19 エナクティヴィズムとアフォーダンスと問答    (20201225)

[カテゴリー:人はなぜ問うのか?」

 このカテゴリーでは、「人は何故問うのか」に答えることが課題であるが、その前に人が問うことは、動物の探索とどう違うのかを明らかにしようとしてきた。これにまだまだ時間がかかりそうである。

 さて、動物が、走性や無条件反射で行動しているとき、それが探索行動であると見えても、それ遺伝子で決定している行動であるので、個体が探索しているのではない。動物が、条件反射とオペラント行動によって探索していると見る時、その行動は経験によって成立するものなので遺伝子と経験によって決定されている個体の行動である。それは、意図的行為ではないが、個体による探索行動だといえるかもしれない。ただし、この探索は、過去の経験と遺伝子と現在の経験によって決定されている。前者を「遺伝的行動」、後者を「経験的遺伝的行動」と呼ぶことにしよう。

 知覚は、どちらの行動であれ、探索のためのものであり、知覚のゲシュタルトは、何を探索しているかによって規定されているだろう。

 前回述べたノエの「知覚のエナクティヴズム」は、どちらの行動にも妥当するだろう。魚は、流れの上流に向かって泳ぐという走性(走流性)をもっている。その行動は、水の流れの知覚は、魚が上流に向かって泳ぐという行為と結合している。もしさなかが下流に向かって泳ぐとすると、スピードが速くなりすぎて危険なのかもしれない。つまり、走流性は危険回避という機能を持つのかもしれない。水の流れを感じるということは、その水の上流に向かっておよぐにはどうするかを感じることであるだろう。

 (メダカの走流性については次のビデオをご覧ください。 

  https://www.youtube.com/watch?v=1IOGXL7i9VM  )

走性については、第12回の記事で、「走性は、方向性をもつ外部刺激に対して生物(または細胞)が反応する生得的な行動である」と説明した。魚の場合には、走性というよりも無条件反射というべきかもしれないが、魚の走流性については「走性」として語れることが多い。無条件反射も走性も、その反応が遺伝によって決定しているという点では同じだと言えるだろう。

 魚は水の流れを知覚し、その刺激(無条件刺激)に対して、無条件反応(走流性)を示すのである。魚の水流の知覚は、ゲシュタルトをもっているだろう。ところで、上のビデオにあるように、模様の刺激(視覚刺激)に対しても、魚は同じような反応をするが、これも無条件反射である。そして、この模様がつくる水流に対する錯覚もまた、同じような知覚のゲシュタルトを形成するのだろうと推測する。触覚刺激であると視覚刺激であるとに関わらず、おなじような反射を引き起こす点は、非常に興味深い。

 ノエのこのような「知覚のエナクティヴズム」は、「知覚のアフォーダンス理論」と親和的である。まずこの親和性を確認して、次にアフォーダンスもまた、探索行動に規定されていることを説明したい。

 アフォーダンス理論とは、ギブソンが提唱した知覚論であり、対象を知覚することは、対象を何かを私たちにアフォードするものとして理解することだと見なす。例えば、平らな床は、そこを歩く人間を支えるものであり、椅子はそこに腰掛けることをアフォードし、ドアノブはそれをつかむようにアフォードし、ケーキは、それを食べるようにアフォードする。知覚のエナクティヴズムによれば、知覚は私たちが対象に対してどのようにふるまうことができるかを示すが、アフォーダンス理論は、知覚は、対象をある行為を誘うものとして知覚することを主張する。言い換えると、知覚は、対象の表情、価値、誘導価の知覚である。

 対象が何をアフォードするかは、主体の状態にも依存する。柵は、大きな人にはまたいで超えることをアフォードし、小さな子供には、下を潜り抜けることをアフォードするだろう。「どうしたら柵の向こうに行けるだろうか?」という問いに対するこたえとして、柵は、これらをアフォードする。ゲシュタルトは、探索にたいして生じると述べたが、アフォードの内容は、問いに応じて変化するが、しばしば問いに対する答えそのものとして生じる。

 「エナクティヴズム」は、対象の知覚を、<対象に関する可能な行為の仕方>の集合として説明するが、「アフォーダンス理論」は、対象の知覚を、その集合をさらに限定して、<対象に関する好ましい行為の仕方>として説明する。 両者の親和性は、Noeも強調する点である。

 次に、「アフォーダンス」もまた動物の探究活動に相関していることを確認したい。

18 知覚は行為の仕方である  (20201223)

[カテゴリー:人はなぜ問うのか?]

