06 儒教の自我論

06 儒教の自我論(20150701)

仏教と同じく、儒教にも長い歴史があり、様々な学派がある。ここでは、儒教の中心的な教えを、五常五倫の教えだと考えてみよう。五常とは、仁義礼智信という五つの徳のことである。これらの徳は、五倫と呼ばれる五つの人間関係、君臣、父子、夫婦、長幼、朋友にもとづいている。このような重要とされる徳目や、重要とされる基本的な人間関係の理解については、変遷があるようだが、ここではそれには立ち入らない。

仮に上記の五倫が基本的な人間関係であり、歴史をこえて普遍的に成立している関係であるとしよう。このような自然的な人間関係は、それを維持することを義務として含むことになる。なぜなら、もしその自然的な関係を破壊するなら、その関係よって成り立っている人間や共同体も破壊されるからである。ここでの仮定により、人間と共同体は五倫以外の仕方では存在できないからである。これは超越論的論証だといえるだろう。

(もちろんこの論証が成り立つためには、五倫の人間関係が、歴史を超えて普遍的に成立している自然的なものであることを証明しなければならない。ただし、その証明は儒教の中にはないのではないだろうか。それはただ前提されているだけなのではないだろうか。そして、現在の私たちは、五倫がそのような普遍的な自然的な人間関係ではないことを知っている。)

 

ここで、この超越論的論証の構造について考えよう。

仏教では、悪いことをせず善いことをすることは、自分の行為によって、地獄に落ちたり、獣に生まれ変わったり、人間に生まれ変わったり、よりよいものに生まれ変わったり、最終的には解脱したりする、という仕方で、サンクションを受けた。因果応報が、道徳的な行為を動機づけていた。(ちなみに、キリスト教でも、最後の審判で天国にけるか地獄に落ちるか、というサンクションがあり、この点で仏教と似ている。)

それに対して、儒教では、来世も、天国も地獄もないので、このようなサンクションは働かない。それでは道徳的な行為をすることには、どのような動機付けが働くのだろうか。君子に忠義をつくしたり、親に孝行したり、することで、相手から褒められたり、世間から褒められるだろう。それは世俗的な成功や幸せをもたらすのかもしれない。五常を守るか守らないかは、世俗的な成功と不成功という仕方でサンクションを受けるだろう。しかし、それだけであろうか。それならば、幸せになるためのハウ・ツー、処世術にすぎないだろ。

単なる処世術と五常の教えはどこが違うのだろうか?

 

04 安保法制に反対する三つの理由

04 安保法制に反対する三つの理由 (20150616)
1,集団的自衛権は、憲法9条に反している。
これについては、説明の必要はないでしょう。小学生でも憲法を読めば、そう考えるでしょう。
「安保法制は、憲法に反しているかもしれなが、しかし現状ではそれが必要であり、憲法を簡単に変えることが出来ないので、とりあえず安保法制で対応するしかない」と考えている人は、立憲主義を否定するものであり、その考え自体も憲法違反です。
2,現実的な政治選択として間違っている。
「憲法との関係を横に置くとすると、現在の国際情勢の中で、日本の取るべき政策を考えるとき、安保法制は必要である」 これは現実政治の政策として間違っている。それについて、03で「囚人のジレンマ」ゲームを用いて説明したので、繰り返しません。
3、現国会は違憲状態であり、その国会で安保法制を審議することは、間違っている。
現国会(衆議院)は2013年11月20日に最高裁大法廷で「違憲状態」だという判決が出ている(参照、「一票の格差」 in Wikipedia)。
安保法制のような重要な法案を、違憲状態の国会で審議すること自体が違憲である。

04 Nagarjunaの答え?

04  Nagarjunaの答え? (20150608)

仏教の「空」の思想を展開したといわれるNagarjunaの中論Middle Wayの答えは、おそらく次のようなことである。

<もしすべてのものが空ならば、生滅や因果関係ということはなく、輪廻転生ということもなく、四聖諦も成立しなくなるだろう>というような中論への反論は、それは「空」の中途半端な理解に基づくものである。実体として存在するものについては、その変化や因果関係を説明できない。変化や因果関係は、むしろ空によって理解可能になるのである。このことは、自我についても同様であり、もし自我が実体として存在するのならば、それの生滅を説明することはできなくなる。自我が生滅することは空によって説明可能になるのである。(参照、『中論』「第24章 4つの優れた真理の考察」(中村元『龍樹』 講談社学術文庫、378-384, Fundamental Wisdom of Middle Waytranslation and commentary by Jay L. Garfield, Oxford UP

