06 世界人権宣言と戦争行為 (20220410) 

[カテゴリー:平和のために]

(前回への補足:戦争をするのは国家なので、国家がなくなれば、戦争はなくなるという主張があるかもしれませんが、仮に国家がなくなっても、世界共和国の内部での内戦という形での戦争は起こりえます。したがって、戦争を失くすには、世界共和国ができるにせよできないにせよ、やはり武器を失くす必要があります。)

 前回の続き:では、軍事力の放棄を国際法とするには、どうすればよいでしょうか。

 戦争は、人を殺したり傷つけたりすることなので、人権侵害であり、許されないことです。

しかし、なぜそれが行われるのでしょうか。国家が自国内の個人の人権を侵害してはいけないことは、多くの国の憲法で保障されているでしょうが、国家が他国の個人の人権を侵害してはいけないことは、憲法で規定されていません。戦争は、他国の個人の人権を侵害することです。たいていの憲法では、外国人を含めた地球上の全ての人の人権を保障していないだろうとおもいます。もし憲法に地球上のすべての人の人権を保障するという条項を加えるならば、そこには戦争を放棄するということが含まれるでしょう。

 1948年に国連総会で採択された「世界人権宣言」には、第三条「すべて人は、生命、自由及び身体の安全に対する権利を有する」とありますが、これもまた自国内の人に対して人権を確保すべきことを述べているだけのように読めます。前文の最後に次のようにあるからです。

「よって、ここに、国際連合総会は、
 社会の各個人及び各機関が、この世界人権宣言を常に念頭に置きながら、加盟国自身の人民の間にも、また、加盟国の管轄下にある地域の人民の間にも、これらの権利と自由との尊重を指導及び教育によって促進すること並びにそれらの普遍的かつ効果的な承認と遵守とを国内的及び国際的な漸進的措置によって確保することに努力するように、すべての人民とすべての国とが達成すべき共通の基準として、この世界人権宣言を公布する。」

この「世界人権宣言」には拘束力がないので、これに続いて「国際人権規約」が締結されましたが、これもまた、各国が自国内の人々に人権を確保すべきことを明記しているだけです。例えば、これによって、もしミヤンマーがこれを批准していれば、現在の軍事政権に対して国民の人権を確保するように求めることは出来ますが、ただしミャンマーはこれを批准していません。

まずは、世界人権宣言の前文の最期の部分を次のように変える必要があるでしょう。

「「よって、ここに、国際連合総会は、
 社会の各個人及び各機関が、この世界人権宣言を常に念頭に置きながら、加盟国自身の人民の間にも、また、世界のあらゆる国、地域の人民の間にも、これらの権利と自由との尊重を指導及び教育によって促進すること並びにそれらの普遍的かつ効果的な承認と遵守とを国内的及び国際的な漸進的措置によって確保することに努力するように、すべての人民とすべての国とが達成すべき共通の基準として、この世界人権宣言を公布する。」

原子爆弾は人道に反する武器だと言われるのですが、原子爆弾に限らずすべての武器は人道に反するものであり、廃止すべきだとおもいます。ただ、実現のための妙案がなかなか思いつきません。

80いちろうさんの質問への回答(2) (20220408)

[カテゴリー:『問答の言語哲学』をめぐって]

#いちろうさんの質問4は次です。

「質問4 p.68で「人物と時間と場所に関する専用の疑問詞がある」ことについて指摘し、家畜専用の疑問詞のようなものも想定し、疑問詞が社会的なものだということを示しましたが、そうすると、例えば、はい・いいえのような決定疑問についても、そのような問い方を知らない社会というものも想定できるので、決定疑問・補足疑問という区別すらも文化的なものだということになるのでしょうか。または、極端に言えば、全く疑問詞がない社会も想定できるということでしょうか。(平叙文しかなく、前後の文脈で疑問詞かどうかを見分けるような社会。)そうすると、問答というアイディアにとって、形式的に疑問文か平叙文かという差異は根源的なものではない、ということでしょうか。」

疑問詞をつかわないで補足疑問を行う方法というのは、面白いアイデアだとおもいます。疑問詞の部分を単に空所を示す( )にしてもよいかもしれませんが。しかし、この場合には「( )」をある種の疑問詞だと見為すべきかもしれません。あるいは、疑問詞を使わないで補足疑問のような問いをおこなう方法は他にも可能かもしれないとおもいます。

決定疑問についてはどうでしょうか。私たちは語尾を上げるなどして簡単に平叙文をもちいて決定疑問を行うことができます。英語なら、語順を変えることによって、日本語なら文末に「か」という助詞付け加えることによって、決定疑問文にすることができます。決定疑問を行う方法は、さまざまな言語で様々ですし、現にあるどの言語でのやり方とも異なる方法で、決定疑問文をつくるという規約を作ることは可能です。

