それでも「選択」しなければならない?

 
 
サラバンドという名前のバラです。2011年5月17日撮影。
 
 
もりたさん、コメントをありがとうございました。
いろいろなヒントをもらえたように思います。
 
ご指摘のように、物理主義をとっても、物理的に不決定な世界がある可能性があるので、「決定論の世界」ではなくて、「物理主義の世界」を想定して考えてみたいとおもいました。
私がここで「物理主義の世界」というのは、物理主義が正しいだけでなく、みんながそのように考えている世界のことです。(私が考えてみたいのは、みんながそのように考えるようになったときに、法や道徳が可能かどうか、もし可能であるとすると、それはどのような仕方で理解されるのか、ということだからです。)
 
その上で、もりたさんの最初の主張を考えてみたいとおもいます。
 
今日の晩御飯はカレーにするか肉じゃがにするかは仮にすでに私が何を選択するかが決定しているとしても,それでもやはり私はどちらかを「選択」しなければなりません.」
 
森田さんが、慎重に「「選択」しなければなりません」と書いているように、「物理主義の世界」では、我々が「選択」について、どのように考えることが可能になるのだろうか、ということです。
Mさんがカレーにするか肉じゃがにするかが決定されているとしましょう。しかも、Mさんは、それが決定されていると考えています。このとき、Mさんはどうするでしょうか。決定しないでいると、飢え死にすることが予期できるので、Mさんは、たしかにどちらかに決定するでしょう。(ネコのまえに、カレーと肉じゃがしかなければ、ネコは、おそらくどちらをたべるか決定するでしょう。人の決定も、ネコの決定も、どうように自由のない物理過程です。ネコと違うのは、人がそのことを知っていることです。)
問題は、この決定を、我々がどのように理解するかです。それを考える糸口になりそうなのは、森田さんの次ぎの指摘です。
 
次に、もりたさんが指摘しているのは、ガイドの問題です。
 
「そしてそうした選択をするための「ガイド」はすべての人たちが決定論を信じていてもやはり必要なのではないでしょうか?それゆえ「物理主義の世界」でもガイドとしての法は必要なのではないでしょうか?」

Mさんが、カレーにするか肉じゃがにするかの決定をするとき、選択のための、あるいは決定のためのガイドが必要でしょうか。
これを次回に考えたいとおもいます。