57 「推論的概念実在論」から「問答推論的概念実在論」へ(20220129)

[カテゴリー:問答の観点からの認識]

#「問答推論的概念実在論」へ

ブランダムの概念実在論は、客観的事実が概念的であること、つまり推論的関係(両立不可能性と帰結)にあることを主張するものでした。したがって、それを「推論的概念実在論」とか「推論的関係実在論」とよぶこともできるでしょう。

 ところで、推論は、現実には、問いに対する答えを求めるか過程として成立するものです。つまり問答推論の一部として成立するものです。したがって、事実が他の事実との推論的関係において成立するということも、より正確には、事実が他の事実との問答推論関係において成立するということだと言えます。

ブランダムは両立不可能性と帰結について次の例を挙げています。「これは銅である」は「これはアルミである」とは両立不可能であり、「これは銅である」から「これは電導体である」が帰結します。これらの推論は、問答推論の観点から見ると、問いに対して答える過程として成立します。「これはアルミですか?」という問いに答える時に、「これは銅である。ゆえにこれはアルミではない」という推論が使用されます。また「これは電導体ですか?」という問いに答える時に、「これは銅である。ゆえにこれは伝導体である」という推論が使用されます。

ブランダムは、このような客観事実の概念構造ないし推論的関係は、人がそれを認識しなくても、あるいは人がいなくても、成立していると(一応)考えます。私は、この推論的関係を問答推論関係として理解しますが、その場合にも、問答推論的関係は、人がそれを問い認識しなくても、また人がいなくても、成立すると(一応)考えます。それを次に説明します。

#問答関係は、無時間的な意味論的論理的関係である。

 問答推論関係は、より一般的に述べれば次のようなものです。Q、r、s、┣pという問答推論(Qは疑問文、r、s、pは平叙文で、r、s、pの間には通常の推論関係r、s┣pが成り立っており、pはQの答えになっている)が成り立つとしよう。この関係は意味論的論理的関係であり、問答推論が妥当であるとは、Qが健全であり、r、sが真であるならば、pが真となるという意味論的な関係が成り立つということです。「問いが健全である」とは、問いが真なる答えを持つことを意味します。(ここでの妥当性の説明は、「真」の理解を前提して、推論の妥当性を説明していますが、私は最終的にはそのようには考えません。このような語り方をするのは、とりあえずの説明のための方便と考えてください。より詳しくは、カテゴリー「『問答の言語哲学』をめぐって」の51~54回をご覧ください。)

 このように考える時、問答推論関係は、通常の論理的関係や数学的関係と同じく、経験的世界とは独立に無時間的に成立するものです。しかし、この理解は、推論の妥当性を、問いの健全性と命題の真理性に基づいて説明しています。(後で述べますが、ブランダムが、形式論理は実は実質論理であると考えているように、私も形式的問答推論は、実は実質的問答推論であり、前者は後者からの抽象によって成立すると考えています。)

 このことをここで確認するのは、つぎのような疑念に答えるためです。<事実が概念的構造、推論的関係を持つことは、人がそれを知らなくても、あるいは人がいなくても、成立すると言える可能性がある。しかし、問答推論関係は、人がそれを問わなければ、あるいは人がいなければ、成立しないのではないか>という疑念に対して、そうではないというためです。

さて、ブランダムは、客観的推論的関係を主観的推論的関係から独立したものとして、捉えるのですが、しかし、他方では、「主観的次元と客観的次元の相互的意味依存(reciprocal sense-depenedence)」(SoT 86)を語ります。つまり、客観的概念構造は一応は、主観から独立に成立しているのですが、意味論的にはそうではない、と言うことです。では、両者の存在論的関係はどうなるのでしょうか。

 次に、この「相互的意味依存」を説明し、二つの次元の存在論的な関係を考え、それに依拠して、「問答推論関係」についても同様のことが成り立つことを説明したいと思います。

56 「概念実在論」の二つの問題(20220126)

[カテゴリー:問答の観点からの認識]