ひょっとすると、補足疑問や決定疑問をもたない言語が可能かもしれませんが、私は、問答関係が、言語の成立、考える(問答推論)の成立にとって不可欠だと考えるので、その場合でも、異なった形式の問い方、あるいは問答の仕方が採用されているだろうと思います。たとえば、未来のAIは、私たちとは異なった形式の問い方で問答するかもしれません。しかし、そのAIとっても、問答は必要だろうと思います。

#いちろうさんの質問5は次です。

「質問5 p.22の「アンドリューは、幸福である。アンドリューは健康ですか。」は、「アンドリューは、幸福である。」が偽だとしても妥当な推論である、ということです。そうすると、「たいていの中国人は信用できない。Aさん(中国人)は信用できますか。」というヘイトスピーチも、「たいていの中国人は信用できない。」が偽だとしても妥当な推論になってしまうということでしょうか。

p.22の例で「アンドリューは、幸福である。」が偽だとしたら、アンドリューが幸福であることを受け入れていないので、(C1)「もしこの前提が真であれば、結論は健全である」の「もしこの前提が真であれば」を受け入れておらず、条件を満たしていないように思えます。前提承認要求を拒否しているとも言えると思います。」

ご質問の前半部分について。

   「アンドリューは、幸福である」┣「アンドリューは健康ですか」

この場合、前提が成り立つならば、結論の問いは健全(真なる答えを持つ)であるので、妥当な推論です。

   「たいていの中国人は信用できない」┣「Aさん(中国人)は信用できますか」

この場合も、前提が成り立つならば、結論の問いは健全(真なる答えを持つ)であるので、妥当な推論です。

前提の「たいていの中国人は信用できない」はヘイトスピーチですし、この結論の「Aさん(中国人)は信用できますか」という質問もヘイトスピーチにあたると思います。この前提は偽だと思いまうが、前提が偽であるとしても、この推論は妥当な推論だと思います。例えば、「p, r┣s」という推論がある場合、これはp、r、sの真理値については何も語っていません。「もしpとrが真ならば、必然的にsが真となる」という関係を語っているだけです。

ご質問の後半部分について、

   (C1)「もしこの前提が真であれば、結論は健全である」

この(CI)は条件文の形をしています。一般に条件文は、前件が偽の時には、つねに真となります。したがって、この場合、前提が偽ならば、(CI)は常に成り立ちます。

したがって、

   「アンドリューは、幸福である」┣「アンドリューは健康ですか」

という推論において、前提が偽だとしても、この推論は妥当です。

#いちろうさんの質問6は次です

質問6 問いの前提となる平叙文にも更に問いがあるとするならば、問答というのは無限に連鎖しているということなのでしょうか。(問い1の前提としての平叙文1は、その平叙文1に着目するならば何らかの問い0の答えであり、更にその問い0には前提としての平叙文0が含まれており、その平叙文0は、何らかの問い-1の答えであり、問い-1にも前提としての平叙文-1が含まれており・・・・となるので。)
もしそうだとすると、p.30の1行目で「Q1はQ3に対して認知的有用性を保つ必要がない」と言っているのは重要なことだと思います。事実としては問答は無限に連鎖するけれど、認知的有用性の観点から、問答の分析としては、(三重や四重までは不要で)二重問答関係までを分析すればいい、ということになるので。」


ご指摘、その通りです。「事実としては問答は無限に連鎖するけれど、認知的有用性の観点から、問答の分析としては、(三重や四重までは不要で)二重問答関係までを分析すればいい」

わたしもこのように考えています。

気になるのは、もし問答が無限に連鎖するとしたら、最初の問答はどのようにして生じるのか、ということかもしれません。もし最初の問答が、知覚報告を答えとする問答でならば、例えば、Q「あれは何だろう」┣ p「蛇だ」、という問答推論によって成立し、これは平叙文の前提を含まないので、無限の連鎖はそこで止まります。あるいは、もし最初の問答が、欲求の報告を答えとする問答で、「何をしようか」┣「食べ物を探そう」、という問答推論によって成立しするならば、これもまた平叙文の前提を含まないので、無限の連鎖はそこで止まります。(この問題をさらに詳細に説明しようとすると、人類や個人における言語の発成を説明する必要があるとおもうのですが、ご承知の通りの難問ですので、とりあえずここまでとします。)

#いちろうさんの質問7は次です。

「質問7 p.81で実践的知識は実践的下流(問答)推論を持つ、という話のなかで述べていることは、p.6のアリストテレスの実践的推論の説明に基づくならば、「何をしているのか」の下流(問答)推論に〈ピストルを撃つという行為〉が含まれているということでしょうか。

 P.77のブランダムは「知覚報告は言語参入であり、行為は言語退出であると考えた。」の問題提起のうち、知覚報告は言語参入ではないことを丁寧に説明していると思いますが、行為が言語退出なのかどうかを説明いただけていないように思えます。」

