111 問答関係に基づいて推論規則を正当化する(Justifying inference rules based on question-answer relations)(20240309)

[カテゴリー:問答の観点からの認識]

私たちは、論理的語彙の定義に依拠して、推論や推論規則を正当化することができます。論理結合子(¬、∨、∧、→)の意味を真理表で定義して、それによって、推論規則が恒真であることを証明できます。また、これらの導入規則と除去規則を定義して、それによって、推論規則を導出することもできます。通常はこのようにして推論規則の正当化がおこわわれているので、それを、推論の妥当性の定義依拠説と呼ぶこともできるでしょう。

 この場合の問題は、論理的語彙の使用法のこの定義の適切性です。導入規則と除去規則を定義して論理体系を作るときに問題になるのは、Priorが指摘したように、その定義の恣意性を制約しなければ、役に立たない体系になってしまうのです。そこでN.Bernapが提案したように、論理的語彙の導入規則と除去規則は、保存拡大性をみたす必要があります(これについては、これまで講義ノートや『問答の言語哲学』で何度か説明してきました)。ただしこれ以外の制約はなく、保存拡大性を充たせば、後は自由に恣意的に偶然的に定義できることになります。どうして私たちは、現在使っているような論理的語彙をつかうのか、説明できません。例えば、私たちが日常生活では、シェーファーの棒記号(nand、nor)を私たちが使っていないことの説明ができません。

 そこで、以下では、<問答を行うときに私たちが暗黙的にある推論規則を前提としていること>を示すことによって、<問答関係に基づいて推論規則を正当化する>こと、さらに<私たちが日常の思考、問答において使っている推論規則の必然性を示す>ことを試みたいと思います。

・問答における暗黙的な同一律と矛盾律

  同一律「pならばp」

  矛盾律「pであり、かつpでないことはない」

この二つは、「pですか」と問うことが、暗黙的に前提としている規則です。なぜなら「pですか」と問うことは、答えとして「はい、pです」と「いいえ、pではないです」の二つが可能であることを暗黙的に前提としており、そのことは同時に、答えの中の「p」が問いの中の「p」と同一であることと、「pであり、かつpでないことはない」を暗黙的に前提としているからです。

・MPもまた問答関係の中に暗黙的に前提されています。

  「rですか」「はい、rです」

という問答があるとしましょう。すべての問いは何らかの前提をもちます。そこでこの問いがpを前提としているとします。この前提pを明示化すれば、上の問いは「pのとき、rですか」となり、上の答えは「はい、pのとき、rです」(p→r)となります。

 「rですか」という問いに、「はい、rです」と答えるときには、問いの前提「p」と暗黙的に成立する「p→r」から、答え「r」を導出しています。つまり、p、p→r┣rという推論を行っています。問答が成立するときには、この形式の推論(つまりMP)を暗黙的に前提としているのです。

以上のように、<問答が暗黙的に基本的な推論規則(同一律、矛盾律、MP)を前提としている>とするとき、その暗黙的な推論規則を明示化した推論規則を否定することは、問答を不可能にするでしょう。したがって問答をおこなうためためには、これらの推論規則を認めることが必然的です。このようにして、私たちは、これらの推論規則を、問答関係の超越論的条件として正当化できるのです。

次回からは、このような「真理の定義依拠説」(命題の真理を定義に依拠して正当化するという主張)について吟味するために、予想される反論について検討したいと思います。

110 統制規則の適切性と構成規則の適切性(Appropriateness of regulative rules and appropriateness of constitutive rules) (20240307)

[カテゴリー:問答の観点からの認識]

今のところ次のように考えています。

 理論的問答の答え:主張型発話:真理値をもつ。

 実践的問答の答え:行為指示型と行為拘束型:適切性(適/不適の区別や程度)をもつ。

 宣言的問答の答え:宣言型(行為宣言型、主張宣言型、定義型(命名を含む)、表現型):適切性をもつ。

 今回説明したいのは、実践的問答の答えの適切性と宣言的問答の答えの適切性の違いです。

以前(107回)に次のように書きました。

主張型以外の発話が「適切である」とは、その発話が「より上位の目的の実現にとって役立つ」ということだろうと思います。その「より上位の目的」とは、答える者にとってのより上位の目的でしょうか、それとも問うた者にとってのより上位の目的でしょうか。

