7 規則遵守問題と蝶番への問い  (20200727)

[カテゴリー:問答と懐疑]

 「規則遵守問題」とは、「規則に従うとはどういうことか」という問題である。あるいは、〈規則に従っていることについての疑い〉が生じたときにどうすればよいのか、という問題である。

 「1000+2はいくつですか?」という問いに対する生徒の答えが「1004です」であるとき、教師は「君は、「+」の使用規則に正しく従っていますか?」と問うだろう。これは、〈「+」の意味(使用の規則)についての疑い〉である。したがって、〈規則に従っていることについての疑い〉は、〈表現の意味についての疑い〉の一種である。

もしこの生徒が、私たちと同じ意味で「+」を理解していたならば、生徒は単に計算間違いをしていたことに気づき、「すみません。間違えていました。1002でした」と答え直すだろう。この場合には、計算結果「1000+2=1004」の真理性についての疑いは、ふつうの「論理学や数学の命題への疑い」である。

しかし、この生徒が、ウィトゲンシュタインが語ったように、「でもぼくは〔これまで〕おなじようにやってきているんです!」と答えるのならば、その生徒は、この問い(とりわけ「+」)を私たちとは異なる意味で理解している。彼にとっては、「1004」という答えは、自明の答えなのである。

私たちは、問いの理解に従って、答えを求めるだろう。私たちが、ここでの規則遵守問題にほとんど気づかないのは、この問い(簡単な足し算問題)を理解したときには、答えもまた自明なものとして成立するからである。問いを理解したときには、「+」という表現の使用の規則にすでに従っているからである。

問答が成立していると互いに思っている限りで、両者は、問いも答えも同じように理解していると思っている。従って、問答が成立している限りで、問いの文の理解に関する規則遵守問題には気づかない。この生徒の「+」の理解が私たちの理解と異なることは、計算結果の違いに出くわすまでは、わからなかったことである。しかし、逆にいうと、足し算問題に私たちとおなじように答える生徒がいたとしても、その生徒は私たちとは異なる仕方で問いを理解し、私たちの答えと偶然に一致するような仕方で答えた、という可能性が常に残っている。

「私たちは、本当に言語の規則を共有しているのだろうか?」「私は、言語の規則に正しく従っているのだろうか?」という問い(規則遵守問題)には原理的に答えられないのだろうか。そこから、懐疑主義に陥るのではないだろうか。

<疑いには蝶番があり、その蝶番への疑いには、また別の蝶番があり、・・・>というように反復していくとき、疑いは、「哲学的な疑い」になる。なぜなら、哲学というのは、普通よりもより深くより広く問うことであり(これについては、カテゴリー「哲学とは何か」を見て下さい)、それは普通の問いの前提(蝶番)を問うことだからである。

次回から、懐疑主義について考えます。

6 蝶番は問いの前提である(20200723)

[カテゴリー:問答と懐疑]

ウィトゲンシュタインは、全てを疑うことへの批判として「蝶番」の比喩を持ち出す。『確実性の問題』の中でこれが登場するのは、3か所だけであるので、引用しておこう。まず、最初の二か所は、つぎの341と343にある。

「341 すなわち、われわれが立てる問題と疑義は、ある種の命題が疑いの対象から除外され、問や疑いを動かす蝶番のような役割をしているからこそ成り立つのである。

342 つまり科学的探究の論理の一部として、事実上疑いの対象とされないものがすなわち確実なものである、ということがあるのだ。

343 ただしこれは、われわれはすべてを探求することはできない、したがって単なる想定で満足せざるをえないという意味ではない。われわれがドアを開けようと欲する以上、蝶番は固定されていなければならないのだ。」(ウィトゲンシュタイン、『確実性の問題』黒田亘訳、『ウィトゲンシュタイン全集9』大修館書店)

ここで考えられている「疑いの対象から除外される命題」や「問や疑いを動かす蝶番のような役割をしている」命題とは、「問いや疑いの前提」であるだろう。ちなみに、「問いや疑いの前提」とは、問いや疑いが真なる答え、あるいは適切な答えを持つための必要条件であり、「疑い」とは命題の真理性ありは適切性への問いである、と考えたい。