ご質問の前半部分についての回答。

「実践的知識」というのは英語でも日本語でも多義的です。一つには、how to の問いへの答えを指します。つまり、自転車の乗り方のような知識です。一般的にはこれがよく知られた「実践的知識」かもしれません。これは「自転車に乗るにはどうした良いのか」という実践的な問いに対する答えであり、「・・・すべきだ」「・・・したらよい」というような形式や「…しよう」という形式の発話になります。最初の二つの場合は、行為を指示する発話であり、真理値を持ちません。最後のものは、事前意図を表明する発話であり、これも真理値を持ちません。実践的推論の結論は、真理値を持たない発話になります。

他方で「実践的知識」には、別の用法、つまりアンスコムのいう「実践的知識」があります。私たちは、行為をしているときに、「何をしているの」と問われたら、観察によらずに即座に、例えば「コーヒーを淹れています」のように答えられるのですが、この場合の「私はコーヒーを淹れています」という知をアンスコムは実践的知識と呼びます。これは、その時に話し手が行っている行為の記述であり、真理値を持ちます。このような実践的知識は、実践的推論の結論にはなりません。

p81の「実践的知識」とは、このアンスコムの言う意味の「実践的知識」です。意図的行為の場合、「何をしているのですか」と問われた、観察に寄らずに即座に「ピストルを撃っています」のように答えられるのですが、そこでさらに「なぜ、そうするのですか」と問われたとわれたら、即座に「Bさんを殺すためです」などのように理由を答えることができます。この人は、「Bさんを殺すためにどうしようか」と問い、実践的問答推論によって、答え「Bさんにピストルを撃とう」(事前意図)を得たのです。ここで、この人は、実践的知識「Bさんをピストルで撃つ」の下流推論(「Bさんをピストルで撃つ」┣「Bさんは死ぬ」)を行っています。結論「Bさんは死ぬ」を答えとする相関質問で、この推論によって答えを見つけることになるような問いには、いろいろなものがあるだろうと思います。例えば「Bさんはどうなるだろうか」という問いであるかもしれません。どのようなものであるにせよ、この結論は記述ですので、相関質問は理論的な問いでなければなりません。

ご質問の後半部分についての回答。

ブランダムは、行為は言語退出であるという考えるのですが、私はそう考えません(そのことが十分に明示的になっていなかったのかもしれません)。私がそう考えない理由は、行為は実践的知識や行為内意図を、不可欠な構成要素としており、言語的に分節化されたものだと考えているからです(「長所4:問答推論と行為」(pp.80-83)でそれを説明しました。

79 いちろうさんの質問への回答(1)(20220406)

[カテゴリー:『問答の言語哲学』をめぐって]

いちろうさん から2022年3月15日に沢山の質問をいただきました。丁寧に読んでくださり、ありがとうございました。少しずつそれに答えてゆきたいと思います。

#質問1は次の通りです。

「質問1 世界哲学の日のイベントでの朱さんの指摘は興味深かったです。
僕は、朱さんの指摘とその後の入江さんのブログから次のようなことを考えました。このような理解でよいのでしょうか。


①ブランダムはどこまでも推論にこだわり、認識を推論の中に取り込むことで、世界の認識という認識論的な問題を無効化しようとしている。(実際にはブランダムに要素主義的な残滓があり、不徹底だとしても。)
②入江さんは、推論で全体論的な大方針を示し、そのうえで要素主義的なアプローチも認めるという両面作戦を展開しようとしている。だから真理条件意味論的に真偽(妥当性・非妥当性)を判断することも認め、世界の認識(世界と言語の対応関係)のようなものを直接的に取り込むことができている。(入江さんは、ブランダムよりも、要素主義的なことをもう少し確信的にやっている。)」


入江の回答:

①について。たしかにブランダムは、ローティの認識論批判を継承しようとしているのだとおもいます。最近のブランダムは、おそらく認識論に代わるものとして、「概念実在論」を考えているのだろうとおもいます(A Spirit of Trust(『信頼の精神』)2019)。彼は、「概念実在論」で、客観的事実とは何か、それをどう考えるべきかについて、説明しようとします。(『問答の言語哲学』やその他の私の書くものには確かに要素主義的な残滓があり、それを注意深く取り除いていきたいと思っているのですが、ブランダムにもそのような残滓があるかどうかは分かりません。)

②について。デイヴィドソンは、語による対象の指示と見えるものは、実際には、その語を含む文の発話によって行われているので、語が対象を指示するということはないと考えます(デイヴィドソンの論文「指示なき実在論」)。私は語による対象の指示と見えるものは、文の発話ではなく、問答によって行われると考えます(例えば「マダガスカルはどれですか」「あれです」のように)。このような仕方で、言語の意味に関する要素主義を批判できるだろうと考えています。