 その発話が「適切である」とは、問いに対する答えとして「適切である」ということだとすると、それは問うた者についてのより上位の目的の実現に役立つということでしょう。」

そこでは、主張型以外の発話の「適切性」を、「より上位の問いに答えるのに役立つこと」あるいは「より上位の目的の実現にとって役立つこと」と考えましたが、これを次のように修正したいと思います。宣言的問答の答えの適切性は、この通りだと考えますが、実践的問答の答えの適切性は、「実践的問いの目的の実現そのものに役立つこと」だと考えます。実践的問いは、「ある意図を実現するにはどうすればよいか」という形式をとります。その意図の実現に役立つ答えが、適切な答えであり、役立たない答えが不適切な答えです。

 適切性についてこのような違いが生じる理由は、実践的問答の答えは統制規則であり、宣言的問答の答えは構成規則であるという違いにあります。

 

#構成規則と統制規則の区別

この区別は、サールの「構成規則」と「統制規則」の区別や、カントの「構成原理」と「統制原理」の区別に由来するものです。

例えば、自然法則は、自然を構成する構成規則です。ゲームの規則は、ゲームの構成規則です。憲法は、国家体制の構成規則です。自然の構成規則を破ることはできないし、変更することもできませんが、人為的社会的構成規則は、破ることも変更することも可能です。

 ところで、組織の構成規則は破るべきではないものでしょうか、つまり規範性をもつのでしょうか。もしその組織を維持しようとするのならば、組織の構成規則を破るべきではなく、それに従うことは義務となり、それは統制規則となります。もしその組織を維持することを目的としないのであれば、その組織の構成規則を守ることは義務ではありません。

 この場合、統制規則とは、構成規則の一部になります。では、<統制規則であるが、何かの構成規則ではないもの>はあるのでしょうか。おそらくすべての規範的規則は、何らかのものの構成規則であると考えます。なぜなら非常に緩い規範的規則「人に会ったら挨拶しましょう」というような規範であったとしても、それが常に守られたら実現するであろう社会の構成原理となるからです。

(構成規則と統制規則の関係をこのように考えることは、従来の理解と異なる新しい試みと思いますので、注意してください。)

#構成規則の適切性

 構成規則の適切性とは、構成規則の設定が、あるいはその構成規則が、より上位の目的にとって有用であるということです。構成規則の目的とは、何かを構成することです。より上位の目的とは、構成規則が構成するもののより上位の目的です。

#構成規則と統制規則の区別と問答

二つの規則の区別と、3種類の問いの区別は、次のように関係します。

・理論的問い「自然はどうなっているのか」の答えは、構成規則です。

・実践的問い「オセロのゲームに勝つには、どうすればよいのか」の答えは、統制規則です。                                                                                                                                                                                                                                

・宣言的問い「オセロのゲームはどのようなものか」の答えは、オセロゲームの規則であり、構成規則です。

 

・実践的問い「オセロのゲームに勝つには、どうすればよいのか」の答えは、統制規則です。その答えが、オセロのゲームを勝つために役立つのならば、それは適切です。実践的問いは、実現したい意図を前提としますが、その意図の実現に成功するならば、あるいは役立つならば、答えは適切です。

・宣言的問い「オセロのゲームはどのようなものか」の答え(オセロゲームの規則の設定)に真偽はありませんが、適切性はあります。それが適切であるために満たすべき諸条件として、例えば次のような諸条件を挙げることができるかもしれません。

  勝ち負けが明確でなければならない。

  ゲーム規則はあまり複雑すぎない方がよい。

  ゲームの規則は単純であるほうがよい。

  ゲームは簡単すぎていけない、なぜなら楽しくないから。

  ゲームは難しすぎてもいけない、なぜなら楽しくないから。

  ゲームの勝負に時間がかかりすぎてもいけない。

これらの諸条件を満たすゲームの規則(構成規則)が適切です。その規則は、楽しいゲームを作るという目的の実現に役立つからです。構成規則は、それが構成するものが、より上位の目的の実現に役立つならば、適切です。つまり、宣言的問いの答えは、より上位の目的の実現に役立つとき、適切です。

 次に宣言型発話の4種類の下位区分のそれぞれの適切性についての説明します。

*行為宣言の適切性

 例えば、「君は馘だ」と言う宣言が適切であるとは、相手を馘にすることが、会社にとって有用であるということでしょう。つまり、その宣言はより上位の目的(会社の存続や利益の獲得)の実現に役立つということです。

