128理論的問いのより上位の問いについて、続き(Regarding higher-level questions to theoretical questions (continued)) (20240909)

今回は、理論的問いのより上位の問いが、宣言的問いである場合について考えたいと思います。

 宣言的問いとはどのようなものでしょうか。理論的問いと実践的問いの答には正/誤の区別があります。理論的問いの答えの正しさは、その真理性であり、実践的問いの答えの正しさは、その実行可能性です。では、宣言的問いの答え(宣言発話)に正/誤の区別はあるのでしょうか。このことを考えたいと思います。

#ここでは宣言型発話を次の4種類に区別したいと思います(この区別は、私がこれまで述べてきたものと少し違っています。一つは、命名宣言と定義宣言を一つにして、定義宣言としたことです。二つには、表現型発話を宣言型発話の一種とみなし、表現宣言発話としました。)

  主張宣言発話(assertive declaratives):「アウト」

  行為宣言発話(performative declaratives):「開会します」「否認する」「承認する」

  表現宣言発話(expressive declaratives):「おめでとうございます」

  定義宣言発話(definitional declarataives):「これはリンゴです」

*主張宣言型発話をサールは、D↓↕(p) と表現したことがあります(サール『表現と意味』山田友幸訳、誠信書房、32)。例えば「アウト」という宣言によって、あるプレイがアウトであるという事実が設定されるので、この点では適合の方向は両方向↕になります。しかし、他方では、アウトは真であることも求められるので、語を世界に適合させるという方向↑も持ちます。このような主張宣言の発話が答えとなるとき、その答えには正/誤、ないし真/偽の区別があると言えます。「アウト」という宣言は、実際にアウトであったならば、アンパイアの宣言だとしても、誤りだといえます。言葉を世界に適合させなければならない場合、言葉が世界に適合すれば、その言葉は正しく、適合しなければ誤りです。

 このような主張宣言発話が、問いへの答えとして成立するとするとき、正しい答えには複数の可能性があるのでしょうか。野球の審判がおこなう「アウト」「セーフ」などの宣言は、決定疑問への答えとして発するものなので、正しい答えは一つであり、複数の可能性はありません。しかし、裁判の判決の場合、「有罪」「無罪」の部分に関しては、複数の正しい判決の可能性はないのですが、事実認定の部分については、複数の正しい事実認定の宣言があり得るでしょう。その中から一つの事実認定を選択して宣言するのは、説得力のある判決を行うという判決のより上位の目的の実現にとって有効であることに依拠するのだとおもわれます。(判決文の中の、量刑や賠償金などの決定の部分もまた、おそらくは、合理的な根拠があり、主張宣言発話として真理値を持つのだろうとおもわれます。)

 「アウトかセーフか」という宣言的問いに答えるために、「アウトかセーフか」という事実を問う理論的問いをたてるとき、この理論的問いの上位の問いは、主張宣言的問いです。

*行為宣言型発話は、D↑↕(p)と表現できるのではないでしょうか。なぜなら「開会します」という宣言によって開会がなされるので適合の方向は両方向になるのですが、他方で、会議は開始されたので、会議を具体的に進めるということが続かなければならないので、世界を言葉に適合させる必要があるからです。行為宣言型発話が答えとなるとき、それには正誤があります。「開会します」と宣言した後、会議を進める行為をしなければ、その宣言は誤りということになりそうです。この点で、実践的問いの正しい答えが実行可能性を持つのと同様に、行為宣言的問いの正しい答えは、実行可能性をもちます。

 「会議を開こうか」という問いに答えるために、「今から会議を開いて進行できるだろうか」という理論的問いを問うことがあるでしょう。この理論的問いの上位の問いは、行為宣言的問いです。

*表現宣言型発話にD↕φ(p)もまた、正誤の区別を持つようにおもいます。なぜなら、例えば、「おめでとうございます」という発話は、<相手が学校に入学した>という事実を前提としているので、もし入学していなければ、お祝いの発話は、無効になるからです。前提している事実が成り立っているのならば、表現宣言型発話は正しいといえるでしょう。

 「おめでとうと言おうか」と自問するとき、確認のために「本当に入学したのだろうか」という理論的問いを問うことがあるでしょう。この理論的問いの上位の問いは、表現宣言的問いです。

*定義宣言型発話D↕(p)

 定義宣言型発話の答えにも、正誤の区別はあるのでしょうか。例えば、子供の名前をつける命名宣言の場合、どのような名前を付けることもできますから、命名に正誤の区別はありません。もし子供がいなければ、命名は失敗ですが、命名が誤りになるのではないだろうと思います。したがって、正しい答え(宣言)をするために、理論的問いを問うことはありません。

ただし、定義宣言型発話の答えにも、適/不適の区別はあります。つまり、宣言のより上位の目的を実現するためにどのような宣言内容が有効であり、どのような宣言内容が無効であるかの区別はあります。例えば、名前を定義することは、その人を他の人から区別して指示するためであるので、そのために有効であるか無効であるかの区別はあります。子どもに兄弟と同じ名前を付けることは不適切です。なぜなら兄弟と同じ名前では兄弟との区別が出来ないからです(ただし、誤りとは言いにくいように思われます)。宣言的問いに適切に答えるためには、理論的な問い(おそらく技術的問い)をすることになります。ある種の理論的問いのより上位の問いは、宣言的問いです。

例えば、

「この子にどういう名前を付けますか」(宣言的問い)

この定義宣言的問いに適切に答えるために、つぎのような理論的問いを問うことがあるかもしれません。

 「この子にソクラテスと命名しても不都合はないだろうか」(理論的問い)

 「この子の兄弟や親類に「ソクラテス」という名の人はいないだろうか」(理論的問い)