久しぶりにこのカテゴリーに戻ってきました。

2022の『問答の言語哲学』の合評会で、ハーバーマスからのブランダムの「概念実在論」に対する批判について、どう考えるのか、という質問を受けました。ハーバーマスのブランダム批判と、ブランダムからの応答については、カテゴリー「『問答の言語哲学』をめぐって」で説明しました。それを受けて、私自身が「概念実在論」についてどう考えるかを説明しなければならないのですが、この議論は、『問答の言語哲学』の主題ではなく、むしろ次著として計画している『問答の理論哲学』(仮)の主題に関わるものなので、このカテゴリーで論じたいと思います。

(その議論は、問答の観点から認識論を再考するというこのカテゴリーの趣旨にそうものです。またこのカテゴリーでの課題として残っていた問題(前回55回を参照)、「現象の領域と理論の領域の区別」をどのように行うか、という問題にもかかわってくる議論になると思います。)

#「概念実在論」の二つの問題

ブランムが「概念実在論」について最も詳しく述べているのは『信頼の精神』(Spirit of Trust、SoT)ですので、ここでは主として、この著作での「概念実在論」を論じたいと思います。ブランダムによれば「概念的である」とは、「実質的な両立不可能性と帰結の関係にあること」(SoT 54)(「実質的な」の意味はいずれ説明します)ということです。そして、「概念実在論」(SoT 3)とは、「客観的世界をつねにすでに概念形式の中にあるものとして理解すること」(同所)です。あるいは「自然科学が物理的実在として露わにする客観的事実と性質が、それ自体、概念的形式の中にある」(同所)、あるいは「世界がそれ自体で客観的に存在する仕方は、概念的に分節化されている、という主張」(同所)です。

<「客観的事実と性質」が概念的であること、つまり互いに非両立性や推論的帰結の関係にあること>これについては、ほとんど異論はないでしょう。以下で考えたい問題は二つです。

一つは「この概念構造を私たちはどのようにして認識するのか」という認識論の問題です。もう一つは、「この概念的構造の存在をどのようなものと考えるのか」「この概念構造は、事実そのものの構造として私たちの理解とは独立に存在しているのか、それとも私たちの言語や理論によって構成されたもの、私たちが構成したもの、として存在するのか」という存在論の問題です。

今の私には、この二つの問題を分けて、どちらかを解決してから他方を解決するというような仕方で、取り組むことが難しいので、とりあえずは、この違いに注意しつつも、ときに二つを横断するような仕方で考えたいと思います。

(ブランダム=ヘーゲルは、この存在論の問題について「客観的観念論」で答えます。これについてもいずれ考察します。ブランダム=ヘーゲルは認識論の問題については「概念的観念論」で答えているのだろうと予測します。これについてもいずれ考察します。)

まずは、『問答の言語哲学』でブランダムの推論的意味論を問答推論的意味論に拡張したとの同じように、ここでもブランダムの「概念実在論」を問答推論の観点から再考したいと思います。

40 『問答の言語哲学』合評会のご案内 (20211112)

[カテゴリー:『問答の言語哲学』をめぐって]

『問答の言語哲学』の合評会を開いていただけることになりました。

http://www.let.osaka-u.ac.jp/philosophy/event.html に以下の案内があります。

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2021年度 ユネスコ制定「世界哲学の日」記念イベント:入江幸男『問答の言語哲学』合評会

本研究室では、ユネスコ制定「世界哲学の日」に合わせまして、この時期に記念イベントを行うことが恒例となっております。
今年度は、哲学哲学史専門分野/哲学・思想文化学専修の教員を長く務められた入江幸男さんのご著書『問答の言語哲学』(勁草書房、2020年)を取り上げ、オンライン合評会を行いたいと思います。
どなたでもご参加になれます。参加をご希望される場合や、ご不明な点がある場合などは、下記のお問い合わせ先までご連絡ください。