*主張宣言の適切性

 例えば、「アウト」という宣言が適切であるとは、実際にそれがアウトであることです。「アウト」の宣言が適切であるとき、それが構成するゲームのより上位の目的の実現に役立ちます。ゲームのより上位の目的とは、ゲームによって参加者が楽しむことや、観客が楽しむことです。審判が間違っていれば、私たちはそのゲームを楽しめません。

*定義宣言の適切性

 例えば、「水をHOと定義する」という宣言が適切であるとは、その行為がより上位の目的(その対象を他の物から区別すること)に役立つということでしょう。もし定義の目的が他にあれば、その目的の実現に役立つということでしょう。

*表現宣言の適切性

 「合格おめでとう」という発話は、相手が合格したという事実に対する話し手の態度を構成します。聞き手の出来事や状態に対する話し手のこの態度の構成は、聞き手と話し手の関係に関するより上位の目的の実現に役立つとき適切であり、その目的の実現を妨げたり、役立たなかったりするとき、不適切です。例えば、「不合格おめでとう」と言う発話は、相手と喧嘩しようと思っているのでないならば、不適切です。

前回の末尾で、このあと「真理の定義依拠説」への予想される反論を論じると予告しましたが、その前に、真理の定義依拠説から、推論の正当化について考えたいと思います。

109 理論的問答と実践的問答と宣言的問答の区別について(Regarding the distinction between theoretical questions and answers, practical questions and answers, and declarative questions and answers) (20240305)

[カテゴリー:問答の観点からの認識]

理論的問いの答は、記述であり真理値を持ちます。それに対して実践的問いの答えは、意志決定であり真理値を持たず、適/不適の区別を持ちます。宣言的問いの答えもまた真理値をもたず、適/不適の区別を持ちます。この点で、実戦的問答と宣言的問答は同じです。ただし、宣言は、意志決定ではなく、事実を設定すること、ないし事実を構成することです。つまり、宣言的問いの答えは、構成規則です。それに対して、実践的問いの答えは、意志決定であり、これは行為の統制規則です。この違いを重視して、問答全体を、理論的問答、実践的問答、宣言的問答の3つに区別することができます。

 この区別について、もう少し説明を加えます。

*宣言型発話は、事実を設定する、あるいは事実を構成する発話であり、それは構成的規則となります。以前(99回)に、宣言型発話を、行為宣言型、主張宣言型、命名型、定義型の4つに区別しました。この中で、命名型と定義型が語の意味を構成する構成的規則になることは理解できるでしょうが、行為宣言型と主張宣言型については、説明が必要かもしれません。

 例えば、行為宣言型発話である「開会します」は、これによって、会議が開会され、これによってその後の発言や行為は会議を構成します。この宣言は、会議を構成する規則として機能します。また例えば、主張宣言である審判による「アウト」という発話は、野球の規則そのものではなく、野球の規則にしたがった「アウト」の使用例であるかもしれませんが、他方で、その審判が「アウト」と宣言することによって、その後の試合の進行、選手たちの行動の意味が規定され、行動が規定されます。つまり、「アウト」の宣言は、その試合を構成し、宣言後も、その試合が終わるまで、試合を構成し続けます。それはその試合において構成規則として機能し続けます。

*宣言型発話の区別の修正

 ここで、宣言型発話の区別について二点修正しておきたいとおもいます。

 一つは、<命名型と定義型を区別せず、二つを合わせて定義型とする>ということです。。命名は、ある対象に固有名を割り当てることです。それは固有名の定義であり、定義の一種であるとみなせるでしょう。定義には、固有名の定義だけでなく、一般名、形容詞、動詞、副詞などの定義もあります。(ただし、命名は、一つの新し名前をつくることですが、その他の定義の場合には、既に使用されている語に、新しい意味を与えたり、明確な意味を与えたりすることである、という違いがあります。)

 もう一つは、<表現型発話を宣言型発話の一種と考え、「表現型宣言」と呼ぶ>という修正です。サールの説明では、宣言型発話の適合の方向は両方向ですが、表現型発話は、適合の方向をもたない、という違いがあります。表現型発話は、語と世界の関係を述べていないということになります。しかし、そうでしょうか。表現型発話は、<世界(世界の出来事、状態)についての話し手の態度>を表現しています。例えば、「合格おめでとう」は(主張とは違って)真理値を持たず、(命令や約束とは違って)世界を変えようとするものでもありません。むしろ世界に対する話し手の態度を設定するものです。相手が合格していなければ無効ですが、合格していれば、その意味で両方向の適合の方向を持つと考えることができます。

