97 問いに対する答えが真であるとはどういうことか(What does it mean for an answer to a question to be true?)(20231221)

[カテゴリー:問答の観点からの認識]

93回と94回では、問いの答えを知覚に依拠して得る場合と、推論によって得る場合を区別しましたが、ここではこの区別について再考したいとおもいます。以下に見るように、問いの答えを知覚に依拠してえる場合にも、私たちは推論を行っていると思われます。(問いに答えるときには、常に何からの推論が行われているだろうと予測します。ただし、問いに答える場合を、知覚に依拠する場合と、知覚に依拠しない場合に区別することはできると考えます。)

例えば、「これは赤いですか」と問われて「はい、それは赤いです」と答えるとき、私たちは、「赤い」を学習したときの事例の知覚断片と、ここでの「これ」や「それ」が指示する対象の知覚断片の類似性にもとづいて答えています。この場合ここでの「それは赤いです」という答えの真理性は、学習時の事例の知覚断片およびそれとの類似性からの推論に依拠しています。(ただし、この推論は、通常の言語的な推論つまり命題関係としての推論ではありません。いずれ考察する予定です。)

ここでの問いの答え「それは赤いです」の真理性は、

・これは赤い」を学習したときのその真理性、

・その時の知覚断片と現在の知覚断片の類似性、

・これらからの推論の妥当性、

に基づいています。

*まず、「これは赤い」を学習したときのその真理性について、考えてみましょう。

 子供が「これは赤いですか」と問い、大人が「これは赤いです」と教えたとしましょう。このとき大人は誠実な人であり、「これは赤い」が真であると信じて答えているとします。このとき、「これは赤い」が真であるとはどういうことでしょうか。

 このとき、その大人に「あなたはなぜこれは赤いと考えるのですか」「あなはなぜ「これは赤い」が真であると考えるのですか?」と問うならば、大人は「なぜなら私はそのように教わったからです」と答えたとしましょう。その大人は、それとよく似た対象をもとに、「これは赤い」が真であると教わったのです。「これは赤い」と教えた人に教えた人に教えた人に…、というように遡っていけば、「これは赤い」を最初に使った人に行き着くでしょう。その人は「これは赤い」ということを教わったのではなく、ある対象について「これは赤い」を真だということにしましょうと提案したのです。そして、その提案が受け入れられ、それが次々に継承されて、ここでの子供による「これは赤い」の学習につながっているのです。

 このような連鎖が可能であるとするとき、「これは赤い」の最初の提案(定義)が真であるとはどういうことでしょうか。  定義に真偽の区別はあるのでしょうか。<定義としての「これは赤い」の相関質問は、理論的問いではなく、実践的問いである>と思われます。実践的問いの答えは、記述ではなく、したがって真偽の区別はなく、自由な決定だと思われます。これについて次に考えたいと思います。

96 仕切り直し、語と対象、文と事実、問答推論、などの学習(Toward a reorganization: Learning words and objects, sentences and facts, question and answer reasoning, etc.)(20231216)

[カテゴリー:問答の観点からの認識]

(長く中断してすみません。考えあぐねていました。93回~95回の議論を仕切り直して、もう一度論じたいと思います。論じたいのは、「問いに対する答えが真であるとはどういうことか」です。なぜなら、問答推論に着目して認識論を論じようとするならば、認識が成立するとは、問いに対する答えが真となるということに他ならないからです。この問いに取り組前に、今回は準備段階として、語、文、問答などの学習がどのように行われるのかをセッツ名したいと思います。)

#語と対象、文と事実、問答推論、などの学習

<語の学習は対象の学習と不可分である>

語「リンゴ」の学習は次のような問答によって行われるでしょう。

  「これはリンゴですか?」「これはリンゴです」

  「これはリンゴですか?」「これはリンゴではありません」

学習者がこのように問い、教師役のひとが このように答えを教えてくれます。このような問答を多くの対象について学習します。。それに基づいて、まったく新し対象について「これはリンゴですか?」と自問したり他者から問われたりしたときに「これはリンゴです」とか「これはリンゴではありません」と正しく答えられるようになった時、語「リンゴ」を学習したと言えるでしょう。

