98 語「赤い」の定義について (About the definition of the word “red” (20231223)

[カテゴリー:問答の観点からの認識]

語「赤い」を定義するには、「語「赤い」を次のように使用することにする」と宣言して、いくつかの対象について「これは赤い」と宣言し、いくつかの対象について「これは赤くない」と宣言し、「このような仕方で「赤い」を使用することにする」と宣言すればよいでしょうか。

 語の学習が、同時に語が表示する対象の学習になるように、語の定義は、同時に語が表示する対象の定義になります。定義には、真理値がないとしても、その後のその語の使用は真理値を持つ場合があります(真理値を持たない発話もあります)。新しい対象について「これは赤いですか」「はい、これは赤いです」という問答の答えが真であるとは、定義の時に使用された諸対象の性質と、現在の対象の性質が類似しているということでしょう。

 この「赤い」の定義は、学習によって他の人々に共有されます。ちなみに、語「赤い」を学習するための問答「これは赤いですか」「はい、これは赤いです」の答えは真である必要があります。しかし、語「赤い」の定義のために、ある対象について「これは赤い」と語る時の、「これは赤い」は、記述ではなく、語の正しい使用の設定であるので、真理値をもちません。 学習の時の「これは赤い」は「「これは赤い」は真である」と同値ですが、定義の時の「これは赤い」は「私は「これは赤い」を真と設定する」と同義です(同値ではありません。なぜなら同値であるためには真理値をもつ必要があるからです)。

 このように知覚報告の「これは赤い」の真理性は、遡れば語「赤い」の定義に基づくのですが、しかし、定義だけに基づくのではありません。私たちは、「赤い」の定義を変更でき、定義を変更すれば、「これは赤い」が真となる対象もまた変化します。しかし、定義を変更しない限り、(その他の条件が同じならば)「これは赤い」が真となる対象が変化することはありません。定義を変更していないにも関わらず、「これは赤い」が真となる対象が変化したとすると、それは個別の対象の側が変化したのだと考えられます(例えば、対象が時間経過とともに色褪せたとか、対象にあたる光が変化したとかです)。

 つまり、ある対象について「これは赤い」が真であることは、対象が変化しない限り変化しないということです。対象が変化したかどうかは、文の真理値が変化したかどうかで判定できます。対象が変化するとは、その対象を記述する何らかの文の真理値が変化するということです。

  文の真理値の変化対象の変化 の「置換表象」(ドレツキの言う意味での)になっています。

・逆にいえば、文の真理値が変化しないことは、対象が変化しないことを示しています。

・文の真理値が変化しても変化しなくても、文が真理値をもつということは、その文が指示している対象が変化しても変化しなくても、その対象は存続しているということです。

・対象が実在するということは、その対象についての記述が真理値を持つということである。

・文が真理値を持つとは、その文を答えとする問いを立てるのは自由だが、その問いにどう答えるべきかは決定されている、ということである。

・対象が実在するということは、その対象についての記述が真理値を持つということである。

次に、定義が、宣言型発話の一種であることを考察します。

97 問いに対する答えが真であるとはどういうことか(What does it mean for an answer to a question to be true?)(20231221)

[カテゴリー:問答の観点からの認識]

93回と94回では、問いの答えを知覚に依拠して得る場合と、推論によって得る場合を区別しましたが、ここではこの区別について再考したいとおもいます。以下に見るように、問いの答えを知覚に依拠してえる場合にも、私たちは推論を行っていると思われます。(問いに答えるときには、常に何からの推論が行われているだろうと予測します。ただし、問いに答える場合を、知覚に依拠する場合と、知覚に依拠しない場合に区別することはできると考えます。)

例えば、「これは赤いですか」と問われて「はい、それは赤いです」と答えるとき、私たちは、「赤い」を学習したときの事例の知覚断片と、ここでの「これ」や「それ」が指示する対象の知覚断片の類似性にもとづいて答えています。この場合ここでの「それは赤いです」という答えの真理性は、学習時の事例の知覚断片およびそれとの類似性からの推論に依拠しています。(ただし、この推論は、通常の言語的な推論つまり命題関係としての推論ではありません。いずれ考察する予定です。)

ここでの問いの答え「それは赤いです」の真理性は、

・これは赤い」を学習したときのその真理性、

・その時の知覚断片と現在の知覚断片の類似性、

・これらからの推論の妥当性、

に基づいています。

*まず、「これは赤い」を学習したときのその真理性について、考えてみましょう。

 子供が「これは赤いですか」と問い、大人が「これは赤いです」と教えたとしましょう。このとき大人は誠実な人であり、「これは赤い」が真であると信じて答えているとします。このとき、「これは赤い」が真であるとはどういうことでしょうか。

 このとき、その大人に「あなたはなぜこれは赤いと考えるのですか」「あなはなぜ「これは赤い」が真であると考えるのですか?」と問うならば、大人は「なぜなら私はそのように教わったからです」と答えたとしましょう。その大人は、それとよく似た対象をもとに、「これは赤い」が真であると教わったのです。「これは赤い」と教えた人に教えた人に教えた人に…、というように遡っていけば、「これは赤い」を最初に使った人に行き着くでしょう。その人は「これは赤い」ということを教わったのではなく、ある対象について「これは赤い」を真だということにしましょうと提案したのです。そして、その提案が受け入れられ、それが次々に継承されて、ここでの子供による「これは赤い」の学習につながっているのです。