 「「ソクラテス」という名前は、名前としておかしくないだろうか。」(理論的問い)

ところで、ここでは確認を省略しますが、主張宣言的問い、行為宣言的問い、表現宣言的問いの場合にも、それらに適切に答えるために、理論的問いがとわれることもあるでしょう。

#まとめ、理論的問いに対する正しい答えは、(もし理論的問いが決定疑問であれば、一つですが)、補足疑問であれば、複数可能な場合があります。その複数の正し答えの中から一つを選択しなければ、現実の返答はは出来ないのです。その選択は、理論的な問いを問うより上位の目的を実現する上で有効なものを選択することとして行われています。言い換えると、理論的な問いのより上位の問いに答えるのに役立つものを選択することとして行われています。上位の問いが、別の理論的な問いである場合、実践的問いである場合、宣言的問いである場合があり、それぞれについて詳しく見てきました。つぎのような二重問答関係があるとします。

  Q2→Q1→A1→A2 (Q2を解くためにQ1を立て、Q1の答A1からQ2の答えA2を得る)。

Q1が理論的答えであるとき、<Q1の答A1が適切であるとは、A1がQ2に答えるのに役立つということである>。Q2に答えるのに役立つことが、A1の適切性を規定しています。

 以上の答えの「適切性」の議論は、発話の意味を相関質問への答えとしてとらえるということが、問答のペアを意味の基礎的単位と見做す立場だと思われること防ぐうえで重要です。発話の適切性は、相関質問との関係ではなく、より上位の問いとの関係に規定されているので、ある問答が成り立つためには、より上位の問いとの関係が必要であることを示しているからです。

(ここから、実践的問いのより上位の問い、宣言的問いのより上位の問い、についてそれぞれ考察を続けて、理論的問いの答えの適切性に限らず、他のタイプの問いの答えの適切性についても、確認したほうがよいのですが、次回は、すこし別のテーマで議論したいと思います。10月下旬にある研究会で発表するので、それの準備を進めたいからです。「問いの答えが正しいとはどういうことか」「問答関係による推論規則の正当化」「実質推論はなぜ非単調性なのか」などに関連した話になると思います。)

127 理論的問いのより上位の問いについて(Regarding higher-level questions to theoretical questions) (20240821)

(長い間、更新できず、すみませんでした。2024年7月31日午前2時8分に母が亡くなり、哲学を考える時間を十分に取れなかったためです。家族の死について、また一般に人の死について、いろいろ考えることはあるのですが、もう少し時間をおいてどこかで述べたいと思います。)

前回見たように、問いに対する正しい答えは、複数可能であり、その中から一つを選択して答えるとき、適切な答えを選択しています。答えが適切であるとは、その問いのより上位の問いに答える上で有用であるというということです。したがって、問いの答えの適切性は、より上位の問いがどのようなものであるかに依存します。そして、<問いの答えの適切性は、より上位の問いに応じて、異なるものになります>。以下で、このことをより詳しく説明します。

#問いを3種類(理論的問い、実践的問い、宣言的問い)に区別するとき、問いとより上位の問いの関係は、この組み合わせによって9種類に区別できます。その中で理論的問いとそのより上位の問いの関係は、次の3種類です(ここで「問1→問2」は、問1に答えるために問2を問う、という意味です。)

   ①理論的問い→理論的問い

   ②実践的問い→理論的問い

   ③宣言的問い→理論的問い

前回考察した例は、理論的問いのより上位の問いが理論的問いの場合、つまり①の場合でした。そこで、今回は②を見ておきたいと思います。

②実践的問い→理論的問い

実践的問いは次の2種類に区別できます。

  

(a)「…するために、どうしようか」(行為決定(手段決定)の実践的問い)

 Aを実現するために、どうしようか(あるいは、何をしようか)」という問いの答え「Cしよう」が正しいとは、その答え「Cしよう」を実行すれば、Aを実現できるということです。つまり、Cをすることが、Aを実現するための十分条件でなければなりません。ところで、Aを実現するための十分条件は、C以外にもありうるので、「Aを実現するために、どうしようか」という実践的問いに対する正しい答えは、複数可能です。その複数の候補の中のどれにするかは、理論的、技術的には決定できません。その選択は、この実践的問いのより上位の問い(より上位の目的)に依存します。より上位の目的を実現するのに有用な答えが適切な答えとなります。つまり実践的問いの答えの適切性は、より上位の問いに依存するということです。

ただし、ここで論じたいのは、このことではなく、理論的問いが実践的問いをより上位の問いとするとき、理論的問いの正しい答えの中から、適切な答えを選択することが、実践的問いの解決に有効であるかどうかによって行われている、と言うことです。例えば、Aを実現するために、どうしようか(あるいは、何をしようか)」という問いに、「Cしよう」と答えるためには、この答えの正しさを確認すること、つまり「Cをすれば、Aを実現できる」ということを確認する必要があります。この確認は、「CをすればAを実現できるのですか」という問いに「はい」と答えることによっておこなわれます。この問いは、客観的事実を問う理論的問いであり、答えは真理値を持ちます。このような理論的問いを特に「技術的問い」と呼ぶことができるでしょう。(この問いを、「どうすればAを実現できますか」と言い換えることもできます。)

 もう一度まとめておきます。

 「Aを実現するために、どうしようか」は、実践的問いです。

 「どうすれば、Aを実現できますか」は、理論的問い(技術的問い)です。

この二つの違いは、次の点にあります。

 実践的問いは、行為のための意思決定を求めているので、正しい答えが複数あってもその中から一つを選択して答えることが必要です。この実践的問いに対して、「Aを実現するために、Bするか、Cするか、Dするか、のいずれかをしよう」と答えることも可能ですが、しかし、それは実践的な問いに対する十分な答えであるとはいえません。なぜなら、実践的問いは、行為のための意思決定を求める問いだからです。「Aを実現するために、どうしようか」という実践的問いに対する答えは、可能な正しい答えが複数ありうるとしても、それから一つを選択して、「Aを実現するために、Cしよう」と言うように答える必要があります。