前回は、知覚のゲシュタルト構造が、知覚がどのような探索を行っているかに依存することを説明した。知覚が、動物にとっては探索の結果であり、人間にとっては問いに対する答えであることを説明するうえで有用なのは、アルヴァ・ノエの「知覚のエナクティヴィズム」である。

 アルヴァ・ノエ(1964-)は、『知覚の中の行為』(門脇俊介、石原孝二監訳、飯島裕治、池田喬、吉田恵吾、文景楠訳、春秋社、2010、原著2004)で、「知覚とは行為の仕方である」と主張する。

 彼の知覚論の基礎的なモデルになっているのは、触覚である。物を触る時、触覚は対象の全体を一度に知ることはできない。対象を触りながら対象の形や大きさを知り、それがどのようなものであるかを知ることになる。触覚の内容は、触れ方と相即している。彼によれば視覚の場合もこれと同様のことが言える。視覚にも、対象の細部にわたる全体が一度に与えられるということはない。細部を知るにはその部分に近づいてみる必要がある。私たちは、ある細部はそこに近づくと見えるだろうものとして予想している。例えば、トマトは赤くて丸いものとして知覚されるが、しかしその裏側が見えているわけではない。その横に回ればトマトの側面が見え、さらに後ろに回れば、背面が見える。トマトの丸い形を知覚しているとは、視点を移動したらそのように側面や裏面がどのように見えるかが分かっているということである。トマトの丸さの知覚は、トマトに対する目の位置を変えるその「行為の仕方」に他ならない。

 もうひとつ丸い皿の例を挙げよう。丸い皿が丸く見えるのは、真上ないし真下から見たときであり、大抵の視点では楕円に見える。しかし、楕円に見えていても、その皿が丸いことを知覚していることは、その皿のまわりで視点移動の「行為の仕方」を理解しているということに他ならない。

 このように皿を知覚するとき、その皿をどのように使えるかを判断できるだろう。例えば、その皿に丸いクリスマスケーキを載せられると分かるだろう。

 「皿の現実の形を見定めることは、その皿のプロファイルを知覚すること、そしてこのプロファイルすなわち見た目の形が運動に依存しているあり方を私たちが理解していることから成り立っている。このような事例から言えそうなことは、私たちが皿の形を経験することができ、見ることができるのは、非明示的な仕方でさらの感覚運動的プロファイルを把握しているからである、ということだ。皿の感覚-運動的プロファイルを把握することによってこそ、経験のなかで皿の形が利用可能になるのである」(前掲訳、125)

 ノエは(少なくともこの本では)、知覚のゲシュタルトについて取り立てて語っていないのだが、皿の形の知覚は、もちろんゲシュタルトの知覚である。皿の形や大きさのゲシュタルト知覚が成立するのは、「あのケーキはこの皿に乗るだろうか?」という問いに答えようとするときに、(ゲシュタルト知覚)のである。「あのケーキをこの皿に載せようとするとどうなるか?」という行為の仕方に関する問いに答える必要が生じるからである。

 知覚内容と行為が密接に結合しており、知覚が「行為の仕方」であるならば、行為は目的を持ち、それを実現しようとすることであるのだから、「どうやってそれを実現するか」という行為の仕方関する問いに答えようとする中で、知覚が成立することになるだろう。つまり、知覚は探索(問い)への答えとして成立する。

17 発話の焦点構造と知覚のゲシュタルト構造  (20201221)

[カテゴリー:人はなぜ問うのか?」

同じ文でも、異なる問いに対する答えとなる時には、ことなる焦点を持つ。

  「どれがりんごですか」「[これ]Fがリンゴです」

  「これはなにですか」「これは[リンゴ]Fです」

発話は必ずどこかに焦点を持ち、この焦点位置は相関質問によって規定されている。

これは、知覚のゲシュタルト構造に似ている。同一の絵が異なるゲシュタルトを持ちうる。

そのときゲシュタルトの違いは、問いの違いによって規定されている。

「何処から雨漏りしているのだろう?」と思って天井を見るとき、「何処が濡れているのか?」と問い、天井の色の違いに注目するだろう。そして、一部が丸く変色しているのを知覚するかもしれない。それに対して「この天井もそろそろ改修しなければならないだろうか?」と思って天井を見る時には、「天井板が古くなっていないかどうか?」と問い、天井板一枚一枚に注目して、隣の板との違いを知覚するかもしれない。この二つの場合には、同じ天井を知覚しても、そのゲシュタルトは異なる。