 他方で、従来の意味の全体論は(ブランダムも含めて)、語の意味は文の中で成立し、文の意味は他の文との推論関係として成立すると考えているのですが、私は次のように考えたいと思っています。語の意味は問答の中で成立し、文の意味(あるいは、命題の統一性)は、問答関係として成立します。この問答関係は、何かに問い合わせることによって成立します。知覚報告を答えとする問答の場合、知覚に問い合わせます。より複雑な報告、例えば交通事故の原因の報告を答えとする問答の場合、多くの情報(道面の状況、他の自動車の状況、その自動車の状況、運転者の精神状況、など)の報告文に問い合わせて、それらを前提とした推論の結論として、事故原因の報告文を得ることになります。自問自答において、問いへの答えとしてある文を理解するとき、その文を理解することと、その文を真とみなすことは同時に成立しています。これが、文の理解の原初的なあり方だろうと思います。

 

#いちろうさんからの質問2は次です。


「質問2 関連しますが、勝手な先読みかもしれませんが、入江さんは朱さんに対して、自分のアイディアは問答主義ではなく問答推論主義だ、と応じていられましたが、もし僕の理解が正しいとすれば問答主義でもいいような気がします。なぜなら入江さんはブランダムの規範的語用論と推論的意味論という二つのアイディアの間にも、相互依存性というか問答性のようなものを読み込んでいるように思えるからです。(入江さんがやっている全体論と要素主義の両面作戦とは、問答的な両面作戦でもあるということです。)もしそうだとしたら、問答というアイディアは推論というアイディアを大きく超えてしまっているような気がします。そのあたりは僕の誤読でしょうか。」

入江の回答:

大変好意的に捉えていただいてありがたいです。私は「問答推論主義」という用語について、推論は問いに対して答えるプロセスとして成立するという立場から、(ブランダムに限らず)推論主義が主張されている場合には、それを「問答推論主義」として捉えなおせると考えています。これに対して、「問答主義」という語の使い方については、まだ迷っています。

  「問答主義」という語を、問答推論主義をも含むものより広い意味で用いるようになるかもしれません。問答関係は多くの論点で重要な働きをしています。指示を可能にするのは問答です。命題の統一を可能にするのは問答です。発語内行為を可能にするのは問答です(この場合には、ブランダムが「命題主義」と呼んだものに対する対案として「問答主義」を使うことになりそうです)。推論に統一を与えるのは問答です。(これらは、『問答の言語哲学』で不十分ながら示したことです。次は次の本で示したいことです。)知識と呼びうるのは、問答です。真理は、問答関係の性質です。事実は問答関数です。

いちろうさんからの質問3は次です。

「質問3 ブランダムにも共通するのかもしれませんが、上流(問答)推論と下流(問答)推論の区別について、ちょっとイメージがわかないところがあります。上流推論は既に行われた推論なので、イメージがわくのですが、下流推論はこれから行う推論なので、その発話された時点では、下流推論は、まだ存在しない、行われていない推論ということのように思えます。推論の妥当性を判断するためには上流推論と下流推論の両方を参照する必要がある場合、その妥当性はいつ決定するのでしょうか。下流推論が実際に行われてからでしょうか。
なお、この疑問は、推論が問答推論に拡張されることで、より明確になるように思います。例えば次のような例では、発話Bの妥当性は、発話Aの適切な答えになっていること加え、発話CDという適切な問答を引き出しているという点にも依拠していると言えると思います。この場合、発話CDが終わるまでは、発話Bが妥当なものだったかどうかはわからない、ということになるのでしょうか。

(土曜の朝の夫婦の会話)

A妻 「明日はどこに行きますか。」

B夫 「明日は雨です。」

C妻 「明日、美術館は閉館日ですか。」

D夫 「明日は、美術館は開いているから、美術館に行きましょう。」

(以上は適切な場合だが、C「テレビの天気予報なんて見てないで、ちゃんと私の話を聞いて、明日のお出かけの計画を立ててよ。」という展開がありえ、この場合はBの発言は不適切なものになりうる。) 」

入江の回答:

ブランダムによれば、ある発話の意味を理解するとは、その発話の正しい上流推論と正しくない上流推論、正しい下流推論と正しくない下流推論を判別できる能力を持つということです。したがって、実際に行われた発話を理解するときに、その発話の現実に行われた上流推論とその後行われるであろう下流推論を理解することではないのです。現実に行われた推論またこれから行われるであろう下流推論も含めて、それら様々な可能な推論を正しいものと正しくないものに判別する能力がある、ということなのです。私が、発話の意味を上流と下流の問答推論関係で説明するときも、同様です。(これで疑問の解消になっているとよいのですが)。

ご質問後半のA、B、C、Dという会話の部分は、「会話の含み」の問題になり、それについては二重問答関係で説明出来ると考えています(参照、『問答の言語哲学』第二章「2.3会話の含み」)。

