きりたんぽの続編です。
前回次のように書きました。
「国家がある限り、対話不可能な侵略国家はありうるので、防衛のための正義の戦争はありうる。また対話不可能な国内で人権侵害をする国家はありうるので、人道的な介入のための正義の戦争はありうる。」
おそらくガンジーのような徹底的な平和主義者は、「国家がある限り、対話不可能な侵略国家はありうるので、防衛のための正義の戦争はありうる」を認めないだろう。ガンジーのような人ならば、たとえ侵略されても、非暴力、無抵抗の態度をとるだろう。しかし彼は他の人にもそれを勧めるのだろうか?彼はそれが正しいことを論証できるのだろうか?おそらく、それは難しいだろう。
もちろん、我々はガンジーのような人を尊敬するかもしれない。したがって、ガンジーのような国家があれば、その国家は尊敬されるかもしれない。しかし、国家についてもそのようにあるべきことを論証することは難しいだろう。そのような絶対的平和主義は、個人や共同体の決定にゆだねられるべき善構想であって、それを正義として論証することは難しいように思われる。
一般的にいって、社会制度や社会運動は、何らかの社会問題を解決するためのものであり、そのようなものとしてのみ正当化される(入江幸男「社会問題とコミュニケーション」(入江・霜田編『コミュニケーション理論の射程』ナカニシヤ出版、所収))を参照してもらえるとうれしいです)。国家制度を正当化する社会問題のなかでも、中心的なものの一つが、いかにして安全を確保するかという問題であった。自然状態では、つねに他者から攻撃される可能性があるので、平和な生活を確保するために、自由に活動する権利の制限を受け入れるとともに、お互いの権利を承認しあって、集団を作って互いの権利と安全を確保しようとする。この集団は、安全保障他のための集団である。このような機能を持つ集団として、家族や村を考えることもできるが、それだけでは不十分なことから、国家が作られたのである。少なくともそのように考えられて、国家制度は正当化されてきた。
この安全保障の機能は、とりわけ近代以後、家族、村、都市などから、国家への集中を強めてきた。(我々は様々な社会問題の解決を国家に集中させすぎたのかもしれない。システムによる「生活世界の植民地化」(ハーバマス)も起こってきた。)ただし、国家間の戦争の経験を経て、現代では諸国家が互いの安全保障のための集団(集団的安全保障)を形成しつつあり、安全保障の機能は国家からNATOやEUや国連などへ移りつつある。かつて国家への安全保障機能の集中によって、国家内部での平和がより確実なものになったように、世界全体での平和の実現のためには、安全保障機能を世界全体へ集中させることが、望ましいようにおもわれる。
A国がB国を侵略したときに、B国の国民にとって、それは国家として取り組まなければ解決できない問題であるだろう。外国の軍隊の侵略行為から国民を守るために、軍隊を準備しておいて軍隊で戦うことは、人々が国家を作った時の目的の一つに含まれているだろう。ただし現代では、このような問題は、B国だけで解決できる問題ではない。安全保障は、グローバルに取り組む必要のある問題になっている。その理由は、経済活動がグローバルに展開しており、そのために利害関係もグローバルに広がっていることにある。