社会に対する悪意と「恩おくり」

       議論の階段を上る、あるいは踊り場にとどまる。

話を少し戻す。1月23日の議論に戻す。
そこでは、次の(b)と(b1)の区別、(c)と(c1)の区別をした。つまり悪意と敵意の区別である。
(b)個人的な恨みとしての悪意「特定の個人や組織に対する悪意」
(b1)個人的な恨みとしての敵意「特定の個人や組織に対する敵意」
(c)自分の悪い行為を正当化するために社会が悪いと考える「社会にたいする悪意」
(c1)社会が悪いために悲惨な目にあっていると考える「社会にたいする敵意」
そこで述べた問題は、「当人は、(b1)や(c1)として自分の心を理解しており、他者が当人の心を(b)や(c)として理解する」という整理でよいのかどうか、ということであった。

その後の議論をまとめてみよう。

1月24には、(b)と(b1)について、「特定の個人や組織に対して、当人が悪意としりつつ悪意を持つこともある」と指摘した。つまり、23日の整理では、不十分であると述べた。
(当人が悪意と知りつつ悪意を持つことは矛盾しているように思われるので、1月26日に検討した。)
1月26日には、<CがAに殴られたときに、Aの行為を憎むことは正しいことである。しかし、その憎しみに基づいて、Aに仕返しをすることは悪いことである>という矛盾?を説明するために、<CのAに対する怒りは、社会もまた共有できる怒りであるが、CがAに対して仕返することを社会はCと共有できない。社会が共有できるとすれば、社会がAに仕返しするということである>と考えた。つまりこのように考えると、<憎しみは正しくても、仕返しは正しくない>ということは矛盾していないということである。(仕返しを悪いと知りつつ、つまり)悪意と知りつつ、(仕返ししようとすること)悪意を持つことは、やはり矛盾しているのである。
1月27日には、<前日のような議論は不自然であり、仕返ししようとするのは自然なことであり、矛盾していない>という意見があると思われるので、それに対する反論として、<仕返ししようとするのは、自然なことではない。つまり動物は仕返しをしない>と指摘した。
1月28日には、<仕返しと恩返しは、他者に対する同種の反応(ただし方向が反対)である>ことを指摘した。
1月29日には、<相手に悪意があるときにだけ、相手を憎む>という前日の発言への反論、相手に悪意がなくても腹を立てる事例を指摘した。
1月30日には、<相手に悪意がないのに腹を立てるのは、精神的な無条件反射のようなものであり、相手に悪意があるときに怒るときでは、怒りが質的に異なる>と考えた。

こうしてみると、1月26日の議論が重要である。
(議論が錯綜して、すみません。)

さて我々は、(C)と(C1)の区別について、「当人は、(c1)として自分の心を理解しており、他者が当人の心を(c)として理解する」という整理でよいのかどうか、という問に答えたい。それは間違いである。なぜなら、自分の敵意を悪意だと思いつつ社会に対して悪意を持つことがあるからである。
ここで重要なのは、そのような一見したところ矛盾している態度が何故生じるのかを、分析することである。

例えば、バブルがはじけた後、会社が倒産して失業したというような場合、当人は社会が悪いと思ってうらんでいる。しかし、そのときに生活の苦しさから詐欺をするようになったとしよう。このとき、当人は詐欺が悪いことだと思っている。それにもかかわらず、彼は詐欺をする。そのとき彼は被害者に対しては恨みをもっていない。彼は社会にたいして恨みをもっている。

これは、「恩おくり」の反対である。(「恩おくり」(pay it forward)をWikipediaでご覧下さい。)
BさんがAさんから恩を受けたときに、Aさんに「恩返し」をすると、その行為は、AさんとBさんの二人の中で閉じてしまう。もしBさんが、Aさんから与えられたのと同様の利益をCさんに与えるとき、それを「恩おくり」というそうだ。CさんもまたDさんに「恩送り」すると、恩は社会の中にひろがってゆく。
上の詐欺師は、社会の中で誰かから得た不利益を、他の人に与えようとしている。それは「仕返し」ではなくて「仕送り」だ(これは冗談です)。これをどう呼べばよいだろうか。

(どなたかよいネーミングをお願いします。)