05 平和のための軍事力の放棄(20230405)

カテゴリー:平和のために]

 社会制度(社会的ルールと社会的組織)は、社会問題の解決策です。国家は、社会的組織の一つであり、戦争は国家による問題解決策の一つとみなされています。

 国家は、問題解決策としての暴力を国内で禁止します(これが国家が解決すべき中心的な社会問題(万人の万人に対する争いを防いで、どのようにして個人の安全を保障するか)とその解決策です)。国家はそのために暴力装置を独占します。しかし、国家には、国家にだけ認められている暴力装置を用いて、国家間の問題解決策の一つとして戦争を行うことが可能です。

 どのようにして国家間の問題解決策としての戦争を防ぐかといえば、戦争に代わる問題解決策を採用するしかありません。戦争のきっかけになりそうな国家間の問題には、次のようなものがあります。領土問題、他国の軍事的脅威の問題、資源の奪い合い、経済競争、など。戦争によらずにこれらを解決するには、話し合いしかありません。利害の対立を、話し合いで解決するにはギブアンドテイクによる妥協が必要です。しかし、妥協が成立するとは限りません。その場合には戦争の可能性が残ります。戦争を防ぎ、永遠平和を構築するには、国家が軍事力を持つことを禁止するしかないでしょう。

 それを明文化したものが、日本国憲法9条です。

「第9条 日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。 2 前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。 の交戦権は、これを認めない。」

Article 9. Aspiring sincerely to an international peace based on justice and order, the Japanese people forever renounce war as a sovereign right of the nation and the threat or use of force as means of settling international disputes. In order to accomplish the aim of the preceding paragraph, land, sea, and air forces, as well as other war potential, will never be maintained. The right of belligerency of the state will not be recognized.

永遠平和のためには、軍事力の放棄を国際法として実現することが必要ですが、それをどうやって実現したらよいのでしょうか。

15 「生存価値」の問答論的論証 (20220327)

[カテゴリー:哲学的人生論(問答推論主義から)]

前回曖昧でしたが、次の二つは異なります。

①人は生きている限り、何か価値のあることをし始める可能性をもつので、人が生きていることは価値がある。(この場合には、人が生きていることに価値があるのは、その人がすることに価値があるからです。この価値を「メタレベルの能力価値」と呼ぶことができます。)

②人が生きているだけで価値がある。(この場合には、人は、その人がすることに価値がある(何かの役に立つ)のでなくても、生きているだけで価値がある、という意味です。この価値が「生存価値」です。)

この①と②は異なります。人は自由であることによって、「メタレベルの能力価値」を持ちますが、また自由であることによって「生存価値」を持ちます。「自由であること」が「生存価値」であると言いたいのですが、それをどう説明したらよいでしょうか。

この説明のためには、「自由であること」を定義し、「人は自由である」と「自由であることは価値がある」を証明しなければなりません。ここで次のような問答論的な超越論的論証が可能であるかもしれません。

まず、「自由であること=問答ができること」と定義します。

次に、「人は自由である」を次のように証明します。「あなたは自由ですか」という問いに「いいえ自由ではありません」と答えることは、「あなたは問答できますか」と言う問いに「いいえ問答できません」と答えることが問答論的矛盾になるので、「はい私は問答できます」という答えが問答論的に必然的な答えになります。

次に、「自由であることは価値がありますか」という問いに「いいえ自由であることには価値はありません」と答えることは、「問答することに価値がありますか」という問いに「いいえ問答することに価値はありません」と答えることになります。ここで「人が行為するときには、その行為に価値があると見なしている」を仮定するならば、「いいえ問答することに価値はありません」は問答論的矛盾になるので、「はい問答することに価値があります」という答えが問答論的に必然的な答えになります。したがって、「自由であることは価値がありますか」という問いには、「はい自由であることには価値があります」と答えることが問答論的に必然的な答えになります。

ここで残る課題は、次の定義と仮定を証明することです。

定義「自由であること=問答ができること」

仮定「人が行為するときには、その行為に価値があると見なしている」

14 「生存価値」と「能力価値」 (20220325)

[カテゴリー:哲学的人生論(問答推論主義から)]

「すべての人は生きているだけで価値がある」と主張したいのですが、どうしたらそれを証明できるでしょうか。生きているだけで成立するこの価値を「生存価値」と呼ぶことにします。

 「人生の価値」は、ここにいう「生存価値」以外にもあるだろうと思います。たとえば、サッカー選手の人生は、サッカー少年にとっては価値があるでしょう。容姿端麗の人の人生は、面食いの人には価値があるでしょう。ある小説を書いた人の人生は、その小説に感動した人にとっては価値があるでしょう。これらの価値は、人がある性質を持っていたり、ある行為をしたために持つ価値であり、「生存価値」ではありません。このような価値を「能力価値」と呼びたいと思います。これは何かの目的のための手段としての価値です。したがって、そのような(性質や行為の)能力は、その目的を自分の人生の目的とする人にとって、価値を持つのです。

