冬の寂しい天井です。
この寂しさは心的因果によるものか?
昨日の反論に答えよう。
他者の中に悪意がなくても、我々は他者を憎む場合があるという反論だった。
その根拠となるいくつかの例は、二種類に分けられるようにおもえる。その一つは、電車でよろけた人が、私の足を踏むケースや、机の脚に、私の足をぶつけてしまうケースだ。これらのケースでは、私は確かにムカッとするだろう(人間が小さくてすみません)。しかし、この場合の怒りは、他者の悪意に対する怒りや敵意とは異質なものではないだろうか。つまり、この怒りは、いわば動物的な怒りである。自己意識や「自分のもの」という観念を持たない動物でも、足を踏まれたら怒るだろう。それと同じ類の怒りである。この怒りは、精神的な反射の一種ではないだろうか。これはアンスコムが「心的因果性」と読んだものに似ているのではないか。夜一人で部屋にいるときに、窓にヌッと顔が現れると、我々はぞっとして思わず、後ろにのけぞるだろう。アンスコムは、このような行為の原因について「心的因果性」と述べているが、そのような行為は、この場合の「ぞっとする」という感情のように、何らかの感情を常に伴っているのではないだろうか。(参照、アンスコム『インテンション』菅豊彦訳、勁草書房、§8)上の怒りとこの感情は同種のものではないだろうか。
ライオンや犬が、岩に自分の足をぶつけたときに、岩に怒るかどうか、ぜひ知りたいところだ(もしご存知の方がおられたら是非教えて下さい)。私などは、思わず机を蹴り返そうと思うが、蹴ればよけいに痛いので、そうしないだけのことである。足を踏まれる場合についていうと、私は、足を踏んだ相手が一言「すみません」といえば、私の痛みは残っても私の怒りはなくなる。ではライオンや犬はどうするだろうか。ライオンや犬が、相手に悪意があるかどうかの区別をしないことは確かだろう。なぜなら、「悪意」などというものを理解しないからである。従って、ライオンや犬は、過失で足を踏んだ場合と、意図して足を踏んだ場合の区別をしないだろう。しかし、足が踏まれ続けるというような危険が続くか、そのような危険が続かないかの判断をおこなって、それによって態度が変わるということはあるだろう。
(今日の発言では、アンスコムの「心的因果性(mental causality)」を動物にも認めました。もしこれについて、反論があればお寄せ下さい。これの難点は、動物も感情をもつことになる点です。それが難点なのは、感情は物語付加的であるが、動物は物語を生きていない、ということです。これを解決するには、感情を二種類に分けるというということでしょうか。)
昨日の反論のもう一つのケースは、社会や自然や運命に対する怒りであって、これは、宿題になっている「社会に対する敵意」の一種であると思われるので、これの検討に戻りたい。
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