花と月

2007年9月25日の月です。
    日本人にとって、季節の変化や花は、儚さの象徴だと思うのですが、
    月は何の象徴なのでしょうか?変わらないもの?

もし、<答えられる問題と答えられない問題>に区別するのならば、たしかに、前回述べたように、<ある信念体系を前提して答えられる問題と、答えられない問題>に区別するが、役立ちそうです。そのときには、どんな信念体系を前提するのがよいかを考えたくなります。

しかし、ある信念を前提するとしても、ある問題が答えられるかどうかは、問題を解いてみなければ判断できません。ある時点で解けないとしても、原理的に解けない問題なのか、いずれ解けるのか、の判断ができないことが多いだろうとおもわれます。

<問題解決を進めることのできる問題と問題解決を進めることのできない問題>に区別するのはどうでしょうか。しかし、これもまた実際にやってみなければ、判断できないように思います。

しかし、前々回の提案は、<人生に関する問題が(哲学的に)議論されている限りで、その議論ないしその一部を哲学的人生論といい、人生に関する話題(命題)(疑問文ないし問題を含む)について会話されている限りで、その会話ないしその一部を人生観と呼ぶ>
ということでした。これだと、問題解決を進めることができるかどうか、事前に判断する必要はありません。

この区別をもう少し明確にしようとしたのですが、結局もとに戻ってしまいました。

では、次に、この区別を使って、以前の考察を振り返ってみましょう。
この書庫の初めのほうで、私的な人生観の二つの形式を分けてみました。
 「私は、私の人生について・・・であると考える」
 「私は、人生というものについて一般的に・・・であると考える」
<後者も前者も、他者からの批判を受ける可能性があり、批判を受けたときにそれに答えようとすると、それは哲学的な人生論になってしまう>と書きました。

今回の区別によるならば、<後者や前者が批判を受けて、その批判に答えて、さらに議論が続くとしたとき、それは、議論であると同時に、二人の会話でもある。つまり、それは哲学的人生論であると同時に、人生観でもある>ということになるでしょう。

もちろん、自分の人生観について批判を受けた人が、「私はこれについて他の人と議論するつもりはありません」といって、それを前提にして話そうとしたり、別の話題に移ろうとするとき、議論は行われませんが、会話は行われ、彼が主張した人生についての考えは、彼の人生観だと言えることになります。

では、多文化主義の信念形式について、この議論と会話の区別を適用するとどうなるでしょうか?