 このような表現型宣言もまた構成規則であると言えます。「合格おめでとう」と言うことによって、相手が合格したという事実についての話し手の態度を設定し構成します。それは構成規則として機能します。他者の資格や尊厳を承認する発話が、もし社会制度を前提としているならば、それは主張型宣言であると言えるでしょうが、もし社会制度を前提としないならば、それは表現型宣言だといえるでしょう。

ところえ、理論的問いの答えは真理値を持ち、実践的問いと宣言的問いの答えは適切性を持ちますが、実践的問いの答えは統制的規則であり、宣言的問いの答えは構成的規則です。したがって、それらの適切性は異なっていると推測します。これについて、次に考えたいと思います。

(その後で、理論的な問いに対する答えの真理性を、定義に依拠して説明すること(「真理の定義依拠説」)への予想される批判を検討したいと思います。)

108 非主張型発話の相関質問について(Regarding correlative questions for non-assertive utterances) (20240302)

[カテゴリー:問答の観点からの認識]

見出しのテーマに入る前に、前回の説明で抜けていた、表現型発話の前提と適切性の区別についての説明をしたいと思います。

「合格おめでとう」という表現型発話は、相手が合格したということが事実であることを、前提としています。もし相手が合格していなかったとすると、この発話は、不適切なものになるのでしょうか

それとも、適切でも不適切でもなく、無効になるのでしょうか。「合格おめでとう」は、相手が合格したということを意味論的に前提していると言えるでしょう。したがって、もし合格していなければ、この命題は偽なる命題を前提としており、発話は「無効」になると考えます。それに対して、もし相手が不合格であることが事実であるとき、「不合格おめでとうございます」と言えは、その発話の意味論的前提は成り立ちますが、その発話は不適切な発話だと言えます。

 発話の満たすべき意味論的前提と語用論的前提を充たす発話を「有効」な発話と呼び、充たしていない発話を「無効」な発話と呼びたいと思います。(この場合、もし「誠実性」を語用論的前提とみなすと、不誠実な発話は、無効になります。しかし、それでは嘘をつくことが不可能になります。不誠実な発話であっても、発語内行為は成立するのです。「誠実性」をどう扱うべきか、別途検討の必要があります。)

#本題に戻ります。非主張型発話の相関質問は、どのようなものになるでしょうか。

 約束発話は、「…してくれますか」という問い(これは依頼の発話でいいか可能です)に対する「…します」という返答として成立するでしょう。命令発話は、「…しましょうか」という問い(これは約束の発話で言い換え可能です)に対する「…してください」という返答として成立するでしょう。

 では、「合格おめでとうございます」の相関質問は何でしょうか。「合格しましたよ。どう思いますか(感想はいかがですか)」という問いへの答えだと言えそうです。もちろんこのような問いが明示的に行われる必要はなく、「合格しました」という報告に暗黙的に含まれる場合が多いでしょう。しかし、合格した人を目の前にするとき、「どう思いますか」という問いかけに答えることが求められていると暗黙的に感じるのではないでしょうか。

#宣言型発話の相関質問は、次のようなものになるでしょう。

行為宣言型:「開会します」「賞を授与する」

  「そろそろ会議を始めませんか」「はい、開会します」

  「だれに賞を授与しますか」「Xさんに賞を授与します」

これらの問答は、場合によっては(まだ開会の宣言を行っていないときには)、この問いは答えとして約束の発話を求める問いと、約束発話の答えとなります。場合によっては、この問答は、宣言を求める問いと、宣言する答えとなります。

主張宣言型:「アウト」「有罪とする」など審判、判決の発話

  「彼はアウトですか、セーフですか」「アウト」

という問答は、場合によっては、真理値を持つ命題を答えとする理論的問いと、事実の記述であり真理値を持つ答えであることが可能です。ある場合には、宣言を求める問いと、真理値を持たない宣言発話の答えであることが可能です。