入江さんはかねてより、問答という観点から独自の哲学を展開されてきました。
特に、従来の言語分析哲学に対しては「あらゆる平叙文は問いへの答えであり、文や発話の意味は、それがいかなる問いへの答えなのかという観点から考えられるべきだ」と一貫して主張されています。
昨年公刊された『問答の言語哲学』は、それをブランダムの推論主義や日常言語学派などに言及しつつ詳論したものです。

入江幸男ブログ(同書の内容が説明されています)
https://irieyukio.net/blog/2020/10/30/

本イベントでは、ブランダムにお詳しく入江ゼミ出身者でもある朱喜哲さん、また日常言語学派にお詳しく入江ゼミの最終年度にも参加されていた三木那由他さんのお二人にご登壇いただき、同書の内容を掘り下げていきたいと思います。
みなさまのご参加を、心よりお待ちしております。

以下、イベントの詳細です。

日時:11月23日(火/祝)14:00-16:00
場所:Zoom(URLはメールにてお問い合わせください)*後日、録画を研究室のYoutubeチャンネルにアップロード予定

著者:入江幸男(大阪大学名誉教授)
質問者(1):朱喜哲(大阪大学招へい教員)
質問者(2):三木那由他(哲学哲学史専門分野講師)
司会:嘉目道人(哲学哲学史専門分野准教授)

*プログラム*
14:00 – 14:20(20分)著者による内容の要約と補足説明など
14:20 – 14:35(15分)質問(1)
14:35 – 14:50(15分)応答(1)
14:50 – 15:00(10分)休憩
15:00 – 15:15(15分)質問(2)
15:15 – 15:30(15分)応答(2)
15:30 – 16:00(30分)全体ディスカッション

お問い合わせ先:yoshime[at]let.osaka-u.ac.jp *[at]は半角アットマークに変更してください。

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ご参加をお待ちしております。

よろしくお願いします。

55 これまでの振り返りと今後の予定(20211108)

[カテゴリー:問答の観点からの認識]

42回と43回に、それまでの議論の振り返りをおこない、次の3つのテーマに取り組むことを予告しました。

 「論理学と自然科学の区別」

 「現象の領域と理論の領域の区別」

 「論理的語彙による事実の明示化」

 その後、第二の区別の考察から始めました。そして、「説明とは何か」「法則による説明とは何か」「法則とは何か」などについて考えてきましたが、確たる結論には至っていません。ただその考察の過程で、第一の区別と第二の区別については、少し進展がありました。

 第一と第三の区別については、現在次のように考えています。L+M+Pとして自然科学を捉えること、未分化なL+M+Pから抽象によって、論理的語彙や数学の語彙がそれら公理が得られることがわかりました。これよって、「論理学と自然科学の区別」がどのように行われるのかを説明できます。また「論理的語彙による事実の明示化」については、発生的には、事実の記述から論理的語彙の使用の明示化が行われることがわかりました。ただしこれはアプローチの方向を示しているだけであり、L+M+PからLの抽象化が具体的にどのように行われるのかを示す必要があります。

 他方、第二の区別「現象の領域と理論の領域の区別」あるいは「観察語と理論語の区別」あるいは「経験法則と理論法則の区別」については、いまだ曖昧なままです。観察語と理論語の区別については、カルナップ自身がいうように明確に線引できないようです。経験法則と理論法則については、「単なる全称命題」と「法則」として区別しようとしましたが、科学理論の最上位の法則である公理もまた、アインシュタイが言うように、規約と帰納に依存しており、「単なる全称命題」と「法則」の区別が難しいことがわかりました(ヘンペルが提起した「法則をどう定義するか」という問題は、未だに解決できていないし、解決可能であるかどうかもわからない、ということです)。

  じつは私は今は、「現象の領域と理論の領域の区別」について、もう少し違った区別立てが必要なのではないか、という疑念を感じています。そこで次に、これを確認するために、ローダンの『科学は合理的に進歩する』の内容紹介と検討をしたいとおもいます。(ちなみに、私は、ローダンの議論にそうしかたで、「現象の領域と理論の領域の区別」を再設定しようとしているのではありません。ローダンの議論を、新しい区別の提案の手がかりにしたいと考えているだけです。)

