資本主義の原理的な自己矛盾

飯山の頂上からの景色です。

しばらくほかの事を考えていたのと、答えを考えあぐねていたので、
発言が久しぶりになってしまいました。

問題は、こうでした。
「どのような累進税率が適切であるか」

我々は累進課税によって、同率課税の前述の欠点を解消しなければならない。
前回述べた事であるが、次の二点を確認しておきたい。

①資本主義社会での経済活動は、自由競争によって行なわれている。自由競争の結果をそのまま受け入れるべきだ、ということが正当性を持つためには、自由競争に入る者たちのスタートラインが同一であること、つまり機会の均等が保証されていなければならない。

②したがって、機会の均等がない社会で行なわれた競争の結果の格差については、機会の不均等を是正するような再分配、つまり累進課税が必要である。その累進税率は、機会の不均等を是正するのに必要なだけということになる。

今回は、この①について、考えてみよう。

資本主義社会において、機会の均等を保証することは不可能であるようにおもわれる。なぜなら、個人の所有権が認められている限り、個人はその所有物を自由に処分することが出来る。したがって、仮に相続税を非常に高くしたり、相続を禁止したりしても、生前に子供に贈与することができるのだから、親の経済格差が、子供の経済格差となる。これを防止するには、全ての子どもを、親から引き離して、社会全体で育てることになる(プラトンの『国家』のように)。これは、家族を解体するということである。このとき子どもは国家(将来的には、世界共和国?)のために生産され、育てられ、教育されることになるだろう。少なくとも、現在のところ、これは悪夢としてしか考えられない。

上のような選択肢を排除するとき、資本主義の下で、子どもの生まれつきの経済格差は、不可避であり、機会の平等は、原理的には実現不可能である。しかし、他方で、資本主義での自由競争は、機会の平等によってのみ、正当化される。そうだとすると、資本主義は、それ自体において、原理的な矛盾を抱えていることになる。

せめてできることは、子育てと教育への公的な支援である。子どもの経済格差をできるだけ小さくすることは、資本主義社会の正当化のために不可欠である。したがって、育児、教育への公的な支援を行なう必要がある。例えば、現代の日本でいれば、中卒と高卒の生涯賃金の格差は、子どもがおかれた機会の不平等によると考えられるので、高校卒業までは無料の義務教育とすることが公正な社会のためには必要なことである。育児、養育、教育への様々な支援、公立学校の充実なども、公正な社会のために重要である。親の経済力と関係なく、全ての子どもが同じように優れた教育を受けられることが理想である。(親の経済的な格差だけでなく、文化的な資産(ハビトゥス?)の格差という問題もあるが、焦点がぼけるので、別の課題としたい。)