命名宣言型:名づけの発話

  「この子の名前は何ですか」「この子の名前はソクラテスです」

この問答も、主張宣言型の場合と同様に、ある場合には(その子の命名がまだ行われていない時には)、命名を問う問いと、命名の答えであり、ある場合には(命名が行われた後では)、理論的問いとそれに対する記述の答えです。

・定義宣言型:語や対象の定義を与える宣言。

「水とは何ですか」「水とはH2Oです」

この問答も、主張宣言型の場合と同様に、ある場合には(「水」の定義がまだ行われていないときには)、定義を求める問いと、定義を与える答えであり、ある場合には(「水」の定義が行われた後では)理論的問いとそれに対する記述の答えである。

では、これらの宣言発話の適切/不適切の区別は、どのようなものになるでしょうか。これまで、宣言型発話を答えとする問答を実践的問答に含めて論じた個所もあったと思いますが、宣言的問答を実践的問答から区別すること、つまり問答全体を理論的問答、実践的問答、宣言的問答、の3つに区別した方がよいのではないかと考え始めています。これを次に検討したいと思います。

107 発話の前提と適切性について(the presuppositions and appropriateness of utterance) (20240301)

[カテゴリー:問答の観点からの認識]

前々回(105回)に依頼の発話の適切性を、前回106回に表現型発話の適切性を、それぞれ命令ないし定義に依拠するものとして説明しました。そこで今回は、宣言の適切性について説明すると予告しました。しかし、これまでの記述では、発話の前提と適切性の区別が曖昧でした。そこで、発話の前提と適切性の区別から論じ直したいと思います。

#発話の意味論的前提と語用論的前提について

発話の前提は、意味論的前提と語用論的前提に分けることができます。

問いに対する答えは、正誤の区別を持ちます。発話が、正しいかあるいは誤りであるかの、どちらかでありうるための、発話の「意味論的前提」と呼ぶことにします。そして、発話行為が成り立つための語用論的必要条件を、発話の「語用論的前提」と呼ぶことにします。

主張型発話の場合、正誤の区別は、真偽の区別となります。それゆえに、主張型発話が真理値を持つための意味論的必要条件が、主張型発話の「意味論的前提」となります。

主張型以外の発話は真理値を持ちません。そこで、それらの発話の正誤の区別を、適不適(適切と不適切)の区別と呼ぶことにします。そして、発話が適切ないし不適切であるための意味論的必要条件を、発話の「意味論的前提」と呼ぶことにします。

(紛らわしくて申し訳ないのですが、J. L. オースティンは、この意味論的前提と語用論的前提を充たす発話を’felicity’と呼び、これが「適切」と翻訳されています。用語については、工夫の余地があるかもしれませんが、上述の区別は明確だと思います。)

主として論じてきたのは、主張型発話の真理値が、遡るならば、命名や定義の宣言発話に基づくということでした。次にそれの拡張として、主張型以外の発話、行為指示型発話(命令や依頼)、行為拘束型発話(約束)、表現型発話の適切性(適切であるか、不適切であるか)が、命名や定義の宣言発話に基づくということを証明しようとしました。

 ただし、主張型以外の発話についての説明では、<発話の意味論的前提が命名や定義の宣言に依拠すること>と<発話の適切性が命名や定義の宣言に依拠すること>の区別があいまいでしたので、その点に注意して、論じ直したいと思います。

 前回(106回)に依頼の発話の適切性について、次のように述べました。

「#依頼の発話の適切性

依頼の発話が適切であるとは、次の条件を満たすことだと思われます。

  ・依頼の内容が実現可能であること

  ・発話者が発話相手に依頼する資格があること

  ・発話が誠実なものであること(発話者が、依頼内容が実現可能であると信じていること)」

しかし、これらは依頼の発話の適切性の条件ではなく、むしろ依頼の発話の意味論的前提と語用論的前提の一部です。次のように言えます。

  ・依頼の内容が実現可能であること(これは意味論的前提)

  ・発話者が発話相手に依頼する資格があること(これは語用論的前提)

  ・発話が誠実なものであること(発話者が、依頼内容が実現可能であると信じていること)(これも語用論的前提)

では、依頼の発話「水を持ってきてください」の適切性は、どのように説明されるのでしょうか。

主張型以外の発話が「適切である」とは、その発話が「より上位の目的の実現にとって役立つ」ということだろうと思います。その「より上位の目的」とは、答える者にとってのより上位の目的でしょうか、それとも問うた者にとってのより上位の目的でしょうか。