 

ここで仮に、変化を説明するには、何らかの意味で空を認めなければならない、ということを認めたとしよう。このとき問題となるのは、そのときの空をどう理解したらよいのかである。Nagarjunaは空についてポジティヴには語らないので、隔靴掻痒である。

「業と煩悩が滅びてなくなるから、解脱がある。業と煩悩は分別思考から起こる。ところでそれらの分別思考は形而上学的論議(戯論)から起こる。しかし戯論は空においては滅びる。」(第18章5 『龍樹』p.364

もしこれが<分別思考(conceptualthought)のあるところ、五薀や煩悩や業が生じ、煩悩や業の主体である自我も存在する。しかし、空において分別思考は消え、自我も消える>という意味であるとしよう。そして、これが「世俗の覆われた立場での真理(a truth of worldly convention 」と「究極の立場からの真理(an ultimatetruth)」(第24章8、『龍樹』379MiddleWay, 68)に対応するのだとしよう。このとき、<自我や苦や煩悩や業や縁起や輪廻転生が成立するのは、分別思考にとってであり、空においてはそれらは存在しない>ということになるだろう。

この場合、苦や輪廻転生から解脱するとは、分別思考から、空の立場に移ることである。六道とは別の世界があって、そこへ移ることではなくて、六道が実は存在しないと知ることである。

 このとき、前述の部派仏教の矛盾は、どう解決されるだろうか。

部派仏教では、自我は五薀から構成されたものであり、実体としては存在しない。k彼らにとって「無我」とはそういう意味である。しかし五薀は存在し、その限りで十二支縁起から逃れることもできない。そうだとすると、自我の構成がなくなることはなく、苦を滅することも原理的に不可能になる。
これに対して、龍樹を含む大乗仏教は、五薀もまた、本当は存在せず、空である(「色即是空、空即是色」)と考えて、この矛盾を解決したのだといえそうだ。


 

 

03 部派仏教の「無我」の矛盾

03 部派仏教の「無我」の矛盾 (20150602)

部派仏教に属する『倶舎論』で、世親は「我は存在せず、煩悩と業とによって形成される薀(うん)のみがある」という。この五薀とは、色(肉体)、受(感受作用)、想(知覚作用)、行(意志作用)、識(認識作用一般)である。しかも五薀は、刹那に生滅する。つまり、瞬間ごとに生滅を繰り返しているという(参照、三枝充よし著『世親』講談社学術文庫、p. 95, 112)。部派仏教では、自我は存在しないと考えるが、それを構成している五薀が存在していると考えるようだ。

この場合、「自我が存在しない」とは、不可分で持続的な実体として存在するのではないという意味になるだろう。ただし、おそらく部派仏教は、他方では「五薀の刹那の生滅を貫いて、それによって構成されている自我が存在している」と語ることを(何らかの意味で)認めるだろう。(ここで、西洋でのロック以来の自己同一性をめぐる議論と似た議論を繰り返すことが可能かもしれない。これについては、書庫「人格とは何か」で論じたのだが、その時の議論では他者とのコミュニケーションの中で自己同一性を構成するしかないという結論になった。仏教のなかには、自我の同一性を他者とのコミュニケーションによって構成するというようなたぐいの議論は無いようにおもわれる。)

部派仏教は次のように考えるのかもしれない。「自我は実体としては存在しないが、構成されたものとして存在する。このとき、自我の構造の同一性、ないし連続性が、自我の同一性を意味する。そしてその構造の同一性や連続性があると考えることを否定するものではなく、その基底に実体的な自我が存在すると考えることを否定するものである。」