この時同時に、私たちは対象<リンゴ>が何であるかを学習しています。オースティンが指摘したように、語の学習と対象の学習は、同一のプロセスで行われる(注、オースティン「真理」信原幸弘訳、『オースティン哲学論文集』坂本百大監訳、勁草書房、191)。語「リンゴ」の学習と対象<リンゴ>の学習は不可分であり、同時です。つまり<語の意味の学習と語の指示対象の学習が不可分です>。(これは、フレーゲのSinnとBedeutungに対応します。)

<語の学習は、文の学習と不可分であり、さらに問答の学習と不可分です>

このような語と対象の学習において、同時に、「これはリンゴですか」という疑問文で問うことの学習と、「はい、これはリンゴです」あるいは「いいえ、これはリンゴではありません」という平叙文で答えることの学習も行っています。それゆえに、語「リンゴ」の学習と文「これはリンゴである」の学習は不可分に結合しています。「リンゴ」を学習するには、「これはリンゴである」がどのようなとき使用できるのか、どのようなときに使用できないのかを、学習する必要があります。そして、これを学習するためには、上記のような問答が必要です。それゆえに、語の学習は、文の学習だけでなく、問答の学習とも不可分に結合しています。

  

<この問答を学習するには、どうすればよいのでしょうか>

この問答の学習には、二種類のケースがあります。

一つの場合は、この学習が「これは、…ですか」とか「これは…です」のという一般的な形式の理解を前提として、この…に「リンゴ」を入れた疑問文や平叙文の理解として生じる可能性です。この一般的な形式の理解は、このような問答をいくつか学習し、そこからの抽象によって得られるでしょう。

もう一つのケースは、この問答の学習が、このような一般的な形式の理解を前提としておらず、初めてこの形式の問答を理解することになる可能性です。この後者のケースが、より原初的であるので、それがどのようにして可能になるのかを考えてみましょう。

幼児が最初に語を使用し始めるとき、それは一語文でしょう。親も亦、ミルクを手にもって振りながら「ミルク」という一語文を語るでしょう。最初から「これはミルクです」という文を理解することは難しいからです。

ミルクビンを手にもって、それに注意を向けるためにそれを揺らしながら、「ミルク」と発話するとき、「手に持っているこれが、ミルクだよ」というつもりで語っています。

ミルクビンを手にもって幼児の目の前で揺らすとき、おとなと幼児がそれに共同注意することが成立します。そのとき「ミルク」ということによって、共同注意の対象を「ミルク」と呼ぶことが成立します。

ミルクビンを振ると、それは変わった動作なので幼児はそれに注目します。そして大人もまたそれに注意を向けていること、おとなと幼児がミルクビンに注意しそのことを互いに気づいているとき、おとなが「ミルク」というとき、おとなと幼児は、「ミルク」という発話にも共同注意するでしょう。幼児は、そのとき大人が「ミルク」という発話と対象を結び付けていることに気づくでしょう。そのようなことが繰り返すことによって、幼児はその対象と「ミルク」という発話を結合します。大人が「ミルク」というときその対象のことを考えているのだと考えるようになるでしょう。

大人がミルクビンを指さして「ミルク」と発話することを繰り返せば、幼児は大人が指さしたものへの大人との共同注意を行うことができるようになるでしょう。これが学習で来たならば、対象を指さしとき、「ミルク」と発話することを求めていると考えるようになるのではないでしょうか。あるいはそう考えていなくても、そのとき「ミルク」といったら大人が喜ぶ様子を見ることを反復すると、ミルクビンを大人が指さしたら「ミルク」というようになるかもしれません。ちなみに、これはオペラント反応ではありません。なぜならオペラント反応は反射の一種であり、それを思考とは言えませんが、ここでは思考が行われているからです。相手が何を指さしたときに、それの呼び方を求めているのだと考えることは、それまで反復されていた指さし行為を見るという、経験と記憶に基づいた、推論によることだからです。つまり、ここではある対象を指さすことは、それの呼び方を求めることになります(これは言語的な問いのもっとも原初的な形態であるでしょう。)