 このような連鎖が可能であるとするとき、「これは赤い」の最初の提案(定義)が真であるとはどういうことでしょうか。  定義に真偽の区別はあるのでしょうか。<定義としての「これは赤い」の相関質問は、理論的問いではなく、実践的問いである>と思われます。実践的問いの答えは、記述ではなく、したがって真偽の区別はなく、自由な決定だと思われます。これについて次に考えたいと思います。

94 問いに対する推論による答えの正当化(Justifying the answer to the question by reasoning) (20231128)

[カテゴリー:問答の観点からの認識]

#問いに対する推論による答えの真理性の正当化について

*実質推論の学習と実質問答推論の学習

語や原初文の学習が規約の学習として成立するが、原初的な推論の学習には、規約の学習として成立する場合とそうでない場合があります。他の推論に依拠しない原初的な推論を「実質推論」と呼ぶことにします。「実質推論」もまた、問いに答えるプロセスとして成立し、暗黙的な相関質問をもちます。「実質推論」は、暗黙的な「実質問答推論」です。暗黙的な相関質問を明示化すると、明示的な「実質問答推論」となります。

*推論の基礎p→r

推論の基礎は次の推論規則MPです。

p、p→r┣r

これの基礎はp→rという命題です。p→rは、pが成立したら、rが成立するという関係にあるということです。MPの正当化を考える前に、ここではp→rという形式の条件文や信念はどのようにして生じ、正当化されるのかを考えたい。p→rの信念は、次の種類に分けられるます。これらがどのようにして生じるのかを考察しよう。

(1)論理関係がその一つである。

「これはリンゴである」→「これは果物である」

「全てのカラスは黒い」→「このカラスは黒い」

    「これはリンゴである」→「少なくとも一つリンゴがある」

           「これは果物ではない」→ 「これはリンゴではない」

    「このカラスは黒くない」→「全てのカラスが黒いのではない」

    「リンゴは一つもない」→「これはリンゴではない」

(2)因果関係がその一つである。

    「雨が降る」→「道路が濡れる」

    「道路が濡れていない」→「雨が降っていない」

  • の論理関係は、概念間の無時間的概念関係です。この無時間的概念関係は、規約に基づくものであり、規約が変化しない限り変化しない確実な関係である。この論理関係の学習は、次のように行われるでしょう。

「リンゴ」の学習は、「これはリンゴですか」「はい、これはリンゴです」「いいえこれはリンゴではありません」などの正しい問答を何度も教えられて、新しい対象について「これはリンゴですか」と問われたときに、正しく答えられるようになった時に完了すると説明しました。このとき、リンゴとリンゴでないものの区別ができるようになっています。

同様にして「ナシ」を学習したとしましょう。。このとき、「あるものがリンゴでありかつナシであることはない」ということは、「リンゴ」「ナシ」の学習を終えている者には、「リンゴ」と「ナシ」の意味から推論できます。「リンゴでありかつナシであるものはない」や「リンゴであるものはナシではない」「ナシであるものはリンゴではない」は、「リンゴ」と「ナシ」の意味に基づいて推論され、正当化されることになるでしょう。

次に、「これがリンゴであるならば、これは果物である」という条件法について考えてみます。これを全称命題に変形したものが「(全ての)リンゴは果物である」という命題になります。これらの認識の発生について考えてみましょう。

「果物」という語の学習はどのように行われるのでしょうか。一つの可能性は、「リンゴ」の学習と同様に、多くの対称について「これは果物ですか」「はい、これは果物です」「いいえ、これは果物ではありません」という問答を学習して、未知の対象についての「これは果物ですか」という問いに、正しく答えられるようになるということです。この場合は、「リンゴは果物である」は(「リンゴはナシでない」の場合と同様に)、「リンゴ」と「果物」の意味に基づいて推論され、正当化されます。

もう一つは、「木や草になる間食用の果実」などの、定義によって、「果物」という語の意味を学習することです。これは、定義に用いられる語の学習を前提としますが、それを前提できるとします。この場合、「リンゴは、木や草になる果実である」と「リンゴは、間食用である」が言えれば、「リンゴは、木や草になる間食用の果実である」が推論でき、そこから「リンゴは果物である」が推論できます。

「リンゴは、木や草になる果実である」は、「リンゴは、木になる果実である」から推論できます。「リンゴは、木になる果実である」は、対象<リンゴ>が性質<気になる果実である>をもつこと(木になっていること)を経験によって知ることによって正当化できます。

「リンゴは間食用である」は、(「間食用」を学習済みであるとすると)対象<リンゴ>が性質<間食用>をもつこと(間食に食べられていること)を経験によって知ることによって正当化できます。

次に、p→rが(2)因果関係を表示する場合を考察したいと思います。(MPの正当化の説明は、そのあとになります。)