 このとき、自我は五薀という要素から構成されている。その構成は、五薀が因果関係(縁起)によって変化することによって構成されている。ところで、このとき仮にある自我が苦しんでおり、その苦しみが煩悩を原因としているとしても、その煩悩にもまた原因があり、それによって生じている。このとき、この苦を滅する方法などあるのだろうか。その人がどのように振る舞うかは、縁起によって決定しているのではないだろうか。このような自我は全く縁起の産物であって、縁起を抜け出たり、それを変更したりする可能性はないだろう。このような自我論はそれ自体では整合的であるかもしれない。例えば、現代の心の哲学の物理主義者はこのような自我論を取るかもしれない。しかし、これれは仏教の四聖諦、とりわけ滅諦と道諦に矛盾する。

苦諦:人生は苦に満ちている(四苦八苦)

集諦:苦には原因がある。それは煩悩であり、究極的には無知(無明)である(十二支縁起)。

滅諦:苦を消滅させることができる(解脱)。
  道諦:苦を消滅させるための方法(八正道)がある。

仏教は、この矛盾をどうやって克服するのだろうか。

02 仏教の根本問題

02 仏教の根本問題(20150602)

・仏教の特徴は、無我(anātoman, not-self)を主張することである。

・仏教のその他の思想の多くは、当時のインドで一般に認められていたことである。人が死と再生を繰り返すという輪廻(Samsara)の思想も、輪廻転生は、天・人・餓鬼・畜生・地獄の五道、ないしこれに修羅を加えた六道のいずれかに変わるという思想も、何に転生するかは業(karma)(道徳的行為)によって因果的に決定するという思想も、仏教以外のインド思想にも共通のものである。

・しかし、この「無我」から問題が生じる。「もし自我が存在しないのならば、何が輪廻転生するのか」という問題である。ジャイナ教は、仏教に対してこの点を批判した。仏教にとっての根本問題だと思われるは「輪廻転生の主張と、無我の主張が矛盾するように見える」ということである。

・この根本問題はもちろん、輪廻転生を認めなければ生じない。そして現代人にとって、輪廻転生は荒唐無稽な思想である。(それは私たちが西洋近代に登場し発展した自然科学を認めているからである。西欧近代以後の自然科学を知らない当時のインドの人々にとって、輪廻を理論的に批判することは難しいだろう。例えば、身体の死とともに心もなくなると私が考えるが、しかし自然科学を知らなければ、身体の死後心がなくなることを説得ことは難しいだろう。したがってそれが転生する主張を批判することも難しいだろう。)

・しかし仮に輪廻転生と六道の話を取り除いて、縁起を現世の中だけで考えるとしても、やはり次のような問題が生じるだろう。「縁起の説明、たとえば煩悩による苦の発生の説明は、無我の主張と矛盾するようにみえる」ということである。

・「無我」や「空」の概念は、東アジアの人間にはなじみのものである。しかし、それらを理解することは非常に難しいことであるし、私たちはまだその明確な理解を手にしていないように思われる。仏教の歴史は、「無我」や「空」の概念を受け入れたうえで、それについての整合的な理解を作り上げようとする試みであったと言えるのかもしれない。そして、それはひょっとすると、まだ最終的にうまくいっていないのかもしれないし、うまくいかないのかもしれない。ひょっとする「無我」を認めなかったジャイナ教徒の方が正しかったのかもしれない。

・仏教徒たちがどのように理解しようとしてきたのかを、振り返りつつ、「無我」を整合的に理解できるかどうか、検討してみようう。

 

01 はじめに 構成主義と仏教

01 はじめに 構成主義と仏教 (20150531)
 「自我」の理解は、「私とはどのようなものか」というような哲学的な問いや、「お昼に何を食べようか」「今日は何をしないといけなかったのだろうか」というような日常的な問いによって、構成されている。自我は、自我にかかわる問答において、問いの前提や問いの答えによって、構成されている。
 このような自我の構成が、社会の中でどのように行われるのかを説明するのが、自我の社会構築主義になるだろう。しかし、その時の説明において、資本主義や共同体のような社会制度を前提するならば、それらもまた歴史的社会的に構成されたものなのだから、そもそもの説明の出発点をどこに求めることになるのだろうか。
 その時の可能な答えの一つは、ルーマンのように社会はコミュニケーションから構成されていると考えることである。発声行為や身体行為にある意味を帰属され、それが他の行為の選択決定を促す、という仕方でコミュニケーションが成立し、その連鎖と集合が、社会や文化や人格を構成する。では発声行為や身体行為にある意味が帰属されるのは、どのようにしてなのだろうか。これは、言語起源論や哲学的意味論の課題であり、私にとってはメインの仕事になるが、ここでは扱えない。(これについては、とりあえず2014年度2学期の講義ノートhttp://www.let.osaka-u.ac.jp/~irie/kougi/kougiindex.htmを見ていただければ幸いです。)
 このような自我や社会の理解は、西洋ではポストモダンの思想かもしれないが、東アジアでは仏教以来なじみのものである。そこで、まず仏教の自我論とその歴史を確認しよう。