 前回述べたように、ある人の「人生の価値」は、常に誰かにとっての価値です。したがって、ある人の「生存価値」もまた、常に誰かにとっての「価値」です。しかしそのことは、ある人の「生存価値」が、全ての人にとって「価値」であることと矛盾しません。そして、全ての人が、全ての人にとって、「生存価値」を持つ、と言うこととも矛盾しません。私が主張したいこと「すべての人は生きているだけで価値がある」ということは、「全ての人が全ての人にとって生存価値を持つ」と言うことです。では、それをどう説明したらよいでしょうか。

 生きている人には、常に未来の可能性が開かれています。したがって、どんな人も、たとえ今まで何の能力価値も持たないとしても、つまりいままで価値の或る性質を持たず、価値の或る行為をしたことがなくても、将来そうなる可能性はあります。その意味では、全ての人は、生きている限り、何らかの能力価値をもつ可能性があります。その能力価値がどんなものになるか分からない以上は、全ての人は全ての人にとって価値がある可能性があります。したがって、どんな人も、その人が生きることは、全ての人にとって、価値がある可能性があります。

 この<何らかの能力価値を持つ可能性をもつ>という能力は、特定の内容を持たない抽象的な能力ですが、しかし具体的な能力を持つための不可欠な能力です。それは<自由である>ということではないないでしょうか。

 次に、この意味での<自由である>ということが、全ての人が持つ「生存価値」であるということを説明したいと思います。

13 人生の意味と目的と価値の区別について (20220324)

[カテゴリー:哲学的人生論(問答推論主義から)]

(今回から数回にわたって、ウクライナの戦争犠牲者のことを思いつつ、「人は生きているだけで価値がある」ということを説明したいと思います。)

前に(10回)人生の意味と人生の目的を区別して、次のように理解することを提案しました。

「ある人の人生の意味」とは、「その人がしてきたことの上流推論と下流推論の総体」です。

従って、ある人の「人生の意味」について、その人自身が特権的にアクセスできるのではありません。

「ある人の人生の目的」とは、その人が「私は何のために生きるようか」とか「私はなにをしようか」と自問して、それに与える答えです。

従って、ある人の「人生の目的」については、その人自身が特権的にアクセスできます。

ある人の「人生の価値」とは、このような「人生の意味」「人生の目的」とは区別されるものです。あるものの価値とは、常に誰かにとっての価値です。したがって、「ある人の人生の価値」もまた、常に誰かにとっての価値です。例えば、Xさんの人生の価値は、Xさんに自身にとっての価値や、Xさんの子供にとっての価値や、Xさんの友人にとっての価値や、Xさんのライバル会社にとっての価値や、Xさんと無縁のある国Rのある人Pさんにとっての価値であったり、します。

従って、ある人の「人生の価値」は、その人自身が特権的にアクセスできるものではありません。この点で「人生の意味」と似ています。ただし、多くの人が理解するある人の「人生の意味」は多様であっても、それらを含めるしかたで、その人の「人生の意味」が成立するのに対して、ある人の「人生の価値」は、さまざまな人や組織にとって、それぞれ多様であり、しかも、それらの多様な「人生の価値」が合わさって、その人の最終的な「人生の価値」を構成するということもありません。

 「Xさんの人生の価値」は、常に誰かにとってのものであり、その誰かが異なれば、それは異なるものなのです。

 

 次に、このような「人生の価値」の理解から出発して、「人は生きているだけで価値がある」ということを説明したいと思います。

71 ブランダム=ヘーゲルとフレーゲ (20220322)

[カテゴリー:問答の観点からの認識]

(体調を崩してしまい更新が遅れてしまいました。今は元気です。)

ブランダムは、フレーゲが論文「思想」で「事実は真なる思想である」と述べたことを高く評価します。フレーゲは、ここで確かに、事実を思想として捉えています。しかしその後フレーゲは、事実と思想の同質性を追求していません。そのことをブランダムは批判します。これに対して、ブランダムは、事実と思想の同質性を追求します。

 ブランダムは、フレーゲのこのSinnとBedeutungの区別を、ヘーゲルの<物が意識にとってあるあり方>と<物がそれ自体であるあり方>の区別に対応させて理解します。ブランダムは、Sinn(意義)とBedeutung(指示対象)の同質性を主張しますが、その同質性とは、それらが共に概念的であるということです。つまり、Bedeutungが概念的であるとは、物がそれ自体であるあり方が概念的であること、つまりそれが他のあり方と両立不可能性および論理的帰結の関係にあるということです。Sinn が概念的であるとは、物が意識にとってあるあり方が、同じような意味で概念的であるということです(ブランダムは、フレーゲのSinnとBedeutungの解釈について、『信頼の精神』の第12章で詳しく説明しています)。