同様にしてある対象指さしながら「これ」と発話し、対象に共同注意し、同時に「これ」という発話にも共同注意することを繰り返せば、「これ」と指さしている対象が結びつき、「これ」という発話で、指さしている対象に注意を向けるようになるでしょう。そして、今度は、ミルクビンだけでなく、スプーンやおもちゃなど様々な対象をもって振ったり、指さしたりしながら、「これ」と大人がいうのを、対象と「これ」の発話に共同注意をするとき、「これ」という発話は、おとなが手に持っている対象や、指さしている対象と結びつくことになるでしょう。

「これ」と発話してある対象を指さし、次に「ミルク」と発話することを繰り返せば、「これ」の指示対象と「ミルク」という発話が結びつくようになるでしょう。このような学習が進めば「これ、ミルク」という発話で、「これ」の指示対象を「ミルク」と呼ぶことを学習するようになるでしょう。

同様にして、「これはおしゃぶり」「これはおもちゃ」「これはランプ」なども学習すれば、ある対象を指さして「これは」といえば、それに続いて、「ミルク」「おもちゃ」などの対象の名前を発話することを求めているのだと理解するようになるのではないでしょうか。

ここでは「これは」という発話は、「これ」の指示対象の呼び方を問うことです。これは疑問表現を用いないで問うことである。「これ」の指示対象の呼び方を問うことを明示化するために、「これは何」「これはミルク」、「これは何」「これはおもちゃ」などの発話のペアを大人が聞かせれば、「これは何」で「これ」の指示対象の呼び方をもとめているのだと理解するようになるでしょう。こうして「何」という疑問詞の使用法を理解するようになるでしょう。

このようにして問答が成立するとき、私たちは問いに対する答えが真であると考えるが、それはどういうことでしょうか。それを次に考えたいとおもいます。

95 推論規則MPの正当化とその事例の正当化区別から仕切り直しへ(the distinction between the justification of the inference rule MP and the justification of its cases — toward a reorganization) (20231204)

[カテゴリー:問答の観点からの認識]

#推論規則MPの正当化とその事例との正当化の区別

「これがリンゴであるならば、これは果物である」という条件法を真だと考える者は、「これがリンゴである」を真であると考えるときには、「これは果物である」を真だと考えるでしょう。したがって、「これがリンゴであるならば、これは果物である」と「これはがリンゴである」を共に真だと考えるときには、「これは果物である」を真だと考えるでしょう。つまり<「これがリンゴであるならば、これは果物である」、「これはがリンゴである」┣「これは果物である」>という推論を妥当だと考えます。

以上を認めるとします。つまり、「これがリンゴであるならば、これは果物である」という条件法を真だと認める者は、<「これがリンゴであるならば、これは果物である」、「これがリンゴである」┣「これは果物である」>という推論を妥当だと認めることになります。

この推論の形式を一般化すれば、MPとなります。したがって、このような推論を数多く行えば、それらかの一般化によって、明示化されたMPを獲得できるかもしれません。それが獲得できたならば、この推論は、MPの一事例であることになります。

このように考えるとき、私たちは、第一段落のような推論からMPを(帰納ないし一般化によって)正当化しているのであって、MPを用いてこの推論を行ったのではありません。

では、冒頭の段落の推論はどのようにして成立したのでしょうか。それは「これがリンゴであるならば、これは果物である」という条件法を真だとみなすことに依拠していました。p→rと考えることから、p→r、p┣r と推論することになったのです。p→rを真だとみなすことは、暗黙的にp→r、p┣rという推論できるということを含んでいるのです。