 「蝶番」の第三の使用例は、次である。

「655 数学的命題には、いわば公式に、反駁不可能のスタンプが押されている。すなわち、「異義は他の命題に向けよ。これは君の異論の支えになる蝶番であり、動かすべからざるものである」と。」

ここで蝶番とされる「数学的命題」の例として「12×12=144」が挙げられている。一ダース入りの鉛筆を12箱(1グロス)鉛筆の数を数えたときに、145本あったとしても、私たちは、12×12の計算をやり直したりせず、鉛筆を数えなおすだろう。計算ミスはあるだろうが、何度か確認した後の計算結果は、通常は、計算結果は蝶番として使えるものである。

 すべての問いや疑いがこのような蝶番を持つが、私たちはどのような蝶番についてもその真理性や適切性を問うことができるだろう。なぜなら、蝶番は命題であり、どのような命題についても、「本当にそうなのか?」とか「なぜそうなのか?」と問うことができるからである。(ただし、この問いもまた蝶番を必要とするので、全てを同時に疑うことはできない。しかし、同時でなく、交互にすべての蝶番を疑うことならば、可能であろう。これについては、後で考えよう。)

 すべての疑いについて、その蝶番をさらに疑うことが可能である。問いや疑いは、多くの前提(蝶番)をもつだろうから、それらについて多くの疑いが可能になる。

 「経験的疑い」の蝶番は、経験的命題、論理的数学的命題、意味論的命題、哲学的命題であり、「論理的数学的疑い」の蝶番は、論理的数学的命題や意味論的命題や哲学的命題であり、「意味論的疑い」の蝶番は、意味論的命題、哲学的命題であり、「哲学的疑い」の蝶番は、哲学的命題である、と予想する。これらの蝶番命題について、さらに疑うことが可能である。

 規則遵守問題では、まず論理的数学的疑いとして始まり、次にその蝶番である、論理的数学的命題、意味論的命題、哲学的命題などについての疑いを引き起こすことになっている。

5 表現の意味への疑い  (20200722)

[カテゴリー:問答と懐疑]

 例えば、「これはテロだろうか?」という問いは、「テロ」の定義を前提したうえで、「これ」が指示する対象がその定義に当てはまるかどうかを問うており、事実に関する問いであり、経験的疑いである。これに対して、「これを「テロ」と呼べるだろうか?」という問いは、「テロ」の意味ないし定義が曖昧なので、この問いへの答えによって、「テロ」の意味ないし定義を明確にしようとしており、表現の意味への疑いである。

 ところで、いわゆる「規則遵守問題」(following rule problem)もまた、表現の意味への疑いの一種だと思われる。

規則遵守問題とは、ウィトゲンシュタインが指摘した問題であり、次のような生徒に、+2の規則に従うことをどうやって教えるのかという問題、あるいは、私たちが+2の規則を知っていると思っているときに、それが正しいことをどうやって正当化できるのかという問題である。

「生徒に1000以上のある数列(例えば「+2」を書き続けさせる、すると、かれは1000、1004、1008、1012と書く。われわれはかれに言う、「よく見てごらん、何をやっているんだ!」と。–かれにはわれわれが理解できない。われわれは言う。「つまり、君は2を足していかなきゃいけなかったんだ。よく見てごらん、どこからこの数列をはじめたのか!」–かれは答える、「ええ!でもこれでいいんじゃないのですか。ぼくはこうしろと言われたようにおもったんです。」――あるいは、かれが、数列を示しながら、「でもぼくは〔これまで〕おなじようにやってきているんです!」と言った、と仮定せよ。――このとき、「でもきみは……がわからないのか」と言い――かれに以前の説明や列を繰り返しても、何の役にも立たないだろう。」(ウィトゲンシュタイン『哲学探究』藤本隆史訳、『ウィトゲンシュタイン全集8』大修館書店、1976、186節)