 (ただし他の用件との関係から、しばらくカテゴリー「『問答の言語哲学』をめぐって」に移って、発信し、その後このカテゴリーに戻ってきたいと思います。)

54 論理体系の選択について(20211107)

[カテゴリー:問答の観点からの認識]

 形式論理学だけならば、現実には無関係なので、どのような体系を選択してもよいし、複数の互いに矛盾する体系を考えても、そのこと自体に問題はないでしょう。

 論理体系の選択が必要になるのは、現実の科学理論の公理系と結合するときです。互いに矛盾する論理体系をともに科学理論と結合することはできません。そこで論理体系を選択する事が必要になります。ポアンカレが、どのような幾何学を選択しても、選択した幾何学に応じて、科学理論を変更すれば、観察データに一致させることができると考えたのとどうように、どのような論理体系を選択しても、それに応じて数学と科学理論を変更すれば、観察データと一致させることができるかもしれません。

 自然の記述は、当初は未分化なままにL+M+Pを含んでおり、それからLやMやPを分けて抽象して行くことによって、長い歴史をかけて、公理的な論理学、数学、物理学を構成してきたのだといえるでしょう。物理学だけでなく、数学も論理学も、今後も変化する可能性があります。

 では、当初の素朴な自然の記述から、どのようにしてLやMが抽象されるのでしょうか? ここから問うべきことはたくさんあるのですが、話が錯綜してきていますので、次回は、一旦これまでの話を振り返って、整理したいと思います。

53 二つの数学と二つの論理学(20211106)

[カテゴリー:問答の観点からの認識]

#二つの数学

前回述べたように、アインシュタインとカルナップは、公理的幾何学と実用幾何学を区別しています。カルナップは、(幾何学を除く)数学については、公理的数学しか認めていないだろうとおもいます。しかし、アインシュタインは、数学についても公理的数学と実用的数学の区別を認めています。

 この二つの数学は次のように区別可能でしょう。公理的数学は、論理学の公理の集合をLとし、数学の公理の集合をMとするとき、L+Mの公理からなる公理体系であり、それらの語彙はヒルベルトのいう無定義術語ですが、その使用法は、その公理によって与えられています。物理学の公理の集合をPとするとき、物理学の理論は、L+M+Pの公理をからなる公理体系であり、その中での実用的数学の語彙の使用法は、L+M+Pの公理によって与えられています。

 L+Mでの数学の語彙は、実在に関わりませんが、L+M+Pでの数学的語彙は、実在に関わっています。たしかに、L+Mでの数学の定理は、L+M+Pのなかでも変化しません。その定理は増えもしないし減りもしません。しかし、Pの中にも数学的語彙が使用されているために、数学的語彙は実在に関わっているのです。L+Mで実在と関係しない数学的概念や数式が、L+M+Pでは、実在に関わり、数式は、実在について妥当するように見えます。これはどうしてでしょうか。

 数を数えるという行為は、特定の対象、例えばリンゴを数えなくても可能です。しかし、リンゴを数えるという行為は、数を数えるという行為なしには不可能です。リンゴを数えるという行為は、数を数えるという行為をいわば「内包」しているように見えます。それは、日常のものを数える行為から、数を数える行為が抽象されたためでしょう。これは、土地を測量する行為から、幾何学が抽象されたのと同様です。つまり、私たちがL+Mを獲得したあとに、Pを加えて、L+M+Pを獲得したのではなく、(当初は未分化の)L+M+Pから抽象によって、L+Mを獲得したのだと考えることによって、L+Mの数学概念や数式が、L+M+Pで、実在に関わり妥当するのかを説明できます。

  発生的には Q1「リンゴ5個に7個を足せばいくつになりますか?」のような問いがまず生じ、そのような個数を問う多くの問答をかさねるなかで、Q2「5+7はいくつですか?」というような抽象化された問いが成立したのではないでしょうか。

