誰が人格を構成するのか

 
残念ながら、カヌーに乗っているのは私ではありません。
来年の連休はカヌーに乗っていたいものです。
5月の自然湖でした。
 
 
さて、人格は実体として存在しているのではなくて、構成されているのだとしよう。
では、その構成はどのように行われるのだろうか。
 
 
エイヤーは『言語・真理・論理』(吉田夏彦訳、岩波書店)で「自己」を「感覚-経験からの論理的構成」(p. 160)されたものであると考える。その構成は次のようにして行なわれる。
 
「我々が自己の本質を尋ねる場合、我々が尋ねているのは《もろもろの感覚-経験が同一の自己に属するためには、どんな関係がそれらの感覚-経験の間に成立しなくてはならないか》ということなのである。この問に対する答えは、《二個の感覚-経験が同一の自己に属するための必要にして十分な条件は、それらが同一の身体の要素である有機的な感覚-内容を含む》ということである。」(p. 160)
 
では、この構成は誰が行なうのだろうか、それともそれは自然に生じるのだろうか。エイヤーにとって、物的な対象も他者も自己も「感覚-経験からの論理的構成」であるが、物的な対象と他者を構成するのは、私であるように思われる。
 
「私は、《私は物質的な事物の存在を信ずるのに十分な理由をもっているのと同じ程度に、また他の人々の存在を信ずるのに十分な理由をもっている》ことを知るのである。なぜなら、どちらの場合にも私の仮定は、私の感覚-史に適当な感覚-内容の系列があらわれるという事実によって検証されるからである。」(p.168
 

 
私が、物や他者を感覚-経験から構成するのだとすると、自己を構成するのも私であろう。しかし、自己を構成する私は、自己の構成以前に存在していなければならない。そのような私もまた構成されたものでしかないとすると、説明は循環してしまう。これをどう考えればよいのだろうか。