03 憲法9条と「囚人のディレンマ」ゲーム

03 憲法9条と「囚人のディレンマ」ゲーム (20150505)

囚人のディレンマ」ゲームとは、互いにコミュニケーションできない人たちが、自己の利益が最大になるように合理的に考えて行為するとき、全体としては最悪の状態になることを示すゲームである。これは、これまでも米ソの軍拡競争の愚かさを示すことなど、政治の分析に使われてきた。現在、安倍自民党政権がやろうとしている政策は、近隣国との相互不信を前提にするならば、自国の利益を最大にする合理的な選択であるのかもしれない。そしてその政策は、近隣国にも、同様に合理的に考えて同様の政策をとることを促す結果になるだろう。そして、地域全体としては最悪の状態を選択することになってしまうだろう。

これを回避するには、当事者たちがコミュニケーションを図り、相互信頼を醸成することによって、全体として見たときの最善の状態に到達すべく協力することが必要である。米ソが軍縮に成功したのは、まさにこの対話路線をとったことによる。

したがって、安倍政権が相互不信を前提にした「合理的」選択をしようとしていることは、大きな間違いなのである。そもそも相互不信を招いた最大の原因は、安部政権が、15年戦争について中国や韓国に対して「お詫び」する必要はないと「解釈」していることにある。安倍政権が近隣諸国との間に相互不信を招き、その相互不信を前提に「合理的」な選択をするという愚かな方向に日本と近隣諸国を向かわせている。

ハト派や護憲派の戦略は、リアリティのない無責任な考えではない。「囚人のディレンマ」ゲームを踏まえた、リアリティのある説得力のある選択なのである。タカ派の戦略は、「囚人のティレンマ」ゲームを理解しない、あるいは過去のその経験から学習しない、愚かな選択である。

15 「攻殻機動隊」の自我論

 
15「攻殻機動隊」の自我論 (20141020)
 
しばらく、音信不通で失礼しました。取り上げたいテーマはあるのですが、本来の仕事、つまり論文と講義があって、うまく時間が取れませんでした。
 
さてしばらく「攻殻機動隊」の自我論を論じたいと思いますが、これは書庫「物理主義からの倫理」に続くべきテーマでもあります。「物理主義からの倫理」では、心についての物理主義ないし消去主義を採用したときに、法や道徳はどのようなものになるのか、あるいは消去されるのか、を考えようとしました。そこでの答えは未決定のままになっています。その問題を考えるときに、人が道徳や法の責任主体となりうるかどうかを検討しましたが、個人が(自由ではないとしても)主体であることを前提して議論しました。しかし、物理主義の時代になっても、個人が主体であり続ける保証はありません。一方で、個人は、分人に解体するかもしれません。他方で、個人はネットワークにつながることによって主体性を喪失するかもしれません。後者の可能性を考えるときに、「攻殻機動隊」の世界観は非常に興味深いものであり、その自我論を検討する価値があるあると感じました。この流れでは、いずれ別途書庫を立てて追究したいと思います。
 
他方で、「攻殻機動隊」の自我論は、戦後日本の自我論の流れの中でも重要な位置を占めると思います。そこでそれを戦後日本の自我論の中に位置づけたいとおもいます。「近代的個人」に対する批判は、戦前からありました。それは個人を「社会的諸関係の総体」として捉えようとする見方であり、右翼も左翼もこの点に関しては一致して、近代的個人を批判してきました。しかし1990年ころから戦後思想は大きく変化してきているように思われます。自我論は重点を物語論や多元主義に移してきており、そのなかで「分人主義」も現れてきました。「攻殻機動隊」(士郎正宗の原作1989年)の自我論は、個人が分人に分かれるというより、個人がネットを介してつながり、その意味で個人を超える、あるいは個人性を喪失するという事態を捉えています。「分人主義」と逆方向の展開ですが、しかし互いにリンクするところも多いと予想します。分人主義との関係、あるいは戦後自我論の中での位置づけについては、あとで考えることにして、まずは「攻殻機動隊」の世界観、そこでの自我論、そこで提起される自我に関する問いの確認を行いたいと思います。
 