 その発話が「適切である」とは、問いに対する答えとして「適切である」ということだとすると、それは問うた者についてのより上位の目的の実現に役立つということでしょう。  では、主張型以外の発話の相関質問は、どのようなものになるでしょうか。これを次に考え、(今回考える予定であった)宣言発話の適切性についても考えたいと思います。

106 表現型発話は、定義にどのように依拠するのか(How do expressive utterances rely on definition?) (20240218)

[カテゴリー:問答の観点からの認識]

表現型発話は、状況や対象に対する自己の感情的態度を表明するものです。例えば、次のようなものです。

 「おめでとう」「お祝い申し上げます」

 「ありがとう」「感謝申し上げます」

表現型発話の学習は次のように行われるでしょう。例えば、「ありがとう」の学習は、子供がある人にお菓子をもらったとき、親はその人に「ありがとうございます」と言うと同時に子どもに「ありがとうは?」などと、「ありがとう」と言うように教えます。大人は、どのような状況で、子供が他者に「ありがとう」と言うべきであるかを教えます。

「ありがとう」「おめでとう」「お悔やみ申し上げます」などの表現型発話には、言うべき時、言ってもよい時、言ってはならない時の区別が可能です。これらの語の使用法を学習するとは、基本的にこれらの状況の判別を学習するです。 これらの語の使用法の学習は問答によって行われます。つまり「こういう時には、「ありがとう」と言うべきですか」「こういう時には、「ありがとう」と言う必要はありませんか」などの問いへの正しい答えを学習して、未知の状況でも、これらの問いに正しく答えられるようになることによって、「ありがとう」の使用法の学習が行われるでしょう。

表現型発話には、語るべき時、語ってはならない時、語ってもよい時、の区別があります。それは、語るべき時には適切で必要な発話になり、語ってもよい時には適切な発話になり、語ってはならない時には不適切な発話になります。適切なときと不適切なときの区別を持つ行為や発話は、規範性を持ちます。この意味で表現型発話は、規範性を持ちます。

では、これらの語はどのように発生したのでしょうか。例えば「ありがとう」を次のように定義できるかもしれません。<「おめでとう」は、お祝いの言葉である、つまり相手によい出来事起こったときに発話し、そのことを共に喜ぶための言葉です>。相手によい出来事起こったときに、そのことを共に喜ぼうとするときの発声が、習慣化することによって、お祝いの言葉となったのだろうと推測できます。このプロセスが、この語の定義のプロセスだと言えるかもしれません。この語の使用が習慣化し、使用法が定義されると、その定義に基づいて使用されるようになるし、定義に基づいて学習が行われるようになるでしょう。この語の使用規則が慣習化するとき、この語の使用は規範性をもちます。この語は、使用法の慣習化という意味での定義を持つといえますが、しかしこの定義は宣言発話によって行われるのではありません。

 それでも、表現型発話の適切性は、表現型発話の定義および学習に依拠すると言えます。

*注1:宣言型発話は、オースティンが言うように、一定の慣習のもとで成立し、それがないときにはその発話は無効になります。表現型発話には、それを語ってはならない場合がありますが、宣言型発話には、語ってはならない場合は(おそらく)ありません。しかし、それが無効になる場合はあります。それが無効になるとき、それは不適切な発話になるのではありません。不適切な宣言というものはなく、無効な宣言発話があるだけです。これに対して、表現型発話の場合には、それが不適切な発話にある場合はありますが、慣習を前提することはありません。表現型も宣言型も「適合の方向」を持たない点では共通していますが、慣習を前提しないか前提するか、の違いがあります。

*注2:表現型発話が無効になるのは、発話相手がいない時ですが、前提とする事実が成立していない時はどうでしょうか。例えば「合格おめでとうございます」は、もし相手が合格していなければ、無効なのでしょうか。それとも不適切なのでしょうか。

*注3:表現型発話は単なる感情表現の発話ではありません。「私は嬉しい」「私は満足だ」が、感情の記述であるときには、それは真理値を持つ主張型発話です。これに対して、プレゼントをもらって「私は嬉しい」とか「私は満足だ」とか相手に言うときには、それは感情の記述ではなく、相手の行為に対する自分の態度を表現しています。サールの言う表現型発話は、適合の方向がゼロです。これは、表現型発話が、心理状態の記述ではないことを意味しています。「ありがとうございます」と言うとき、たとえ本当に感謝していなくても、その場合にも感謝の表現は成立しています。(発話の誠実性については、いつか別途考えます。)