 これと同じことが論理学にも言えるでしょう。

#二つの論理学

二つの幾何学や二つの数学の区別と同様の区別が、論理学についても言えるでしょう。つまり、公理や推論規則を規約して、それらの意味論的規則によって真となる命題の体系、および妥当となる推論の体系を「公理的論理学」あるいは「純粋な形式論理学」とよび、他方で、現実の世界(自然や社会)で成り立っている論理的な関係の体系を「実用論理学」あるいは「実質論理学」として区別できるように思えます。

 論理体系の公理の集合をLとし、数学の公理の集合をMとし、物理学の公理の集合をPとするとき、純粋な形式論理学の語彙の意味(使用法)は、Lによって与えられており、実質論理学の論理的語彙の意味(使用法)は、L+M+Pによって与えられています。

 形式論理が現実世界で成り立つことは、幾何学や数論の場合と同様に、次のように説明できるでしょう。まずは日常生活での推論があり、その中での論理的語彙の使用があります(これブランダムが「実質推論」と読んだものに当たります)。形式論理は、現実世界(日常生活や科学)で成立しているこのような論理的な関係から抽象して作られたものであるから、現実世界で成立するのです。

  ところで、論理体系には様々なものがあり、互いに両立しないものもあります。しかし私達は科学理論を考えるときにL+M+Pの中のLとして、ある特定の論理体系の公理の集合を選択しています。この選択がどのように行われるのかを、次に考えたいと思います。

52 宇宙はユークリッド空間か非ユークリッド空間か?(20211105)

[カテゴリー:問答の観点からの認識]

 ポワンカレは、『科学と仮説』で<ユークリッド空間を維持しながら、理論の方を複雑化することによって、現象を説明する>という可能性と、<非ユークリッド空間を採用して、理論を簡単にする>という可能性の二つの可能性があることを主張しました。

(参照、カルナップ『自然科学の哲学的基礎』「第15章 ポアンカレ対アインシュタイン」。私はポアンカレの『科学と仮説』(岩波文庫訳)を持っているはずなのですが、今見つからないので、ここでの話はカルナップのポワンカレ論に基づいています。)

 アインシュタインもまたポワンカレの二つの可能性の指摘を認めます。

「幾何学Gは実在の物の関係に就いて何も云うものでなく、唯之と物理学的法則の総概念Pと一緒になって初めてそれを云いあらわすのです。記号的に之を述べればG+Pなる和のみが経験の支配に対応するのです。つまりGは勝手に選ぶことができるので、またPの部分もやはりそうなのであって、これらはみな規約なのです。ただ矛盾がおこらないためにはGと全体のPとが一緒になって経験にかなう様にPの残りを選ぶ必要があるだけです。…私の考えではポアンカレの斯ような見解は本来正しいと思われます。」(アインシュタイン「幾何学と経験」石原純訳、4)

しかし、アインシュタインは、<非ユークリッド空間を作用して、理論を単純なものにすること>を選択します。その理由は、ユークリッド空間を維持したまま、理論を複雑化することによって、現象を説明しようとするとき、理論の複雑化の負担が大きすぎると考えたからです。カルナップもまたアインシュタインのこの方針に賛成しています。観察データと一致する<幾何学+理論>には、複数の可能性があってその選択は、全体としてより単純な方を選択するということが行われています。相対性理論についてのこのような理解によれば、相対性理論の正しさは、帰納に基づいていることになります。

「数学の定理が実在に関するならそれは確実のものではありません。またそれが確実であるなら実在に関係しはしません。」(アインシュタイン「幾何学と経験」石原純訳、p.1)

「それ(実用幾何学)の叙述は本質的に経験からの帰納に依存するのであって決して単に論理的の帰結に依るものではありません。」(同訳3)

  

アインシュタインによれば、公理的幾何学(数学的幾何学)は、確実なものであるが、実在には関係せず、実用幾何学(物理的幾何学)は、実在に関係するが、確実なものではなく帰納に基づくものなのです。したがって、一般相対性理論もまた確実なものではなく、帰納にもとづくものであることになります。したがって、科学理論の公理は、帰納に基づくことになります。