ここでは、攻殻機動隊のストーリーやキャラクターは扱いません。大塚英志の指摘するように、物語は、世界観とストーリーとキャラクターに分解できるでしょう。ストーリーは、さらに要素物語に分解され、その要素物語の直列や並列から構成されるシークエンスだと言えるでしょう(プロップとそれに続く物語論はこれを研究してきました)。ここで紹介し考察したいのは、「攻殻機動隊」の世界観とりわけ自我論です。
 
本作世界の基本的な技術は、「電脳化」と「義体」であり、Wikipediaの項目「攻殻機動隊」によると次のようなものです。
 
「脳にマイクロマシンなどを埋め込み、人間の脳とコンピュータネットワークを直接接続したバイオネットワーク技術。脳そのものを機械に変えてしまうことも電脳化と呼び、制御ソフトを導入するタイプの高性能な義足・義手などはこの電脳化を施す必要がある模様。」
 
「本作世界におけるサイボーグ技術。義手、義足、人工臓器の概念を全身に拡張、草薙のように、脳と基幹神経系だけを残してほぼ全身を人工物に置換したり(完全義体化)、逆に電脳化を行わず肉体だけ義体化することも可能。」
 
登場するのは、電脳化した人間、義体化した人間、その両方を行った人間、それから人工知能を搭載したロボットです。このような世界で、電脳化によってつながった人間はどうなるのか、ネットでつながったロボットは、人間と同じようになるのか、作中では「ゴースト」を持つようになるのか、という言い方をされています。
 
本作の世界観は「攻殻機動隊 STAND ALONE COMPLEX」の冒頭で次のように表現されている。
 
「あらゆるネットが眼根を巡らせ、光や電子となった意思を、ある一方向に向かわせたとしても、“孤人”が、複合体としての“個”になる程には、情報化されていない時代・・・」
 
 

 
 

14 「内面」の登場と「近代家族」の「愛情」

                                  森のなかは涼しいです。今日は大阪に戻りましたが、また森のなかに戻ります。
 
14 「内面」の登場と「近代家族」の「愛情」(20140828)
 
 近代における生活と労働と教育の分割、個人が複数の役割を生きることによって、それらを一つにまとめるために個人の内面が生じたのではないかと推測する。「近代家族」にとって夫婦や親子の「愛情」による結合が重要になったと言われることもまた、生活と労働と教育の分割が原因になっているのだと思われる。つまり、役割分割による家族の分離を補償するものとして「愛情」が必要になったのだと思われる。もちろん、生活と労働が分離することによって、大家族から核家族に変化したこともその一因であろうが、それだけでは「愛情」の重視を説明できない。ルネサンスに描かれ始める愛らしい子どもや女性の表情は、「愛情」の重視の現れである。ルネサンス期の肖像画や自画像は同時に個人の「内面」を描こうとしている。
 
 ところで、役割分割は更に進み、分人主義に行き着いている。このことは、「近代家族」の崩壊と結合しているに違いないが、どのように結合しているのだろうか。役割分割が分人化にまで進んだ背景には(以前に述べたように)社会の多元化があるのだとすると、「近代家族」の崩壊の背景にも社会の多元化があるのだろうか。「近代家族」の崩壊は、「無縁社会」と関係し、「無縁社会」は社会の多元化と関係している。グローバル化のもたらす厳しい競争が、人間関係をすりつぶし、家族を破壊し、無縁社会を作り出し、個人を分人化させ、分人としてかろうじてアイデンティティを保持しているのだだろうか。分人主義にはポジティヴな側面もあると思うのだが、現代日本ではそのネガティヴな側面ばかりが目についてしまう。
 