 このように知覚のゲシュタルトが、問いかけに依存して成立するのだとすれば、ゲシュタルトを知覚する動物もまた、何らかの仕方で探索している(問いかけている)と言える。前回述べた鶏は、ボタンの大小関係というゲシュタルトを知覚している。そのようなゲシュタルト知覚が生じるのは、鶏がどちらを押せば餌がもらえるかという探索をしているためだと言えるだろう。この探索は、(遺伝によって決定している)走性や無条件反射による<見かけ上の探索>ではない。過去の経験にもとづいて生じる探索である。

 もう一つ例を挙げよう。ティンバーゲン『本能の研究』(永野為武訳、三共出版株式会社)において、「じゅん鶏類、アヒルおよびガチョウの雛が猛禽の飛行に対して示す反応は、なににもまして「短い首」というサイン刺激で解発される」(p. 76)という。下のような模型を動かすとき、左に動かすと、アヒルやガチョウの雛は、それを猛禽類だと認識して逃避するが、右に動かすときには、逃避しない。

「「体軸の一端は短い突起に、またその反対側は長い突起になっている。この模型は、右方向に飛ばすと、首は短く尾は長くなる。逆方向へ飛ばせば首は長く尾は短くなる。前者の場合、模型は逃避反応を起こさせたが、後者はできなかった。この違いは翼の形に基づかないから、おそらく頭と尾についてのその鳥の認識にもとづくものでなければならない。このことは、両テストとも同じものを使っているから、サイン刺激として作用するものは、形ではなく、運動の方向と関連した形であることを意味している。」(p. 76f)

 つまり、この模型が左に動いたときと右に動いた時では、別のものに見える。つまり、異なるゲシュタルトをもつ。アヒルやガチョウの雛が(もし言葉にすれば)「敵はいないだろうか?」「あれは敵だろうか?」と探索しながら、模型を見る時、左に動くときには、進行方向の先頭に頭があるとすると、首が長く尾が短く見え、猛禽に見えるが、模型が右に動くときには、進行方向の先頭に頭があり、首が短く尾が長くみえるので、猛禽には見えない。つまり、「敵ではないだろうか?」と探索しながら模型を見る時、模型がどちらの方向に動くにせよ、進行方向の先頭に頭があり、進行方向の後方に尾があるというゲシュタルトで模型を見ることになる。それゆえに、この場合のゲシュタルト知覚は、「敵はいないだろうか?」「あれは敵だろうか?」という探索に対応して成立している。もちろん、アヒルやガチョウの雛はこのような問いを立てることはない。しかし、<見かけ上の探索>をおこない、そのような探索に対して、ゲシュタルトが生じている。

 鶏が大小の二つのボタンのゲシュタルト知覚をする場合は、経験を必要とするオペラント行動の先行刺激となる知覚であったが、この模型の知覚は、無条件反射を引き起こする無条件刺激となる知覚のゲシュタルトの例である。したがって、ゲシュタルト知覚に対応している探索もまたことなっている。後者は遺伝的に決定している<見かけ上の探索>行動である。

 動物のゲシュタルト知覚については、無条件反射の無条件刺激がゲシュタルト知覚である場合と、オペラント行動の先行刺激がゲシュタルト知覚である場合があることがわかる。他にも、条件反射における中性刺激がゲシュタルト知覚になる場合があるだろう。

 動物の知覚のゲシュタルト構造は、探索行動ないし<見かけ上の探索行動>と深く関係している。そしてそれは人間の場合の知覚のゲシュタルト構造が問いと深く関係していることを示唆しているし(これについては、いずれ詳しく述べる予定である)、発話の焦点位置が相関質問と深く関係していることに繋がっている。(発話の焦点位置が相関質問によって規定さていることについては『問答の言語哲学』の第二章で詳しく論じた。)

16 オペラント行動の規範性  (20201220)