 それに対して「どうすれば、Aを実現できますか」という技術的問いもまた複数の答えを持つ可能性があります。技術的問いの場合には、「Bするか、Cするか、Dすれば、Aを実現できます」と答えることができます。そしてこの答えは「Cすれば、Aを実現できます」という答えよりも、より正確な答えだと言えそうです。ココで例に挙げた二つの問いは、表現上は似ていますし、交換することも可能です。しかし、その際に、行為の意思決定を求める問いであるか、目的実現の十分条件の記述を求める問いであるか、という違いが重要になります。問いの表現は似ていても、答えとして何を求めているかの違いが重要です。

(ちなみに、「Aを実現するために、何をすべきか」という問い(Aを実現するための必要条件を求める問い)もまた、客観的事実についての理論的問いであり、この理論的問いもまた、「技術的問い」と呼べるでしょう。

 このような技術的問いは、次の二種類に区別できるかもしれません。

  「Aを実現するための十分条件は何か」(または、「何をすれば、Aを実現できるのか?」)

  「Aを実現するための必要条件は何か」(または、「何をしなければ、Aを実現できないのか」や「何をすれば、Aを実現できないのか」など)

 

次に別の種類の実践的問いを考察しよう。

(b)「これから何をしようか」(目的設定の実践的問い)

 朝起きた時、ひと仕事終わった時、など一日に何度か私たちはこのような問いを問います。この問いは、何らかの目的を実現するために「何をしようか」と問うているのではありません。もしそうならば、これは上記の実践的問いに属します。この問いは、目的を実現するための手段を問うているのではなく、どんな目的を設定するかを問うています。

 「これから何をしようか」の答え「Bしよう」には、一見すると正しい答えと間違った答えの区別はないように思えます。しかし、「Bしよう」と答えるためには、Bすることが可能であることが必要であり、それがもし不可能であれば、それは正しい答えとは言えません。逆にいうと、Bすることが可能であれば、「Bしよう」は正しい答えです。つまり、この種の実践的問いの答えにも、正しい答えと間違った答えの区別があるのです。答えが正しいとは、それが実行可能であることです。

 したがって、「これらか何をしようか」の問いに「Bしよう」と答えるときには、「Bすることは可能だろうか」と問い、「可能だ」と答える必要があります。そして、この問答は、理論的問答です。この種の実践的問い(目的設定の実践的問い)は、「答えの候補(行為の事前意図)が実行可能性であるか」という理論的問いのより上位の問いとなっています。

 この問いもまた「技術的問い」と呼ぶことができるでしょう。この技術的問いは、上記の技術的問いとはことなります。これは、次のどちらでもありません。

  「Aを実現するための十分条件は何か」(または、「何をすれば、Aを実現できるのか?」)

  「Aを実現するための必要条件は何か」(または、「何をしなければ、Aを実現できないのか」 や「何をすれば、Aを実現できないのか」など)

この技術的問いは、「Bできますか」例えば「自転車に乗れますか」というような問い、能力の有無を問うものです。

理論的問いのより上位の問いが、実践的問いであるとき、その理論的問いは、このような技術的問いになります。

  次回は、理論的問いのより上位の問いが宣言的問いである場合を考察します。

126 問いに対する答えの正しさと適切性の区別 (Distinguishing between correctness and appropriateness of answers to questions) (20240729)

ここまでは、理論的問いに対する答えが正しい(真である)とはどういうことか、を論じてきました

(まだまだあいまいな部分を残したままですが)。ここから、問いに対する答えの正しさ(真理性)と区別される、答えの適切性について論じたいとおもいます。問答関係を論じるとき、この区別はとても重要になるものです。

 まずは、理論的問答の適切性について考察したいとおもいます(あとで、実践的問答や宣言的問答の正しさと適切性の区別についても考察します)。

#「適切性」の定義

・理論的問いの真なる答えには、複数のものがありえます。例えば、ある物質についてついて「これの重さはいくらですか」という問いへの真なる答えは、複数ありえます。「大体3グラムです」「3.12グラムです」「3,122mgです」「0,11オンスです」「ちょうどあれの二倍です」これらがすべて真なる答えである場合があります。この問いに、どのような単位で答えるか、どの程度の精確さで答えるか、については複数の可能性があります。ただし、実際にこの問いに答えるためには、この複数の答え方の中から一つを選択しなければなりません。この選択は、この問いを問う理由、つまりこの問いのより上位の問いに依存するでしょう。例えば、料理をするために重さをはかるときと、化学実験のために重さをはかるときでは、答え方が違ってくるでしょう。塩を測るとき、金を測るとき、ダイヤモンドを測るときでは、使用される単位が異なるでしょう。科学実験の場合も、その実験内容によって求められる精確性はさらに異なってくるだろう。これらが全て真なる答えであるとしても、適切な答えと不適切な答えの区別が可能です。ある問いを問うことが、より上位の問いに答えるためであるときには、そのより上位の問いに答えるのに有用な仕方で答える必要がありますが、それを答えの「適切性」と呼ぶことにしたいと思います。