これまで、推論はMPによって行われ、それはp→rのような条件文を使用するので、p→rの真理性を考えてきました。しかし、推論はMPによって正当化されるとは限らないことが、わかりました。推論規則MPの妥当性が正当化された後には、MPに依拠して推論をおこない、それを正当化することができるのですが、MPの正当化が行われる前に、MPに依拠しないで私たちは推論をしているのです。それがより原初的な推論です。

#仕切り直しへ

わたしたちは、93回から、問いに対する答えが正しいとはどういうことかを考えてきました。

問いに対する答えが正しいとは、問いが理論的な問いである場合には、答が真であることであり、問いが実践的な問いである場合には、答が適切であることだと考えます。認識は理論的な問いに答えることであるので、認識の正当化とは、理論的な問いに対する答えが真であることであり、問いに対する答えが真であるとはどういうことかを、考えてきました。その際、問いに対して知覚に依拠して答える場合と、推論によって答える場合にわけて、考察してきました。そして、推論は、MPに依拠して行われると考えてきましたが、原初的な推論はMPに依拠しないと思われることがわかりました。

さらに、実はこの原初的な推論においては、問いに対して知覚に依拠して答えることと、推論によって答えることの区別もまた曖昧になってきます。そこで理論的問いに対する答えが真であるとはどういうことかを、次回から、仕切り直して論じることにしたいと思います。

95 因果関係の正当化とMPの正当化(Justification of Causality and Justification of MP) (20231130)

[カテゴリー:問答の観点からの認識]

(2)の因果関係は、経験によって認識され正当化されるだろうが、それは具体的にはどのようになされるのでしょうか。

 例として、次の因果関係を考えてみましょう。

  「雨が降る」→「道路が濡れる」

前件の「雨が降っている」という文の学習は、「今ここで雨が降っていますか」「はい、今ここで雨が降っています」という問答を学習することを繰り返すことによって、新しい状況で「今ここで雨が降っていますか」という問いに正しく答えられるようになることによって完了します。「雨が降っている」という前提が成り立つことは、規約の学習と、規約を学習したときの事態の知覚と問答の時点での事態の知覚の類似性によって正当化されます。

 後件の「道路が濡れている」という文の理解は、次のようになされるだろうと思います。「これは道路である」と「これは濡れている」についての(「これはリンゴである」の場合と同様の)学習を前提するとき、「この道路は濡れていますか」という問いに、「この道路は濡れています」と正しく答えることができるはずです。それは、「この道路」の指示対象の知覚が、「これは濡れている」を学習したときの対象の知覚と類似していることの認識によって成立するはずです。

 この前件と後件の恒常的な結合の認識、つまりこの因果関係の認識は、雨が降っていることを認識し、その雨が道路を濡らしていることを認識し、雨が降ると道路が濡れることを認識することを繰り返すことによって、「雨が降ると、道路が濡れる」を帰納推理することよって正当化されるでしょう。

#MPの正当化について

  p、p→r┣r

このMPが成立することは、p→rが成立するとは、pが成立したらrが成立するということです。したがって、「p→rが成立している」と考えるとは、「pが成立したら、rが成立する」と考えることです。それゆえに、「p→rが成立している」と考えるときに、「pが成立している」と考えるならば、「rが成立すると考えることになります。つまり、「p→rが成立している」と考えることは、「p、p→r┣rが成立する」と考えることを暗黙的に含んでいます。

したがって、条件文(p→r)の正当化は、暗黙的にMPの正当化を含んでいます。次に進む前に、この観点から、もう一度、条件文(p→r)の正当化を振り返ってみたいと思います。

94 問いに対する推論による答えの正当化(Justifying the answer to the question by reasoning) (20231128)

[カテゴリー:問答の観点からの認識]

#問いに対する推論による答えの真理性の正当化について

*実質推論の学習と実質問答推論の学習

語や原初文の学習が規約の学習として成立するが、原初的な推論の学習には、規約の学習として成立する場合とそうでない場合があります。他の推論に依拠しない原初的な推論を「実質推論」と呼ぶことにします。「実質推論」もまた、問いに答えるプロセスとして成立し、暗黙的な相関質問をもちます。「実質推論」は、暗黙的な「実質問答推論」です。暗黙的な相関質問を明示化すると、明示的な「実質問答推論」となります。