[カテゴリー:人はなぜ問うのか?」

 前回の「「おすわり」の規範性」というタイトルは、誤解を招いたかもしれない。人間が犬に「おすわり!」というとき、それは命令であり、命令が規範性を持つことは自明であるからである。ちなみに、ここで命令が「規範性を持つ」とは、<命令に従えば、褒められたり餌を得られたり、よいことがあるが、命令に従わなければ、叱られたり、餌をもらえなかったり、ひょっとすると罰を与えられたり、など悪いことがある>ということである。

 しかし、前回言いたかったのは、誤解はなかったとは思うが、人間の「おすわり」という発話が人間にとって規範性を持つことではなく、この発話が犬にとっても規範性を持つということである。このような主張に対しては、<そのような理解は、犬に自分の規範意識を投影しているだけであり、犬自身は規範意識を持っておらず、オペラント反応は、条件反射と同じように意識活動なしに生じるものである>という反論があるだろう。

 この反論に答えるには、犬自身が「おすわり」という発声に、またそれに対する自分の反応についての規範性を理解している証拠が必要である。

犬が、「おすわり」という声をきいたとき、従ったときと従わないときに何が後続するかを明確に理解していないが、<従ったときと従わないときでは後続することに何らかの違いがあることだけは理解している>ということがありうるだろう。これを「弱い規範性」の理解と呼ぶことにする。

 この弱い規範性の理解の証拠となるかもしれないのは、次のような実験である。<ケージの中に大小二つのボタンがあり、鶏が、大きな方のボタンをつつけば、餌が出てくるようになっている。そのケージの中で、鶏は、大きなボタンを押して餌を手に入れるというオペラント行動を学習する。先行刺激は大小のボタンの知覚であり、オペランント行動は大きい方のボタンをつつくことであり、餌を手に入れることが、結果である。次に、この大小のボタンをいろいろな大きさのものに取り換えて、ただし常に大きな方のボタンをつついたら餌がでることを学習させる。そして、ボタンの大小の違いが簡単には判別できないようなものにしたとき、鶏はどちらをつついたら良いのか分からずにストレスを感じているような振る舞いをした。> (この実験報告を、ベイトソンの本で読んだような気がするのだが、どの本であったかおもいだせない。また他の本でも似たような報告を読んだ気がする。どなたがご存知の方がいたら教えてください。)

 もちろん、鶏がストレスを感じているような振る舞いをするとしても、そう見えるだけかもしれないし、ストレスを感じているとしても、それは私たちが意識するようなストレスではないかもしれない。これは、どちらかのボタンを押さなければならないという「弱い規範性」を理解している証拠にならないだろうか。

 オペラント条件付けの先行刺激とオペラント反応は、第三者から見れば、つねに規範性を持っている。つまり、反応に応じて、利と害が生じる。しかし、オペラント反応をする動物自身がその規範性を意識できているとは限らない。その規範性を意識できていない動物は、オペラント行動によって、探索しているとは言えないだろう。

 人間が問うことによって何かを探索するとき、問うことは、その成否を意識しており、答えの規範性を意識している。つまり、問うときには、常に真なる答え(あるいは適切な答え)を得る必要があるという、規範性を意識している。

学問の危機

[日々是哲学]

政府と自民党は、日本学術会議のあり方を変えようとしています。それを変えるには、日本学術会議法を変えなければならないので、改正案を国会にかける必要がありますが、与党が過半数を占めているので、もし法案が審議された多数決で成立することになる可能性が極めて高いです。それを阻止するには、この間の学術会議委員の任命拒否の問題を裁判に訴えて、憲法違反であることをハッキリさせるしかないでしょう。日本学術会議に裁判所に訴えることを強く望みたいとおもいます。

中国およびアメリカと日本の経済力の差は今後ますます開いていき、経済力に誇りを持てない日本人は、自国の科学技術や文化や民主主義に誇りをもつか、あるいは伝統的な日本文化やナショナリズムに誇りを見出すか、しかなくなるでしょう。現状のままだと、戦前のようにナショナリズムの方に流れていきそうです。

15 「おすわり!」の規範性  (20201214)

[カテゴリー:人はなぜ問うのか?]

