人間は行為者である

日本語表記がなんとなく懐かしい雰囲気ですね。英語にすべきだと思うのですが、この方が外国人に喜ばれるのでしょうか。
 
みんなが物理主義が正しいと考えており、そのことが常識となっている「物理主義の世界」において、そもそも行為者というものは存在するのでしょうか?
「私」という人称代名詞で、話し手は「私」で何を指示するのでしょうか?
話し手は存在するのでしょうか?
 
たくさん質問を書きましたが、最後の質問から考えてみましょう。
「私は嘘をついた」という発話があるとします。このとき、話し手は存在するのでしょうか。多くの人はとりあえず次のように答えるでしょう。「我々に自由がなくても、我々は話し手です。それは犬に自由がなくても、犬がワンと吠えている、というのと同じです」
 
それでは、「私は嘘をついた」という発話をするとき、話し手は、何を指示しているのでしょうか。多くの人はとりあえず次のように答えるでしょう。「隣の家の犬を、隣の人はクロと呼んでいるのですが、それと同じように、我々は互いに名前で呼び合っています。隣の人が、クロを同定しているのと、おなじような仕方で、我々は、話し手を同定することができますし、そのように同定された対象を話し手は「私」で指示しているのです」
 
我々は、我々を「行為者」と呼ぶことができるのでしょうか、と問われたならば、多くの人はとりあえず次のように答えるかもしれません。「アンスコムの意味で「意図的な行為」をするものだけを行為と呼ぶのならば、犬は行為しません。しかし、犬を動物とよび、動物は動き回るものであり、行動するものであるということができるならば、同じように人間は行為する者である、行為者である、と言えるでしょう」
 
 
マイケル・ブラットマンは、人間の振る舞いが完全に因果的に決定していても、人間は行為者でありると考えています。
 
ブラットマンは、人間の「行為者性」の核となる3つの特徴を指摘しています。つまり、「反省的性格」「計画性」「自らの行為者性を時間的な幅をもったものとしてとらえる我々の自己理解」(原文にあたっていないので、3つ目の定式化がこれでよいのかどうか、すこし不安が残ります)です。
 
この3つは、つぎのようなことです。
「われわれは自分の動機づけについて反省する。また、我々はあらかじめ計画を立て、行為の方針をもち、そうした計画や方針が長期にわたるわれわれの活動を組織している。そして、われわれは自らを長期にわたって活動し続ける行為者とみなしており、また、時間的な幅を持った活動や企てを開始・展開・完了させる行為者ともみなしている。」(マイケル・ブラットマン「反省・計画・時間的な幅をもった行為者性」竹内聖一訳、『自由と行為の哲学』門脇俊介、野矢茂樹訳、春秋社、p. 289
 
そしてこれら3つの特徴は、「我々が因果的秩序のうちに完全に埋め込まれているということと両立可能である」(同訳、p. 320)と彼は考えています。
 
ブラットマンの議論の厳密な検討が必要ですが、しかしこの3つの特徴をある程度緩く理解する限りで、この3特徴によってとらえられる行為者性は、「物理主義の世界」でも成り立つようにおもいます。そのような意味では、人間を<主体>と呼ぶことも可能でしょう。
 
では、そのよ
うな行為者や主体には責任はあるのでしょうか?
これを次に考えたいと思います。
 
 
 
 

責任は主体を想定する?

 
2011年6月19日の羽田空港です。ひょっとして伊丹への帰路に富士山が見えるかと思いましたが、雲のために見えませんでした。もし雲が無ければ見えるのでしょうか。いつも夜ににばかり乗っているので、よくわかりません。
 
 
アンスコムのいうように、意図的な行為の場合、我々は「なぜそうするのか」と問われたときには、即座に「○○するためだ」と答えられるでしょう。このような<行為の理由>は、<行為の原因>と同一なのでしょうか、まったく別のものなのでしょうか、それとも一部重なるのでしょうか、それともこれらのいずれともことなるのでしょうか。
 
亀をいじめている子供たちを見たときに、私が思わず「やめなさい」といって止めようとしたとしましょう。「どうして、僕たちの邪魔をするのですか」と問われたとき、即座に「かわいそうじゃないか」と答えたとしましょう。このとき私が「物理主義の世界」の住人であるとして、私はこの行為をどのように理解するでしょうか。
 
私の行為は、自然的な因果関係によってすべて決定しています。私が「やめなさい」と言った行為の原因をCだとしましょう。私は、「亀がかわいそうだからやめさせよう」と考えていたとしましょう。このとき、「亀がかわいそうだ」という考えが、ここでの原因Cでしょうか。亀がかわいそうだ、という考えは、それだけでは行為を決定するに充分ではありません。したがって、<行為の理由>と<行為異の原因>は同一ではないでしょう。
 
「やめなさい」という発話行為が成立するには、そのほかの条件もはたらいていたでしょう。それらをすべて列挙することはできませんが、その原因Cが、そのような条件の集合であったとしましょう。「亀がかわいそうだ」という考えは、その原因Cの一部分であったのでしょうか。つまり<行為の理由>は、<行為の原因>の一部分になるのでしょうか。
 
ここから二つのケースに分けて考えてみましょう。
まず、<行為の理由>が、<行為の原因>の一部になっているとしましょう。
(今回は、このケースの途中までです)
 
このとき<行為の理由>の成立もまた、因果的に決定しているはずです。上の例では、私が「亀がかわいそうだ」と考えることです。この考えもまた、因果的に決定しています。
私が「亀がかわいそうだ」と考えたから(これが原因の一部となって)、「やめなさい」と発言したのだとすると、私にはその発話行為の責任があるのでしょうか。考えから行為が発生するのは、因果関係であり、しかもその考えもまた因果関係によって成立しているのだから、私の自由が介入する余地は全くないのです。しかし、「亀がかわいそうだ」という私の考えが、私の行為の原因の一部になっているということが言えるのならば、ここに「責任」について語れる余地はないでしょうか。
 
別の例で考えてみましょう。
私が楽をしようとして、「駅まで乗せてくれたら、お金を払うよ」と友人に嘘をついたとしましょう。友人が、自動車で駅まで乗せてくれたのですが、私には払うお金がなかったとしましょう。「嘘をついて、駅までのせてもらおう」と私が考え、実際に友人をだましたとしましょう。このとき、「嘘をついて、駅まで乗せてもらおう」という私の考えが、原因の一部となって、友人をだます行為が生じたとしましょう。「嘘をついて、駅まで乗せてもらおう」という考えは、完全に因果関係によって成立したのだとしましょう。私にまったく自由がないとすると、私には、私の行為の責任がないかもしれません。そもそも私にまったく自由がないとすると、「私の行為」というものも、ある現象をそのように記述できるということにすぎず、別様にも記述できることになりそうです。「私の考え」についても同様です。私に責任があるとしたら、「私」が存在しなければならないように思われます。
 
=””>「私」という<主体>について語ることが可能であるのかどうか。もし可能であれば、「私」の責任について語ることも可能であるかもしれません。
 
これを次に考えてみようと思います。