以上みてきたことから、宣言型発話以外の発話(主張型、行為拘束型、行為指示型、行為拘束型、表現型)の発話の真理性ないし適切性は、すべて定義に依拠することがわかりました。

 では、宣言型発話の適切性については、どう考えればよいのでしょうか。それを次に考えたいと思います。

105 依頼の発話は、命名や定義にどのように依拠するのか(How do request utterances rely on naming and definition?) (20240215)

[カテゴリー:問答の観点からの認識]

#依頼の発話の適切性

依頼の発話が適切であるとは、次の条件を満たすことだと思われます。

  ・依頼の内容が実現可能であること

  ・発話者が発話相手に依頼する資格があること

  ・発話が誠実なものであること(発話者が、依頼内容が実現可能であると信じていること)

ちなみに、主張の発話の場合にも、同様に適切性を語ることができます。

  ・主張の内容が真であること

  ・発話者が主張する資格があること

  ・発話が誠実なものであること(発話者が、主張内容を真であると信じていること)

#依頼の発話の実現可能性は、命名と定義に依拠します。

「相手が水を持ってくることが実現可能である」が成り立つことを認識するには、命名と定義に依拠する必要があります。なぜなら、依頼内容「水を持ってくる」を理解するには、「水」と「持ってくる」の定義に依拠する必要があるからです。そして、「水を持ってくる」を理解するとは、どのような場合にこれが成り立つかを理解するということであり、それは、どのようの場合に「相手が水を持ってくることが実現可能である」が成りたつかを理解することです。従って、「水を持ってきてください」という依頼の発話の適切性の認識は、「これは赤い」という記述の発話の真理性と同様の仕方で、命名や定義に依拠します。

したがって、サールの分類による行為拘束型発話(命令・依頼)や行為指示型発話(約束)の実現可能性は、それに用いられる語の命名や定義の宣言に依拠する、と言えます。

 では、サールの言う表現型発話は、命名や定義とどう関係するのでしょうか。これを次に考えたいと思います。

104 発話は、命名や定義にどのように依拠するのか(How do utterances depend on naming and definition?)(20240205)

[カテゴリー:問答の観点からの認識]

このカテゴリーでは97回あたりから、<命名と定義に依拠して、問いに対する答えの真理性を正当化する>ということを考えており、命名や定義のための宣言や、その宣言を答えとする問答の成立を説明するために、規則遵守問題を論じると予告していたのですが、その前に、「(記述の発話に限らず)発話一般に関して、発話の意味理解や真理性や適切性が、命名や定義にどのように依拠するのか」を考察しておきたいと思います。

#まず次の二つの例を考えてみます。

  「これは赤い」

  「水を持ってきてください」

「これは赤い」の場合:この発話の意味の理解は、「赤い」の定義に基づきますが、それだけでなく、真偽の判定も、定義の時の対象と現在の対象との類似性と、推論規則に依拠します。

「水を持ってきてください」の場合:この発話の意味の理解もまた、語「水」や「持ってくる」という語の理解に基づくので、それらの学習過程、さらに遡ってそれらの定義に基づきます。さて、この依頼の発話は、真理値は持ちませんが適不適の区別を持ちます。この適不適の区別は、語「水」や「持ってくる」の定義には依拠しないのでしょうか(そこが「これは赤い」との違いなのでしょうか)。

それとも、発話の適切性もまた、それに含まれる語の定義に依拠するのでしょうか。

 この点をもう少し分析したいと思います。

103 「問いに対する答えが真であるとはどういうことか」への答え(The answer to “What does it mean for an answer to a question to be true?”) (20240203)

[カテゴリー:問答の観点からの認識]

(今回の発言は、一時休憩の踊り場です。)

 第97回から考えてきたことは、「問いに対する答えが真であるとはどういうことか」ということでした。そして、前回最後にのべたように、<命名や定義の宣言が成立するには、他者との問答が必要であり>、また<命名とその記憶に基づいて「あれが富士山です」と事実を主張するときにも、その記憶の正しさを保証するには、他者との問答が必要です>。そこで、「他者と問答できていることと、他者と問答できていると信じていることの区別について」考えたいと思ったのです。しかし、この問いに答えようとすると、当初の「問いに対する答えが真であるとはどういうことか」に答える必要があるように思われます。このように振り返ると、最初の問題設定からあまり前進していません。