 動物の訓練は、オペラント条件付けを用いて行われる。例えば、前回挙げた例では、犬は、「おすわり!」の命令(先行刺激)を受けて、お座り(反応)を行い、褒美の餌を手に入れる(結果)。これの反復によって、犬が「おすわり」ができるように訓練する。

 「おすわり」と言われて、お座りができるようになった犬は、「おすわり」といわれたときに、行う反応(オペラント行動)を表象しているのだろうか。その行動をしたときに、得られる食べ物(結果)を表象(イメージ)しているのだろうか。訓練ができている動物の場合、それらを表象しているように思われるが、しかし仮に、その表象(イメージ)がなくても、その行動をするかもしれない。なぜなら、ここでの「おすわり!」を聞くことと座ることは、条件刺激と条件反応の関係のように、表象を介していない関係である可能性があるからである。「おすわり」と言われたら、習慣として、座る行動をしているのかもしれない。

 ところで、十分に訓練された状態の犬の場合には、「おすわり」という発話が、その犬に対して、命令としての規範性をもつようになるのではないだろうか。つまり、「おすわり」と言われたときには、お座りして褒められるか、お座りしないで叱られるか、どちらかが後続することを予想するにようになるのではないだろうか。もしある状態を予想するのだとすると、その状態を表象(イメージ)していると言えるだろう。おそらくある状態を表象しないで、その状態を予想することはできないだろう。しかし、犬がこの予想をしているかどうか、どうやって判定したらよいのだろうか。

 ところで、現代哲学では、判断や言語使用の規範性が強調される。判断は、言語なしにはできないし、言語は、使用の規則に従うことなしには成立しない。人間の言語を用いる行為はすべて、言語の規則従うという規範性を持っている。言語が成立して、規範性がそれに付け加わるのではなく、言語は規範的なものとしてのみ成立するのである。したがって、言語の成立よりも、なんらかの規範的なものの理解の方が先である可能性がある。

 ここで「おすわり!」という命令を、犬が、座れば褒められ、座らなければ叱られるものとして理解しているのならば、「おすわり!」という人の声を、規範的なものとして理解しているのである。この場合、「おすわり」という主人の声を聞くことと、座る行為の間の関係は、条件刺激と条件反応の関係のようなものとはことなる。規範を理解するということは、それに従ったときに何が後続し、従わないときに何が後続するかを理解するということである。では、訓練された犬にとって、「おすわり」という声は、本当にこのように規範的なものなのだろうか。

 犬が、「おすわり」という声をきいたとき、従ったときと従わないときに何が後続するかを明確に理解していないとしても、従ったときと従わないときでは後続することに何らかの違いがあることだけは理解するということがありうるのではないだろうか。

 規範性についてのこのような弱い理解を持っていることについては、私たちは証拠を示すことができるかもしれない。それを次に検討しよう。

14 オペンラント条件づけの再説明(20201213)

[カテゴリー:人はなぜ問うのか?]

 前回述べた「オペラント条件づけ」の説明が全く不十分だったので、説明をやり直します。

スキナーは、オペラント条件づけの実験のためにスキナーのオペラント条件づけの実験では、スキナーは、「スキナー箱」と呼ばれるようになる箱を用いた。その箱は、その中にねずみをいれておいて、ブザーが鳴ったときに偶然ねずみがレバーを押すと餌が出てくる仕組みになっている。ブザー(弁別刺激)が鳴ったときにねずみがレバーを押す行動(オペラント行動)を測定する。

ここには、3つの項目、「弁別刺激(ブザー)」-「反応(レバーを押す)」-「反応結果(餌が得る)」の関係があり、この関係は、「三項随伴性」と呼ばれている。(この三項随伴性の分析は、

先行条件(Antecedents)、行動(Behavior)、結果(Consequences)の頭文字をとってABC分析と呼ばれており、行動療法でよく用いられる。)

 前回の説明では、この「弁別刺激(ブザー)」に言及していなかったので、訂正する必要がありそうです。

 ところで、この弁別刺激は果たして必要なのでしょうか。仮にブーザーがなく、単にレバーを押せば餌が出てくる仕組みにしておければ、ネズミは、餌を取るために、レバーを押すことを学習するでしょう。ただし、この場合には、レバーの知覚が、弁別刺激になっていると考えることが可能です。オペラント行動があるときには、どんな場合にも、私たちはそこに弁別刺激を見つけることができるのではないでしょうか。その例をいくつか上げてみましょう。

 例えば、「おすわり」の命令(先行刺激)を受けて、座り(反応)、褒美の餌を手に入れる(結果)これの反復によって、犬を訓練する。

 例えば、川の特定の場所で鮭を捕まえた熊は、鮭を食べるとき、川の特定の場所の知覚が弁別刺激であり、そこでの魚を探すことが反応であり、魚を捕まえて食べることが結果である。