私たちは通常は「+」の意味を考えたりしない。「1000+2はいくらか?」と問われたときも、「+」の意味など考えずに、即座に「1002です」と答える。しかし、上記のような生徒に出会ったとすると、私たちは途方に暮れて、「+」の規則を説明しようとするだろう。しかし、「+」の意味は、その使用の規則に他ならず、その使用の規則は、「+」の計算の例をあげて示すしかない。どんなにたくさんの例を挙げても、すべての事例を枚挙することはできない。そして、いまだ例に挙げていない「+」の計算にであったときに、自分とは異なる答えを出す者があるとき、自分の答えを正当化しようとすれば、他の人々の賛同を求めるしかないだろう。

 ところで、〈疑い〉は、(信念や主張の)命題の真理性についての問いである。ここでは、「+」の使用規則が問題になっているが、この使用規則を命題で明示することができないので、「+」の使用規則を疑うということはありえない。疑うことができるのは、「1000+2=1002」という具体的な計算式(命題)である。

 それでは、規則遵守問題についてどのように理解して、どのよう受け止めればよいのか、それは本当に「意味への疑いの一種」なのか、など、これから考えたいと思います。

04 経験的疑いと哲学的疑いの区別を再考 (20200721)

[カテゴリー:問答と懐疑]

前回「別の経験的な命題によってテストできる疑いを「経験的疑い」と呼び、別の経験的な疑いによってはテストできない疑いを「哲学的疑い」と呼ぶ」と区別した。ここでは、この区別の有効性、妥当性を検討したい。

 前回、疑いの対象となる命題には、次のようなものがあると述べた。

・知覚判断への疑い

・記憶判断への疑い

・経験的な個別判断への疑い

・経験的な全称判断への疑い

・未来予測への疑い。

・評価判断(価値判断)への疑い。

・命令への疑い

・論理学や数学の命題への疑い

・表現の意味への疑い

 ここでまず問題になるのは、最後から3番目の「・命令への疑い」について、私たちが02で考えた〈疑い〉の定義は当てはまらない、ということである。02で、〈疑う〉こと次のように定義した。「〈疑う〉ことには、命題の真理性を問うことに加えて、その問いに、真ではないかもしれない/真ではない/偽であるであるかもしれない/おそらく偽である/偽である、などと答える(信じたり、主張したりする)ことも含まれる。」

 命令への疑いは、命令の適切性を疑うのであって、命令の真理性を疑うのではない。なぜなら命令には真理値はないからである。これに対応するためには、広義の〈疑い〉を次のように定義しよう。

「広義の〈疑う〉ことには、(信念や主張や命令の)命題の適切性を問うことに加えて、その問いに、適切でないかもしれない/おそらく適切でない/不適切であるかもしれない/おそらく不適切である/不適切である、などと答える(信じたり、主張したりする)ことも含まれる。」

 次に問題になるのは、最後の二つの疑いである。まず、「論理学や数学の命題への疑い」について考えよう。数学の命題に対する疑いは、「別の経験的な命題によってテストできる疑い」なのだろうか。論理学や数学の命題は、経験的な命題ではない。それは経験によって検証されたり反証されたりしない。例えば、93錠の薬から、7錠取り除いて、数えたら87錠になったとしても、それは93-7=86を反証したことにならないし、数えたら86錠であったとしても、それは93-7=86を検証したことにならない。

 したがって、論理学や数学の命題への疑いは、経験的な疑いではない。しかし、これを「哲学的疑い」と呼ぶのではなく、「論理的数学的疑い」と呼ぶ方が適切だろう。そのためには「哲学的疑い」を再定義する必要がある。

 哲学的疑いについての前回の例をもう一度みよう。「このリンゴはよく熟している」という主張に対して、「このリンゴは実在するのだろうか?このリンゴは私の知覚像に過ぎないのではないか?」という哲学的な疑いの特徴は何だろうか。

 「このリンゴはよく熟している」への経験的疑いは、「このリンゴはまだ熟していないのではないだろうか」と問うことである。この問いに、「このリンゴはよく熟している」(肯定)と答えるにせよ、「このリンゴはまだ熟していない」(否定)で答えるにせよ。どちらの場合にも、これらの答えは、「このリンゴが実在する」を前提しており、これは経験的疑いの前提でもある。 

