「駒の温」の横の川です。温泉帰りにとりました。
<「この肉じゃがはおいしそうだ」とおもって、肉じゃがをとろうとする>ということは大いにありうることです。理由に従って行為を決定するということは、自由が無いことと両立可能であるように思われます。
同様に、<「かわいそうだから」とか「残酷だから」という(道徳的な?)理由にしたがって、行為する>ということもありそうです。
<おいしそうな肉じゃがを食べようとすること>は、自分の行為を自由な行為だと考えないことと両立するように思われます。それと同じように、<残酷な行為をとめようとすることは>もまた、自分の行為を自由な行為だと考えないことと両立するように思います。
しかし<残酷な行為をとめようとした>と考えており、かつ同時に、<それは自由な行為ではなかった>と考えているとき、自分がほめられるべき行為を行ったとは考えられないように思われます。
逆に悪い行為をした場合も同様です。
<見栄をはって、うそをついてしまった>としまししょう。そのとき<それは自由な行為ではなかった>と考えているのならば、自分が道徳的に責められてしかたがないとは考えないのではないでしょうか。なぜなら、自由な行為でなかったのなら、私はその行為に責任が取れないからです。
行為の「責任」という概念は、自由な行為主体であることを前提しているのではないでしょうか。
もし「物理主義の世界」でも法や道徳が可能であるとしたら、そのときには「責任」という概念も有意味であり、それには別の意味が与えられる必要があります。
つまり、「自由な行為の結果でないにもかかわらず、ある行為主体にその行為の責任がある」という言い方ができなければなりません。
<自由なき道徳>が可能なら、<自由なき責任>が可能でなければなりません(多分)。
さて、そのような「責任」概念は可能でしょうか。