*推論の基礎p→r

推論の基礎は次の推論規則MPです。

p、p→r┣r

これの基礎はp→rという命題です。p→rは、pが成立したら、rが成立するという関係にあるということです。MPの正当化を考える前に、ここではp→rという形式の条件文や信念はどのようにして生じ、正当化されるのかを考えたい。p→rの信念は、次の種類に分けられるます。これらがどのようにして生じるのかを考察しよう。

(1)論理関係がその一つである。

「これはリンゴである」→「これは果物である」

「全てのカラスは黒い」→「このカラスは黒い」

    「これはリンゴである」→「少なくとも一つリンゴがある」

           「これは果物ではない」→ 「これはリンゴではない」

    「このカラスは黒くない」→「全てのカラスが黒いのではない」

    「リンゴは一つもない」→「これはリンゴではない」

(2)因果関係がその一つである。

    「雨が降る」→「道路が濡れる」

    「道路が濡れていない」→「雨が降っていない」

  • の論理関係は、概念間の無時間的概念関係です。この無時間的概念関係は、規約に基づくものであり、規約が変化しない限り変化しない確実な関係である。この論理関係の学習は、次のように行われるでしょう。

「リンゴ」の学習は、「これはリンゴですか」「はい、これはリンゴです」「いいえこれはリンゴではありません」などの正しい問答を何度も教えられて、新しい対象について「これはリンゴですか」と問われたときに、正しく答えられるようになった時に完了すると説明しました。このとき、リンゴとリンゴでないものの区別ができるようになっています。

同様にして「ナシ」を学習したとしましょう。。このとき、「あるものがリンゴでありかつナシであることはない」ということは、「リンゴ」「ナシ」の学習を終えている者には、「リンゴ」と「ナシ」の意味から推論できます。「リンゴでありかつナシであるものはない」や「リンゴであるものはナシではない」「ナシであるものはリンゴではない」は、「リンゴ」と「ナシ」の意味に基づいて推論され、正当化されることになるでしょう。

次に、「これがリンゴであるならば、これは果物である」という条件法について考えてみます。これを全称命題に変形したものが「(全ての)リンゴは果物である」という命題になります。これらの認識の発生について考えてみましょう。

「果物」という語の学習はどのように行われるのでしょうか。一つの可能性は、「リンゴ」の学習と同様に、多くの対称について「これは果物ですか」「はい、これは果物です」「いいえ、これは果物ではありません」という問答を学習して、未知の対象についての「これは果物ですか」という問いに、正しく答えられるようになるということです。この場合は、「リンゴは果物である」は(「リンゴはナシでない」の場合と同様に)、「リンゴ」と「果物」の意味に基づいて推論され、正当化されます。

もう一つは、「木や草になる間食用の果実」などの、定義によって、「果物」という語の意味を学習することです。これは、定義に用いられる語の学習を前提としますが、それを前提できるとします。この場合、「リンゴは、木や草になる果実である」と「リンゴは、間食用である」が言えれば、「リンゴは、木や草になる間食用の果実である」が推論でき、そこから「リンゴは果物である」が推論できます。

「リンゴは、木や草になる果実である」は、「リンゴは、木になる果実である」から推論できます。「リンゴは、木になる果実である」は、対象<リンゴ>が性質<気になる果実である>をもつこと(木になっていること)を経験によって知ることによって正当化できます。

「リンゴは間食用である」は、(「間食用」を学習済みであるとすると)対象<リンゴ>が性質<間食用>をもつこと(間食に食べられていること)を経験によって知ることによって正当化できます。

次に、p→rが(2)因果関係を表示する場合を考察したいと思います。(MPの正当化の説明は、そのあとになります。)

93 認識の正当化:問いに対する真なる答えの正当化 Justification of the true answer to the question (20231127)

