[カテゴリー:自由意志と問答]
前回述べたように、スピノザは、エチカ第1部定義7で自由を定義しますが、自由であるのは、神だけであるといいます。人間は、(この意味の)自由をもちません。また人間は自由意志を持ちません。その理由は「個々の意志作用は他の原因から決定されるのでなくては存在することも作用に決定されることもできない。」(第1部、定理32、証明、太字は引用者)ということでした。(前回言い忘れましたが『エチカ』からの引用は次の訳を用います。スピノザ『エチカ』上、下巻、岩波文庫、畠中尚志訳、Kindle版からの引用なので頁数が少しずれているかもしれません。)
では、この「他の原因」とは何でしょうか。スピノザによれば、唯一の実体(神)は無限の属性を持ち、思惟と延長はそれに含まれます。人間知性が知覚するのは、この二つの属性だけです。そして異なる属性の間に因果関係はありません。したがって、この「他の原因」というのは、他の観念であると思われます。ところで、「意志作用は観念そのものに他ならない」(第2部定理49証明)と言われているので、ここでは観念と観念の因果関係が考えられているのです。
では観念と観念の因果関係というのは何でしょうか。観念と観念の関係は、論理的な関係、あるいは意味論的な関係としてしか考えられないと思います。意志を結論とする推論は、実践的推論であり、それは前提に意志(意志の表現)を含みます。その意志もまたさらにより上位の意志を前提とするとしたら、これは無限に遡行します。そのような無限遡行が不可能であるとすると、無前提に設定された意志があると想定できます。これに対して、スピノザは、そのように無前提に見える意志にも、隠された前提が原因となっているというでしょう。人々は、自由意志は原因を持たないと考えていますが、スピノザは、原因のない意志作用はなく、自由意志はないと考えています。(次回以後に述べますが、フィヒテは自由意志を原因を持たない意志作用と考え、それがあると考えています。)
ところでスピノザは第4部と第5部で「人間の自由」について論じています。そこで人間を、自由人と奴隷に次のように分けます。「自由人」とは「理性に導かれる人間」であり、奴隷とは「感情ないし意見のみに導かれる人間」です(第4部定理66備考)。ここでの「自由」と第一部定義7の「自由」は、どう関係するのでしょうか。
スピノザは、「理性の指図に従って行動する限りにおいてのみ人は自由であると呼ばれる」(第4部定理72証明)と言います。理性の指図に従って行動する人が自由である、ということを説明する仕方には、いろいろな仕方があると思いますが、その一つは次のようなものです。
「感情ないし意見のみに導かれる人間と理性に導かれる人間との間にどんな相違があるかを我々は容易に見うるであろう。すなわち、前者は、欲しようと欲しまいと自己のなすところをまったく無知でやっているのであり、これに反して後者は、自己以外の何びとにも従わず、また人生において最も重大であると認識する事柄、そしてそのための自己の最も欲する事柄、のみをなすのである。このゆえに私は前者を奴隷、後者を自由人と名付ける。」(第4部定理66備考)
しかし、これだけでは、第1部の定義7の「自由」との関係は不明です。おそらく、理性は人間本性であり、理性に従うことは本性の必然性に従うことなので、その点で定義7の「自由」に似たものである、あるいは定義7の「自由」の人間バージョンであるということだろうと思われます。
この二つの自由の関係をもう少し厳密に論じるためには、そもそも、どうして人が「理性の指図にしたって行動する」ことができるのか、を理解する必要があります。なぜなら、スピノザは、『エチカ』第一部で(スピノザの言葉ではないですが)次のような「決定論」を主張しているからです。
「自然のうちには一として偶然なものがなく、すべては一定の仕方で存在し、作用するように神的本性の必然性から決定されている。」(第1部定理29)
「決定論」と「理性の指図に従って行為する」ということは果たして両立するのでしょうか。これを次に考えたいと思います。