さて、ストローソンが主張している意味で、2「人格と肉体は不可分である」を理解するとき、そこから3「人間の肉体がレンタル商品であるならば、人間の人格もレンタル商品である」が帰結するでしょうか。
ストローソンのいう人格と肉体の不可分性の主張は、実は一面的です。つまり、<人格の同定は、肉体と結合したものの同定としてのみ可能になる>ということを主張するだけです。これに対して肉体の同定は、人格の同定抜きにできるように思われます。少なくとも、<肉体の同定もまた、人格と結合したものの同定としてのみ可能になる>ということの証明は行われていません。
このような一面的な不可分論で、2から3を導出できるかどうか、とりあえずこれを検討してみましょう。
とりあえず1「人格はレンタル商品にならない」を認めましょう。
この証明は、簡単だと思います。
①人格は契約の主体である。
②契約の主体は、契約の対象とならない。
③ゆえに、人格は契約の対象とならない。
④ゆえに、人格はレンタル契約の対象とならない。
⑤ゆえに、人格はレンタル商品にならない。
②が曖昧ですが、もし必要になれば、そのとき検討しましょう。
さて、ストローソンが言うように<人格の同定は、肉体と結合したものとしての同定としてのみ可能になる>ので、<人格がレンタル商品になるときには、それと不可分である肉体もまたレンタル商品になります>。
しかし彼の一面的な不可分論では、<肉体の同定もまた、人格と結合したものの同定としてのみ可能になる>が主張できないのならば、<肉体がレンタル商品になっても、つねに人格がレンタル商品になるとは限らない>ということになりそうです。
これは3「人間の肉体がレンタル商品であるならば、人間の人格もレンタル商品である」とは不整合です。どう考えたらよいのでしょうか。
ストローソンの一面的な不可分論を補強して、全面的な不可分論が証明できれば、十分であるように思えます。もしそれが困難だとすると、一面的な不可分論の中で、何とか3を証明する方法を考え出す必要があります。