 上の例は、量を問う問いです。

#補足疑問(WH-疑問)の問いの真なる答えは、複数可能であるように思われます。

*場所を問う「どこ」の問いの場合:「あなたはどこで生まれましたか」に対して、次の答えが考えられます。「私は、東アジアでうまれました」「私は日本で生まれました」「私は香川県で生まれました」「私は丸亀市で生まれました」「私はうどん県で生まれました」「私は讃岐で生まれました」どれも真なる答えです。このとき、どのような答えが適切であるかは、この問いのより上位の問いが何であるかに依存します。

*時間を問う「いつ」の問いについても同様に考えられるので、例を省略します。

*次に、「どれ」の問いの例を挙げます。「Xさんの車はどれですか」という問いに対する真なる答えとして、つぎのような複数の例を考えることができます。それら答えは、より上位の問いによって適切な答えとなることがあります。

  「Xさんの車は、あの赤い派手な車です」(Xさんの車で葬式に行くかどうかを検討しようとしている人には、役立つ答えである)

  「Xさんの車は、あの高級車です」(Xさんに投資を進めるかどうかを検討しようとしている人には役立つ答えである。)

  「Xさんの車は、最も進んだ自動運転の安全な車です」(XさんAIに関心があるかどうかを知りたいと思っている人とっては、役立つ答えである)

  「Xさんの車は、奥さんが選んだあの赤い車です」(Xさん夫婦の仲が良いかどうかを知りたいと思っている人にとっては、役立つ答えである。

*次に、「なぜ」の問いの例を挙げます。 「なぜ、そのとき、そこで、大雨が降ったのですか」

という問いに対する真なる答えとして、次のような複数の例を考えることができます。

  「なぜなら、当時の気圧配置がこうなっていたからです」

  「なぜなら、そこでの気圧配置がこうなっていたからです」

  「なぜなら、大雨が降るのはこういう気圧配置のときだからです」

これらの答えは、全て真なる答えでありうるのですが、この中のどの答えが適切であるかは、この問いを問うたときの、より上位の問いが何であったかに依存します。

#決定疑問(yes/no疑問)の真なる答えには複数性はない。

 決定疑問への真なる答えは、省略形を除けば、「はい」か「いいえ」のどちらかしかありません。つまり、決定疑問の真なる答えには複数性はありません。これは、その決定疑問が、理論的問いの場合にも、実践的問いの場合にも同様です。

 補足疑問の場合には、より上位の問いが異なれば、適切な真なる答えは変化します。決定疑問のより上位の問いも複数あり得るのですが、決定疑問にたいする真なる答えは、一つしかなく、したがって、適切な真なる答えも一つであり、それはより上位の問いが変わって変化しません。(なにか不思議な感じがするのですが、これが何を意味するのか、まだよくわかりません。)

 次回は、このより上位の問いが、理論的問いである場合、実践的問いである場合、宣言的問いである場合に、区別されること、そしてそれが何を意味するのかを論じたいとおもいます。

125 「真理の定義依拠説」を振り返る (A look back at the “definition-based theory of truth”) (20240715)

[カテゴリー:問答の観点からの認識] 

 (あれこれと考えているうちに、遅くなりすみません。)

 論理学や数学の命題が問いに対する正しい答えであることは、それらの公理系で証明できるということです。そして、どのような公理や推論規則を設定するかは、ベルナップが主張したように、まず公理を推論規則に変形して、全ての推論規則が保存拡大性を充たすように設定するということが必要条件になります。ただしそれに加えて(111回に述べたように)、問答関係に暗黙的に内在する論理的関係を充たすように設定するという条件を加える必要があると考えています。

 ところで、公理や推論規則に基づくだけでは答えることができない問いの場合には、科学的な理論命題を含めて、最終的には日常的な経験的な語彙の意味(使用法)に基づくことになると思われます。日常的な問答の答の正しさ(真理性)は、経験的な語彙の学習に基づいており、その学習の正しさを遡れば、それは、経験的な語彙の定義に基づきます。これを真理の「定義依拠説」と名付けました。

 しかしここでの問題は、日常的な語彙の定義をどのように理解するかです。

語の意味(使用法)は、語を用いた推論によって与えられ規定されます。<推論は、それに含まれる語の意味によって成立し、構成される>と考えるとき、それは「形式推論」であり、逆に<推論は、それに含まれる語の意味を規定するものであり、それらの語に意味を与えるものである>と考えるとき、それは「実質推論」であると呼びたいとおもいます。これはブランダムの「実質推論」の理解に依拠しています。形式推論は単調推論ですが、実質推論は非単調推論になります。

 日常的な語彙の意味の特徴は、非単調な実質推論によって意味が与えられるということになります。(これを非単調な実質推論によって意味を与えることを、「定義」と呼ぶことには批判があるかもしれません。しかし、「これはリンゴです」や「私には二本の手があります」などの真理性については、定義依拠説と呼んでもよいように思われます。)

さて、現在以下のような問題を考察中なのですが、ここから次にどう進むか思案中です。

  タルスキーに始まる、意味論的語彙をどう扱うべきか、と言う問題

  問いに対する答えの正しさと適切性の区別の問題

  実質推論の非単調性と推論規則の拡大保存性の関係

いずれにしても、少し仕切り直したいと思います。

124意味論的関係「指示」「述定」「真」などは、問答関係の中に暗黙的に内在している。(Semantic relations such as “denotation,” “predication,” and “true” are implicit in question-answer relations.)(20240702)

(公理系で意味(使用法)を規定できない言語の意味(使用法)については、定義や実質推論によって、意味(使用法)を理解することになる。)

 対象言語が有意味であるならば、そこにはすでに意味論的関係が成立しています。この意味論的関係について、タルスキーのようにメタ言語において成立すると考えるか、それとも対象言語とメタ言語は不可分なので、意味論的語彙は対象言語自体の中に成立すると考えるか、という違いに関係なく、意味論的関係は対象言語においてすでに(たとえ暗黙的であるとしても)成立しています。対象言語のなかに意味論的関係が成立しているということは、言い換えれば、対象言語の中に、その語句と対象との指示関係、文と事態との対応関係が成立している、あるいはそれに似たことが成立しているということです。それは、どのように成立しているのでしょうか。