 科学理論の公理が、帰納に基づいているとすれば、それは単に現象を記述している全称命題ではなく、それ以上の<必然性>を帰納にもとづいて主張しているといえますが、しかしその<必然性>は演繹されたものではありません。自然科学の法則は、またその法則による説明は、究極的には帰納によって想定されるもの以上のものではないのです。

アインシュタインは、公理幾何学と実用幾何学の区別と同様の区別が、数学全体に関してもなりたつと考えています。上の引用がそのしょうことなります。それを再度引用しましょう。

「数学の定理が実在に関するならそれは確実のものではありません。またそれが確実であるなら実在に関係しはしません。」(アインシュタイン「幾何学と経験」石原純訳、p.1)

したがって、アインシュタインは、公理的数学と実用数学という二種類の数学を区別していたといえるでしょう。

 このことは『論考』のウィトゲンシュタインやカルナップが、論理学と数学を共に、実在には関係しないものと考えていたことは異なります。私は、アインシュタインと同様に、幾何学について公理的幾何学と実用幾何学を分けるのならば、数学についてもこの区別が可能だと考えます。

 ただし、アインシュタインが論理学についてもこの区別が可能と考えていたかどうかは、よくわかりません。次回は、数学と同様に、論理学についても、(実在に関わらない)公理的論理学と(実在に関わる)実用論理学を区別できるのかどうかを、検討したいとおもいます。

51 科学理論の公理はどのようにして法則になるのか?(20211103)

[カテゴリー:問答の観点からの認識]

前回つぎのように述べました。

全称命題は、それが成り立つ原因の説明を伴う時に、法則とみなされます。そして、経験法則を法則にするもの、つまり経験法則の原因を説明する命題は、理論法則です。そして、理論法則を法則にするものは、より上位の理論法則です。では、より上位の法則を持たない最上位の理論法則は、どのようにして法則になりうるのでしょうか? これが前回述べた次のような問題でした。

「科学理論の公理体系の場合に、公理となる理論法則の場合はどうだろうか。その理論法則は、より上位の法則を持たない。これは、それに用いられる理論的語彙の意味論的規則によって法則となるのだろうか。それとも、それを法則とするのは、帰納法や自然の斉一性原理のようなものだろうか。(これについて、次回考えたいと思います。)」

さて、科学理論の公理体系は、論理学の公理と数学の公理に科学理論の公理を加えたものと推論規則からなります。あるいは、数学の公理と科学理論の公理と論理学の自然推論系の基本推論規則を加えたものからなります。(数学の公理と推論規則は、それ自体が規約として成立します。あるいは、数学の公理や推論規則で用いられています。数学的語彙や論理的語彙の意味論的規則を規約することに基づいています。)この科学理論の公理は、なぜ法則となりうるのでしょうか。これは、公理なので、より上位の法則を持ちません。

 では、科学理論の公理を法則とするのは、「自然の斉一性原理」でしょうか。確かにあらゆる自然法則は、「自然の斉一性原理」を前提としている、あるいは内含していると言えるでしょう。しかし、仮に「自然の斉一性原理」を認めるとしても、それだけでは、科学理論を導出するには、不十分です。

 もし科学理論の公理を導出できる法則が他にあれば、それがその科学理論の公理となり、それまで公理とみなされていたものは定理であることになります。したがって、科学理論の公理が公理の資格を持つ限り、それを導出する法則はありえません。

 では、科学理論の公理が単なる全称命題ではなく、法則とみなされるのは、規約によるのでしょうか。(数学や論理学の公理と同様に)そこに用いられる理論的語彙の意味論的規則の規約によって法則となるのでしょうか。しかし、もしそうならば、この法則と事実との一致や対応は、(たとえこれらを見かけ上のものだと見なすとしても)、どのようにして説明可能になるのでしょうか。

