140 事実に関する記述的問答の下位区分 (Subdivision of factual descriptive questions and answers) 20250119

[カテゴリー:問答の観点からの認識]

#事実に関する記述的問答の下位区分

前回、答えが真理値を持つ問答を「記述的問答」とし、記述的問答の中で規範的語彙を含まない問答を「事実に関する記述的問答」と名付け、今回はその下位区分を行うと予告しました。様々な下位区分の方法があるので、どのように整理するか、未だに迷っています。(更新の頻度を上げるつもりが、まったく上げられずすみません。)

(後で訂正することになる可能性がありますが)今回、とりあえずの下位区分を説明したいとおもいます。まず、<問答の答えが単称命題になる問答>と<問答の答えが全称命題になる問答>を区別できると思います。よく使用される表現で言えば、「観察的問答」と「理論的問答」に対応します。

(1)観察的問答:単称命題を答えとする記述的問答

知覚に問い合わせて答える問いを「知覚的問い」と呼び、その答えを「知覚報告」と呼ぶことできるでしょう。知覚報告を答えとする問答を知覚的問答と呼ぶことができます。この知覚報告は、単称命題になります。

これと同様に、観察に問い合わせて答える問いを「観察的問い」と呼び、その答えを「観察報告」と呼ぶことができます。ただし、何が観察可能であるかは、人によって、文脈によって異なります。例えば、レントゲン写真を見て、医者は肺癌を観察するかもしれませんが、素人にはそれを観察することができません。医者のその観察には、多くの経験や知識が前提となっています。カルナップが言うように、観察可能なものと観察不可能なものの間に一義的な境界線を引くことは困難です。観察報告を答えとする問答を「観察的問答」と呼ぶことができます。

 例えば、「これはバラ科ですか」という問いに、「これはリンゴです」「リンゴは、バラ科です」ゆえに「これはバラ科です」と答える場合、「これはリンゴです」という前提は、観察に問い合わせています。ただし、ここでは「リンゴはバラ科です」という全称文(理論文)にも問い合わせています。

とりあえずまとめると、観察的問答には、つぎのような場合があります。

知覚的問答:(知覚に問い合わせる問い、その答えは知覚報告となる。)

知覚に問い合わせて、単称命題(知覚報告)が答えとなる場合

知覚報告に問い合わせて、単称命題(観察命題)を答えとして推論する場合

観察報告に問い合わせて、単称命題(観察命題)を答えとして推論する場合

理論命題に問い合わせて、そこから観察命題を推論する場合

観察報告と理論命題の両方に問い合わせて、観察命題を推論する場合

(2)理論的問答:全称命題を答えとする記述的問答

全称命題を答えとする問答は、全称命題を理論的な命題だとするならば、全称命題を答えとする問答は、「理論的問答」と呼ぶことできます。

観察報告に問い合わせて、全称命題をチェックし、全称命題を推定して答える場合。

観察報告と他の全称命題(理論命題)に問い合わせて推論し、全称命題で答える場合。

他の全称判断に問い合わせて推論し、全称命題で答える場合。

以上の二つ「観察的問答」「理論的問答」のより上位の問いは、記述的問答ですが、記述的問答のより上位の問答が実践的問答である場合があります。これを「技術的問答」と呼びたいと思います。これは上記の二つとは異質です。(これについては、第127回に論じましたが、もう一度論じ直したいと思います。)

(3)技術的問答:<ある目的を実現するための手段を求める問答であり、その目的手段関係が自然的な因果関係に基づくものであるような問答>です。

ただし、技術的問答は、因果関係の記述を答えとする問答そのものではありません。技術的問答は、自然的因果関係の認識に依拠するので、因果関係を問う問答を前提としますが、因果関係を問う問答そのものではありません。

「Aが生じれば、Bが生じる」という因果関係の記述は、記述的問答の答えになります。これは理論的問答になると思われます(なぜなら、一回的な出来事の関係では因果関係であるということができない可能性があるからです。これについては、もう少し説明の必要があります)。これは「Aすれば、Bを実現できる」という目的手段関係の記述と同一ではありません。「どうすれば、Bを実現できますか」という技術的問いの答えは「Aすれば、Bを実現できる」という目的手段関係の記述になります。

この技術的問答と実践的問答関係については、127回でも述べましたが、次回もう一度考えてみます。

127 理論的問いのより上位の問いについて(Regarding higher-level questions to theoretical questions) (20240821)

(長い間、更新できず、すみませんでした。2024年7月31日午前2時8分に母が亡くなり、哲学を考える時間を十分に取れなかったためです。家族の死について、また一般に人の死について、いろいろ考えることはあるのですが、もう少し時間をおいてどこかで述べたいと思います。)

前回見たように、問いに対する正しい答えは、複数可能であり、その中から一つを選択して答えるとき、適切な答えを選択しています。答えが適切であるとは、その問いのより上位の問いに答える上で有用であるというということです。したがって、問いの答えの適切性は、より上位の問いがどのようなものであるかに依存します。そして、<問いの答えの適切性は、より上位の問いに応じて、異なるものになります>。以下で、このことをより詳しく説明します。

#問いを3種類(理論的問い、実践的問い、宣言的問い)に区別するとき、問いとより上位の問いの関係は、この組み合わせによって9種類に区別できます。その中で理論的問いとそのより上位の問いの関係は、次の3種類です(ここで「問1→問2」は、問1に答えるために問2を問う、という意味です。)

   ①理論的問い→理論的問い

   ②実践的問い→理論的問い

   ③宣言的問い→理論的問い

前回考察した例は、理論的問いのより上位の問いが理論的問いの場合、つまり①の場合でした。そこで、今回は②を見ておきたいと思います。

②実践的問い→理論的問い

実践的問いは次の2種類に区別できます。

  