ヘーゲルは『精神現象学』の「緒論」で、知の吟味のプロセスを説明する箇所で、対象についての知が変化すれば、対象そのものも変化すると論じています。ブランダムもまた、これを継承して、物が意識にとってあるあり方が、変化すれば、物がそれ自体であるあり方も変化すると考えますが、彼はこのことを、おそらくこの二つが相互的な意味依存の関係にあるということから説明するのです。フレーゲの用語を使うならば、Sinnが変化すれば、Bedeutungが変化するということになります。ブランダムは、SinnとBedeutungについて、またこれらの関係について全体論的に考えるのに対して、フレーゲと新フレーゲ主義が原子論的に捉えている点を批判します(Robert Brandom, A Spirit of Trust, Harvard UP.,  p.426)。

ブランダムのヘーゲル解釈については、私はまだ勉強不足なのですが、しかし、フレーゲが「事実は真なる思想である」と言ったことを引き継いで、ブランダムが、事実と思想の同質性を追求するとき、事実を客観的に不動のものとしてではなく、思想が変化すればそれに応じて変化するものとして理解していることが解ります。つまり、ブランダムの概念実在論は、クワインが想定していたような事実についての科学理論の変更可能性を想定しているのです。その限りで、概念実在論は、事実を問答関数として理解することと両立可能であると考えます。

70「問答関数」論への予想されるフレーゲからの反論(20220315)

[カテゴリー:問答の観点からの認識]

前に(59回で)説明した「問答関数」とは次のようなものでした。

ブランダムの「概念実在論」は、客観的事実(fact)ないし事態(state of affairs)が概念的に構造化(ないし分節化)されていると考えます。事実は確かに、それと両立不可能な他の事実がなければ、一定の規定性をもちません。またある事実は、それから帰結する他の事実がなければ、一定の規定性をもちえません。このような概念的構造(推論的関係)は、無限に多様な仕方で語ることができます。クワインがいうように言語や理論が異なる時、それらは互いに矛盾するかもしれません。そこで、事実そのものが概念構造(推論的関係)を持つのではないと考えた方がよさそうです。つまり、事実が、「これはリンゴである」あるいは「これはリンゴであり、ナシではない」という概念構造を持つのではなく、事実は「これはリンゴですか?」と問われたら「はい、これはリンゴです」という答えを返し、「これはナシですか?」と問われたら「いいえ、これはナシではありません」という答えを返す関数である、と考えた方がよさそうです。

 <事実とは、ある問いの入力に対して、ある答えを出力する関数である>と見なすことができます。そして、このように問いを入力として答えを出力とする関数を「問答関数」と呼ぶことにしました。

 事実をこのような「問答関数」とみなすことは、フレーゲの関数理解とは矛盾します。なぜなら、フレーゲによれば、関数とは、不飽和なものであり、完結したものである固有名と結合することによって、はじめて完結した意義と指示対象を持つのです。関数は、不飽和なものであり、それに結合する引数(入力)とその結合から結果する値(出力)は完結したものなのです。それに対して、問答関数において入力となる問いは、それ自体では真理値(また適切性)を持たない不飽和な表現だと考えられるからです。(ただし、出力となる文は、真理値(また適切性)をもつ完結したものです。)

また、フレーゲならば、事実を不飽和なもの(関数)とみなすことにも反対しそうです。

 フレーゲのこの反論は、関数を、完結したものを入力として必要とする不飽和なものという理解に基づいています。しかし、関数については、他の理解もありえます。例えば、ラッセルは関数を、1対多(1対1を含む)の関係として捉え、不飽和な表現とは考えません。

 フレーゲが、関数(述語)を不飽和なものとして理解したのは、完結した記号が並ぶだけでは、完結した記号を構成できないと考えたからです。完結した記号が集まって一つの完結した記号を作るには、接着剤が必要であり、それが不飽和な関数(述語)だと考えたのです。それに対して、私は<命題を統一するのは、問答関係である>と考えたいと思います。

 述語の基底的な部分が、フレーゲの言う意味で不飽和であるように見えます。しかし、それは問いを構成するために必要なのです。「フクロウは飛ぶ」を前提して「フクロウはいつ飛びますか」と問うために、必要なのです。この問いは「フクロウはいつ飛ぶことをしますか」といい換えられます。この言い換えによって「をしますか」という述語の基底的な部分を明示化できます。この基底的な部分は、「飛ぶこと」と結合しますが、また「夕方に」という返答と結合します。私たちは、ある文について、さらに様々な条件を問う子ことができますから、述語の基底的な部分は、あらかじめ決められた一定の項をもつ関数であるとはいません。問いと答えの関係が、答えを統一性を持つ完結した表現にするのです。答えとなる表現が、統一性を持つのは、それが問いに対する答えとして理解されることによってです。その意味では、命題の統一性は、それが問いの答えとして理解されることによってあり、命題の統一性は、問答の統一性に基づいています。(その意味で、問答こそが、言語的意味および言語行為の最小単位であると言えそうです。)