 以下に説明するように、それは、問答関係の中に成立しているだろうと考えます。

#指示の関係は、すでに問答関係の中で成立しています

 指差し行為で指示すると同時に、「あれ」という発声によって指示することが、指示のもっとも原初的な形態だろうと推測します。そして、この指差し行為は、対象についての共同注意を形成するために行われるのだろうと推測します。指示詞による対象の指示もまた、対象についての共同注意を形成するためでしょう。

#「指示」とは、第一義的には人が行う行為であり、語がもつ機能ではありません。

しかし、人が、ある語を用いて、ある特定の対象だけを指示するとき、その対象を指示することはその語の機能だと言えます。例えば、ひとの固有名は、その人を指示する機能を持つといえます。指示は、第一義的には語と対象の関係ではなく、話し手が語を使用する仕方の一種であり、意味論的概念というよりも、語用論的概念です。

 名前のように、ある語句が特定の対象だけを指示するのに使用されるのではなく、指示詞のように、話し手が指さす対象を指示するなど、話し手と一定の関係に立つ対象を一般的に指示する場合もあります。固有名であれ指示詞であれ一般名であれ、語句とそれを用いて指示を行うときの指示対象との間に、一定の規則性が成り立つとき、その規則性を、その語句の機能だと見做すことができます。そのとき、指示は、その語句がもつ機能であり、使用法です。

 ある語句で特定の対象を指示することは、二義的には、語句と対象の関係ですが、第一義的には、人がその語句を用いて特定の対象を指示するというその語句の使用規則に従うことです。

 語句を用いて対象を指示する行為は、共同注意を実現するために行われます。その行為が有意味であるためには、共同注意が実現で来たかどうかを確認できることが必要です。共同注意の成立の確認、あるいは指示の成立の確認は、問答によって行われます。したがって、指示は、問答によって行われます。

 語の意味は使用法であり、もしその語の意味(使用法)が、人がそれを用いて特定の対象だけを指示することであるならば、「指示すること」は、その語句の使用法の特性を示す概念です。意味論的概念とは、語の意味(使用法)の特性を示す概念です。

  「Xさんの車はどれですか?」「あの赤い車です」

という問答は、「Xさんの車」問い語句の意味(使用法)の特性が「指示すること」であることを暗黙的に組んでいます。また「どれ」という疑問詞もまた、相手に「Xさんの車」の指示対象を指示することを求めており、「指示すること」を暗黙的に含んでいます。

 指示は、語句と対象の関係ではなく、語句の使用法の特性の一つです。その使用法を説明するには、対象への言及だけでなく、話し手への言及が必要です。語句が対象を指示するのは、人が語句を用いて、ある対象を指示するということことであり、さらに言えば、人が語句を用いて対象を、特定の他者(他者たち)に指示するということです。<指示は、指示する人、指示される人、指示する語句、指示される対象、の4つの関係として成り立ちます。>

#述定の関係も、すでに問答関係の中で成立しています。

 次の問いは、述定をもとめ、答えはその述定を行っています。

  「これは何ですか」「それはリンゴです」

この問答において、「リンゴ」は述定に用いられています。文が成立するのに語による対象の指示は可欠ではありませんが、述定は不可欠です。述定によって語の集まりは、文になります。

#真理の関係も、すでに問答関係の中で成立しています

 「真である」という述語は、決定疑問に暗黙的に内在しており、

  「それはリンゴですか?」「はい、リンゴです」

  「Is that an apple?」「はい、it is true」などの問答の中で明示化されます。

また、次のような指示や述定の学習のための補足疑問の問答は、真なる命題を学習することでもあります。

  「どれがリンゴですか」「これがリンゴだ」

  「これは何ですか」「これはリンゴだ」

指示や述定や真なる命題の学習は問答によって行われています。

問答の中には、指示関係(語句と対象の関係)、述定関係(語句と性質の関係、対象と性質の関係)真理関係(命題と事実の関係)が、暗黙的に含まれており、これらの学習と、問答の学習は、不可分です。

 さて、以上を踏まえて、前に説明した、真理の「定義依拠説」に戻りたいと思います。

123 対象言語とメタ言語の区別再考(Reconsidering the distinction between object language and metalanguage)(20140625)

*とりあえずの帰結

命題論理と一階述語論理では、そこでの語や文の意味(使用法)は公理と推論規則によって規定されていると考えることができます。このような意味論を仮に「公理論的意味論」と呼びます。それに対して、一階述語論理よりも複雑な公理系では、不完全性定理によれば、公理と推論規則によっては、ある命題及びその否定を証明できない命題が存在します。したがって、「公理論的意味論」を採用できません。

 そこで、タルスキーのようにある公理系の語や文の意味(使用法)については、メタ言語で語ることにするとき、そのメタ言語の意味(使用法)を語るには、さらにメタメタ言語が必要になります。ただし、これが無限に反復するとしても、最初の公理系の語や文の意味(使用法)はいつになっても確定しないということにはならないと思います。なぜなら、対象言語の語や文の意味(使用法)が、メタ言語で定義できるとすれば、その定義の意味(使用法)が仮にまだメタメタ言語で規定されていないとしても、そのメタメタ言語の記述によって、メタ言語の使用法が変化することはないからです。そしてメタ言語の使用法が変化しないならば、対象言語の語と文の意味(使用法)の記述もまた変化しないのです。ただし、意味論的メタ言語によって、対象言語の意味(使用法)を完全に与えることはできません。なぜなら、このメタ言語の公理系について「不完全性定理」が成り立つからです。