 ここで数学と自然科学の境界にある「幾何学」について考えてみましょう。ヒルベルトの『幾何学の基礎』では、幾何学の用語は、無定義術語であり、その意味は、公理において示されたその使用の仕方であると考えられます。そのようなヒルベルトの幾何学は、現実の物理世界とは無関係なものです。カルナップは、幾何学を、数学的幾何学と物理的幾何学に区別し、前者は分析的でアプリオリであり、後者は綜合的でアポステリオリであると考えました。この後者の物理的幾何学は物理学の一部であり、その公理は物理学の公理の一部となります。

 しかし、この二つの幾何学は、同一の公理から成る同一の公理体系である。違いは、物理的幾何学の幾何学用語は無定義術語ではなく物理世界の対象を指示しており、公理や定理は、物理世界の事実に対応している、とい

これとどうような区別をアインシュタインも説明しています。アインシュタインは、講演「幾何学と経験」(1921)(石原純訳、http://fomalhautpsa.sakura.ne.jp/Science/Einstein/kikagaku-keiken.pdf)において、幾何学を「純粋の公理幾何学」と「実用幾何学」に分けています。そして「公理幾何学」がなぜ自然に妥当するのか、なぜ「実用幾何学」になりうるのかを、次のように説明します。

「幾何学はその単純な論理的形式的な性質を虚脱してしまって,公理主義的に立てられた空虚な概念様式に対し更に実在の経験的対象(体験)を相当させなくてはなりません。之を実行するためには私達は次の律則(proposition)を附け足せばいいのです。

固体はその位置配列の可能性に関して丁度三次元のユークリッド幾何学の立体の通りの関係をもっています>

斯うなれば即ちユークリッド幾何学の諸定理は実際上の剛体の関係を云いあらわすようになります。」(同訳3)

この「律則」は、数学的概念と自然科学の概念を結びつける規則です。これは「対応規則」(つまり自然科学内部で、観察語と理論語を結びつける規則)に似ています。対応規則によって、理論は観察と結びつくのですが、ここでは、この「律則」によって公理幾何学(数学)の概念と実用幾何学(自然科学)の概念を結びつけるのです。アインシュタインは、この「実用幾何学」は、物理学の基礎的な部分であり、それは経験からの帰納によって正当化されている、と述べています。

「斯様に補足された幾何学は,明らかに一つの自然科学であります。私たちはそれをあたか恰 も物理学の最も原始的な分科として見なすことが出来ます。それの叙述は本質的に経験からの帰納に依存するのであって決して単に論理的の帰結に依るものではありません。」(同訳3)

時間と距離は、多くの物理法則における重要な変数ですが、これらは実用幾何学に概念です。

「物理学上のすべての長さの測定はこの意味に於ける実用幾何学です。測地学や天文学上の長さの測定もこれと同様であって,そこではな尚お手段として,光が直線,但し実用幾何学で意味する直線に進むと云う経験的法則を用いるまでのことです。」(同訳3)

では、公理幾何学と実用幾何学はどこが異なるのでしょうか。公理的幾何学と物理的幾何学の間には、体系としては違いはないでしょう。公理も定理も同じです。ただし、実用幾何学は、論理学と(幾何学を除く)数学の公理に、(物理学の公理としての)幾何学の公理が加わったものに、さらに物理学のその他の公理が加わった物理学の公理体系の一部分を構成することになります。これによって、「点」「線」「面」「長さ」などの概念の意味は、幾何学の公理によって規定されるだけでなく、物理学の他の諸公理によってもまた規定されます。それによって、公理的幾何学の概念は、自然現象と結びつくことが可能になるのです。これにたいして、公理幾何学の概念の意味は、論理学の公理と幾何学の公理とその他の数学の公理からなる公理体系によって、あたえられることになります。この点で、実用幾何学の概念の意味とは区別されます。

 次に、この実用幾何学の理解は、「この宇宙は、ユークリッド空間なのか、非ユークリッド空間なのか」という問題とどう関係するのかを説明します。この問題は、自然科学における公理が、どうして法則になりうるのか、という問題と関係しています。

50 経験法則と理論法則の関係について (2021103)

[カテゴリー:問答の観点からの認識]

前回の最後に、次を説明すると予告しました

<法則は、経験法則と理論法則に区別可能であるが、経験法則は、他の全称命題を導出してもそれを法則とすることはないが、理論法則は、他の全称命題を法則にすることが可能である。>

