月: 2010年7月
前の問に戻ろう
2年前の5月、木曽川にかかる鯉のぼりです。この地域では、川にこのようにたくさんの鯉のぼりをかけるのをよく見ます。川に鯉がいるのは、当たり前だから、自然な発想なのかもしれません。最近写真を撮っていないので、不本意ながら、昔の写真にしました。
「雇用契約は、どのような制限を受けるべきか」
これが最初の問いでした。すぐに思いつく答えは次のようなものです。
「雇用契約は、契約者の人権を損なうものであってはならない。なぜなら、そのときその契約は、<互いの権利を尊重した上での自由な契約であった>という正当性を失うからである。」
そこで次に、「契約者の人権はどのようなものであるのか」言い換えると、「我々は、契約者の人権や人格をどのようなものとして主張しうるのか」が問題になりました。
これもすぐに思いつく答えは次のようなものです。
「契約することが可能であるためには、<ある種の合理性をもっている>、<ある種の合理性の発揮が保証されている>、<コミュニケーションが可能である>などが前提条件となる。したがって、これらの前提条件の尊重が、契約の前提となる。これが、近代的な人格の権利の基本的な内容であった。これを保証することは、契約社会にとっての必要条件であった。」
仕切りなおしのために、もう少し前の問いに戻りましょう。
それは「労働力は商品か」ということでした。このといは、「会社は誰のものか」という問と関係していました。
もし労働力が、商品であるとすると、その商品の買い手は、雇用契約の相手である会社(の代表者)になるのだろうとおもます。したがって、労働力商品の売り手は、会社の持ち主ではないことになります。労働者は、会社の持ち主ではないのでしょうか。もし「労働者が会社の構成員である」と言えるとすると、それは「労働力は商品である」という発言と矛盾するのではないでしょうか。なぜなら、会社に商品を売るものは、会社の構成員ではないからです。
というわけで、「会社は誰のものか」を考えたいとおもいます。しかし、この問いの立て方は、うまくないかもしれません。「会社とはなにか」のほうがよいかもしれません。ただし、これだとピントがぼけてしまいそうです。
資本主義社会を跋扈している恐竜は、会社です。不思議な存在です。