 ブランダムの「概念実在論」は、上記のクワインからの予想される反論に対して、おそらく、事実の概念的構造を常に修正に開かれているものとして主張すると思われます。概念実在論をそのように理解するとき、それは事実についての「問答関数」論と両立するかもしれません。

 この点を明らかにするために、ブランダムが、新フレーゲ主義について論じている点を確認しておきたいとおもいます。

69 前々回と前回に述べたことの再考(20220313)

[カテゴリー:問答の観点からの認識]

ここでは、前々回述べた<命題を統一するのは、問答関係である>ということと、前回述べた<述語の核心的な部分を問うことはできない>ということを、それぞれ再考し、その上で両者の関係を考えたいと思います。

#<命題を統一するのは、問答関係である>について再考

前々回には、デイヴィドソンにならって「命題を統一するのは何か」という問題を設定し、この問題に対するフレーゲ的な回答「不飽和な述語によって、命題は統一化される」が不十分であることを示し、「命題を統一化するのは問答関係である」という答えを提案しました。この問題設定が「命題は文未満表現の意味からどのようにして合成されるのか」という問い、つまり「合成性」の問題と同じものとみなすのなら、この問題設定は、推論的意味論を採用する者にとっては、不適切です。なぜなら、「合成性」の問題は、原子論的な意味論を想定していますが、推論的意味論は全体論的意味論を採用するので、このような問題設定を認めないからです。

 以前にこれを論じたとき(カテゴリー「『問答の言語哲学』をめぐって」の56回、57回の発言)に述べたように、私は、語の意味から出発するのでなく、また命題の意味から出発するのでもなく、それらの成立を問答関係から説明すべきだと考えます。

 問答推論的意味論では、命題の意味は、それの上流問答推論関係と下流問答推論関係によって/として成立すると考えます。従って、命題の統一も、それがこれらの問答推論関係に立つことによって成立すると考えます。<命題を統一するのは、それを答えとする問いとの問答関係である>というのは、この問答推論関係の一部を明示化しものだと言えます。

 ちなみに、疑問文の統一は、(疑問文の意味と同じように)、その疑問文の上流問答推論関係と下流問答推論関係によって説明されることになります。これは、次のことと関係しています。

 

<述語の核心的な部分を問うことはできない>について

 前回は、<述語の核心的な部分を問うことはできない>ということを事実として確認しました。しかし、なぜそうなるのかを説明しませんでした。これを考えたいと思いますが、「核心的な部分」というより、「基底的な部分」と言う方が適切だと思われるので、このように言い換えることにします。

 問いが成立するとは、それが他の命題や問いと問答推論関係に立つということです。問いが、問答推論的関係に立ちうるためには、問いが健全である(真なる答え/適切な答えを持つ)必要はないのですが、健全であり得ることが必要です。なぜなら、問答推論関係が妥当であるとは、前提の問いが健全であり、平叙文の前提が真であるならば、平叙文の結論が真なる答えである、と言うことだからです(ただし、結論が問いになる場合には、別の説明が必要になります)。

 問いが健全なものでありうるためには、それが問いであると理解できなければなりません。「である」や「をする」のような「述語の基底的な部分」を問う問いが、仮にあったとしても、述語の基底的な部分が欠けていれば、それが問いであるかどうかすら不確定です。もしそのような基底的な部分が欠けていれば、語の列は最終的に疑問文になるのかどうか、また肯定疑問文になるのか否定疑問文になるのかどうか、これらも不確定になるでしょう。

 問いが健全であるためには、それが真なる答え(記述や主張)を求める問いであるのか、適切な答え(命令や約束や宣言など)を求めるであるのかを理解できなければなりません。問いは、答えの発語内行為を決定しています。答えの発話は、サールが整理したような様々な発語内行為をおこないます。答えがどのような発語内行為を行うかは、すでにその相関質問によって決定されています(このことは『問答の言語哲学』の第三章で説明しました)。問いは、答えの命題内容に関して、答えの半製品ですが、答えの発語内行為に関しても、答えの半製品です。答えの述語の基底的な部分は、問いにおいて与えられており、答えはそれを継承するからです。問答が、事実に関するものである場合、答えが主張型発話になることは、問いによってすでに決定されているのです。問いが問いになるためには、答えにどのような発語内行為を求めるかを示す必要がありますが、それを表示するのは、述語の最も基底的な部分になると思われます。

以上のように、前々回述べたことは命題についての問答推論的意味論からの帰結の一つであり、前回述べたことは、疑問文についての問答推論的意味論からの帰結の一つです。この二つは共に問答推論的意味論からの帰結です。

次回は「問答関数論」論への反論を検討したいと思います。