 例えば子供が、箱を開けてそこにあるお菓子を手に入れることを学習するとき、箱の知覚が弁別刺激であり、それを開けることがオペラント行動であり、お菓子を手に入れることが結果である。

 例えば、子供が、熱いストーブに触らないことで、やけどを避けることを学習するとき、熱いストーブの知覚が弁別刺激であり、ストーブに触らないことがオペラント反応であり、やけどしないことが結果である。

 オペラント条件づけでは、後続する結果とは関係なく偶然に行った行動、つまりその他の原因で行った行動につづいて、自分に都合のよい結果(あるいは都合の悪い結果)が生じるという経験が一回あるいは何度が起こることによって、その行動をするようになる(あるいはしないようになる)はずです。オペラント行動する動物が、後続する結果を意図して行うのではないでしょう。意図してその行動を行うとすれば、それはまた別のメカニズムである。オペラント条件づけは、少なくともそれが動物の進化上最初に登場したときには、結果状態の表象や結果状態を引き起こそうとする欲求や意図なしに、生じたメカニズムだと思われる。

 しかし、オペラント行動に結果状態についてのイメージをもつ動物もいるかも知れない。もしいれば、オペラント行動には、2つの段階の区別が可能であろう。例えば、上の例の、犬の訓練の場合、ご褒美のイメージを持っている可かもしれない。しかし、動物が、結果状態のイメージを持つことをどうすれば、判別できるだろうか。これについて、次回に考え、人間の探索との類似性と違いついても考えたい。

13 走性・反射から、条件反射、オペラント行動へ (20201210)

[カテゴリー:人はなぜ問うのか?」

#走性、反射、本能

 刺激に対する「走性」と呼ばれる反応を探求と呼ぶことは、人間や動物の(後述の)探究行動の投影ないし比喩によって、そこに含まれていない要素を主観的に付与して記述するならば可能であるが、客観的な記述としては成り立たないように思われる。例えば、太陽の方に花や葉を向ける植物の振る舞いも、高速で早回しをすれば、動物の走性による動きのように見えるだろう。この違いは、人間の時間意識にとっての違いであり、対象そのものの機能の違いではないように思われる。つまり、動物の走性と植物の屈性は、どちらも探求行動のように見える。したがって、全ての動物は探求をする生物であるというならば、植物についてもまた探求をする生物であると言わなければならなくなってしまう。したがって、<(動物も植物もふくめて、すべての生物は探求している>と言うか、あるいは、<(すべての動物ではなく)ある種の動物は、探求する生物である>と言うべきか、いずれかであるだろう。私は、後者をとりたい。

 走性は、学習によるのではなく、遺伝によるものである。探索を比喩的でなく、厳密に使用するならば、遺伝で決定している振る舞いは、探索とは言えないだろう。

#反射 reflex(脊椎反射spinal reflex

 「反射」とは、「動物の生理作用のうち、特定の刺激に対する反応として意識される事なく起こるもの」を指す(Cf. Wikipedia)。反射は、機能によって次の三種類に分類されるようだ。。

 1 姿勢反射(姿勢を保つための反射)

 2 体性反射

   ・腱反射(腱や骨の突端を叩くと、そこに繋がっている骨格筋が収縮する反射)

   ・表在反射(皮膚や粘膜刺激を加えることで、その周りの筋が収縮する反射)

   ・病的反射(起こることが異常である反射)

 3 内臓反射(恒常性の維持、全身の活動性の調節、に不可欠なもの)

 脊椎動物の「反射」は、走性と同じように突然変異で生じ、自然選択されたものであり、遺伝子に組み込まれた反応である。したがって、反射もまた探索とは言えないだろう。(走性、反射、本能行動、の関係は複雑であり、論者によって異なるので、ここでは立ち入らないことにする。ここでは、これらはすべて探索行動ではないと考える。)

 では、条件反射はどうだろうか?