(Justification of recognition: Justification of the true answer to the question) (20231127)

[カテゴリー:問答の観点からの認識]

(これまでのこのカテゴリーでの議論の歩みについては、カテゴリーの冒頭の(書き直した)説明をご覧ください。ブランダムの概念実在論の考察にいずれ戻ると思いますが、しばらく、問いに対する答えが真であることをどうやって正当化できるのかを論じたいと思います。まず、基本的な知覚報告から考えます。

#知覚報告「これは赤い」の真理性

「あかい」の学習は、「これは赤いですか」に対して「これは赤い」とか「これは赤くない」という正しい答えを学習することによって、行われる。このような学習を繰り返して、未知の対象についての「これは赤いですか」という問に、正しく答えられるようになるとき、語「赤い」を学習したと言えます。このプロセスは、性質<赤さ>を学習するプロセスであり、「これは赤い」という文の意味学習するプロセスでもあります。

「これは赤い」が真であることは、語「赤い」を学習したときの諸事例と、問われたときの事実が類似しているということによって、正当化されます。

この類似性は、語の学習時の事例の記憶に基づきます。この記憶の正しさの問題は、私的言語の問題と似ている。それは、感覚Eにたいする私的言語の使用が規則に従っているかどうかは、判定できないという問題と、似ています。規則遵守問題が、言語共同体の承認によってしか解決できないのだとすると、知覚報告は、社会的承認によって正当化されることになります。

「赤い」を学習したときの諸事例の類似性は、社会的承認によって正当化されます。言語を学習するとは、言語表現の使用規則を学習することです。また学習後の「これは赤い」という知覚報告の真理性もまた、社会的承認によって正当化されます。

次に、問いに対する推論による答えの正当化について説明したいと思います。

15 インフレ的自由論対デフレ的自由論Inflationary versus Deflationary Liberty (20231121)

[カテゴリー:自由意志と問答]

『フィヒテ研究』が今年の第31号からweb掲載となり拙論「自由意志に対するスピノザの批判とフィヒテの擁護――インフレ的自由論対デフレ的自由論―」が公開されました (My essay "Spinoza's Criticism of Free Will and Fichte's Defense - Inflationary versus Deflationary Liberty" has been published.)
http://fichte-jp.org/2023FichteStudien31/04Irie.pdf をご覧ください。

17 利害の衝突を解決するためのコミュニケーションの方法(How to communicate to resolve conflicts of interest)(20231026)

[カテゴリー:平和のために]

利害の衝突、思想の対立、を果たして話し合いで解決できるかについては、悲観的、懐疑的な非ともたくさんいると思いますが、少なくともそれは、話し合い以外のものでは解決できません。

では、どのような話し合いが有効でしょうか。相手を説得しようとするコミュニケーションは、おそらく有効ではなく、むしろ有害かもしれません。何よりも必要なことは、互いの利害の衝突や思想の対立を明確にすることでしょう。

 論争によって相手を説得することは、学問研究においてすら難しいことですが、ましてや政治においてはほぼ不可能なことだと思います。しかし、お互いの差異を明確にしようとする話し合いは多くの場合可能です(これが不可能な場合には、第三者を介する話し合いが必要になります)。

 差異を明確にするためのコミュニケーションもまたコミュニケーションであって、それが成立するには、「好意の原則」(デイヴィドソン)や「協調の原理」(グライス)に従うことが必要です。コミュニケーションを継続すれば、いずれ信頼関係も生まれるでしょう。

「ライバルと交流すれば、彼らを人間として扱うようになる。そうすれば、協力、交渉、そして信頼が可能になるのだ。」(ブライアン・ヘス、ヴァネッサ・ウッズ『ヒトは<家畜化>して進化した』藤原多加夫訳、白揚社、p. 29)

差異を明確にすることで可能になることは、最悪でどこまで譲歩すれば対立の解消になるのかをお互いが理解できるようになることです。それを出発点にして、互いにどこまで歩み寄れるかを交渉することが可能になります。