 先の哲学的疑いは、経験的疑いのこの前提を疑うものである。「p」という命題について、経験的疑いは、「pは真か?」と問うが、この問いは多くの前提を持つ。問いの前提とは、問いが成り立つための、言い換えると、問いが真なる答えを持つための必要条件である。哲学的疑いは、この必要条件を疑うものである。

 しかし、この必要条件を問うことのなかには、哲学的疑いだけでなく、経験的疑いも含まれている。例えば、「これは瑠璃色だ」という主張の真理性を問う問いが、「これは瑠璃色だろうか?」であるとき、この問いの前提の一つは、「これは色を持つ」である。この前提を問う問い、つまり「これは色を持つのだろうか?」という問いは、経験的な疑いである。

 このように経験的疑いの前提の真理性を問う〈疑い〉に、経験的疑いと哲学的疑いの二種類がある。したがって、哲学的疑いを、「哲学的疑いとは、通常の経験的疑いの前提を疑うものである」とするのでは、定義としては不十分である。これに前回の定義(の試み)「哲学的疑い」は、「別の経験的な命題によってはテストできない疑い」を組み合わせて、つぎのような定義を提案したい。

「哲学的疑いとは、通常の経験的疑いの前提を疑うものであり、かつ、別の経験的な命題によってはテストできない疑いである」

この定義は、前半部分で、論理的数学的疑いを排除し、後半部分で、経験的な疑いを排除している。この定義の検討のまえに、つぎに「表現の意味への疑い」を考察しよう。 

03 経験的疑いと哲学的疑い (20200719)

[カテゴリー:問答と懐疑]

疑いの対象となる命題には、次のようなものがある。(これはまだ整理されていないし、網羅的でもないかもしれない。)

・知覚判断への疑い

・記憶判断への疑い

・経験的な個別判断への疑い

・経験的な全称判断への疑い

・未来予測への疑い。

・評価判断(価値判断)への疑い。

・命令への疑い

・論理学や数学の命題への疑い

・表現の意味への疑い

まず、最も単純そうに見える「知覚判断」への疑いについて、それがどのようなものであるかを考えてみよう。

 「このリンゴはよく熟している」という主張に対して、「このリンゴは本当によく熟しているのだろうか?」と問うとき、これは主張を疑っている。この疑いが、「このリンゴはまだ熟し方が足りないだろう」という推測を伴っているとき、この疑いを確かめるもっとも良い方法は、それを切って食べてみることである。私たちは、この場合に「疑いを確かめる」という言い方をするが、それは、疑いに伴っている想定を確かめることを意味している。このような知覚判断への疑いは、それと矛盾する別の知覚判断を確証することによって確かめられる。経験的な命題への通常の疑いは、別の経験的な命題によってテストできる。

 この例は、主語が指示する対象について述定が真であることを疑う場合であるが、主語が指示する対象が実在するかどうかを疑う場合もある。例えば、「このリンゴはよく熟している」という主張に対して、「これはリンゴだろうか、スモモではないだろうか?」と疑う場合がそうである。この場合にも、「これはリンゴではなくスモモである」という経験的な命題によってテストできる。

 しかし、経験的な命題への疑いの中には、別の経験的な命題によってテストできないものがある。例えば、「このリンゴはよく熟している」という主張に対して、「このリンゴは実在するのだろうか?このリンゴは私の知覚像に過ぎないのではないか?」という疑いである。

 別の経験的な命題によってテストできる疑いを「経験的疑い」と呼び、別の経験的な疑いによってはテストできない疑いを「哲学的疑い」と呼ぶことにしよう。

 次に、この二種類の疑いの関係を考えたい。

02 「疑う」の多義性  (20200718)

[カテゴリー:問答と懐疑]

 前回述べたことは、〈疑う〉ことは、命題の真理性について問うことであるということである。ただし、〈疑う〉ことには、命題の真理性を問うことに加えて、その問いに、真ではないかもしれない/真ではない/偽であるであるかもしれない/おそらく偽である/偽である、などと答える(信じたり、主張したりする)ことも含まれる。