#条件反射(conditioned response)

これについては、パブロフの実験が有名である。

 イヌにメトロノームを聞かせる(条件刺激C)

 イヌにえさを与える(刺激S)。

 イヌはえさを食べながらつばを出す(反応R)。

これを繰り返す。すると、イヌはメトロノームの音を聞いただけで、唾液を出すようになる。

 このSとRの関係は(無条件)反射である。「条件反射」とは、このような無条件反射を前提し、それをもとに成立する。刺激Sに対して無条件に反応Rが生じるとしよう。このとき、Sと同時に刺激Cが与えられることが反復すると、刺激Cだけで反応Rが生じるようになる。これが「条件反射」と呼ばれる。無条件反射の反応とならないものを、条件反射の反応にすることはできない。

 このような条件反射は、生存に次のように役立っている。ある音がきこえ、その後、熊を見かけて、熊に恐怖することが何度もあると、その音を聞いたら、熊を見なくとも、熊に恐怖するようになる。この条件反射が成立することによって、熊の出現により早く用心することができ、生存に有利である。

 この条件反射が成立するためには、ある音をきいたあとで、その音の付近で熊を見かけて、熊に恐怖するという体験の記憶が必要である。それは通常の想起できる記憶である必要はない。(なぜなら、条件反射は意識を介さずに成立するからである。例えば、パブロフの犬の唾液の分泌は、無意識的で自動的な調節によるものである。)ただし、その体験を思い出すことができなくても、それの体験は、動物の脳の中に何らかの仕方で痕跡として残っている必要がある。例えば、ある種のシナプス結合が起こりやすくなる状態、というような痕跡であるかもしれない。

 このような条件反射は、遺伝によって成立するのではなく、記憶によって可能になるので、学習されたものだといえるだろう。(ただし、記憶のメカニズムは、遺伝によって成立している。)条件反射は、経験によって獲得された行動である。しかし探索する行動でも、探索の結果得られた行動でもない。探索は自発的な反応でなければならないだろう。

#オペラント条件付け(Operant Conditioning)

「オペラント行動」とは、「その行動が生じた直後の、刺激の出現もしくは消失といった環境の変化に応じて、頻度が変化する行動」をいう。また「オペラント条件づけ」とは、「自発的に行動された直後の環境の変化に応じて、その後の自発頻度が変化する学習」をいう(Cf. Wikipedia)。

 スキナー箱の実験では、ネズミは、レバーを押したら餌が出てくる経験を繰り返すことによって、レバーを押す自発頻度が増えていく。これは、餌の探索行動である。「オペラント行動」は探索行動の一種である。このオペラント行動が成り立つためには、レバーを押したら餌が出てきたという経験の記憶が必要である。オペラント行動は、推理に基づく行動ではなく、条件付けられた反応であるので、この記憶も、想起される必要はない。何らかの仕方で脳の中にその経験の痕跡があり、その痕跡がはたいて、その行為の自発頻度の増大が生じている必要がある。このようにみてくると、動物の探索行動は、オペラント行動に始まることがわかる。そしてそのためには、記憶の成立が必要であることが分かる。

 では、動物のオペラント行動と人間の探索行動の違いは何だろうか?

12 動物の走性と探索 (20201207)

[カテゴリー:人はなぜ問うのか?」

(このカテゴリーの目標は、「人はなぜ問うのか?」に答えることです。そしてこれに答えるために、まず、「問うとはどういうことか?」を問うことにしました。これに答えるために、まず自然主義の立場からこの問いに答える可能性を追求することにしました。そのために、01から04まで動物の探索について明らかにしようとしました。その過程で、「04 動物は表象を持つのか (20200928)」で、動物の探索と人間の探索の違いを明確にするために、「動物は表象を持つのか?」という問いを立てました。ところで、動物の知覚もまたゲシュタルト構造を持つことが報告されています。つまり、人間の知覚と同じく、動物の知覚もまた地図構造を持つということです。そこで、知覚についてのNoeの議論をしたくなりましたが、そのとき彼の本が手元になかったので、05から人間が理論的問いと実践的問いを問うのは、どういう場合であるかを、考察しました。

 今回から、動物の探索と人間の探索の比較の考察に戻りたいと思います。Noeの知覚論(動物の知覚も人間の知覚も表象ではないと主張しています)にも言及しますが、動物の探索について、「走性」からもう一度考察したいと思います。)

 動物の探索と人間の探索の違いは、探索しているときに、探索していることを同時に意識しているかどうかの違いにある。人間の探索行為は、探索しようと意図することなしには成立しないし、探索しようとする意図を意識していることなしには、成立しない。これは探索行為に限らない。人間の行為は、行為のしていることの反省、行為の意図(行為内意図)の反省なしには、成立しない。