 ある言語の内部で「…は真である(あるいは偽)である」などの述語を用いるとき、その一部の例が必然的に矛盾を引き起こすときに、その不具合が公理系全体に広がらないようにする手立てを考えるというアプローチがあるかもしれません(そのような試みとして、クリプキの真理論、グプタとベルナップの真理論、矛盾許容論理などを挙げることができると思います)。

 ところで、タルスキーの「定義不可能性定理」の証明は明確で非の打ちどころのないものですが、

その前提となる対象言語とメタ言語の区別は、タルスキーが考えたような仕方で可能なのだろうか、という疑問があります。その疑問を説明したいと思います。

#対象言語とメタ言語の区別再考

 対象言語とメタ言語の区別は、タルスキーが考えたような仕方で可能でしょうか。タルスキーは、対象言語はメタ言語なしに成立すると考えています。しかし、言語はそれについてのメタ言及なしには成立しないのではないでしょうか。

 私たちは、自分の発話について頻繁に言及します。例えば、「何と言いましたか」「それはどういう意味ですか」「それは・・・という意味ですか」などの発話は非常に頻繁になされます。会話を進めるには、発話に言及して、何と言ったのか、どういう意味で言ったのかを確定しつつ会話を進めることが不可欠です。会話は、発話の想起によってコントロールされ構成され、発話の想起は、発話についてのメタ発話として成立します。

 問いに答えようとするときには、問いを覚えおり想起していることが必要です。問いの想起は、問いへの指示を必要とします。したがって、問答関係の中で暗黙的にメタ発話が行われており、メタ発話によって問答が成立しています。

 つまり、言語はそれについてのメタ発話なしには成立しないのです。もしこう言えるならば、メタ言語が対象言語を前提するように、対象言語もまたメタ言語を前提することになります。もし両者が、相互的な意味依存の関係にあるとすれば、両者は二つの言語ではなく一つの言語だというべきです。

 

 このことと結合しているのですが、次に<意味論的概念、「指示」「述定」「真」などは、対象言語の中の問答関係の中にすでに暗黙的に内在している>ということを指摘したいと思います。(そして、そのことと、前に論じた「真理の定義依拠説」との関係を説明したいと思います。)

122 公理系が不完全であるとき、構文論と意味論が分裂する(When the axiomatic system is incomplete, syntax and semantics split)((20240611)

[カテゴリー:問答の観点からの認識]

*公理系の健全性完全性の説明

ある公理系で文pを定理として証明できるとき、┣pと表記し、文pを意味論的に真であると証明できるとき、⊨pと表記します。ある公理系が健全であるとは、全ての定理が真である(┣p ⇒ ⊨p)ということです。完全であるとは、全ての真なる命題を定理として導出できる(⊨p ⇒ ┣p)ということです。

#公理系が不完全であるとき、構文論と意味論が分裂する。

命題論理と述語論理は、健全性と完全性を持ちます。つまり、真で去ることと定理であることは同値なのです((⊨p ⇔ ┣p)。

 しかし、自然数論を含む述語論理は、不完全であることをゲーデルが証明しました(1931)。つまり、自然数論を含む述語論理では、真であることと定理であることの間にずれが生じるのです。健全性は証明されているので、真であるのに証明できない式が存在するということです。

 そうすると、構文論とは別に意味論が必要になります。ここで重要になるのが、タルスキーの真理の「定義不可能性定理」です。

#タルスキーの真理の「定義不可能性定理」(1933)

この定理は、「一階算術」(加法と乗法を含みペアノの公理で公理化された自然数についての理論)の中で、「一階算術の文の真理の概念を一階算術の式で定義できない」という内容の定理です。タルスキーは、この定理を拡張して、「その定理は否定を持ち対角線補題が成立する程度に自己言及できる十分な強さを持ついかなる形式言語にも適用できる」ことを証明しました。(以上の説明には、Wikipediaの項目「タルスキーの定義不可能性定理」を利用しました。)

 手短にいえば、ある言語の内部で、その言語の文の真理について語ることは出来ないということです。ある言語の文の真理性について語るには、その言語を対象とするメタ言語が必要であり、「真である」という語もメタ言語の語彙として可能になります。このメタ言語は公理系として構成できますが、さらにこのメタ言語の文の真理について語るにはメタメタ言語が必要となり、これは反復します(参照、1944「THE SEMANTIC CONCEPTION OF TRUTH AND THE FOUNDATIONS OF SEMANTICS」(part I, section 9)

 ところで、もしこのように反復するとすれば、最初の対象言語の文の真理性はいつになっても確定しません。これは問題にはならないのでしょうか。ちなみに、ゲーデルの不完全性定理の証明では、このような反復の問題は生じませんでした。なぜなら、公理系が不完全であることが分かったとしても、つまりある命題もその否定もどちらも証明できない命題があることが分かったとしても、そのことは健全性をそこなわないからです。以上をゲーデルの「不完全性定理」とタルスキーの「定義不可能性」のとりあえずの紹介とし(もし必要になれば、そのときより詳しく論じることにします)、これらが私のこれまでの議論とどう関係するのかを考えたいと思います。

121 認識についての全体的見通し(Overall Perspective on Cognition) (20240531)

[カテゴリー:問答の観点からの認識]

カントは、直観の形式(時間、空間)と悟性の形式(4綱12目のカテゴリー)の結合によって認識を説明しました。これと似ているのですが、私は、問答の形式と問答の内容の結合によって認識を説明できるだろうと考えます。