 たとえ戦争状態になっても、全体としての最悪の選択を避けるためには、対話を継続することが重要です。対話では、差異を明確にして、最悪の譲歩地点を確認し、すこしでもましな妥協点を交渉する。(今のところ、これ以上のことを思いつきません。動物は復讐しません。その点だけは動物を見習いたいです。)

16 感情的反応と二種類の合理的反応:イスラエルのガザ地区本格攻撃を目前にして(202301016)

Emotional reactions and two types of rational reactions: In the face of Israel's full-scale attack on the Gaza Strip

[カテゴリー:平和のために]

ガザ地区のハマスによるイスラエル攻撃に対して、イスラエルのネタニヤフ政府は大規模な報復攻撃をしようとしています。これについて内田樹さんが、YouTubeチャンネル「デモクラシー・タイムズ」で、感情の問題と合理的な対応を区別しなければならないと指摘しています。その通りだと思います。

家族や仲間を殺された人が復讐したいとおもう感情は人間にとってはある意味で自然なことです(動物は復讐しません)。しかし、それでは悲惨な復讐の連鎖はいつになっても止まりません。それを回避するには、双方にとっての長期的な利害を合理的に考える必要があります。しかし、この文脈での合理的な反応には二種類のものがあります。

一つは、「囚人のディレンマ」ゲームにおける合理的な反応です。「囚人のディレンマ」ゲームとは、互いにコミュニケーションできない人たちが、自己の利益が最大になるように合理的に考えて行為するとき、全体としては最悪の状態になることを示すというゲームです。

このゲームが成り立つには、二つの重要な条件があります。一つは、<囚人同士が互いにコミュニケーションできない>ということ、もう一つは、<二人の囚人がどちらも、自分の利益だけを最大にしようとしている>ということです。

この帰結を回避するには、この二つの条件を変えることが必要です(囚人のディレンマ・ゲームにおける配点を変更する、ということも、最悪の状態を避けるための一つの方法ですが、これは現実には難しいことがおおいので、触れません)。

私たちにできそうなことは、<当事者や関係者が相互にコミュニケーションすること>です。それができれば、最悪の事態を避けられるでしょう。もしコミュニケーションが十分にできるならば、他者の利益や全体の利益を考慮することが、結果として自己(目先の利益ではなく)長期的な利益を最大にすることになることがわかるでしょう。

他者の利益や全体の利益を考慮し、自己の長期的な利益を考慮するためには、合理的に考える必要があります。

合理的反応の一つは、他者とコミュニケーションせずに、自分の短期的な利益だけを、合理的に追及することです。合理的反応のもうひとつは、他者とコミュニケーションし、自己や他者や全体の利益を考え、自己の長期的な利益を合理的に追及するということです。

ホッブズが言ったように、人間は理性を持っているにも拘わらず争うのではなく、むしろ理性を持っているからこそ争うのです。理性的にふるまうことは重要ですが、それだけでは不十分です。少なくとも理性的なコミュニケーションが不可欠です。テロやヘイトスピーチは、コミュニケーションを壊してしまいます。

52 Transformerと人間の思考(Transformer and human thinking) (20231012)

[カテゴリー:日々是哲学]

Chat GPTのソフトTansformerは、次の語が何になるのかを計算しているだけであるのに、それが考えながら話しているように見える、ということが不思議だと言われることがあります。確かに、私たちが考えながら話すとき、「次の語は何になるのか」とは問うていません。しかし、私たちは、たいていは、事前に語る内容を心のなかにあいまいな形で考えていて、それを言葉にしていくのではなく、話しながら考えています。このような場合、話すことは、脳内で次の語を決定する作業の連続として生じているのではないでしょうか。そうすると、このとき私たちは、Transformer と同じく、次の語を計算しているだけです。もちろん私たちは、こうしてできた文を反省して、それを前提に推論することができます。しかし、この推論のプロセスも亦、次の語を計算することの連続として成立するのです。

 では、Chat GPTと人間の脳の違いはどこにあるのでしょうか。