これに対して、動物の場合には(チンパンジーなどが例外になる可能性はあるが)、このような自己意識はない。このような自己意識的な探索がどのように始まるかを検討しよう。

 01で、次のように書いた。「動物は感覚し、そして動き回ることができる」ということにある。動物とは、動き回る生物であるが、動き回るためには感覚が必要である。動物は、動き回って餌をとる。餌を取るためには、餌を感覚する必要がある。動物の運動と知覚は、主として餌の探索のためのものである。つまり、生物が動物となったときから、生物は探索するのであり、動物とは探索する生物なのである。」

 「動物とは探索する生物である」これは正しいだろう。単細胞生物である「原生動物」からすでに栄養を求めて運動するが、そのメカニズムは、おそらく「走性」といってよいのだろう。これが正しければ、原生動物から節足動物(昆虫や、甲殻類)などの運動、行動は、全て「走性」で説明されることになる。

 走性は、方向性をもつ外部刺激に対して生物(または細胞)が反応する生得的な行動である。

 Wikipediaによれば、「走性」とは、方向性のある外部刺激に対して生物(または細胞)が反応する生得的行動である。そして、走性は外部刺激によって次のように分類されるようだ。

  走圧性 (barotaxis) – 圧力

  走化性 (chemotaxis) – 化学薬品

  電気走性 (galvanotaxis) – 電流

  走磁性 (magnetotaxis) – 磁場

  走地性 (geotaxis) – 重力

  走水性 (hydrotaxis) – 水分

  走光性 (phototaxis) – 

  走流性 (rheotaxis) – 水流

  温度走性 (thermotaxis) – 温度

  接触走性 (thigmotaxis) – 接触

(おそらくこれら以外の種類のものもあるだろう。)

ゴキブリが、壁沿いを移動するのは、「接触走性」なのかもしれない。蛾が電灯に集まるのは、「走光性」であろう。蚊やハエを捕まえようとしても、それらが素早く逃げるのは、どのような走性なのだろうか。空気の流れに反応しているのかもしれない。蚊がヒトの皮膚から出る二酸化炭素に反応して針を刺して血を吸う。蚊がブーンと音を立てながら近づいてくるとき、蚊は餌を探索していると言いたくなる。ある意味では、そのように言うことは可能である。しかし、蚊は、二酸化炭素に反応して針を刺して血を吸うように、遺伝子によって決定されているのである。蚊は、ヒトの血を探索しているのではなく、突然変異と自然選択の積み重ねによって、そのように行動するように進化したのである。

 たとえば、玄関に、近づいたら明かりが点く照明をつけるとき、照明装置は、人間から出る赤外線に反応している。これは動物の走性による反応とよく似ている。しかし、照明装置は、接近してくる人を探索しているのではない。(その装置を設置した人は、近づいてくる人を探索していると言えるだろう。)これと同じで、走性によって、餌物を捕まえたり、より安全な環境に移動したりする動物は、それらを探索しているとは言えない。

 しかしそうすると、「動物は、探索する生物である」とは言えなくなる。「蚊は、ヒトの血を探している」と言えるのだろうか、言えないのだろうか、どういう語り方が正しいのだろうか。

08重度の知的障害を持つ人の人生の意味  (20201205)

[カテゴリー:哲学的人生論(問答推論主義から)]

人生の意味を問答推論関係として説明することは、重度の知的障害を持つ人にも適用される。なぜなら、問答推論関係に関して、そのほかの人との違いがないからである。人生の意味の説明に関して、重度の知的障害を持つ人もまた、その他の人と同じように、上流問答推論を持ち(つまり、多くの人や出来事の影響を受けて行為し)、また下流問答推論を持つ(多くの人や出来事に影響を与える)。

 これに対しては、次のような反論があるかもしれない。<そのように考えるならば、動物の生涯の「意味」も、またさらには道に転がる石の「意味」も、すべて問答推論関係として説明することになるだろう。そのような説明の拡張可能性は、問答推論関係による人生の意味の説明が、間違いではないとしても、不十分であることを示している。>

 このような反論に対してどう答えたらよいだろうか。今のところ、次のように答えたい。<人生の「意味」は、路傍の石の「意味」と原理的に変わりがない。ただ、これらが持つ問答推論関係は異なっている。しかし他方で、「意味」があるものと「意味」がないものものという二分法は成り立たない。>