哲学の楽しさは、問の重要さにある

連休中に訪れた善光寺です。
連休中、体調を崩していたので、研究の方は思ったほど成果が上がりませんでした。

昨夜のある集まりで、「人々は哲学を求めている、哲学研究者はそれにうまく応えられていない」ということが話題になりました。では、どうするか、です。
哲学の楽しさは、やはり哲学の問題の重要さにあるとおもます。それは人々が哲学に求めている事柄と一致するのではないでしょうか。哲学の問題を明確に示し、それについてのとりあえずの答えを明確に示す、ということが人々の求めに応えることなのではないでしょうか。

以前に書いたことですが、哲学の問題は、最終的には次の二つに行きつくのではないでしょうか。
「何が存在するのか」
「何のために生きるのか」

「何が存在するのか」
この問への答えとして、観念論、唯物論、二元論、などが考えられます。現在、この問題は、とりわけ「心の哲学」の問題として、つまり、心的なものをどのように考えるのか、という問題として議論されています。曖昧な言い方になりますが、科学的な世界観(=唯物論)を多くの人が認めていると思うのですが、そのような世界の中に、心をどのように位置づけるか、ということが問題になっているように思います。クオリアの問題のように、科学では原理的に解けない哲学的な問題があるという主張もありますが、心の哲学の研究は、脳研究の進歩や人工知能研究の進歩を考慮しながら進めてゆく必要があります。存在論に関しては、一般の人々はすでに、基本的には、科学的な世界観で満足していて、これに関する哲学的な議論に関心をもてなくなっているのかもしれません。
「科学とは何か」を考える科学哲学の分野でも、重要な哲学的な議論が沢山あるのですが、それは「知とは何か」という認識論の問題、「知識の哲学」に関係しています。そして、これはさらに「言葉が意味を持つとはどういうことか」「何かを指示するとはどういうことか」などの問題を扱う「言語の哲学」に関係します。

「何のために生きるのか」
この問いに答えることは、一般の人々にとっても非常に重要です。そして、これについては、科学は答えを用意していません。今のところ答えを用意しているのは、宗教だけです。しかし、キリスト教や仏教などの伝統のある社会的に認知された宗教であっても、その根拠は、街角のいんちき占い師と同様です。「阿弥陀さまがどこかで我々の往生を願ってくれている」とか「ある男の子が神様と若い女性の間の子供である」とかの話を、多くの人が本当に信じているとは到底思えません。彼らが信じているフリができるのは、他の人々が信じているフリをしているからです。多くの人は、宗教の答えには満足していないはずです。
この答えを探すことが哲学の重要な仕事になるはずです。哲学には永い歴史がありますが、無宗教の立場で、この問にとりくむことは、哲学の新しい課題です。もし哲学が、この問に答えられないとすれば、何故答えられないのかを、明らかにする必要があるでしょう。
「何をなすべきか」という道徳の問は、二義的だと思います。まず「私は何のために生きるのか」とか「人類は何のために生きるのか」などの問に答えることが一義的な事柄でしょう。