(1)問答形式は、論理法則ないし推論規則を含んでいます。それゆえに、何かについての問答するとき、その答えは、論理法則や推論規則に従ったものになります。論理法則や推論規則は、問答関係の中に暗黙的に含まれているのです。

(2)問答の内容は、語の定義によって与えられます。定義には真理値はありませんが、定義のあとで、同じ発話を反復すると、それは事実についての真なる記述になります。問に対する答えの原初的なものである知覚報告の真理性は、観察語の定義に依拠すると考えられます。知覚報告のための観察語の意味(使用法)は定義宣言によって設定され、いったん定義が成立した後では、その定義を反復することが、事実についての真なる主張ないし記述となるのです。

(3)観察報告と経験法則の区別について。経験法則は、<観察報告を集めて、経験法則を想定し、それから観察報告を予測する>ために作られます。ただし、「これは赤い」という観察報告も、それが反復可能なものであるならば、法則的なものだと言えます。観察報告と経験法則の区別は、曖昧で相対的であり、文脈に依存します。これらの観察報告や経験法則は、いずれも「Xは、どうなっているのか」という形式の問いに対する答えとして成立します。

(4)理論とは、観察報告や経験法則についての「なぜこうなるのか」という問いに答えるものです。

理論(理論的命題、理論法則、理論体系)が正しいとは、経験法則を説明できる、ということです。ある経験法則を説明するために、理論を作るのですから、理論は最初からその経験法則との結びつきを持っています。つまり理論は最初から対応規則を持っており、理論の構成は、対応規則の構成から始まる、ということです。

 そして、理論語を用いた記述1から記述2への推論が可能であるとき、そして、記述1を観察報告に翻訳した観察報告1から記述2を翻訳した観察報告2への移行が経験法則によって説明できるとき、理論は、「なぜこうなるのか」という問いに答えるものだと言えるでしょう。これによって、理論は正当化されます。

 このように認識が問答形式と問答内容によって成立するとき、その説明は同時に、原子論的意味論ではなく、問答推論的意味論が正しいという説明になるでしょう。

 さて、次回から不完全性定理がこのような考察に与える影響を考えたいと思います。

120 理論法則は、対応規則を必要とする(Theoretical laws require correspondence rules) (20240525)

[カテゴリー:問答の観点からの認識]

観察語は、観察可能なものを表示しますが、公理化された特定科学でもちいる理論語は「観察不可能なもの」を表示し、その理論語の意味(使用法)は、特定科学の公理と推論規則によって記述されていると考えることができます。この理論体系に登場する理論文は、個別対象についての記述ではなく普遍性を持つ命題であり、(法則のように見えない文も含めて)法則です。このような理論文が世界について真であるためには、観察語や観察文と何らかの仕方で結合する必要があります。その結合関係を表現する規則を、カルナップは、「対応規則」と名付けました。

カルナップの挙げている対応規則の例には、次のものがあります。

「ある特定の周波数の電磁振動があるとすれば、一定の色合いの可視的な緑がかった青色がある」(『物理学の哲学的基礎』訳240

「気体の温度(温度計で測定され、それゆえに、さきに説明した広義の観察可能なものである)は、気体の分子の平均的運動エネルギーに比例する」(同訳240) 

このような対応規則は、規約として定義宣言されるものであり、真理値を持ちません。ただし、いったん定義宣言された後は、それが基準となるので、それは常に真となります。ただし、この対応規則は、理論法則や他の対応規則や観察文と両立不可能になることがありえます。その場合には、どれかの文を修正しなければならず、対応規則が修正されることになるかもしれません。

 カルナップは、対応規則はこのように修正可能であるがゆえに、観察語による理論語の定義だとは言えないと言います。対応規則は、必然的に修正の可能性をもつのです。しかし、どんな定義も変更の可能性をもつと考えるならば、対応規則を観察語による理論語の定義だと考えてもよいともいえそうです。この場合、このような定義によって理論の経験法則への依存関係を明示化できます。

 これに対して、カルナップは、対応規則を、観察語による理論語の定義だとは考えないのですが、対応規則が定義ではないとすれば、それは何なのでしょうか。この場合、対応規則は修正の可能性があり、理論法則や経験法則よりも、変化しやすいものだと考えています。理論を経験によるテストにかけて、修正の必要が生じた時、私たちは、理論の核心部分からではなく周辺部分から変更します。理論をできるだけ保存しようとするなら、修正の順序は、知覚、知覚報告(観察文)、経験法則、対応規則、理論法則、となるでしょう。このように、対応規則を<理論法則よりも変化しやすいもの>として考えるならば、理論語を対応規則によって定義するということはあり得ません。なぜなら、もしそのように定義するならば、対応規則が変わるときには、理論法則もまた変化することになり、対応規則が<理論法則よりも変化しやすい>ということはなくなるからです。

 対応規則を、観察語による理論語の定義と考えるか考えないかの違いは、<対応規則は理論法則と同じようにできるだけ変更せず維持すべきもの>と考えるか、<対抗規則は理論法則を維持するためには変更すべきもの>と考えるかの違いです。このように考えると、後者の方が現実的かもしれません。

 (後者を取るカルナップは科学の「道具主義」よりも、理論語の対象が存在すると考える「科学的実在論」を採用します(カルナップ『物理学の哲学的基礎』同訳262)。後者は、前者よりも、科学的実在論に親和的なのだろうと思います。)

 

 物理学者は、論理学と数学の公理系を前提として、そこに理論法則を公理として加えることによって物理学の理論の公理系をつくります。理論語や理論文の意味(使用法)は、その公理系によって示されます。この場合、理論語の意味は、公理系の中で与えられるので、推論的意味論で説明できますが、原子論的意味論ではうまく説明できないでしょう。

