[カテゴリー:問答の観点からの認識]
次の「錯覚論証」を批判するにはどうすればよいでしょうか。
①真正な知覚と、錯覚や幻覚は、区別できない
②ところで、錯覚や幻覚は、実在とは異なる主観的な表象である。
③それゆえに、正常な知覚も、実在とは異なる主観的な表象である。
①と②を批判することは難しいのですが、①と②を認めても③が帰結しないようにすればよいのです。
野矢茂樹は、『心という難問』(講談社)で錯覚論法を次の四段階で説明しています。
a 錯覚ないし幻覚を経験しているのに知覚だと思ってしまうことがありうる。
b それゆえ、知覚と錯覚・幻覚は同じ種類の経験である。(同種性テーゼ)
c 錯覚・幻覚において経験されているのは知覚イメージである。(錯覚・幻覚のイメージテーゼ)
d bとcより、知覚において経験されているのも知覚イメージである。(知覚のイメージテーゼ)
(野矢氏は、abcdではなく、①②③④を使っているのですが、私が前回うっかり①②③を用いてしまったので、野矢氏の方をabcdに換えさせてもらいました。)
野矢氏がbを挿入したのは、aとcを認みとめても、bを批判すればdが帰結することを防ぐことができるからです。aを認めてもbを認めないということは、<真正な知覚と錯覚や幻想を区別できないことは認めるが、しかしそのことからそれらが同種の経験であるということ(同種性テーゼ)は必ずしも帰結しないということ、また実際にそれらは異種な経験である>と主張することです。
オースティンが言うように、次のような「奇妙な一般原理」は成り立たないのです。
「もし二つの物が「種的に同じ」、「本性上」同じでないならば、両者が似ていることはありえないし、ほぼ似ていることさえあり得ない」(オースティン『知覚の言語』丹治信春、守屋唱進訳、勁草書房、79)
確かにこの原理は成り立たないでしょう。野矢さんが引用し、オースティンが挙げている例でいうと、レモンと石鹸が区別できないとしても、それらが同種のものであるということにはならないでしょう。(確かに昔、レモンの色と形と香りを持つ石鹸がありました。あの石鹸は今もあるのでしょうか。)
この批判は、説得力があるとおもいます。したがって、<真正な知覚と錯覚や幻想が区別できないとしても、それらは異種の経験である可能性がある>ということは正しいだろうと思います。
しかし、そこからさらに踏み込んで、それらが異種の経験であるというには、別の論拠が必要です。
それは何でしょうか。