仕切り直しに向けて

 
別府の白池地獄です。初夏のような日差しでした。
 
考えあぐねているうちに、ご無沙汰してしまいました。
人格をめぐる議論は、多様でかつ膨大なのでどんな風にアプローチすべきが考えているうちに、いつのまにか白池地獄の中に落ち込んでしまったかのようです。
 
人格が実体として存在する、と考えるのは難しいという結論でした。
しかし他方で人格がやはり何らかの仕方で存在するのだとすると、とりあえず思いつくことは、人格は構成されている、と考えることでした。このときの問題は、何が人格を構成するのかです。とりあえず思いつくのは、以下のようなものです。
①人格は経験的なものであるので、それを構成するのは経験的でない超越論的な意識である。物的でも心的でもないセンスデータが存在するとして、それらから物的対象や人格を構成するのは、「超越論的な意識」である。しかし、この場合にはこの超越論的意識がもし個人的なものだとすると、実体としての人格を認めることになってしまいそうです。
 
②人格は、言語ないし理論によって構成される。ストローソンは、我々の言語を分析して、それが物体と人格の存在を想定していることを指摘しました。彼はこのような形而上学を、我々の言語が想定している存在論を記述しているという意味で、記述的形而上学と呼びました。これは、我々の言語使用が成り立つための超越論的な条件として物体と人格の存在を論証した「超越論的論証」でした。討議倫理学でも、討議が成立するための超越論的な条件として人格の存在を論証するのではないかと思われます。或る意味では、討議論理学も、人格は言語によって構成されると考えているといえるかもしれません。これらは「経験的な構成」と区別して「超越論的構成」と呼べるかもしれません。
 
③人格は、社会的に構成される。これは②の言語的なコミュニケーションにかぎらず、言語や行為や物を介するコミュニケーションないし社会的相互行為によって人格が構成されると考える立場になるでしょうか。
 
雇用契約を結ぶ人格について考えるときに、適切なのは①②③のどれでしょうか。それとも、これらとは別のものでしょうか。