 たとえば、「刑事がある人物を犯人ではないか疑う」という場合がある。これは、「ある人物は犯人でない」という命題の真理性を問い、その問いに「おそらく偽である」と答えることである。(英語ではdoubtではなくsuspectをもちいる。suspectは、「嫌疑をかける」「罪があると思う」などの訳語があるように、悪いことがらを想定する場合に用いられるようだ。日本語の場合には、どちらも「疑う」を用いる。)

 日常での「疑う」の使用では、命題の真理性を問うだけでなく、それに対して何らかのネガティヴな答えを考えることが多いだろう。

(今日は短くてすみません。今から丸亀に帰省します。)

01 問うことと疑うこと  (20200717)

[カテゴリー:問答と懐疑]

 私たちが〈疑う〉のは、事実ではなく、真であったり偽であったりする信念や主張である。私たちは、事実を疑うことはできない。なぜなら事実は偽でありえないからである。疑いの対象は、命題であり、疑うことは命題的態度の一つである(「命題的態度」とは命題を対象とする心的態度、信じる、欲する、願う、問う、語る、など、である。)。たとえば、「命題pは真だろうか?」と問うことは、命題pを疑っているといえいる。また、「コロナの重傷者は本当に減っているのだろうか」と疑うことは、マスコミで語られている「コロナの重傷者は減っている」という発言の信ぴょう性を疑っている。このように他者が主張していた命題や、自分が信じていた命題の真理性を問うことが、疑うことだと言えるだろう。

 これに対して、私たちは事実を〈問う〉ことができる。例えば、「それは何ですか」「これはベジマイトです」という問答において、この問いは事実について問うている。この問いの対象は、物であり、問いは、物や事実を対象とする。

 ところで疑うことは、上記の例からわかるように、問うことでもある。したがって、疑うことは、問うことの一種である。問うことが、主張や信念の真理性を問うことであるときに、疑うことであり、その他の場合には、問うことであると言えるだろう。

 問うことと疑うことの区別については、ウィトゲンシュタインの次の発言があるので、これと上の主張を関係づけておこう。。

「6.51問うことが不可能なところで疑おうとするのなら、懐疑論は論駁しえないのではなく、明らかに無意義なのである。

 何故なら、懐疑が存立しうるのは問が存立する限りであり、問が存立しうるのは解答が存立する限りであり、そして解答が存立しうるのは、何事かを語るのが可能な限りだからである。」(奥雅博訳『論理哲学論考』、『ウィトゲンシュタイン全集』第1巻、大修館書店 p.119)

ここでの「懐疑が存立しうるのは問が存立する限りであり」という発言は、「問いが成立することによってのみ、疑うことが可能になる」と言い換えることができるだろう。これは、つぎのような理解であると思われる。

この引用の直前でウィトゲンシュタインは、問いと答えの関係について次のように言う。

「6.5 表明できない解答に対しては、その問も表明することができない。

謎は存在しない。

いやしくも問を建てることができるならば、その問いにこたえることもできる である。」(奥雅博訳『論理哲学論考』、『ウィトゲンシュタイン全集』第1巻、大修館書店 p. 118)

問いへの答えは、自分の信念や他者に対する主張となるだろう。それらは命題形式をとる。主張や信念は、それについて問いを表明することができる、言い換えると問いへの答えとなりうる。問いへの答えとなりえない命題は、主張や信念とはなりえない。したがって、その命題を答えとする問いを問えなければ、命題を信じたり主張したりすることは不可能である。そして、命題を信じたり主張したりすることが不可能であるとすると、その命題を疑うことも不可能である。それゆえに、「問いが成立することによってのみ、疑うことが可能になる」ということになる。

この6.5の内容に私は賛成である。ただし、ウィトゲンシュタインは、6.5を断言しているだけで、証明してはいない。この証明については、懐疑についての考察を重ねた後で取り組みたい。ところで、解答が知識であるとすると、知識は問いに対する答えとしてのみ成立するということになる。つまり、6.5は問いと知識の関係を述べたていると言える。