコミュニケーションするときには、その集団の人間関係を分断するような属性については無視します。そして、別の属性の人々が共有している問題にも触れません。コミュニケーション集団の境界に触れないことは、集団の中で暗黙の力として働いています。そのことは、それぞれのコミュニケーション集団の維持にとって必要なことだからです。

 私たちは、複数のコミュニケーション集団に属しています。これが分人主義を呼び起こすのは、属性の差異が、コミュニケーションを集団間、分人間のコミュニケーションを困難にするからです。

 経済格差は、これらの差異の一つですが、それだけにとどまらず、この差異は、他の社会的差異から帰結する差異をより大きなものにします。ちょうど、地震やコロナウィルスなどの災害が、経済格差を大きくするように、大きな経済格差は、これらの社会的属性の差異をより重いものにするのです。したがって、経済格差は、コミュニケーションを困難にし、社会を細かく分断し、社会的相互承認を破壊します。

#「総中流社会」という目標に対しては、次の批判があるかもしれません。

 <総中流社会にすることは、国民や人類を幸福にするためにぜひとも必要だと思われますが、これは一定の「善構想」に基づく立場なのではないでしょうか。これは自由主義と対立することになります。自由主義を採用するならば、何を幸福とするかは、各人の自由な選択にゆだねるべきであり、正義の実現が、幸福に優先すると考えることになるでしょう。>

 この批判に答える一つの方法は、自由主義を批判する事ですが、(もし自由主義を擁護しようとするならば)もう一つの方法は、「総中流社会」を目指すことは、自由主義とは矛盾しないと答えることです。もし中流であることが、幸福追求のための条件であるとすれば、「総中流社会」を目指すことは、「幸福追求の権利」を保証することになりますが、これは特定の「善構想」と結合するものではありません。

25 なぜ「総中流社会」を目指すのか (20210321)

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 問い「「総中流社会」の実現によってどのような社会問題が解決されるのか?」に対する一つの答えを考えてみました。

 近代国家は、社会契約論に基づいて構築されています。近代国家は、社会契約によって構築されています。しかし、契約主体である個人は、産業資本主義が生み出したものであり、その産業資本主義は、国家が生み出したものです。この資本主義の市場メカニズムを保証するのは、国家です。

契約の自由、契約の履行、を保証しているのは国家です。つまり、契約主体である個人は、近代国家が生み出したという側面を持ちます。人と集団(個人と国家)は、共進化してきたし、これからも共進化を続けるでしょう。

 社会契約論は、個人主義という幻想、個人の自律性のアプリオリ性という幻想に基づいているのですが、個人の自律性は歴史的に形成されたものであり、契約主体は社会的相互承認によって成立するものだと言えるでしょう。近代国家と個人は、社会的相互承認によって構成されています。

そして、この社会的相互承認は、(他の超越的な何かに依拠するのではないのだから)常に再構築され続けなければならなりません。そうすると総中流社会が必要になるのではないでしょうか。総中流社会が壊れて、格差が拡大した社会になると、社会的相互承認は崩壊します。社会的相互承認を維持するには、総中流社会であることが必要条件になるでしょう。

 ところで、契約主体としての人権を保障するのに、現代でも人権の生得説が持ち出されることがあります。人権の生得説は、人権を侵害する政府や国家を批判するときには有効ですが、他方では社会的相互承認の崩壊にまで目を向けることを妨げる場合があります。人権の生得説ではなく、人権を社会的承認論によって説明することが必要だと思います。