しかし、これが成立しないことがわかりましたので、まずそのことを確認しておきたいとおもいます(サクサクと進まなくてすみません)。

この冒頭部分について。

  <法則は、経験法則と理論法則に区別可能である>

カルナップも言うように、厳密には、経験法則と理論法則を区別することはできないのですが、しかしこの区別をとりあえずは受け入れておきます。次に残りの部分

<経験法則は、他の全称命題を導出してもそれを法則とすることはないが、理論法則は、他の全称命題を法則にすることが可能である。>

この部分を次のように書き換えるべきだと考えます。

<全称命題は、それだけでは法則となるには不十分である。(論理法則の場合を除いて)法則は、常に他の法則から導出されている必要がある。>

#経験法則の場合

<経験的全称命題が経験法則になるためには、他の法則(経験法則ないし理論法則)から導出される必要がある。経験法則は、最終的には理論法則によって、法則として導出される。>

#理論法則の場合

理論法則もまた他の理論法則から導出されることによって法則になるだろう。では、科学理論の公理体系の場合に、公理となる理論法則の場合はどうだろうか。その理論法則は、より上位の法則を持たない。これは、それに用いられる理論的語彙の意味論的規則によって法則となるのだろうか。それとも、それを法則とするのは、帰納法や自然の斉一性原理のようなものだろうか。(これについて、次回考えたいと思います。)

ちなみに論理法則については、次のように考えられると思います。

#論理法則の場合

論理法則の場合は、事情が異なる。論理体系の定理が法則となるのは、それが公理から導出されることによる(論理体系の定理と公理は、全称命題に書き換え可能である)。そして、公理は、他の法則から導出されなくても、法則である。なぜなら、公理が法則であることは、論理的語彙の意味論的規則(の規約)に基づくからである。


 [入江1]

 

49「法則」とは何か、問答の観点から (20211026)

[カテゴリー:問答の観点からの認識]

#法則と「なぜ」の問いの関係

提案:<全称命題pが、法則となるのは、それについての「何故pなのか?」という問いに答えがある時です、言い換えると、pの原因がある時です。>

(注1:ただし、この「何故pなのか?」という問いは、「p」の原因を問うものであって、「p」の根拠を問うものであってはなりません。では、原因を問う「なぜ」と根拠を問う「なぜ」をどのようにして区別したらよいでしょうか、これは宿題にさせてください。)

(注2:全称命題pは原因を持つことによって、法則になる、つまり必然性を持ちます。(この「必然的に成立する」というのは、全ての可能世界で成立するということではありません。なぜなら、自然法則はあらゆる可能世界で成り立つものではないからです。では、この「必然的に成立する」はどのような意味になるのか、これを説明する必要がありますが、これもまた宿題にさせてください。)

#原因についての「なぜ」の問いに答える時には、常に法則を前提とする推論が答えとなる。

ある事実pの原因を問う「なぜ」に答える時には、明示的であれ、暗黙的であれ、何らかの法則を前提としている。たしかに、一見するところでは前提に法則を含まない推論の場合があるが、その場合でもその背後には暗黙的に法則が前提とされている。例えば次である。

 「なぜリンゴがテーブルにあるのですか?」「なぜなら、私が買ってきたからです」

ここでは、テーブルに置いたリンゴはひとりでに移動したりしない、と言うことが前提になっており、この前提は、慣性の法則に基づいている。したがって、ここでも隠された法則が働いている。このように、「なぜ」の問いに答える時には、常に何らかの因果法則が前提になっている。

 法則pについて「なぜ法則pが成立するのか?」と問うとき、これの答えとなる推論も、明示的ないし暗黙的に別の法則を前提としている。

#次の説明を次回に行います(今日は時間がないので)。

<法則は、経験法則と理論法則に区別可能であるが、経験法則は、他の全称命題を導出してもそれを法則とすることはないが、理論法則は、他の全称命題を法則にすることが可能である。>