 科学理論が経験法則や観察文と関係を持つためには、対応規則が必要であり、理論から一定の経験法則や観察文を予測することができます。これが現実の観察文と一定することによって、理論は真であるとみなされます。この場合、理論語は対応規則によって定義されると考えることもできます。この場合、対応規則で用いられる観察語の意味は、予め定義や学習によって与えられていますが、その定義や学習は、<問答によって>あるいは<問答として>成立します。この場合、理論語の意味(使用法)もまた、<問答によって>あるいは<問答として>成立すると言えます。つまり原子論的意味ではなく、関係主義的意味論、問答推論的意味論の方が正しいように見えます。

 第92回から、問いに対する答えが正しいとはどういうことか、を論じてきました。答の正しさは、語の意味(使用法)を設定した定義に基づくと考えました。それを「真理の定義依拠説」と名付けました。112回から、それに対する反論を検討してきました。話が複雑になってきているので、次回は。これまでの議論を踏まえて、「問いに対する答えが正しいとはどういうことか」という問いに対する現時点の答えの全体構想を説明したいと思います。

119 再説:特定科学の公理体系は、観察文とどう関係するのか (Restatement: How does the axiom system of a specific science relate to observation statements?) (20240520)

[カテゴリー:問答の観点からの認識]

前々回に次のように書きました。

<私たちは、理論文にもとづいて、観察文(初期条件)から観察文(結果)を予測する。その予測された観察文を、現実の観察文でチェックする。このチェックに基づいて、理論文を維持したり修正したりする。これを繰り返すことによって、安定した理論文を得て、最終的にそれを公理系にまとめる。>

この説明を変える必要はないのですが、カルナップの『物理学の哲学的基礎』に依拠して、特定科学の公理体系と観察文の関係をもう少し詳しく考えたいと思います。

*「観察可能なもの」と「観察不可能なもの」の区別

 カルナップは「観察可能なもの」と「観察不可能なもの」の区別は、哲学者と科学者によって異なると指摘します。哲学者は、例えば、摂氏80度の温度とか、93.5ボンドの重さを観察可能なものとは考えません。なぜなら、それらは直接的に知覚できないからです。直接的に知覚できるのは、水銀柱が80のメモリを指していること、秤の針が93.5を指していることなどです。これに対して、科学者は、簡単な手続きで測定できるこれらの量を観察可能なものと考えます。

 「観察可能なもの」と「観察不可能なもの」の区別は哲学者と科学者にとってこのように異なるのですが、しかし、どちらにとっても、この区別は明確に線引きできるものではなく、暫定的なものです。カルナップは、「この連続体を区分するどんな鮮明な線も引くことはできない」(カルナップ『物理学の哲学的基礎』(沢田充茂、中山浩二郎、持丸悦郎訳、岩波書店、1968、p. 232)と言います。彼によれば、哲学者にとっても科学者にとっても「観察可能なものと観察不可能なものとを区別する線は、高度に恣意的である」(同所)。

 この区別に基づいて、カルナップは「経験法則」と「理論法則」の区別を次のように導入します。

*「経験法則」と「理論法則」の区別

「経験法則は感覚によって直接的に観察可能であるか、あるいは比較的簡単なやり方で測定しうるか、そのいずれかの用語を含む法則である。」これは、「観察や測定によって見いだされた結果を一般化して獲得されたもの」(同所)です。例えば、「全てのカラスは黒い」「気体の圧力、体積および温度を関係づける法則」「電位差、抵抗および電流の強さを関連付けるオームの法則」などです。これらの経験法則は、「観察された事実を説明したり、未来の観察可能な事象を予測したりするのに使われる」(同所)ものです。

 これに対して、「理論法則」は、観察不可能なもの、「分子、原子、電子、陽子、電磁場や、そのほかの簡単かつ直接的方法では測定できないような諸存在者」(同訳、233)についての法則です。

「経験法則は観察された事実を説明し、また[観察可能であるが、まだ]観察されていない事実を予測するのに役立つ。同じようなかたちで、理論法則は、すでに定式化された経験法則を説明し、新しい経験法則の導出を可能にするのに役立つ」235

「経験法則は個々の事実を観察することで正当化できる。しかし、理論法則を正当化するには、それと対比できるような観察はすることができない。なぜなら、理論法則で言われている諸存在は、観察不可能なものだからである。」235

#反証主義あるいは予測誤差最小化メカニズム((the prediction error minimization mechanism))

理論法則は、「事実の一般化」ではなく、「仮説」である。理論法則から導出された経験法則の験証が、「理論法則の間接的な験証をあたえる」(同訳237)。つまり、理論法則は、経験法則によってテストされます。また経験法則も観察報告によってテストされます。これは、単称命題から全称命題を導出できないということ、また、観察報告には全称量化表現が含まれていないということのためです。

このような反証主義は、カテゴリー「人はなぜ問うのか」の49回~62回で論じた、ヤコブ・ホーヴィ(Hohwy)著『予測する心』(原著2013)(佐藤亮司監訳、太田陽、次田瞬、林禅之、三品由紀子訳、勁草書房,2021)の「予測誤差最小化メカニズム」に似ています。ポパーの反証主義は、この予測誤差さ最小化メカニズムの一部として理解できるだろうと思います。つまり、予測誤差最小化メカニズムが、理論法則と経験法則の間、経験法則と知覚報告の間、知覚報告と知覚の間、知覚と感覚刺激の間、などに働いていると考えることができます。 ところで、理論法則と経験法則をこのように関係づけるためには、「対応規則」によって理論語と観察語を結びつける必要があります。これについて次に論じたいと思います。語の意味についてのこの議論は、パラダイム論に関わってきます。