   分人主義は、「私とは何か」への答えになりうるのだろうか?
 平野啓一郎は、「私とは何か」の問いへの答えとして、分人主義を提案した。しかし、それは答えになりうるのだろうか。確かに複数の異なる分人を生きている人に、「対人関係ごとに見せる複数の顔が、すべて「本当の自分」である。」「たった一つの「本当の自分」など存在しない。」ということが救いになるのかもしれない。
 しかし、それでも自分がどのような分人を行きており、それら複数の分人の関係を調整する必要があるのではないだろうか。それとも複数の分人の関係を調整することが必要だと考えることが、そもそも唯一の「本当の自分」があると考えることに由来する間違いなのだろうか。
 子どもたちが教室で割り振られたキャラを演じようとしたり、演じることを強制されたりする、という斉藤環の指摘(斎藤環『承認をめぐる病』日本評論社)を読むと、教室でのキャラを「本当の自分」だと考えられる子どもたちはむしろ少ないのではないか思われる。そのような子どもたちには、複数の分人の調整が必要になるだろう。
 逆に次のようにも言えるだろう。現代社会における分人化の進行によって、自分とは何かという問いに答えることは、より困難になり、より切実なものになってきたと言えるのではないか。分人化が「自分探し」ブームの原因になっているのではないか。
 
 

 

11 グローバル化による主体の多元化

                                  暑い夏の 開始を告げる 蝉の声
 
11 グロー バル化による主体の多元化 (20140731)
 消費社会論から自我の多元化を説明することは、しばしば行われるが、もう一つ説得力にかけるような気がする。なぜなら、1980年代のバブルの時代に盛んだった消費社会論が、バブルの崩壊後はあまり活発でないからである。
 そこで前々回の話に少し戻らせてほしい。前々回に、冷戦期の自我論を、
  ①近代的主体
  ②伝統的日本的自我論
  ③マルクス主義的主体
に分類した。②と③は共に近代的主体を批判し、主体を他のものとの関係において捉える。②と③の違いは、その「他のもの」の理解の仕方である。
 マルクス主義は、「フォイエルバッハ・テーゼ」の第6テーゼにあるように、「人間は社会的諸関係の総体である」と考える。現代では、その「社会的諸関係」は、資本主義的な生産関係という経済関係を中心にしたものとして理解されるだろう。この「社会的諸関係」は、時代、地域によって異なるはずであり、人間のあり方を、具体的に検討するには、社会を特定して議論が必要になる。
 伝統的日本的自我論では、その関係は例えば、和辻哲郎の「人間」論のように、あるいは濱口恵俊の「間人主義」のように、人間と人間の関係として考えられるだろう。全ての人間関係は、社会的関係に媒介されているはずであるが、ここでは素朴に人間と人間の関係が考察されているように思われる。その関係は、時代を超えて日本社会に妥当するものとして理解されているのかもしれない。あるいは、それは日本人の間で強く意識化されているが、原理的には日本人の人間関係にかぎらず、人間一般の普遍的な存立構造として理解さているのかもしれない。つまり、時代と社会を超えて、普遍的に成り立つこととして考えられているのかもしれない。
 近代的主体に対する批判は、②や③に限るものではない。西洋でも、構造主義による実存主義批判や、共同体論者によるロールズの「負荷なき自我」に対する批判や、ルーマルのシステム論や、ウィトゲンシュタインの私的言語批判や、フーコーの規律訓練型権力に対する批判や、社会構築主義など、多様な批判が行われている。
 さらに遡るならば、近代的主体への批判は、フィヒテやヘーゲルの「承認論」に既に始まっているということもできる。これらの批判は、いずれも主体を実体として捉えるのではなく、関係において存立するもの、あるいは関係そのものとして存立するものとして理解する関係主義的な主体理解である。
 このような関係主義的な主体理解からの「近代的主体」に対する批判は二種類に分けることができる。一つは、歴史と社会を超えた人間の普遍的なあり方の考察から、近代的主体を批判するもの、もう一つは、論者の生きているある歴史のある社会において「近代的主体」は成立しないという批判である。上に見たように、マルクス主義からの批判の中には、二種類の批判がありうるだろう。日本的な主体理解の立場からの批判も、二種類の批判がありうるだろう。この二つの観点を区別に注意しておくことが明確な議論のためには不可欠である。
 関係主義的な主体理解は、近代的実体的個人主義的な主体への批判として登場してきたので、最初にはその批判に重点がおかれるが、その次には、関係の中で主体がどのように成立し構成されているかの説明に重点が移ってくることになるだろう。大庭健の「責任=呼応可能性」の議論はその一つだと言える。(ちなみに、永井均の〈私〉論、および永井均と大庭健の論争は、それ自体大変興味深いし、また戦後自我論において重要な位置を占めるに違いないのだが、それをどのように位置づけたらよいのかは、いまだ思案中である。)
 