 今回は、当初の問題「問いに対する答えが真であるとはどういうことか」への現時点での答えをまとめておきたいと思います。以下は、2024年8月にローマで開催予定の世界哲学会にエントリーするためにまとめた文章「命名と定義による真理の正当化」の一部です。

「記述の真理性は、使用する語の意味(使用法)に依拠し、語の意味(使用法)の学習は、語の意味(使用法)の定義に依拠する。その定義は宣言発話であり、それ自体は真理値を持たないが、定義の後、同じ文の発話が反復され時、それは記述となり、その真理性は定義に依拠する。では、真理値を持たない宣言発話の文を反復して発話することが、どうして真なる記述になるのだろうか。

 世界の記述が真となるのは、その命題内容が、世界の在り方と一致するからだと考えられている。命題内容が事実と一致するためには、命題内容と事実の区別が前提となる。この区別は、命名や定義のための問答において暗黙的に行われる。したがって、例えば、語「象」を定義することは、同時に対象<象>を定義することであり、定義の後で、定義の文を反復するとき、それはその対象についての記述となり、真理値を持つことになる。」

The truth or falsity of a statement depends on the meaning (usage) of the words used in it, and knowing the usage of a word depends on the definition of the usage of the word. A definition is a kind of declaration, so it has no truth value in itself, but repeating the same sentence after a definition becomes a description, and a truth value is derived based on the definition. So how can repeating a statement of a declaration, which has no truth value, become a true statement? A description of the world is said to be true because its propositional content ”corresponds” to the way the world is. In order for the content of a proposition to ”correspond” to facts, it is necessary to distinguish between the content of a proposition and facts. Defining the word ”elephant” is inseparably defining the object <elephant>, but words and objects are implicitly distinguished in questions and answers about naming and definitions. Therefore, if you repeat the definitional statement after the definition, it becomes an accurate description of that object.)

発表しようとしている内容は、このカテゴリーで97回から考えていることです。しばらくこのエントリーの準備に時間を取られ、ブログの更新が遅れてしまいましたが、そこで気づいたのは、命名や定義を行うときの問答そのものの分析の必要性です。

 命名と定義から記述の真理性を正当化する、という主張は、記述の真理性を、要素命題の真理性や語の意味に還元する立場だと思われるかもしれませんが、そうではありません。なぜなら語の命名や定義は、問答によって可能になるからです。問答によって、語と対象の区別が可能になり、問答よって、語から文の合成が可能になり、問答によって命題と事実の区別が可能になり、問答によって語の命名や定義が可能になるからです。ところで、この問答が私的言語としては成立し得ないとすれば、問答が成立するためには他者が必要だとして、他者の登場によって、規則遵守問題はどのように解決されるのでしょうか。

 この問題を次に考えようと思います。

102 記憶の問題 (Memory problems)(20240117)

[カテゴリー:問答の観点からの認識]

「あれが富士山です」という命名宣言が成立するには、「あれ」による指示が成立しなければなりませんが、それを確認するためには「「あれ」というのはどれですか」という問いに「あれです」と答えるという問答が必要です。この問答が自問自答であれば、この問答が正しいか、正しいと信じているだけか、区別できません。指示できるためには、指示を確認できなければなりません。そして指示を確認するには、(自問自答では、規則に従うことができないので)最終的には、他者との問答が必要です。したがって、命名宣言が成立するには、他者との問答が必要です。

 こうして命名宣言が成立した後で、「あれが富士山です」と事実についての主張が行われたとき、それが真であるためには、命名のときに「あれ」で指示した対象を、主張において「あれ」で指示していることが必要です。そのためには、命名の時に「あれ」で指示した対象を記憶している必要があります。この記憶が正しいのか、正しいと信じているだけなのか、を区別するには、他者との問答が必要です。(これは、記憶によって人格の自己同一性を正当化しようとするときにも、他者との問答が必要であることを意味しています。)

したがって、命名宣言が成立するには、他者との問答が必要ですが、命名とその記憶に基づいて「あれが富士山です」と事実を主張するときにも、他者との問答が必要です。

そこで、次に「他者と問答できていることと、他者と問答できていると信じていることの区別について」考えたいと思います。