(a)「…するために、どうしようか」(行為決定(手段決定)の実践的問い)

 Aを実現するために、どうしようか(あるいは、何をしようか)」という問いの答え「Cしよう」が正しいとは、その答え「Cしよう」を実行すれば、Aを実現できるということです。つまり、Cをすることが、Aを実現するための十分条件でなければなりません。ところで、Aを実現するための十分条件は、C以外にもありうるので、「Aを実現するために、どうしようか」という実践的問いに対する正しい答えは、複数可能です。その複数の候補の中のどれにするかは、理論的、技術的には決定できません。その選択は、この実践的問いのより上位の問い(より上位の目的)に依存します。より上位の目的を実現するのに有用な答えが適切な答えとなります。つまり実践的問いの答えの適切性は、より上位の問いに依存するということです。

ただし、ここで論じたいのは、このことではなく、理論的問いが実践的問いをより上位の問いとするとき、理論的問いの正しい答えの中から、適切な答えを選択することが、実践的問いの解決に有効であるかどうかによって行われている、と言うことです。例えば、Aを実現するために、どうしようか(あるいは、何をしようか)」という問いに、「Cしよう」と答えるためには、この答えの正しさを確認すること、つまり「Cをすれば、Aを実現できる」ということを確認する必要があります。この確認は、「CをすればAを実現できるのですか」という問いに「はい」と答えることによっておこなわれます。この問いは、客観的事実を問う理論的問いであり、答えは真理値を持ちます。このような理論的問いを特に「技術的問い」と呼ぶことができるでしょう。(この問いを、「どうすればAを実現できますか」と言い換えることもできます。)

 もう一度まとめておきます。

 「Aを実現するために、どうしようか」は、実践的問いです。

 「どうすれば、Aを実現できますか」は、理論的問い(技術的問い)です。

この二つの違いは、次の点にあります。

 実践的問いは、行為のための意思決定を求めているので、正しい答えが複数あってもその中から一つを選択して答えることが必要です。この実践的問いに対して、「Aを実現するために、Bするか、Cするか、Dするか、のいずれかをしよう」と答えることも可能ですが、しかし、それは実践的な問いに対する十分な答えであるとはいえません。なぜなら、実践的問いは、行為のための意思決定を求める問いだからです。「Aを実現するために、どうしようか」という実践的問いに対する答えは、可能な正しい答えが複数ありうるとしても、それから一つを選択して、「Aを実現するために、Cしよう」と言うように答える必要があります。

 それに対して「どうすれば、Aを実現できますか」という技術的問いもまた複数の答えを持つ可能性があります。技術的問いの場合には、「Bするか、Cするか、Dすれば、Aを実現できます」と答えることができます。そしてこの答えは「Cすれば、Aを実現できます」という答えよりも、より正確な答えだと言えそうです。ココで例に挙げた二つの問いは、表現上は似ていますし、交換することも可能です。しかし、その際に、行為の意思決定を求める問いであるか、目的実現の十分条件の記述を求める問いであるか、という違いが重要になります。問いの表現は似ていても、答えとして何を求めているかの違いが重要です。

(ちなみに、「Aを実現するために、何をすべきか」という問い(Aを実現するための必要条件を求める問い)もまた、客観的事実についての理論的問いであり、この理論的問いもまた、「技術的問い」と呼べるでしょう。

 このような技術的問いは、次の二種類に区別できるかもしれません。

  「Aを実現するための十分条件は何か」(または、「何をすれば、Aを実現できるのか?」)

  「Aを実現するための必要条件は何か」(または、「何をしなければ、Aを実現できないのか」や「何をすれば、Aを実現できないのか」など)

 

次に別の種類の実践的問いを考察しよう。

(b)「これから何をしようか」(目的設定の実践的問い)

 朝起きた時、ひと仕事終わった時、など一日に何度か私たちはこのような問いを問います。この問いは、何らかの目的を実現するために「何をしようか」と問うているのではありません。もしそうならば、これは上記の実践的問いに属します。この問いは、目的を実現するための手段を問うているのではなく、どんな目的を設定するかを問うています。

 「これから何をしようか」の答え「Bしよう」には、一見すると正しい答えと間違った答えの区別はないように思えます。しかし、「Bしよう」と答えるためには、Bすることが可能であることが必要であり、それがもし不可能であれば、それは正しい答えとは言えません。逆にいうと、Bすることが可能であれば、「Bしよう」は正しい答えです。つまり、この種の実践的問いの答えにも、正しい答えと間違った答えの区別があるのです。答えが正しいとは、それが実行可能であることです。

 したがって、「これらか何をしようか」の問いに「Bしよう」と答えるときには、「Bすることは可能だろうか」と問い、「可能だ」と答える必要があります。そして、この問答は、理論的問答です。この種の実践的問い(目的設定の実践的問い)は、「答えの候補(行為の事前意図)が実行可能性であるか」という理論的問いのより上位の問いとなっています。

 この問いもまた「技術的問い」と呼ぶことができるでしょう。この技術的問いは、上記の技術的問いとはことなります。これは、次のどちらでもありません。

  「Aを実現するための十分条件は何か」(または、「何をすれば、Aを実現できるのか?」)

  「Aを実現するための必要条件は何か」(または、「何をしなければ、Aを実現できないのか」 や「何をすれば、Aを実現できないのか」など)

この技術的問いは、「Bできますか」例えば「自転車に乗れますか」というような問い、能力の有無を問うものです。

理論的問いのより上位の問いが、実践的問いであるとき、その理論的問いは、このような技術的問いになります。

  次回は、理論的問いのより上位の問いが宣言的問いである場合を考察します。