 さて、1990年代以
後の「自分探し」ブームの中で登場した新しい概念として、多元主義と物語論という二つの自我論があげられる。もっともこれは日本に限らない世界的な傾向である。そのうちの「多元的な主体」に話しを戻そう。
 関係主義的な主体理解を認める時、主体そのものが分裂すること、あるいは多元化するとは、主体を構成する社会的諸関係が分裂すること、あるいは多元化することである。では、主体を構成する社会的諸関係の分裂ないし多元化は、どこにどのように登場しているだろうか。
 平野啓一郎が言うように、コミュニケーション手段の多様化、人間関係の複雑化によって、家庭や職場やインターネットサイトやNPOなど様々な社会空間が分裂しており、そのためにある人が演じるキャラが社会空間ごとに異なる。
 ただし、それだけでは理由として不十分ではないだろうか。もし国民国家が、究極的にはこれらの社会空間を一つに統合しているのだとすると、それぞれのキャラも一つに統合可能であろう。つまり、社会空間ごとの複数のキャラの使い分けは、一つの人格に属するものとして統合される。フーコーによれば、近代主権国家の規律訓練型権力が、個人の欲望を抑圧するだけでなく、他方で個人の欲望を生産し、欲望の編成によって、近代的主体を生み出したのである。この理解からするならば、主権国家と近代的主体は構造的な補完関係にある。従って、主権国家は、個人を構成する社会的諸関係、諸空間を編成しているのであり、それらは主権国家によって統合される。
 
(注、ドゥルーズがいうように、「規律社会」から「管理社会」への変化が20世紀初頭に起こっているのだとしても、主権国家が存続する限り、それが社会的諸関係を管理統合するだろう。ちなみに、この「管理社会」は、第一次大戦頃から登場すると言われる「総力戦体制」に対応するのかもしれない。)
(注、私は書庫「問答としての経済」で述べたように、近代的「個人」は資本主義経済の中で誕生したと考えるが、近代主権国家(近代的主体)と資本主義社会(近代的個人)の関係の考察は、今後の重要な課題である。)
 
 しかし、グローバル化のなかで、主体を構成する社会関係が国民国家を越えてグローバルに広がっているのだとすると、それらの社会関係を国民国家が統合することはできない。したがって、主体を一つに統合するものはなくなる。主体を構成する社会的諸関係の多様化が、原理的に国民国家の中に収まらなくってきていることが、主体の多元化を引き起こしているのではないだろうか。グローバル化における人、物、金、情報の国境を得た移動が、私たちを構成する社会的諸関係を国民国家で統合できないものにしている。
 
(注、それを歓迎しないものは、ナショナリズムを復活させようとする。しかし、人々が好むと好まざるに関わらず、どうやら経済のグローバル化は不可避的に進んでゆく(右翼政権ですら、TPPを推進する。なぜなら経済の国家間競争に勝つためにそれが必要だからである)。つまり、好むと好まざるに関わらず、主体の多元化は不可避的に進んでいくだろう。それに反応して、ナショナリズムは執拗にバックラッシュする。国家というシステムをナショナリストに委ねてしまうことは非常に危険である。それを避けるには、グローバル化の進展の中に、過渡的であれ、国家システムを適切に再設定する必要がある。グローバル化の中で、国家に求められるのは、国内的および国際的な再分配機能ではないだろうか。
 安倍政権は、一方では、TPPを推進し、法人税をさげ、グローバル化に棹さしており、他方では、国内の再分配は消費税で行おうとするので余計に格差を拡大し、その不満をナショナリズムにむけ、「いつでも戦争できる国家」(総動員体制)を作ることによって、主権国家を維持しようとしている。)