「生きたい」は真ではない?

これまで感覚や欲求を言葉で表現することについて、述べてきました。
感覚や欲求と言葉の間には、断絶があって、我々が日常行っている言語化のメカニズムを説明することは、簡単なことではない、ということを述べてきました。
さらにその断絶にも様々なケースがあって、例えば次の7つの場合では、それぞれ説明の仕方が変わります。

①色を見て「これは黄色だ」と言うこと
②歯の痛みを感じて「歯が痛い」と言うこと
③空腹を感じて「おなかがすいた」と言うこと
④空腹を感じて「何か食べたい」と言うこと
⑤クッキーを見て「このクッキーを食べたい」と言うこと
⑥ゴッホの絵を見て「絵を描きたい」と言うこと
⑦余命を宣告されて「もっと生きたい」と言うこと

①と②の間には、次のような違いがありました。
ある対象の色は、複数の人間が見ることが出来るのに対して、歯の痛みは、一人の人にしか感じられません。もっとも、同一の対象の色であっても、色の知覚そのものは、一人の人間に属しており、他の人間の知覚は、また別の知覚です。ちょうど他の人間の歯の痛みが別の痛みであるように。しかし、歯の場合には、別の歯の痛みなのですが、色の場合には、同一の対象の色であるという違いがあります。

②と③の間には、一見つぎのような違いがあるように思われます。②は欲望とを結びついていませんが、③の空腹の場合には、④の「何かを食べたい」という欲望と結びついていように思われます。しかし、歯の痛みもまた、その痛みから解放されたいという欲望と結びついていることでしょう。その結合は、空腹の感覚と、何か食べたいという欲望の結びつきと同じかもしれません。そうすると、②と③の間に違いはないことになります。

③と④の違いについてはどうでしょうか。③は空腹を言語で表現しています。④は食欲を言語で表現しています。④の場合には、空腹の感覚つまり胃のある種の鈍い苦痛に似た感覚だけでなく、「食べたい」という欲望を感じて、言語化しているのでしょうか。その欲望は、言語化されていなくても存在するのでしょうか。
言語を持たない動物も、ある生理的な状態(空腹と呼べるような)になると食べものを求める行為を開始するでしょう。そのとき、その動物はその欲求を感じているのでしょうか。人間は、食べたいという欲求を感じているのでしょうか。言語化とは独立に歯の痛みを感じることが出来るように、言語化とは独立に食べたいという欲求を感じることができるのでしょうか。内省してみても、私には、これについて確信を持って何かを言うことは、できそうにありません。

④と⑤の違いは何でしょうか。空腹の犬にクッキーを見せれば、犬はそれを食べようとするでしょう。しかし、犬は「このクッキーを食べたい」とは思っていないはずです。しかし、人間の場合には、「このクッキーを食べたい」と考えるのはないでしょうか。そして、その欲望は、「このクッキーを食べたい」という内的な発話と独立に存在することは不可能であると思われます。

(ここで、アフォーダンスの心理学について考察すべきだとおもうのですが、いつになっても、「生きたい」の分析にたどりつけないのと、準備不足なので、ここではパスします。しかし、「このクッキーを食べたい」がクッキーのアフォーダンスとして説明されるのならば、「生きたい」もまた何かのアフォーダンスとして説明できるような気がします。いつか、これを取り上げたいとおもいます。)

⑤と⑥の違いは何でしょうか。⑥の「絵を描きたい」という欲望を、犬が持つことはありえません(それはなぜでしょうか?)。人間は「絵を描きたい」という欲望を持つことはがありますが、この欲望はこのような発話としてのみ可能です。

④⑤⑥という欲望の例は、自然的な欲望(?)からより社会的な欲望へと変化しているといえるでしょう。このような社会的な欲望は、内省してみても言語化されない形で心の中に見つかるようなものではありません。

(実は、言語化されない形で存在するような「自然的欲望」は、③について疑念を述べたように、存在しないかもしれません。)

 社会的欲望は、言語化されないで心の中に見つかる欲望を記述したものではない、ということです。それが記述ではないとすると、それには真偽がないことになります。「私は絵が描きたい」には真偽はないのです。それは「私は・・・を約束します」という約束の発話が記述でなく、真偽をもたないのと同様です。

 さて、⑦の欲望はどうでしょうか。
(少し気になっていたのですが、これまで「欲求」はより自然的、「欲望」はより言語に依存するもの、という仕方であいまいに区別してきたつもりなのですが、この区別が可能かどうかがあいまいので、厳密にこの区別を維持し続けることは出来ないかもしれません。)
 「もっと生きたい」というのは、切実な欲望です。しかし、それは言語によって可能になっている欲望だとおもいます。言語化されない形で存在するような欲求ではないでしょう。なぜなら、例えば犬は、<自分の死>というものを意識しません。<自分>の意識もないし、<死>の意識もありません。したがって、<自分が生きている>という意識もなく、したがって、<もっと生きたい>という欲求もないはずです。これは自己意識や言語なしには不可能な欲望なのです。したがって、「もっと生きたい」は、何かを記述しているのではありません。それは、真偽をもたないのです。

(「私は、自分のしたいことをして生きて行きたいのですが、自分が本当に何をしたいのか、わからないのです」という悩みを持つ人は、自分は本当に・・したい、というような欲望を心の中に見つけて、それの記述として「私は・・がしたいのだ」というのような発話を求めている。しかし、「私は、・・・がしたいのだ」が記述ではないとすれば、そのようなものを心の中に探しても、もともと見つかるはずがないのです。)

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投稿者:

irieyukio

問答の哲学研究、ドイツ観念論研究、を専門にしています。 2019年3月に大阪大学を定年退職し、現在は名誉教授です。 香川県丸亀市生まれ、奈良市在住。

「「生きたい」は真ではない?」への2件のフィードバック

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    7に関する点だけにしぼってうかがいます.
    「欲望」を命題的態度の一種とすると,欲望が言語的なものであり,犬がそれをもたない,とするのがよく分かります.しかし,そこから
    「したがって、「もっと生きたい」は、何かを記述しているのではありません。」
    と進める点がよく分かりませんでした.主体がとある命題的態度を持つ,という言明は真偽がつきます.
    すると,「欲望」というものを先生は命題的態度の一種と取らないようにうかがえます.実際,特に後半ライル的な方向性をほのめかされているようにも思われます.しかし,欲望が傾向性のようなものとすると,犬がそれをもたない,とする理由が分かりません.以上が質問です.

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